失った〝普通〟
『可愛いな、冬夜。お前はお母さんそっくりだ』
昼間の私は普通に会社で働くサラリーマンだ。
けれど帰宅して冬夜を風呂に入れる辺りから、少しずつ〝私〟を象っていたものがドロリと溶けていく。
『普通でいなければ』『きちんとしなければ』『親の自覚』『子供は愛し守るべきもの』……、そのような考えがスッと抜けてしまう。
そして目の前にいる七歳の子供が〝何〟であるのか失念し、彼が冬夜なのか優那なのか、男なのか女なのかも分からなくなる。
ふとした時にドアを見ると、グレーのスウェットを着た優那が力なく座り込んでいる幻を見る。
――違う。
――あれは、違う。
私は自分に強く言い聞かせ、生きている優那を撫で、口づけて、その存在を確認する。
『済まなかった。私がもっと早く駆けつけていたら、君はあんな男に騙される事はなかったんだ。だから今度こそ私が幸せになれるよう、大切に育ててあげよう』
現実と過去、妄想とがグチャグチャに混ざり、薄汚い濁ったマーブル状になって私の頭を支配する。
昼間はかろうじて〝サラリーマンの瀧沢庸一〟を留めていた〝形〟が、ドロッと溶けて中身の汚泥をぶちまけるのだ。
いつからおかしくなってしまったのか、自分でも分からない。
優那の遺体を見た時からか、彼女に決して愛されないと無意識に自覚した時か、彼女が他の男とキスをしているのを見た時か、はたまた出会う前、自分には大切にできるものが何もなく、他人より劣っていると自覚した時からか……。
――分からないのだ。
なぜこうなってしまったのか、どうしてまともに生きられなかったのか。
非行少年ではなかったし、校則を破った事もないし犯罪を犯す男でもないと思っている。
成績は悪くはなかったが良くもなかった。
凡庸でとりたてて特技も趣味もないが、必死に〝普通〟に生きていたはずだった。
――運命の女に遭うまでは。
私は優那のためなら何でもできると天啓を受けたような心地になったあと、彼女だけに光を感じ、その方向だけを見つめて進んできた。
もしかしたら光を感じなかった暗闇の中に、まっとうに生きられる道が隠されていたかもしれない。
けれど、私はその道を見つけられなかった。
それが現実だ。
そして何も分からない無垢な存在に自分の汚泥をぶちまけ、すべての責任を負わせようとしているのも事実だ。
これが世間に知られれば、私は子を虐待した親として激しいバッシングを受け、警察の世話になるだろう。
しかし涼子が私との約束を破らない限り、これが世間にバレる事はない。
冬夜だってまだ小さいから、自分が被害者だと思わないだろう。
私は優那を愛しているのだ。
優那を愛し、おむつを替え、風呂に入れ、一緒に寝て具合の悪い時は仕事を放り出して病院に駆け込み、毎日毎日毎日毎日、毎日、優那の事だけを考えてきた。
今だって、生きている彼女が健やかに寝息を立てている事を確認しているだけだし、その存在を愛しているだけだ。決して間違えてなどいない。
夫が妻を愛するのは当たり前の事だ。
絶対に冬夜は死なせない。
私は優那にそっくりの彼女を、絶対に守って善い父親になるのだ。
『庸一さん……っ』
涼子の嗚咽が聞こえ、私は緩慢な動作でそちらを見る。
『つらいなら頓服を飲んで寝なさい。子供たちは私が見ているから』
涼子は穏やかな声で言った私を化け物でも見るような目で見て――、大粒の涙を流したあと、春佳を起こさないように静かに寝室を出て行った。




