後ろめたさの始まり
(お兄ちゃんに、やましいところなんてない)
頑なに否定する春佳は、深い思考の水底にいた。
暗く、他に何の生き物もいない茫洋とした水の中で、自分とうり二つの貌をした少女が、長い髪をたゆたわせてこちらを見ている。
明るい色をした水面近くには、色とりどりの魚たちが、兄との楽しい思い出の象徴としてのびのびと泳いでいる。
普段はそこで気持ちよく泳いでいられるのに、母に怒られた時などは思考が深いところに引っ張られ、こうしてもう一人の自分が囁いてくるのだ。
今もまた、自分と思えないほど妖艶な貌をしたもう一人は、唇の間からコポコポとあぶくを零して話しかけてくる。
――なら、証拠を見つけなよ。
――この家で同居してるなら、お兄ちゃんがいない間に色々探せるでしょ?
――時間はたっぷりあるし、充分探してもなんの証拠も出てこないなら、信じてもいいんじゃない?
(そんな、泥棒みたいな事……)
まだ文句を言おうとした時、バスルームのドアが開く音がし、冬夜がシャワーから上がったのが分かった。
考え事をしていると、勘のいい兄に悩み事があるか聞かれてしまう。
春佳はソファから立ちあがると、わざと物音をたててキッチンで水を飲んだ。
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その後、春佳は冬夜が不在の時に家捜しを始めた。
一気に色んなところを探そうとすれば、焦りのあまり粗が出てしまうので、「今日はここだけ」と決めたあとは、決して手を着けないルールを設けた。
春佳はとてつもない罪悪感を抱きながら、書斎のデスクの引き出しを一段ずつ調べていく。
冬夜は神経質な面があるので、物を動かす時はとても慎重に行った。
二週間近くかけてデスクの引き出しを確認し、何もないという結論に至る。
十一月に入る頃には、書斎は大体調べ終えていた。
ただ一点、パソコンを除いては――。
ずっと気になりながらも見ないようにしていたパソコンの前に座ったのは、十一月半ばの事だ。
(街はクリスマス一色になっているのに、私、何やってるんだろう)
クリスマスイブはかき入れ時のため、アルバイトの予定が入っている。
だがその前の週末には、千絵と女子会をするつもりだし、イブは冬夜の誕生日なので、彼にプレゼントを買うつもりでいた。
千絵とのクリスマス会にイタリアンのランチコースを予約し、冬夜のプレゼントを買うのにも付き合ってもらう予定だ。
涼子とはいまだ面会しておらず、さすがに冬夜に『お見舞いに行きたい』と言ったが、『絶対にやめておけ』と言われている。
だが、自分でも分かっていた。
本気で母に会いたいなら、入院先の病院も知っているし自分で赴き、「娘です」と告げて面会させてもらえばいいのだ。
なのに冬夜に言われた言葉が胸に刺さり、春佳の足を止めている。
『自殺未遂したからといって〝自分がいなきゃ駄目なんだ〟と思ったら、お前はまたかいがいしく母親の世話をするだろう。それじゃあ、今までと何も変わらない』
兄の言葉は正しい。
正しいからこそ、母と顔を合わせたらまた罵倒されないか、依存されないか……という逡巡が芽生える。
実家で母と暮らしていた時の事を思いだすと、胸の奥をギュッと掴まれたような感覚になり、呼吸が苦しくなる。
安全な環境で生活するようになって、ようやくこれが母によって長年刻まれた呪い、トラウマなのだと理解した。
今だって、すべて解放されたわけではない。
街中を歩いていて大きな声を聞くと、必要以上に驚き、酷い時は動けなくなってしまう。
普通に友達と話していても、怒らせないように、不機嫌にさせないように、とても気を遣って言葉を選んでいる。




