1話 消えた笑顔
舞踏会から数日が経った。
結局あの日は誰も『ほほ笑みの花』を咲かせることはできなかったらしい。
いくつかの束ねた書類を持って廊下を歩きながら、ふとコーデリアはあの夜のアルフレッドの顔を思い出す。自分のような愛想の無い令嬢にも優しい人物のようだった。『ほほ笑みの花』を咲かせることができた女性が彼の妻となる。
(……一体それはどのような人なのかしら)
きっとそれは素晴らしい人なのだろう。きっと笑顔も美しく誰からも愛されるような……。
そんなことを考えていたら目的地に着いてしまった。
一つ息を吐いてコーデリアは扉を軽くノックした。
「どうぞ」
「失礼いたします、お義母様」
「あら、あなただったの」
扉を開けて部屋に入ると、鏡台に向かって化粧をしていたコーデリアの義母であるイザベラがつまらなそうに振り返った。銀髪のコーデリアとは正反対の豊かな金色の巻き毛の美女だ。ダイアナによく似ている。
「何か用? 今日はこれからバルト伯爵の奥様と観劇に行くのだけれど」
「……先月の我が家の遊興費の件です。収入に比べて、少々多すぎるのではないかと」
「なんですって?」
イザベラが立ち上がる。それだけでコーデリアは委縮してしまい書類を持つ手に力が籠った。
「ダイアナも頻繁にドレスや宝石を購入しているようです。……もう少し控えて……あ!?」
「おだまりなさい!」
イザベラはコーデリアから収支の書類を奪い取ってちらりと目を走らせたかと思うと、彼女の頬を叩いた。その勢いでコーデリアは床に倒れこんでしまった。コーデリアの前に書類が叩きつけられ、ぐしゃりとイザベラの靴が踏みにじる。
「経費のやりくりをするのもあなたの仕事でしょう! 私はクローズ伯爵家代理の身よ? ダイアナだってクローズ伯爵家の娘として恥ずかしい恰好させられないわ。晩餐会や友人貴族との交流も貴族にとっては大事な仕事なのよ」
「そ、それはそうですが」
「笑顔の一つも作れず社交ができないあなたにはわからないかしら」
イザベラの蔑んだような瞳にすっとコーデリアの胸の中が冷たくなる。
「旦那様の娘だからこの屋敷に置いて、仕事まで与えてあげているのになんて生意気なのかしら……」
「…………」
座り込んだままのコーデリアを無視してイザベラが部屋を出る。
「ああそうだったわ、コーデリア。あなたどうせどこも貰い手がないだろうから、ヒューズナー伯爵の後家にならない?」
「……え、え!? でも、ヒューズナー伯爵は確かもう六十代ほどでは」
「ええそうよ。先日奥様がご病気で亡くなられてね。後添えを捜してらっしゃるみたいなの」
「そんな……」
驚いて振り返ったコーデリアにイザベラは愉快そうに笑って見せた。
ヒューズナー伯爵は有名な好色家で、正妻以外にも恋人を何人も持っているという噂だ。しかもそんな高齢の男性の後家に。
閉じた扉を呆然と見つめていたコーデリアはのろのろと踏みにじられた書類をまとめ直した。
視界が滲んでいたけれど、涙をこぼすことはぐっと我慢した。
一度泣いてしまえばもう止められないと思ったからだ。
コーデリアの実の母親は、彼女が生まれてすぐに亡くなったらしい。
その後コーデリアは父と使用人達によって育てられていたが、二歳になった頃父が再婚することになった。そしてクローズ家にやって来たのがイザベラだった。
華やかな美人のイザベラは父の後ろに隠れていたコーデリアを見つめてにっこりとほほ笑んだ。
「まあ、可愛らしい」
その笑顔で、幼いコーデリアは簡単に心を開いた。
一緒に食事をしたり庭で遊んだり、それは普通の母子のような日々だった。貴族の夫人が集うサロンやパーティーにもよく連れて行かれた。
けれど幸せな日々は長くは続かなかった。
イザベラは間もなくダイアナを妊娠し出産した。
それからはコーデリアが話しかけても段々返事はおざなりになり、赤ん坊のダイアナばかりイザベラは可愛がるようにいなった。
ある天気の良い日、庭のゆりかごで眠っていた赤子のダイアナの頬にコーデリアが好奇心で触れようとした時だった。
ぱしんと小さな手は叩き落とされて赤くなった。
「触らないで!!」
憎々し気にイザベラから睨まれて、コーデリアは心に氷でも放り込まれたような気分だった。
そしてあるサロンへ連れて行かれた日のことだった。
その日イザベラは他の婦人の自慢話に付き合わされて少々機嫌が悪かった。コーデリアはただイザベラの気を引きたくて、ニコニコと笑ってお菓子を差し出した。
「おかあさま、このおかし、おいしいわ」
「……うるさいわね。ニヤニヤして気持ち悪い。なんて汚い笑顔なの。そんな顔、二度と私に向けないでちょうだい!」
その言葉はコーデリアの心を無残に引き裂いた。
それからコーデリアは自分がどうやって笑っていたのかわからなくなってしまったのだ。
***
ランプの灯りをともして薄暗い部屋の中でコーデリアはため息をついた。
……あれからすぐに父が急な病で亡くなり、イザベラがクローズ伯爵代理になった。それからコーデリアの扱いはますますひどくなった。
部屋も使用人用の屋根裏部屋にされ、笑顔が作れないことから社交の仕事もできないので領地経営の事務処理や雑務の手伝いをしている。
薄暗い部屋も固いベッドも、もうすっかり慣れてしまった。
「コーデリア様……」
「デビー」
部屋の扉が小さくノックされ、顔を出したのは赤毛の少女だった。
コーデリアの侍女のデビーは、トレーにお茶を乗せてやってきた。
「大丈夫ですか? 頬の腫れは……引いたみたいですね」
「ええ、もう平気よ。心配かけてごめんなさい」
「そんな……! コーデリア様は何も悪くありません! 奥様はあんまりです」
お茶を机の上に置いたデビーは叩かれたコーデリアより痛そうだ。
コーデリアはじっとデビーの茶色の瞳を見つめて頭を撫でた。
「ありがとう、私は大丈夫よ。私も言い方がいけなかったのかも。父の残した領地を守りたくて……」
「お嬢様は優しすぎます。……私を拾ってくれたのだって」
「……私はあなたがいてくれてとても助かっているのよ」
孤児だったデビーを引き取って侍女にしたのはコーデリアの一存だった。イザベラ達は良い顔はしなかったけれど、コーデリアが全て責任もって世話することで承諾させたのだ。
ベッドに腰かけていたコーデリアはデビーを隣に座らせた。
「いつも一緒にいてくれてありがとう」
「私は、たとえ何があってもコーデリア様と一緒です」
デビーは小さな身体でぎゅっとコーデリアにしがみついた。
その言葉はコーデリアにとって何よりも温かく響いたのだった。
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