終わりと始まり
気がつくと、私は一面霧で覆われた場所に立っていた。
周りを見渡しても何も見えず、耳を澄ましても何も聞こえない。
しばらくあたりを見渡すが何も見つけることができず、どうすればいいか考えようとするが、周りと同じく頭にも靄がかかっているようで、上手く考えがまとまらなかった。
しばらく佇んでいると、どこからか笛の音が聞こえてきた。
再度周りを見渡して音の方向を探ると、ある方向から笛の音が聞こえてくる。
私は笛の音に誘われるように足を踏み出した。
しばらく歩いても霧深いのは変わらないが、木々がちらほらと見え初めた。
多くは普通の木だが、桜の木が混ざっている。
ぼーっと桜を眺めながら、笛の音がなる方向にゆっくりと脚を進める。
小一時間ほど笛の方向に向かって歩き続けると、前方に薄らと灯が見えてきた。
光の方に近づくと、やがて1軒の建物が目の前に現れた。
古民家を改装したカフェの様で、歴史を感じる外観が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
私は店のドアに近づくと、躊躇しながら扉を開けた。
ドアにはベルが掛けられていたようで、聞き心地のいい鈴の音が鳴り響いた。
「お待ちしていました。」
ドアを開けてすぐに声をかけられた。
声の出どころをさがすため店内を見渡すと、店の奥にあるカウンターの向こうに、どこかで見たような顔の男性が立っており、布巾でグラスを磨きながらこちらに視線を向けていた。
「そんなところに立ってないで、こちらに座ったらどうだい?」
何も返答せずその場に佇んでいると、カウンターに座るよう促される。
誘われるまま席にに着くと、マスターは無言のまま透明な液体、おそらく水を差し出してきた。
「ありがとう」
私は感謝の言葉を伝えて水を口にする。
思っていたより喉が渇いていたようで、注がれていた水を一気に飲んでしまった。
このような不可解な状況に投げ出されて、かなり気を張っていたらしい。
水を飲んだことで少しだけ気持ちが落ち着くと色々な疑問が湧き上がってくる。
ここはどこなのか
なぜこのような場所に店があるのか
周りを覆っている霧はいつ晴れるのか
私が問いかけようと口を空けたその時、マスターが私に一冊の本を差し出してきた。
出鼻をくじかれ言葉に詰まっていると、マスターは落ち着いた雰囲気で告げた。
「今思い浮かんでいる疑問はこの本に書かれています。」
マスターは困惑している私に対して、無言で本を差し出し続ける。
私は、不気味なな感覚を覚えて怯んだ気持ちを落ち着かせるように一度深呼吸をし、意を決して本を受け取った。
本に目を向けると表紙には繊細な模様が描かれていた。
その表紙にはタイトルなどは書かれておらず、内容を推測することはできなかった。
ちらりとマスターを盗み見てから、重そうな表紙を慎重に開き最初のページをみると、思わず息を呑んだ。
そこには「田中 太郎 の 一生」と書かれていた。
それを見た瞬間頭にかかっていたモヤが消え、いろいろなことを思い出した。
まさしく自分が「田中太郎」であり、さらにこの状況になる直前の出来事も徐々に思い出してきた。
私の名は田中太郎といい、どこにでもいる中年のサラリーマンだった。
彼女も頻繁に会う友達もおらず、休日は1人で過ごすことが多く人と関わることが少ない人生を送っていた。
そんな私の趣味は秘湯巡りで、日本各地はおろか、時には海外にも足を伸ばしていた。
記憶にある最後の瞬間も旅行に出かけており、私はとある田舎の山奥にある秘湯目掛けて道なき道を進んでいた。
そこはネットにもほとんど情報が載っていないぐらいマイナーな秘湯で、前回に行った秘湯で偶然知り合った方から教えてもらった場所だった。
下調べもろくにできなかったため、いつも以上にしっかりと準備をして現場に向かうと、正しく人が通る事を拒むような険しい山道が待ち受けていた。
私は身につけた荷物を確認して、秘湯目掛けて山を登り始めた。
「私は、、、死んだのか、、」
最後に覚えている瞬間は、急な山道で脚を滑らせ勢いよく斜面を転がりおちる場面だった。
普通に考えて、あの勢いで転がり落ちたら無事ではすまないだろう。
「あなたは満足のいく人生を過ごしましたか?」
それま静かに佇んでいたマスターが、私に問いかける。
唐突ではあったがその言葉に回答するため、私は今までの思い出を振り返った。
私は両親がいる普通の家庭に生まれ、愛情を持って育ててもらった。
小学校、中学校、高校では友達と笑い合い、楽しい学生生活を過ごした。
大学では秘湯に詳しい友人を得て、没頭できる趣味を得ることができた。
社会人になり趣味にかける時間が減ったが、収入が増えたことで、学生時代には行けなかった海外の秘湯へも足を伸ばすことができた。
ただ、会社では対人関係がうまくいかず、出世にもめぐまれていないため、鬱憤した日々を過ごしていた。
また、社会人になって実家を出たあと、実家にはほとんど帰っておらず、まともに親孝行をしてなかった。
この歳になって結婚せず、趣味に没頭する私を両親は気にかけており、将来について心配していた。
思い返せば自分勝手な人生を歩んだ物である。
考えれば考えるほど後悔が溢れてきて視界が滲んでくる。
もっと実家の両親に会いに行き、親孝行をするべきだった。
自分から出会いを求めて結婚し、孫を抱かせてあげたかった。
仕事の仲間と積極的に交流して相手を気にかけるべきだった。
死んだ今になってから思い直しても遅いが、後悔する気持ちが溢れて止まらなかった。
「後悔はありますか?」
俯き涙を流す私に対して、再度マスターが問いかけてきた。
「今まで生きてきた人生に後悔があるのなら、今からでも頑張ればいいんです。」
そう言ったマスターは店のある一角を指し示した。
そこは私が入って来た入り口とは別のドアで、薄らと光が漏れてきている。
「ここはまだ死後の世界ではありません。
あなたの気持ち次第で引き返すことができます。」
その言葉に私は絞り出すように言葉を発した。
「生きたい、生きて両親に親孝行したい。」
私の言葉を聞いたマスターは、おもむろに笛を取り出して私に差し出した。
「これを持っていってください。」
マスターはそう言って私を光が漏れる扉へと促した。
私は笛を受け取って立ち上がると、光が漏れる扉に近づきドアノブに手をかける。
私はドアノブに手をかけながらゆっくりと振り向いた。
カウンターの向こうには変わらずマスターが佇んでおり、懐かしいものを見るような目をしていた。
「ありがとうございます。
満足する人生を歩めるように頑張ります。」
私はマスターにそう伝えると、強い思いを胸に抱きながらドアを開けた。
ドアの向こうから舞い込む爽やかな風と桜の花びらを受けながら、私は光の中に脚を踏み出した。
ドアの閉まる音が聞こえる店内で、私は開店する準備を進める。
ここは退職を機に第3の人生をのんびり生きるため、第2の人生を歩むきっかけとなった田舎にある、古民家を改装したカフェである。
「大丈夫、あなたは満足のいく人生を送れますよ。」
カウンターに舞い落ちた桜の花びらを拾いながらそう呟くと、振り替えって厨房へ脚をすすめる。
ドアを開けると軽食の準備を進める妻がおり、その向にある厨房の壁には古びた笛が吊るされていた。