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下町の鶴  作者: 瀧ヶ花真太郎
9章.奮闘記
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93.探し物 -前編

下町の鶴

9章-奮闘記-

☆Episode.93「探し物 -前編-」


優しさはいつも利用される。都合の良いように使われて、その後は労いの言葉があるわけでもない。ただ人からの頼みの一つ一つを淡々とこなしていくだけ。そうしてこちらを差し置いて昇進していった人たちも、今は私のことなど忘れているのだろう。同僚の昇格、旅行、結婚の話題など、人の幸せには何度も揺さぶられたけど、僕には仕事があればそれで良かった。

しかし、運というのは非情なものだとつくづく感じる。真面目に仕事一筋で頑張ってきたこの私につい先日、解雇通知が届いた。キャリアを上げたいという欲もなく、仕事終わりに何か遊びたいと思うこともない。誰とも関わらずに生きてきた取り柄のない歯車は、もう会社から用済みだったようだ。そこで初めて私はこの胸に''妬み''という感情を覚えた。世俗的な欲にまみれ、やれ女だ、金だ、遊びだとほざいている奴らにばかり運は味方し、ただひたすら真面目に生きている人間から出汁を取ろうとするのだから。怒りより先に失望が来た。何かに当たったり、復讐してやろうという気さえ起きないほど、深い失望がこの胸を満たしていた。

普段は無駄遣いなど極力しないように心掛けているのだが、ホームの人混みでため息の吐き場所に困ったので自販機で飲み物を買うことにした。電車を待つ間、雑踏の中に佇む自販機の前に立ってみると、こんな寒い日だと堪らなく美味しそうに見える商品が真っ先に目に入る。いつもは百円の缶コーヒーで済ましているが、今日くらいは贅沢をしても良いだろうと思い財布を取り出そうとした。そこで私はまたしても不運に見舞われた。

「あれ、あれ!?」

財布が無くなっていたのだ。ポケットも、鞄のどこを探しても見つからない。一度冷静になって考えてみる。普段財布を入れている場所のことを思うと、どう考えても落とすことのない場所だったから、これはもしかしたら盗まれたのではないか?という嫌な予想が頭をよぎった。しかし、仮にそうだとしてもどこで盗まれたというのか、そんなところまでは推測しきれなかった。

「お手数お掛けしてすみません。はい、見つかりましたらこちらの番号にお願いします。はい、すみません。」

せめてどこかに落としているものだと信じたい。そう思って私は駅員さんに深々と頭を下げてお願いすることにした。もし見つかって手元に戻ってくるのなら、今誰かのせいにして当たり散らすのは違うと思ったから。

どうせ今の自分には失うものなど然程ない。賑やかな家庭や、楽しい時を共にする友人もいないし。会社から真っ直ぐに音のしないアパートに戻り、ただボーっと明日の通勤の時を待つだけの毎日だ。それを周りは悲しい人生だとか、虚しい奴だと好き放題言うけど、もはや気にかけることもない。気にして苦しむくらいなら、最初から割り切ってしまえば良いのだから。この世は狡い人間が勝つように出来ている。見せつけるような他人の幸せを目にしても、自分とは違う世界の人間なんだと考えられるようになったから。

傘を片手に改札の奥を見ると、酷い雨が降っていた。


雨の予報は聞いていたが、ここまで強く降るとまでは聞いてないぞ。思わず声に出てしまいそうなくらいだった。しかし思えばこんなに大きな音を立てて降っている雨に気付かなかったなんて、思い詰め過ぎていたのかもしれない。お金を失くして気晴らしに寄れる店もないが、皮肉にも天気に同情されていると思うと少し笑えるような気がした。

ここまでの雨なら傘を差したとて多少は濡れる。そう気を滅入らせていたところ、一人の女の子が目に入った。その子は改札の外の雨が当たらない位置であたふたとしていて、まるで崖の淵から飛ぶのを躊躇う小鳥のように今か、今かと走り出そうとしては諦めている。そこで私は、自分が左手に持っている傘へと目線を落とした。今あの子に傘を渡せば彼女は濡れずに家へと辿り着けるだろう。明日もきっと学校があることだし、あのまま放っておくのも可哀想だ。しかし、そんなことをすれば自分がこの冷たい雨の中を濡れながら帰る羽目になる。確実に風邪を引くだろうし、明日の仕事に...

いや、何を気にしている。私にもう‘明日’なんてないじゃないか。会社を理由もなく辞めさせられ、荷物を纏め、今こうして家路を辿ってるんじゃないか。仮に今日この雨に打たれて死んだとしても誰も悲しむことなどあるまい。だったらせめて最後に良いことをして終わろう。私が持っているもので誰かが救われるというなら、こんな傘など自分で持っていてもしょうがない。出来る範囲のことは進んでやる。今までそうやって会社でやってきたんだ。これが私の最後の仕事だ。

私は足を進めた。まっすぐに改札を出て少女に一言だけ声をかける。

「これ、使いなさい。」

少女は「え?」と言って戸惑いの表情を見せたが、気にすることなく自分の持つ傘を握らせ、彼女の前から立ち去った。

駅の外に出ると、滝のような雨が一斉にこの身体を打ち付けた。その雨粒が重ね着した服を一瞬ですり抜けて、肌には恐ろしい程の冷たさが伝う。痛かった。どうしようもないくらいに寒かった。それでも今、傘を渡したあの子が風邪を引くことなく、暖かい家へと帰れることを思うと後悔などない。いつまで生きても結局は誰かの道具にしかなれなかったけど、だからこそせめてこの主観的な正義感を自分の褒美だと思わせて欲しい。そう冷たい雨の中で胸中に呟いていた時、打ち付ける痛みだけがスン、と止み、それと同時にぼたぼた、という大きな音が頭の上からけたたましく鳴りはじめた。何事かと思った。まるで自分の周りだけ雨が止んだ、とでも言うような可笑しな感覚だったから。私は不思議に思って辺りを見回した。するとどうだろうか、先ほど傘をやったはずの少女が居るではないか。しかもどうしてか、私はその少女と同じ傘の中にいた。なぜ彼女がここにいるのか、どうしてわざわざ傘を差しに来てくれたのか、状況が全く理解できないままでいると、少女は私に向けて少々強めに言葉を放った。

「お兄さん死んじゃうよ。」

急いで私を追いかけてきたのか、少女の息がほんの少し荒くなっているのに気がつく。私は思わず

「どうして。」

と声がこぼれ出た。すると少女からすぐに返答が飛んでくる。

「どうしてって、こっちの台詞だよ。格好つけて倒れたら元も子もないでしょ?」

「だからってわざわざ...。」

これは彼女なりの優しさ、とでも呼ぶべきなのだろうか。私にはその行動が不思議でならなかった。それにしても私に傘を差しに来て、それから一体どうするつもりなのだろうか。その疑問を少女に尋ねると

「あ、」

と言って固まった。なるほど、後先考えずに行動したな。

半分呆れかけの目で見ていると、少女は突如とんでもない提案をしてきた。

「雨宿りしてかない?うち居酒屋なんだけど。」

「え?」

いい歳した男と、女子高生くらいの女の子が同じ傘の中にいるなど傍から見れば事案だ。ただでさえこちらから話しかけてしまっているのに。そこから更に未成年の少女の家に上がるだと?せっかく格好良いヒーローになって力尽きようとしてたのに、これでは見窄らしい犯罪者の烙印を押されて終わるではないか。運命よ、己さては人を馬鹿にしてるな?

「気持ちは嬉しいんだけど、いまお金持ってなくてね。」

私は正直に事情を開示した。何とも商売の上手い娘だが、金が取れないと分かれば手を引くに違いない。多分このあと来る言葉は

「安くするよ。」

とかに決まってる。分かるさとも。どれだけ無欲な生活をし続けてきても、こちとら君より軽く十年は長く生きて――

「ご馳走するよ。傘のお礼じゃないけど。」

...これは何の罠だ。後で倍にして請求書を送りつけるんじゃあないだろうな。いや、金ならまだしも...


-こんな若い女の子に何してるんだ-

-良い歳して馬鹿じゃないのか-


これは何だ、新手の美人局か?会社からの差し金でこの子を使い、本格的に潰してやろうって魂胆じゃあないだろうな。何にせよ、何か裏があるに違いない。

「いや、でも...。」

「まあ無理にとは言わないけど。」

出来すぎた話の流れに疑う気持ちを隠せないでいるが、他に方法がないのも確かだ。この子をこの雨の中に放り出すことなど私には出来ないし、私が傘から離れたらまたこの子に気を遣わせる羽目になるのだろう。今日は何て酷い日なんだ。こうして私はいよいよもって折れてしまい、彼女の言われるがまま付いていくことにした。


ガラガラガラ、と音を立てて引き戸が開けられると

「ささ、入って入って。」

と誘われ、私は暖簾をくぐる。少女は店のキッチンに入るなり直ぐ様やかんを火にかけた。

「そこのハンガー使って下さいな。スーツ濡れちゃってるでしょ?」

店の入口で茫然と立っている私に、少女は細かいところまで気にかけてくれる。

「は、はあ。お気遣いどうも。」

「いいえー。適当に座っちゃって。私ちょっと着替えてくるから。あ、その隙に帰るとかナシだよ!!」

私は今からどんな目に遭わされるのだろうか。そんな不安に駆られたが、何故かそんな気持ちが薄れていくような温かさを同時に感じ始めていた。ドタドタ、と大雑把に準備する音がこちらからでも聞こえてきて、コンロからは細いガスの音と、そのにおいが鼻まで届く。辺りを見回すと古い木造の壁や白熱電球の優しい光が目に写り、そのどこか懐かしい光景に、気がつけば自然と店の椅子へ腰かけていた。

やがてヤカンがピィーー!と甲高い声で鳴きはじめると、先ほどの少女が慌てた様子で戻ってきた。またドタドタ!という音を立てながら。

「あー、わかったわかった。分かったからー!」

などと、彼女がやかんに話しかけながら火を止めに来る。そのせいで、単なるヤカンがまるで生きているように思えて可笑しかった。

「うぅっとー、とくとくとくとく。」

またしても訳の分からんことを言いながら、今度は茶葉の入った急須に熱湯を注ぎはじめる。そしてそのお茶は暫くして私の前に届けられた。

「はい、どうぞー。熱いから気をつけてね。」

「ありがとう。悪いね、何か一方的に良くしてもらって。」

「気にしないで。」

「一応聞きたいんだけど、どうしてこんなことを?」

「こんなこと?何が?」

「わざわざ傘の中に入れて、お茶までご馳走してくれて。」

素朴な疑問を投げ掛けると、少女は「だって」と言いかけ、こちらにニコッと微笑んでこう答えた。


「お兄さん、あのまま死ぬつもりだったでしょ。」


つづく。

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