86.大脱出
下町の鶴
9章-奮闘記-
☆Episode.86「大脱出」
一筋の光だけが差し込む闇の中、私達は息を殺した。触れ合う肌さえ苦しいと感じるほどに身体は圧迫され、頭がクラクラしそうな程に空気が薄い。
「早く行って、お願い。」
心に繰り返す。隣の瑞希からの心音が微かに聞こえてきて、お互いの緊張の凄まじさを実感せざるを得ない。
今いるのは掃除用具などの入った大きな棚の中。ハンバーグをぺろりと平らげてから数分後、みんなとの談笑中に先生がこちらに向かってくる様子を山岸が確認し、それぞれ一斉にばらけて隠れたところから今に至る。家庭科室は他の教室とは場所が離れていて、ここから見える廊下から誰かが見えたならそれは確実にここへやって来るという証拠。ガラガラと音を立てて先生が入ってきた瞬間には、この上ない恐怖を感じた。
「誰かいるのか。」
あぶり出すように声を張る先生。思わずビクッと身体が動いてしまいそうな声量だ。視覚の情報がない分、鼓膜を刺激する音の一つ一つが猛烈に恐怖を煽る。いっそこの扉を開けて白状しようかとさえ思った。だが、そんなことをすれば私のみならず、周りにも同じ罰を背負わせることになってしまうだろう。そんなことは許されてはならない。何が何でもこの状況を切り抜けなくてはならない。私はこの胸に完全脱出を誓った。
しかし皮肉にもその誓いは、より自分を追い込むための理由へと変わってしまう。扉を開ける音、コツ、コツと鳴る足音、近くなったり遠くなったりする感覚に翻弄される緊迫感、それは私達の心臓に毒を注ぎ続けた。
「助けて。」
私は喉まで出かかった言葉をグッと堪え、瑞希の手を握った。指を絡めて握り返す彼女。するすると滑ってしまいそうな程に手汗が湿り、繋がれた手が小刻みに震えていた。
時間にして三十秒ほどで先生は教室を出て行ったが、私の中ではそれが何十分にも長く感じられた。まだ外に先生が待ち伏せているかもしれない、そんな不安が隠れ場所から出るのを躊躇い、もう三十秒ほど待機した。もう行っただろうか、そんな疑心がつのる中、山岸からの忍び声が耳に届く。
「みんな、ゆっくり出てこい。」
ようやく平安が訪れたのか、そう思って扉を開けた。まぶしさと、先ほどまでの家庭科室の空気が肺に流れ込む。長く続いた恐怖から解放され、思わず私は瑞希の胸の中に飛び込んだ。
「あはぁぁん、死ぬかと思ったあああ...!」
などと泣き言を垂れ、瑞希も
「吐き気が...吐き気凄い...。」
と言って抱き返し、精神的な苦痛を言葉にする。
「漏れてた、あれで見つかってたらマジ漏れてた...。」
「吐いてたかも。」
「漏らしてたかも。」
「おろろろろ...。」
「ぽたぽたぽた...。」
山岸、困惑の表情。
「きっったないな、上から下から...。」
そういえば出てきてから明希と河島の姿が見当たらない。山岸に聞いてみると
「同じところに隠れてたよ?」
というので、彼の隠れていたという机の下を一つずつ調べていくと...
「ア...アア....ア....。」
居た。丸椅子を抱きかかえ、顔を真っ赤にし蹲った状態で...居た。
「ど、どうしたの?もう大丈夫だよ?」
私は声をかける。瑞希も気になって顔を覗きに来たが、私が尋ねたことに反応したのか読み取れない雰囲気で、明希は顔も視線もこちらに向けないまま何か呟いている。
「お、おお、男の人の体が、、あ、あああんなに近くに...。」
「.....。」
頭から煙が上りそうな程の赤面で固まる彼女。その緊張から出ている声はまるでコウモリの耳にも届きそうなくらいに高く、目も渦巻くように泳いでいる。私はおもむろに山岸の方へ顔を向け、無言の圧をかけてみた。すると山岸、
「誓って言う。どこにも当たってない。」
もう少しそのままで見続けてみる。
「服の生地すら擦れてない。」
断固として主張を変えないので明希にも尋ねようと試みるが、
「おお、男の人が、あ、ああ。」
会話が成立しそうにないので放っておくことにした。
軽く溜息を吐いてしゃがみ状態から戻ると、山岸や瑞希の方を見て言う。
「とりあえずお皿片付けて早めに帰ろ。」
あまり長居するのも危険だと思い、元居たテーブルの方に歩いて行く。明希と山岸が隠れたテーブルの前寄り二つ隣、その場所へ着くと咄嗟に違和感を覚えた。
「そうだね、徹底的に痕跡を消さないと。」
山岸が返した直後、私は
「ちょっと待って――」
と言いかける。どうしたのかと足を止め、部屋は一瞬の静寂に包まれた。
「ねえ、お皿...何かおかしくないかな。」
山岸がこちらに向けて歩きながら
「置きっぱなしはマズいだろうから纏めたんだけど。」
と話す。家庭科室のテーブルは少し特殊で、机上の板の片方を折り畳むと洗い場が出てくるという仕様になっている。先生の襲来直前に食器など一通りを洗い場に纏め、その板で蓋をするように隠したはずなのだが、
「あのさ、蓋したよね...?」
「名取、さすがに僕もそんな野暮な失敗は...え?」
戻したはずのテーブルから、無造作に置かれた食器たちが顔を出す。洗い場の状態になっているのだ。
「山ちゃん、もっぺん聞くよ。テーブルはこの状態だった?」
山岸の額から脂汗が伝う。彼はテーブルに両手をつき、真剣な声色で言った。
「第二陣形だ。」
バレていることを察し、帰宅陣形のパターン2を提案する山岸。私は忍び声でそれに返答する。
「あれはうちらの教室起点でしょ、どうすんの。」
「スタート地点が違うだけ。それ以外は同じだよ。」
「待って待って。第二は難易度高すぎるよ。みっちゃんも居るんだよ?」
瑞希は二人の会話をポカーンとした表情で聞いている。
「時間が無い。矢原さんは僕の方へ。」
「え、何?なになになに??」
議論する間もなく、先生の気配が段々と強くなっていくのに焦りを感じ、私は無理くりにその案で実行に移すことを承諾した。
「ああもう...。みっちゃん、山岸から離れないでね。」
「え、ちょっと待って?どういうこと??」
いつも居残りから逃れるために使う私達専用の脱出戦法。十二ものパターンの中から山岸の出した第二陣形は、初っ端から先生にバレた状態から開始する高難易度な技で、それぞれが交互に囮になりながら相手を撒いた後、暫くの潜伏を経て校外へ脱出する流れとなっている。
瑞希の理解は追いつくはずもなく、心の準備すら待たずにその時は訪れた。ふと振り返り、扉の方を向くと、扉の隙間から先生の半身が巨人の如く覗き込んでいる。野球の話ではない。
「ここで何をしている。」
地をも揺らす先生の低い声が私達に襲い掛かる。その瞬間、私は声を上げて合図した。
「強行脱出、始めーーーっ!!」
声で揺動させ、私に集中が向けられたタイミングでブレザーを先生の顔目掛けて振りかざす。その一瞬で先生の真横をすり抜け、それと同時に反対の扉から山岸たちを脱出させた。かつてこの方法ですり抜ける際に、視界が奪われているはずの先生に感覚で服を掴まれて連れ戻された痛恨の失敗経験を活かし、今回はスライディングで通過し成功した。ブレザーの回収に手こずったが、この微妙なタイムロスで先生が捕獲成功を予測してくれたおかげで、標的が変わらず私に向いてくれたので良しとする。計画通りだ。このくらいの時間が稼げれば山岸は姿を完全に眩ます。ちょっとやそっとじゃ見つかりはしない。
「待てこらぁあああ!!のうのうと居残りサボりやがって。ただじゃおかねえぞぉぉ!!!」
大声を上げて追いかけてくる先生。だがしかし、本気で走れば逃げ切れるのは火を見るよりも明らか。そんなことをすれば先生がパワープレイから路線を変え、私の苦手な頭脳戦へと持っていくに違いない。だから丁度良い速度を保ちつつ、余った体力で冷静な判断力もついでに奪っておく。
「はははァ~、三十越えたら無理な運動は何とかってなァー!ハハハぁ~。」
「誰に口聞いとんじゃオラァァァ!!」
人呼んで、「くそ餓鬼ディフェンス」である。さて、この調子で相手の体力を落とし切ったら教室へ荷物を取りに行こう。撒く場所も三階の辺境地帯。間違えても一階で逃げ切ってしまうと職員室で応援を呼ばれるし、何と言っても脱出口を潰される危険性がある。ここからが本当の勝負だ。
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一方その頃、家庭科室では...
ガタッ....ガタガタガタガタ....
みかんの段ボール箱が揺れている。少し動くと止まり、また暫くすると羽化前の卵の如く揺れ始める。
「あの、...誰か助けて。抜けっ、抜け出せない...。」
素材の遮音性が活かされ、モゴモゴとした音が部屋の中で寂しく響いていた...
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「ここで暫く身を隠そう。」
家庭科室から離れ、別の準備室へ逃げ込んだ山岸たちは物影に隠れ、人の気配に感覚を研ぎ澄ませた。先ほどまで走って荒れた息を徐々に取り戻すと、瑞希は囁くくらいの小さな声で尋ねる。
「ねえ、山岸君。」
「どうしたの。」
「居残り組の子達、いつもこんなことやってるの...?」
「...企業秘密ってことでお願いします。」
「......。」
「まあ、外せない用事とか、今回みたいな特例のために用意している感じかな。」
「へえ...。」
「うん。」
「ほぼ全部言ったね。」
「....。」
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ガタガタ、ガタ....バタン!
ようやく倒れたみかんの箱。その中から河島が顔だけを出す形でお生まれになり、
「痛ぇっ!!」
と瑞々しい産声を上げた。生き物というのは、生まれて一番初めに目にしたものを親と思う習性があるという。それをどう捉えるかは個人の解釈次第だが、彼が箱から出てきて初めに見たものは
「わた、わたわた私...、あばばばば....。」
赤面で蹲る十七歳の乙女、四倉さんでした。
「あの、すみません。助けて。出れない。」
何度か呼びかけてみるも反応しない四倉。河島は仕方なくその身で這いつくばり、何とか側までやって来た。混乱しきった彼女にどうすれば気付いてもらえるかを考察する。そして彼は、言葉ではもう効果がないだろうと思い、不本意ながらもその頭を使った。彼女の足目掛けて弱々しい頭突きをする。すると
「ひゃあああああ!!」
四倉はそれに気付いた。と同時に、河島の頬には赤い手形がついた。
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脱出作戦から数分経った頃、私は教室へ鞄を取りに来ていた。しかし、そこには私のはおろか、みんなの分の鞄もない。恐らく山岸が纏めて回収してくれたのか、そう思うことにして教室を出る。居残り脱出は簡単な作業ではない。判断が遅れるとすぐに追手に追いつかれてしまう。考察に時間を割くのをやめて、取り敢えず校外へ脱出することに路線変更した。私はくるりと体の向きを変え、教室を飛び出た。
すると驚いたことに、そこにはなんと先ほど撒いたばかりの先生がいるではないか。私が散々奪った先生の冷静さを今度は先生が奪うようにして、威圧的な姿で立ちふさがっている。私はその動物から逃げようと一歩、一歩と後ずさりをする。しかし、一定の距離を取ると先生は大股でその差を埋め、こちらに近づいてくる。
「せ、せんせ...?」
「おう名取、お前、言うことあんじゃねえのか。」
「な、なな何のことでしょう...。」
「とぼけんじゃねえ!」
「ひっ...!」
先生は勢い良く床に足を振りおろし、大きな音を立てた。思わず震え上がる。あともうちょっとだったのに、逃げても間に合わない距離まで追い詰められてしまった。
「お前よォ、あの部屋で何してた。」
「....えーっと。」
「何 、 し て い た。」
「...!す、少しばかりお料理を...。」
「へえ、料理ねえ。勝手にか。」
「あの...その....。」
「誰にも許可を取らず、ええ?勝手に使ったのか。」
「....。」
「お前いい加減にしろよ。他の奴らはオイ何してんだ。なァ、どこにいる。」
一番答えたくない質問をされる。被害は最小限にしないと、今回ばかりは全く悪くない瑞希たちまで酷い日勤教育が課せられてしまう。それだけは避けたかった。私は必死に口を閉ざした。
「おい、答えろよ。あん?」
「......。」
「黙ってたって何も変わらねえぞオイ。帰んのどんどん遅くなるぞ、ほら答えろよ!!」
強い言葉の圧にやられ、心にダメージが蓄積されていく。私は胸の奥で助けを叫び続けた。自分の保身のために仲間を売ることなど出来ず、ただそれでも黙秘して耐え続けるには持ちこたえられない程のものだったから。
「おい、言え。早く。」
「....。」
「言えって、黙って解決はしねえぞ。」
「.....!」
「口ついてんのかコラ!!女だからって甘くしてやると思ったら大間違いなんだよボケええ!!」
先生の口からショットガンの連射が始まる。一発一発の威力が凄まじく、止まらない強烈な言葉と声量の圧が精神を追い込んできた。
「助けて...。お願い、助けて!」
その言葉が喉まで出かかったその時、先生の後方から声が聞こえる。
「宅配便でえええすーーー!!」
何事かとびっくりし、体が固まる。ただ、まだ驚くにはまだ早く、その声の直後には先生の頭にみかんの段ボール箱がダンクシュートで勢い良く被せられた。
「うごっ!!誰だこらぁあああ!!」
目の前で火にガソリンが注がれる光景に直面し、私は足の力がなくなった。膝から崩れ落ちる刹那、燃え盛る炎の情景を最後に視界が揺れ動き、身体を動かしていないのに景色が流れていくという違和感に満ちた状況に面する。私は目を丸くした。何が起こったのか、と。視界に映らない所から空箱の落ちる音が聞こえ、その直後
「っざけんなよオラあぁぁぁ!!ちょと待てええええ!!!!」
と叫び声が轟いた。足音のリズムで左右に大きく揺れる感覚。しばらくその中で揺られていると
「すまん、待たせた。」
頭上からは聞き慣れた声が聞こえてくる。声の元へ視線を上げると、そこには河島の姿が。
「え...?」
状況が何一つ分からない。ただ一つハッキリしているのは、後ろからの魔獣に捕まれば確実に死ぬということのみ。
「いいよ、降りるって。」
力ない声で言うと、
「いい。お前いま走れんだろ。」
あっさりと論破されてしまった。部活が終わり、下校時間のチャイムが鳴り響く廊下を颯爽と駆け抜け、そこでもの言えぬ緊張感に打ちひしがれている。幾重もの戸惑いの中、何を思ってか私は、心を落ち着かせようと彼の胸の中に首をもたれさせた。そこで初めて気がついたんだ。いま私、河島に抱っこされてるんだ、と。
急にドキドキと胸が高鳴りだし、身体全体がじんわりと熱くなった。でもどうしてだろう、それと同時に不思議と落ち着いた気持ちになっていくのは。片耳からドク、ドクと彼の心臓の音が聞こえる。そこから頬に伝わる熱までもが何だか心地良いと思えるようになっていた。もう少しこのままでいたい、そんな願いとともに近づいていく玄関。夢が覚めるまでの時間が惜しく感じてならない。そう強く思った。
しかし哀しき哉、夢とは束の間の幻とは良く言ったものだ。まどろむ気持ちの中、ふと前に視線を向けると、そこには教室から出てくる沢山の生徒たちの姿が。今置かれている状況がじわじわと俯瞰で見られるようになってくる。これは何の特殊能力でしょうか。私は真っ赤な顔でパニックになり、その腕の中で暴れた。
「わあああああああ!!河島ァァァ!!!降ろせ降ろせ降ろせ降ろせ!!!!」
つづく。




