8.湯けむりラプソディ
ープロローグー
狭い廊下を通ってお風呂へ向かう。脱衣場の洗濯機の上に着替えを置き、脱いだ服を洗濯機の中へ放り込む。
「はあ、今日も疲れたな。」
ボソッとため息に乗せて呟き、蛇口を捻る。
ひぃっ!冷た...。
お湯に変わるまで、空っぽの風呂桶に置いたバケツに冷水を溜める。これは名取家の節水法。
お湯に変わったタイミングで一段目のシャワー掛けに掛けて、しばらく髪を濡らす。
身体を伝う温い雨が心の泥までも落とすようで、この気持ちよさに浸っていたい気もするが、無駄遣いで怒られたくないのでここら辺にしておく。
シャンプーを手に取り、髪全体に広げ、泡立たせる。
洗い流そうと蛇口を捻れば、再びあったか時間だ。
ふあああ~、温か........あれ?.....あれ!!??
「お母さあああああん!!!!」
【本編】
下町の鶴
2章-地球照-
☆Episode8.「湯けむりラプソディ」
ガタガタガタガタ
「名取....どうしたよ...?」
名取は洗面器を両手に持ちながら震えている。
「かか河島....せんととと....」
「え?何て?」
「せせ、銭湯行くよ。」
「え?さっき風呂入ってたんじゃ....」
よく見ると、おろした長い髪は少し湿っている。
「シャワー壊れた。」
「ああ.....そう。」
ガタガタガタガタ....
俺は小銭入れを開いて所持金を確かめる。
五百円玉が三枚。あれ?結構入ってるな。これなら行けるか。
「河島はどうすんの...?」
「ああ、俺も行くよ。着替え持ってきてるし。」
名取はジト目になって俺の方を見る。
「初めっから泊まる気満々かよ。」
「ごめんって。」
名取は母に行ってきますを告げて扉を出る。
彼女の姿が少し新鮮に見えて、ぼーっと目で追っていた。
名取が鍵を取り出すと、こちらを向いて
「行くんじゃないの?」
と聞いてきた。
その言葉に気づいて、玄関を出る。
彼女は錆色に染まりきった古い自転車に鍵を差し、跨がるとこちらを向いて
「ほら、乗って。早く行けば長く浸かれる。」
と急かした。
荷台に跨がる。
「ちゃんと掴まっててよ。」
「どこ掴まればいい?」
またジト目になって、俺の方へ振り向く。
何だよ、どうしたよ。
「ど こ で も い い よ 。変なこと考えてないなら。」
「ああ、そう。」
なんか恥ずかしいから肩でいいや。
「じゃ、いくよ!」
名取はそう言って、漕ごうとし始める。
ギィ.....コォ...............
「.....。」
名取が力一杯にペダルを踏み込んでいる。
「んぎぃいい........!!こぉんのおおお......!!」
名取は思いっきり力んでいるが、全然進まない。
「あの....名取さん...?」
わざと「さん」付けで尋ねる。
「うるさい....!んん黙ってて!!」
キィ.....キィ......
「....。」
普段、二人乗りなんてしないのだろう。それが痛いくらいに伝わってくる。
「ふあ!!」
とうとう自転車が倒れた。名取の足はよろけていて、俺も荷台から緊急脱出してふらつく。
流石にこれ以上、名取の強がりに乗っかっていたら色々と危ない気がしたので提案した。
「あの、俺が漕ごうか?」
「いや、い........。」
いい、と言いかけた口が途中で止まり、こちらをジト目で見つめだす。
だから何だその目は。
「ごめん.....お願い。」
「了解、了解。」
運転手を交代して、今度は俺がサドルに跨がる。
名取は自転車カゴにシャンプーなどの入った洗面器を置いて、荷台に軽く腰かける。
落ちるんじゃないかと心配したが、平然とした顔をしてたのでスルーした。
自転車がスムーズに進んでいることに関心でもしたのか、名取は
「上手いじゃん、河島。」
と、言葉でちょっかいをかけてくる。
「どーもー。」
夜風に当たりながら二人を乗せた自転車は、住宅街の路地を走り抜けていく。
夏の決して涼しいとは言えない風にさえ、俺はほんの少しの自由を感じていた。
両親と大喧嘩して、家を飛び出してから数時間、今頃家は騒然としている頃だろう。だが、お姉に
「明るくなったら帰る。」
と伝えているから、大丈夫であろうと信じる。
考えれば考えるほど、早く帰るというのが最善なんだろうって分かるけど、今はこのままで良い。
正論に諭されてやる気分じゃない。
二人は銭湯についた。
下足札をポケットに入れて引戸を開けると、小さなロビーが見え、そこにうっすらと煙草の残り香が漂う。
番台さんに料金を払い、名取は
「じゃあ、一時間後くらいに?」
と、言って赤い暖簾をくぐっていった。
俺も赤い暖簾....じゃなくて、青い方をくぐり、脱衣所へ。脱いだ服をロッカーに放り込んで、浴場へと向かう。
浴場にいた人はほとんど年配さんだったが、その中に小さな子供が浴槽で遊んでいた。
俺は緑色の小さな椅子に座り、名取から貸してもらったものをタオルから取り出した。
石鹸である。
【数分前】
「あー、そうそう。シャンプーとか持ってきた?」
名取が銭湯の前で立ち止まり、俺に聞く。
「え?中にあるんじゃないの...?」
「ああ....もしかして河島、スーパー銭湯しか行ったことない口かあ....。」
「え、それってもしかして....。」
「うん。」
名取が頷く。
「まじかあ....。」
「分かった。ちょっと持ってて。」
持参の洗面器を俺に持たせると、その中からタオルと石鹸を取り出した。
新品ではないが、まだちゃんと原型をとどめている。
その石鹸を名取はタオルにくるみ、そして
「おりゃあーー!」
とか何とか言って石鹸を2つに叩き割った。
はい。と、その片割れを渡すと
「シャンプーはごめん。自分でどうにかして。」
と、言い残した。
―――――――――――――――
その石鹸を見つめる。
頭は.....まあ、石鹸でやれないこともないか。
そういってなんとか泡立たせようとするものの、全然そうならない。
手をヌメらせることは出来るようなので、その状態で髪につけて洗ってしまう。
なんか、髪が滑り止めみたいにツヤツヤになった。
身体の方は洗いやすかった。タオルで擦れば良い感じに広がってくれる。そのタオルで全身をこすり、洗いながした。
最後に洗面器でタオルを洗って、よく絞る。顔を拭うと、うっすらだが、石鹸特有の香りがする。
何と言いますか....、異性の石鹸使うって....なんか良いよな。.....すまん、今のは忘れてくれ。
さて、身体も洗い終わったことだし、お風呂に浸かることにしよう。
と、浴槽に近づこうとしたが
!バシャバシャ!!
....子供が一匹泳いどる。
落ち着かないので、隣の浴槽に入った。
すると、子供は俺を見つけ次第、話しかけてきた。
「お兄ちゃんもバシャバシャする~?」
屈託のない笑みで聞いてくる。
「あんた、泳ぎ好きなの?」
「うん!大好き~!」
「そうか、川でやってきな。」
【一方、その頃。】
「ひぃ.....ひぃ.....」
私はサウナ室で修行していた。
「あっちい....。なんて暑さだ。感じる、赤道を感じる。」
脳内時計がチクタクと鳴り響く。頭に浮かぶ光景は、真夏のむし暑い体育館だったり、大型客船のボイラー室だったりと、マシなものがない。
頭がぼーっとしてきた気がする。呼吸もだんだん荒くなっていく。
でも、もう少し我慢すれば少し痩せられる気がするの!
この暑さで脂肪も少しは燃焼できると思うのよ!
そうすれば学校生活はきっと薔薇色に変わるわ。
汗も滴る良い女ってやつよ。ファイト、私ぃいい!!
*危険なので真似しないでください。
―――――――――――――――
「お兄ちゃん何年生~。」
「二年生。」
「えー、ほんと~?じゃあ同い年なんだ!」
「高 校 、 二 年 生 な 。」
「こーこー?何それ。」
「あったま良い~学校のことだよ。」
「えー、じゃあ超難しい問題だすよ~?」
「おう、かかってきな。」
「一億三千八百万+三千八百....
【一方、その頃。】
「ぐすん.....うぅ....」
おばちゃんに説得され、サウナを出た。
「あんまり無理すると危ないから...。」
「汗も滴る...良いオン....」
「分かったから早くお水飲む。」
―――――――――――――――
しばらく湯船に浸かったあと、俺は浴場を出て、脱衣所の扇風機の風に当たりながらぼーっとしていた。
あまり裸で当たっていると風邪を引きそうな気がしたので、とっとと着替えて、また扇風機のところへ行く。
ある程度涼んで、気が済んだので脱衣所を出て、ロビーへ戻る。
ロビーの椅子に名取が座っていた。
「おー、河島。お帰り。」
「おう。女子が早風呂とか、珍しいな。」
「まあ、家でシャワー浴びたし。」
「あ、そう。」
早風呂のわりには全力でのぼせているような雰囲気だ。
悟りでも開いたのかっていう様な顔をしている。
「河島、牛乳飲んできなよ。こういうとこで飲む牛乳は格別だよ。」
「ああ、うん。そうだな。」
名取がオススメしてくれたので、ジュースの並んだ冷蔵庫から取り出し、番台さんに持っていく。
「100円ね。」
「あ、はい。」
安い。経営大丈夫かってくらい安い。
給食でよく見た牛乳瓶の蓋を開けて、一口飲んでみた。
この場に漂う空気のせいか、確かに一味違うように思える。
ぷは~っと一気に飲み干すと、名取が俺の方をみて
「な、良いだろ?」
と言わんばかりの笑みを浮かべた。まるでバスローブを着た金持ちみたいな佇まいで足を組み、コーヒー牛乳を片手に持ちながら。
しばらく経つと、二人は天井近くに設置されている小さなテレビを眺めながらぼーっとしていた。
牛乳を全部飲んでしまって、目以外は暇なので、お客さん用に備え付けられた団扇を手に取り、パタパタと扇ぐ。
一方、名取はテレビに集中しながら、コーヒー牛乳をちびちびと飲んでいる。居酒屋の娘だからか知らないが、飲み方がワインとか、焼酎のそれだ。
様になってるなあ。お酒とか強いんだろうな、家系的に。
....おい待て。普段から飲んでないよな?
番組がCMに入ると、名取の集中が解ける。
団扇風を向けてやると、彼女は目を閉じ、口を開けて「あ~~わわわわ」とか言いながらおどけだす。
扇風機に当たるフリをして、わざわざセルフで風切り音まで再現しているのか。
気まぐれで、おどけるのを止めると、再びコーヒー牛乳瓶に口をつける。
少し口に含んでは、瓶をテーブルに置いてと、繰り返す彼女に俺は質問を投げ掛ける。
「名取ってさ、結構こういうの味わって飲むんだな。」
口の中にある分を飲み込むと、答えた。
「あー、なんかさ、舌で転がしてみたりとかさ、飲み方変えながらやると、色んな味が楽しめるというか。」
「いや、ワインか。」
「まあ、仕事柄の悪い癖だね。」
「ちょっと待て。お前普段から酒やってないだろうな。」
「それはないない(笑)」
「飲んだことは...?」
俺がそう聞くと、名取はニヒッと笑った。
「何だよ。」
「昔、ちょーーっとだけぇ。」
「ああ......そう。」
先ほどの小さな子供もお風呂から上がってきて、俺を見つける。
「あ、さっきのお兄ちゃんだー。」
「よう。」
俺は手のひらを見せた。その子は名取の方を見た。
「やあ、こんばんは~。」
名取は愛想よく答えた。
子供は首を横に傾けて聞いてきた。
「お姉ちゃんはお兄ちゃんのお友達ぃ?」
「うん、そうだよー。」
「ふ~ん。」
子供は立て続けに質問を投げ掛けてくる。
「お姉ちゃん、チューしたことあるー?」
「いや、ないよ。」
「ちぇ~、なんだあー。」
「ちぇ~って何だ、ちぇ~って。」
「あはははは!」
子供が無邪気に笑いだす。
その子がしばらくして、おしゃべりに飽きたのか、親がまだいるであろう脱衣所へと戻っていく。
暖簾をくぐりかかったところでヒョコっとこちらに振り向いて、言った。
「ふーふ仲良くね~。」
「あ?」
「落ち着いて、名取さん。」
立ち上がろうとする名取を俺は必死に押さえた。
つづく。