5.ひだまり
ープロローグー
-教室にて-
「進路希望調査、提出は明日だからな。忘れずに持ってくるように。」
雨の朝、ホームルーム。
まるで日没後のような暗い外の景色を私は見ていた。
換気で小さく開けられた窓からは、ぽつりぽつり、サアサアと、シャワーのような雨音が鼓膜に優しく触れる。
濡れたアスファルトの匂いは鼻腔を駆け抜け、柔らかい風は身体を擦る。雨たちはきっと、私の瞼を下ろしたくて仕方がないのだろう。
淡い眠気に微睡んでいると、私の視界に一瞬だけ河島が、暗く険しい表情を浮かべているのが目に映った。
「どおしたの?河島あ、具合悪いの~?」
眠気混じりのほわほわとした呂律で彼に尋ねる。すると彼は、目を丸くして驚いたあと
「なんでもねえよ。」
と、疲れから解き放たれたような声で答えた。
何か隠しているようにも見えた河島の態度。
私は不思議そうに彼を見ていたが、だんだんその姿はぼやけていき、やがてカタンと眠りに落ちた。
【本編】
下町の鶴
2章-地球照-
☆Episode5「ひだまり」
6時間目。
少し前に雨があがり、雲もまばらに分かれていき、今は広く開いた雲間から太陽の光が教室に差し込んでいる。
理科の三田村先生の話し口調はおっとりしていて、溜まった疲れにはよく効く。
その効果に身を任せては叩き起こされるクラスメイトを見ながら、私はできる限りの集中を先生の言葉に向ける。
「月には光って見えるところと、真っ暗な部分がありますね。」
だめだ、子守唄を聴かされているみたいだ。
「その暗い部分も、うっすらと見えることがあります。このことを''地球照''と呼びます。では何故、暗い部分が目視できるのでしょうか。はい、名取さん。」
「え...?」
急に私に当てられて困惑する。
「え....、太陽の光じゃないですか?」
「惜しい。」
惜しいんかい。
「じゃあ加藤くん。」
「あー....、実は月も光る、とか?」
「いえ、全然違います。」
....全然違うんかい。
先生がこの問題の説明を始めようとすると、教室端から大きないびきが聞こえてくる。誰だ、誰だと皆が顔をキョロキョロとさせて、声のもとを探し始める。
「木田さん。」
先生が呼びかける。
...木田かあ。夜行性の廃人ゲーマーで、昼は完全にバッテリーが切れる。また、18禁ゲームの広辞苑という異名も持っていて、性癖に合わせた自分ぴったりのゲームをオススメしてくる天才なんだとか。私らまだ17ですけど。
「木田さん。」
今度は言葉の速度を落として、より聞き取りやすく警告する。木田はまだ気づかない。
周りも数名寝ているが、彼のいびきが一番目立ってしまっている。
やばい....このままでは―――
「いい加減にしろ!!」
先生が教卓をドンっと強く叩き、激怒する。教室の空気が一気に凍りつき、彼を含め、居眠りしていた生徒らが飛び起きる。
起きていた私たちも机の裏に膝をぶつけ、驚く。
「お前、真面目に授業受ける気あるのか。他の寝てる奴らもそうだぞ。」
まるで子守唄から突然、激しいロックに変わるみたいに、先生のおっとりした雰囲気は一瞬にして消え去った。
何をどうすれば良いか分からなくて、銃口を突きつけられているかのような緊張が教室全体に走る。
「お前ら、こんなので卒業できると思うなよ。」
今まで相当鬱憤が溜まっていたのだろう。いつもは滅多に怒らない先生がこんな状態になるくらいなんだから。
次のチャイムまであと30分もある中で起きた災難、助けてくれと心の中で誰もが叫んでいたことだろう。
そんな、収拾の付かない状況の最中で突然、三田村先生の広いおでこがピカッと光った。
自然発光しただと!怒りが限界値に達するとそうなるの?蓄光か?蓄光なのか?
いや、そんなわけあるか、アホか。その光が微かに揺れているのをみる限り...誰かが故意に光らせている。
私は更に心臓が締め付けられた。誰だ、突きつけられた銃口を自ら咥えに行こうとしている猛者は。
恐る恐るその光のもとを辿ってみると、河島が何食わぬ顔で下敷きで太陽光を反射させ、先生のおでこにその光を当てている。
血の気が引いた。
私は震えた声で、今にも消えそうな力を振り絞って語りかける。
「か....河島....!な、なな、何やってんの....!」
しかもそれ私の下敷き...!この前みっちゃんと一緒に文具屋さんに行ったとき買った水色の下敷き...!!
そして遂に、先生の怒りの焦点は河島に向けられる。
「おい、何やってんだお前。」
やめて、もう見てられない....。てかこんな状況でよくそんなこと出来るな!命知らずにも程があるよ...。
「先生、地球照です。」
「あ?」
は...?何言ってんのお前。何やってんのお前!!
この状況でまだからかうつもりなの!?
「この下敷きが地球で、先生の頭が月面だとしたら、ですよ。」
教室の中の音という音が消える。しばらく沈黙が続いたあと、先生の口が開いた。
終わった。短い人生だったけど、ありがとう。私の心臓は次の怒号で確実に止まります。
男に負けないくらいの、強靭なメンタルを持つ少女のつもりでいたけど、どうやらそれもただの強がりだったみたいだわ。
さよなら、私のメンタル。さよなら、私の青春の日々よ。
そしてさようなら、我が友よ。きっと忘れ―――
「.........。ああ、正解です。」
....え?
先生が少し冷静さを取り戻す。みんな、この状況に理解が追い付かずに一斉に河島の方を見る。
「先生、どうぞ解説を。」
河島が尋常じゃないくらいスムーズに、先生を激昂前のテンションに戻す。
「えー、月の暗い部分がうっすらと目視できるのは、太陽の光を地球が反射して、その光が太陽の影になっているはずの部分を照らしているからなんですね。」
クラスメイトの目線は先生の頭と、河島が持ってる下敷きを何度も行き来したあと、「すげえ...」と、周りから称賛の声が上がる。
「いつもぼーっと授業を聞いてるはずの君にしては、中々やるじゃないか。」
河島は一瞬ニヤっとするが、そのまま表情を変えずに下敷きを下ろさない。
「ですからつまりこれは....おい、いつまで光を当てているんだ。」
教室の空気は一転し、笑いが引き起こる。
河島が下敷きを素直に下ろすと、一人のクラスメイトから声が飛んでくる。
「何者なんだお前は。」
その問いに、河島は落ち着いた声を維持しながら答える。
「母なる星です、先生。」
「やかましいぞ。」
先生も思わずツッコミをする。
そういえばさっきまでずっと真面目に教科書に目を通していたな。まさかこのタイミングを計っていたのか...?
「すみませんでした。母の座、名取に譲ります。」
そういって下敷きを私に渡してきた。
私はその流れで、返ってきた下敷きを使って河島を一発シバく。
べごぉん....!
「うるせえわ、バカ。」
その掛け合いは先生の怒る気力さえも奪い、その後のムードは帰りのホームルームにまで影響した。
帰り道、オレンジ色の水溜まりを飛び避けながら歩く。
「つるりん、スタボの新作見たー?」
「うん!見た見た!ピーチのやつでしょ?」
「うん、それそれー!良かったらさー、飲みに行かない?」
「行く行く!」
みっちゃんと放課後、人気の喫茶店の新作ドリンクを飲みに、駅前へ向かった。
「甘あっ....!ははは。」
私は思わず、その味に言葉が出た。
「え、でも美味しくない?」
「うん、美味しい美味しい(笑)」
窓際のカウンターに二人で座って、駅前の人通りを眺めながら、このひとときを楽しむ。
歩いている人の服装を見て、今度の給料日に着てみたいファッションの話をしたり、時には同じ学校の生徒を見つけたりして、その噂話で盛り上がったりした。
「そういえば今日、進路希望の紙、渡されたよね。」
みっちゃんが将来の話を切り出す。
「あー、うん。渡された渡された。」
「みんな何目指してんだろうね。」
私は窓の外を見つめ、口に含んだドリンクを喉に流し込んでから喋り始める。
「あー、そうだね。卒業しても今度は大学でワイワイしたい~って人がやっぱ多いんじゃない?」
「そうかもね~。」
そういって瑞希は遠くを見つめて、ドリンクをすする。
「みっちゃんはさ、何か目指してんの?」
「んー?私はねえ、美容師の専門学校行こうかなって。」
「へえ~、いいね。」
みっちゃんの方を見て、微笑む。
「お姉ちゃんが私の髪、よく結ってくれてさ。」
「良いなあ~、めっちゃ良いお姉ちゃんじゃん。」
「そうなんだよー。昔は髪くしゃくしゃにされたけど。」
「あはは、何それ。でもそっか~、美容師さんかあ~。こんど髪、結って貰おっかな(笑)」
それを聞いて瑞希は背中を押されたみたいに、少し誇らしげな表情を見せた。
「あ、河島くんって何目指してるんだろうね。」
ふと思い出したように瑞希が聞く。
「あー、そういえば聞いたことなかったな。」
「芸人さん、向いてそうだけどね(笑)」
ふ、と笑って瑞希に答える。
「あ、でもあいつ、芸人じゃないって前に言ってたよ。」
「そうなの!?意外~。あんなに面白いのにね。」
河島の話題になり、あいつが何を考えてるのか、少し気にかかった。
「でも、気づいたらテレビとか出てそうだよね。」
「なんか分かる気がする。」
「何かな~、芸人さんじゃないなら...」
二人で彼の将来を予想した。アイドルだとか、モデルとか、時には絶対有り得ないであろうものを出したりして笑ったりもした。
しばらくその会話は続き、カップの表面の結露がすっかり消えてしまうくらいまで喋って、店を出た。
瑞希と別れて、家まであともう少しの帰り道で、私は鼠色の空を見上げて、今朝の河島の険しい表情を思い出した。そのときは確か、先生が進路希望の話をしていたっけ。
何か悩みを抱えてるのかな。
あの河島に限ってそんなこと、と思いもしたけど。
もし、あの笑顔の影で冷たい雨が、その心を打ちつけているのだとしたら...
つづく。
【おまけコーナー(なろう版限定)】
★下町のはとぽっぽ
☆その2「一人っ子」
開店時間が過ぎて数十分、音のしない店内で一人きり、あくびをかいて誰かを待った。
ふと私は、テーブルに飾られた家族写真をみつけた。
それを見つめると、遠い遠い昔、私がまだ幼い頃を思い出す。
「お迎え、そろそろ来るからね~。」
「せんせー、おむらいす、できた。」
おままごとのフライパンを持ちながら、幼稚園の先生に見せた。
先生は私の方に顔を向けると
「あら~上手ね~。これ私に?」
「うん、たべて。」
そういっておままごとに付き合ってくれた。
「ん~、美味しい~!腕利きのコックさんね。」
「えへ。」
おままごとを楽しんでいると、あっという間に時間は過ぎていった。
おままごとに飽きた時、私の前に男の人が現れた。
「すみませーん、ちょっと遅くなりました!」
大きな声にきょとんとした私に、その人は手を伸ばした。
「ほら詩鶴ちゃん、迎えに着たよ~。」
「しらないオジサンとオハナシしちゃダメなんだよぉ?」
先生はにっこり笑って
「大丈夫。知ってる叔父さんだよ。」
「あたし、しらない。」
叔父さん、がっくり。
そうこうしてると、母もやってきた。
「あ、おかあさん。」
私は母の腕の中に飛び込んだ。
「よしよし、元気してた?」
「おかあさん、しらないオジサンがハナしてきた。」
「え?」
叔父さん、さらにダメージを受ける。
「あー、はは。この人は裕おじちゃんだよ。」
「だれ?」
「私の弟。詩鶴からみたら叔父さんだね。」
「おかあさん。」
「うん?何?」
「おとーとってなに?」
「ああ...兄弟っていうんだけど...詩鶴には分からないよね。」
「うん、わからない。きょーだいってなに?」
「歳の近い家族みたいなものかな。」
「あたしにはいるの?」
「ううん、居ないよ。」
「ほしい!」
母は苦笑いしていた。
「兄弟は大変だよ?何もかも分け合わないといけないし、そしたら大好きなお菓子もいっぱい食べられないかもしれないよ?」
「姉ちゃん、それ俺の目の前で言いますか...。」
「いい!きょーだい、ほしい!」
あれからもう十何年も経つのだけれど、見ての通り、私は一人っ子のまま。
もし、私に兄弟が居たとしたらどんな人生を送っただろうか。親からの愛情さえ分け合うことに、その子を憎んだりしたのだろうか。
まあ別に、もっと強く願っておくべきだったって後悔するわけじゃないけど、何せ私の周りに一人っ子が居ないものだから少し気になっただけ。
ただ、それだけ。