114.フードコート
下町の鶴
12章-先発列車の尾灯-
☆Episode.114「フードコート」
お昼過ぎ、大学の廊下で元彼に会った。あんな激しく言い合って別れたのに、すれ違って軽い会話が発生するくらいにはお互いの気持ちが落ち着いていた。
「やあ。元気?」
相手の顔色を窺うように私は話しかける。もう二人の恋心はすっかり冷めていたけど、他人だった頃まで戻らなかったのは唯一の救いと言えるだろう。彼は表情を変えずに反応を寄越した。
「ああ、千春か。どうした」
「次の授業まで時間空いてて。暇なの」
「潰す相手いないのか?」
「みんな勉強かバイト。つれなくてさ」
「まあ、時期が時期だからな。お前もそろそろ準備しないとヤバいぞ」
就活の話題になるのを避けるように私は口を噤んだ。みんな切羽詰まった顔で同じ話ばかりをする。大事なこととは分かっているけど、正直もう追われることにうんざりしていたし、少しくらい休息が欲しかった。短い会話で二人は散り散りになる。あの時みたいに遊びの約束を交わすこともない。それは私たちが恋人同士でなくなったのが理由じゃなく、彼が大人で私が子供なだけ。その距離が少しずつ大きくなるのを止める術もない。去りゆく背中を目で追うのをやめ、ため息を吐いた。
結局予定の空いている友達を捕まえられず、何を思ってか近くのデパートのフードコートに立ち寄った。がら空きで席は選びたい放題。二人掛けのテーブル席の片方に腰かけて一息ついた。見渡すと他のお客さんは数えられる程度。高校生くらいの学生カップルが楽しそうに流行りの話題をしている。私もあの頃はそうだったなと思い返す。いつか降る雨のことを気にも止めない。目を背けてきたものが卒業を前に一斉に追いたててくるんだ。
「いつまでそんな考えでいるんだ」
「そんなんじゃ社会に出られないぞ」
みんなしてそんな言葉ばかりを突きつけてくる。もう考えることに疲れた。無心でバーガーショップのセットを頼み、テーブルの上を賑やかにさせる。こんなもので気持ちが満たされるくらいには、私の心の中は空っぽになっていた。
ジュースを飲んでいると、この前の喧嘩のことを思い出してしまい動きを止めた。母と就活のことで言い合いになり、感情任せになって家を飛び出したこと。今だけは忘れていたいのに、頭からその場面が消えていかない。もどかしい気持ちを紛らわそうと、ストローを噛んでいる。
「引っ越し引っ越しってやめてよ。何か邪魔者扱いされてるみたい」
最近の母は帰るといつも新居の話をしてくる。いくつか見ていた会社の内で最も待遇の良い場所があって、ちょうど採用されるチャンスが高いのだという。しかしそれは今住む町から遥か遠い場所にあり、葛飾から毎日通うにだいぶ無理があった。正直言って、私にはこの町での慣れた暮らしから離れたくなかったし、お金の問題なら居候の分を給料から払うつもりでいた。それを前々から話していたはずだ。なのにどうして。
「時期が時期だから。ちゃんと仕事に就けるまでは真面目にやらないと」
母も周りと同じような小言を言う。私はもう限界だった。
「分かってんだよそんなこと」
「どうしたのよ」
「引っ越し引っ越しって、そんなに出て行って欲しいの」
家族にこんな風に声を上げたのはいつぶりだろうか。私が怒る姿を目の当たりにして目を丸くしている。弟たちとだって喧嘩したのはかれこれ数年前だ。
私だって一度や二度言われたくらいなら我慢する。それくらいは大人のつもりだ。それが何だ。一体いつまで言い続けるつもりなんだ。帰ってから次の朝まで、食事や風呂上がりのちょっとした時間ですらしつこく言ってくる。
「なに、私ここに居ちゃ駄目なの?」
「違う。千春にとって一番良い選択肢が――――」
「私の一番はここなの。ここが駄目でもこの町に居たい。ずっとここで生まれ育ってきたんだもん。これ以上何か捨ててまで新しいものは欲しくない」
「また会いに戻ればいいじゃない。二度と会えない距離じゃない」
「違う。違うよ。そういうこと言ってるんじゃない」
もう家族の一員として愛されてない、そんなことを言われてるような気分だった。いつも一方的に進路の話を押し掛けてきて、私の言い分はちっとも聞く耳を持ってくれない。母の言ってることだって全く理解できない訳じゃない。でもそんな風に言われ続けると嫌気が差してくるのも当然じゃないか。
あれから相当な言い合いに発展してしまい、我慢の限界が来て家を飛び出した。その日の夜だった。行く宛もなく歩くのに疲れ、名取ちゃん家の居酒屋に顔を出したのは。何気なく楽しい会話が出来たら良いと思っていたのだが....数多の酔いどれを相手にしてきた彼女にとって、私の作り笑顔を見抜くのは朝飯前だったようだ。仕方なく事情を話す。彼女は寂しげな表情をその可愛らしい顔に浮かべた。
「そっか」
彼女はそう短く返した。
「止めてくれないの?」
すっかり暗くなった店の空気が気になり、少し冗談交じりのような言い方で彼女に問いかけてみる。
「千春さんは残りたいんでしょ?」
「...うん。だね」
「だったらそうすればいいじゃない。自分の人生は自分のものだよ」
するとそう言って優しい笑顔を見せるので、辛くて声が出なくなった。涙を飲み込むようにぐっと酒を流し込むと、泣きはらしたかのように目の周りが熱くなった。ああ、もう明るい顔も作れない。後で目一杯タバコを吸おう。
それから店を出るまで沢山の愚痴や泣き言を聞いてもらった。弟と同じクラスの子に何話してんだろって気にもなったけど、彼女は嫌そうな顔一つせずに聞いてくれた。
そのあと私は街灯の薄明かりに照らされた道を、名取ちゃんから貰った言葉を思い出しながら帰った。
「きっとうまくいくよ」 「また進展聞かせて」「踏ん張りどころだよ」
思い出してほんのりと微睡みに浸る。ストローを咥えると、ジュースがもう無くなっていることに気づいた。せっかく微笑みかけた目が一転してジト目に変わる。なんか最近小っちゃい不幸に目がいってばかりなんだよね。ほんと、ついてないな。
「なにやってんの」
ふと声をかけられて目を丸くする。そこにはフードコートの低い塀に肘をつく弟の姿があった。
「え、ああエイ」
制服姿なのは学校帰りなのか。しかし、友達も連れずに何やってるんだろう。弟はテーブルの向こう側の席に腰かける。
「最近ずっと元気ないじゃん。なんかあったの」
着席早々、テンプレートみたいなモテ台詞で異様にイラッとくる。本人は無意識なんだろうけど、こちとら恋の傷心がまだ癒えとらんのじゃ。
「ほっとけ。ちょっと気分が優れないの」
「あそ」
「一応聞くけど、名取ちゃんにもそういう話しかけ方してんじゃないだろうな」
「へ?なにが?」
「そういう優しさに漬け込むようなさ」
「人聞き悪いぞお前」
「女たらし...」
「何がだよ」
一呼吸分の沈黙が二人を包み、一旦冷静になる。考えれば会って早々ケンカ腰で返すのも変に思えてきた。反省の意味も込めて紙の容器を横に向ける。
「ポテト食べる?」
「お、ラッキー」
「ちょっとシナってるけど」
「何やねん」
少し残念がる弟に笑いを溢す。それからはどうでもいい話を長々と交わしてた気がする。外が暗くなり、二人の姉弟が家路につくまでの間ずっと。こんな日常でさえもうすぐ失われてしまうことを思うと胸が切なくなる。私はずっとこれで良いのにな。何でもないような日々が変わらず目の前に広がっていて、惜しむことなくいつまでも続いてくれれば他に何もいらないのに。神様、私の今いる環境はそこまで贅沢なものなのでしょうか。幸せと気づいてる人間から奪う理由って一体何なのでしょうか。
つづく。
明けましておめでとうございます。
新年早々、投稿が3週間遅れてしまいました。遅めのお詫びとともに、新年のご挨拶を申し上げます。
今年も何卒宜しくお願い致します。




