ふかみの井戸水
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
みんなは足湯に浸かったことはあるかな?
冬場の寒いときなど、ゆっくりお風呂に浸かりたいとは誰もが思うだろう。
しかし、短い間とはいえ服を脱いで裸になると、感じる温度の変化から身体に思わぬ負担がかかるケースもあるらしい。その危険を減らしつつ、身体を暖める方法のひとつとして、足湯が選択肢のひとつに挙がるようだね。
――ん? じゃあ冷えた水を使う、足水の方はどうかって?
うん、足水を行う話はしばしば聞くね。
天然水を使い、足を冷やすこともまた、涼みを感じるうえで有効な手段なのだとか。
だが、先生の田舎だと足水を行うことは、すすめられたものではない。それだけでなく、水遊びに関してもさほどいい顔はされないんだ。場所が海より川だったりすると、なお悪い。
こいつには、昔から伝わる話が関係しているようなんだ。脱線ついでに聞いてみないかい?
先生たちの地元に伝え残る神隠しは、陸よりも水の中で起こることが多い。
泳ぎの達者なはずの子が、ふと水へ潜ったきり浮かんでこなくなり、底ざらいをする勢いで川を探しても姿が見つからなかった。
下流にまで範囲を伸ばしても、どこかの岩などに引っかかっているでもなく。人々はカッパによる仕業だとウワサしていたようだ。
はじめは子供ばかりの被害だったのだが、じょじょに大人たちの間でも話が広がってね。しかももっぱら川で話を聞くものだから、川釣りに出る人の数はめっきり減ってしまったという。
もちろん、海などで事故に遭う可能性はゼロではない。しかし身近に感じられる危うさだけに、みな必要以上に距離を取ろうと警戒を厳にしていた。
対岸の火事より隣のボヤ、とでも表した方がいいかな。ややもすると間合いを詰めてしまいがちなものには特に、見るな触るな近づくな、と来るものだよ。
しかし川遊びを禁じられ、海に行くのも遠い。それでもどうにか水の冷たさを感じたい。
そのようなとき、件の足水が流行り始めたのさ。
夏の盛りなどは、水が冷たければ冷たいほどいい。
これまで泳いできた川たちもなかなかのものだったが、好きこのんで足を運ぼうとする者はほとんどいない。
そうなると、みなが利用している井戸の水におはちが回ってくることになった。
物を冷やすことにもたびたび使われる地下の水。足を冷やすにも十分なシロモノだ。いくつか使う井戸のうち、特に「ふかみの井戸」と呼ばれる井戸底の水は、格別の冷たさを持っていたという。
中にすいかや酒の入ったとっくりなどを漬けて、冷やすことにも使われ、いざひとくち飲んでみれば、たちまち頭が痛くなるほど。氷をじかにしゃぶっても、ここまでになることはそうそうなかったらしいのさ。
これがほてった足によく効いた。ひとりにつき、たらいひとつ分。たっぷりよそった、ふかみの水に足を着けると、身体の芯まで涼んでくる。
縁側に腰かけて、足水を味わう夏の夕暮れ時は、老若男女を問わない楽しみでもあったとか。
そこに不穏の影が差したのが、とある姉弟の件があったからだ。
その日の昼過ぎ。かの姉弟は足水のための水を汲もうと、ふかみの井戸へ向かった。
深さゆえに、取り付けられる桶の縄は長い。日ごろ、使う人が増えたためなのか、その日は桶を水面まで下ろしきるのに、だいぶ時間がかかったそうだ。
水音を聞き、その後に確かな水の重みを感じて、引き上げにかかる姉弟。長く伸びた縄のせいもあるのか、今日はまた格段に重い。いつもはひとりで引き上げられるのが、ふたりがかりでないと、おぼつかないほどだった。
どうにか、たらいへ注ぐことができた二人は、それらを家へ持ち帰って縁側へ。履物を脱いで、さっそく両足を水の中へ突っ込んだ。
つい、目を閉じてぶるぶると身体を震わせてしまう。土踏まずからつむじの端まで、瞬く間に駆けあがる冷えに、自然とまなこの奥から涙があふれてきた。
身体を冷やすのがひと段落すると、たいていこの姉弟はたらいの水を、足で掛け合って遊ぶ。なかば川遊びが禁じられているものだから、こうでもしないとなかなか水遊びの機会がなかった。
ところが、いつものように弟が隣に座る姉めがけ、足だけで水を蹴り上げたところ、反撃がこない。もう一度、ばしゃりと大きく水しぶきを立てるも同じ。
見ると、そこには姉の姿がなかった。ほんの少し前、一緒に空を見ていたのは確かだというのに。
彼女のたらいの水は、不自然に揺れている。
いまは水面が波打つほどの風はなく、今しがたまで、力をくわえていた誰かの存在をにおわせていた。そう、本来はここにいるべきだろう姉の存在を。
――どこに行ったのだろう?
水に浸かった足なら、どこへ向かおうとも足跡を残さずにはいられない。それがまったく見当たらず、弟がいよいよ怪しくたらいをのぞいていると。
ぐんと、身体が強く引っ張られた。横ではない、縦にだ。
浸かっているたらいの水。そこより、自らの足が吸い込まれるように落ち込んでいく。
たらいの深さは一尺(約30センチ)もない。たとえ、なみなみと水をたたえても、すねのあたりまでを湿らせるのがせいぜいのはず。
それがいま、自分の身体は太ももまで沈み、なお止まらない。たらいは壊れず、水もあふれていない。ましてやたらいの底が抜けて、地面に穴があいているわけでもない。
なのに、落下が止まらない。
とっさに、弟はぱっと前へ飛んだ。
縁側より遠く、庭の土へ飛びついて四つん這いになるかのような姿勢だが、落下する感覚は消えた。
じゃぶんと立った、大きな水音に振り返る。
たらいは転げ、水はあふれて、盛大に庭の土を濡らしていた。たらいを拾い上げても、やはり底は抜けていない。水も濡らすままに土を黒く染めるだけ。
そして、姉の使っていたたらいの水は揺れもおさまり、ただ板に囲まれたままじっとしていたのだとか。
親が帰ってきてから村人総出で捜索が行われるも、姉の手掛かりはさっぱり見当たらないままだった。
状況からして、ふかみの水に関係があると思われ、いまだカッパの被害を信じる人々は、ふかみの井戸を封じんとする動きも見せた。
水の出を失いたくなく、反対する村人たちとも話し合い、足水に使うことのみは禁じられることになったらしい。
姉のことは神隠しにあったと思い、ふた月もするころにはそれぞれの心に踏ん切りがつこうとしていた。
その矢先、姉はまさかの帰還を果たした。遠方に住むという、猟師の男を伴ってだ。
再会を喜びながらも、姉の命を助けたという猟師は、なんとも面妖な事態に出くわしたという。
彼の住み家の近くは、特に高い山々が並び、一年中雪が溶けずに残ることもしばしばなのだという。
わけあって、その残雪部分に足を踏み入れていた猟師だが、ふと視界の端にちらついたものがある。
身体の震えるほどの低温。近くに木々の姿なし。
にもかかわらず、自分の頭よりずっと高い位置にあるそれを、はじめは鳥かと思い、見上げたのだそうだ。
中空には、二つの足が浮かんでいた。
足の裏から足首のあたりまでが、きちんと並んで動かない。猟師は何度か見やり、目をこするもそれらは消えずに、とどまり続けていた。
あやかしの仕業かと思い、早めに去ろうと踵を返しかけるや、その見えている両足がだしぬけに大きくなったんだ。
足首を越えて、すね、太もも、腰……。
次々と、落ちるような勢いであらわになっていく身体は、やがて一人の少女の姿となった。
頭まで見えるや、真っ逆さまに落ちる少女を、間一髪で猟師は受け止める。意識ははっきりしていたが錯乱した状態にあった彼女をどうにかなだめ、そのきっかいな体験を聞いたのがふた月前のこと。
それからもろもろの用事を片付け、ようやく旅立つめどがつき、野を越え山越え、ここまで連れてきたと話したのだそうな。