終幕 罪と罰
【前回のあらすじ】
正体を暴かれるも、胡椒の魔女ニグラムの弱点を見抜き、封殺することに成功したユージニアこと擬蘇術死。
しかし戻ってきた《貪食》のコーシャにはまるで歯が立たず、自身が村人に〝擬態〟させていた死体人形たちを村ごと喰らい尽くされる。
そして、偽の兄・エミールの肉体が、野党になって帰ってきた想い人・ベレムのものであったことを看破され、矛盾した人形劇の孕む欺瞞をも暴き立てられるユージニア。
奥の手も覆され、意気消沈する彼女を、あらゆるものを貪るコーシャの〝髪〟が容赦なく飲み込む――
(字数:9,151)
☆ イラスト提供はちゃ畜様(2020.11.21/ちゃ畜 on Titter:@700074FI72VBcF9)
話し声が聞こえる。
いつものように、窓のすぐ下だ。
たまにこうして揺り椅子の上でまどろんでいると、外で話している人の声が聞こえる。特に月の明るい夜は、空気が冴えているせいか、歩く足音まで聞き取れることもある。今日はそういう日だった。
眠気でぼんやりとしていたが、先に扉を閉める音を聞いた気もする。ので、おそらく義父を訪ねてきた二人組が連れ立って帰るところなのだろう。足音は二つある。ふらついているのか、少し乱れてもいた。わりあい遅くまでお酒を振る舞われていたらしい。もとい、酒好きの義父がまたしつこく引き留めていたのだろう。
話し声の様子からして、二人ともあまり機嫌がよさそうではなかった。義父の酒に付き合うときは皆辟易する。だが、それにしては口数が少なく、声もやけに小さかった。いささか様子が奇妙に思えた。義父の悪口を聞きたいわけではなかったが、なんとなく口ぶりが気になって耳をそばだててみる。
「やっぱり薄気味悪いな」
一人がそう言った。あれはいつも豆を持ってきてくれる男性だろう。「だなぁ」と相づちを打ったもう一人は、炭焼きの老爺だ。
「まるで歳を重ねてるようには見えねえのがなあ。あんなんで、本当にもらい手が決まるのやら」
「いやな、とっつぁん、嫁ぎ先なんざ心配してる場合かよ。ありゃあ、村長の隠し子だって話も、今さらだが怪しいもんだぜ。死んだ奥さんにはまるで似てねえし、村のどの女ともそうだろ?」
「んじゃあ、魔女か何かだってのかい? あの子が今さら」
「そりゃあ、今さらも今さらだから俺も思わねえし、あのベレムがどっかから連れてきたって噂してるやつもいるしよ。ただの拾い児だったかもしれねえが、けど、薄気味悪いよなあ」
ああ、私のことを話しているんだ……。
自分がどんなに間抜けだったとしても、それがわからないことであるはずがなかった。ずっと以前から自覚していたことでもある。私が能天気な楽天家だったときだけ、このようなことを案じたりしないのだろう。
私と彼ら人間たちはそもそもが違っている。同じ流れの中を生きてはいないから、手を繋ぎ合えばいつかは破綻してしまう。
いつかはいつかだ。と思ってもいたが、必ず来るともわかっていたし、覚悟もしていた。そして、そろそろだとも気づいていた。
潮時なのだ。潮時が近づいている。
ここにい続ければ、もう一度会えるような気がしていた。ここにいて待っていれば、いつか帰ってきてくれるんじゃないかと、半ば信じるようにして願っていた。
ここが私のいる場所である限り、祈り続けていてよいのだと。
きっと間に合わないだろうと、わかってもいながら。
だから頭のいいことをいえば、すでにいなくなっておくべきだったのかもしれない。この場所を捨てる。あの人を捨てる。どちらも結局、私が持ち続けるには重すぎるものだ。本当は、あの夜が明けたときに、私も夢から覚めるべきだった。
なのに、まだぐずぐずとまどろんでいる。今このときも、あの夜も、同じように窓辺に腰をおろして、ぼんやりと月を見ていた。戸を開けて閉める音に少しだけ目を開けて、足音に耳を澄ましていた。あのときは確か、近づいてくる足音を聞いたのだ。階段が一段一段小さな軋みをあげて、そのたびにまぶたが重くなっていった。意識を失う前に耳元で聞いたのは、あの懐かしい声。
ジニー。起きて、ジニー。
「行こう、ジニー。馬車を見つけた」
頬に触れる手を感じて、今一度目を開く。
朝焼けがまぶしい。夜気の余韻が肌寒くて、あたたかい彼の手に両の手ですがってしまう。頬を擦りつけると、土のにおいがする。彼のもう一つの手が額をなでた。
「ジニー、汗をかいてる。うなされていたよ。昨日ずいぶん歩かせてしまったから、疲れてしまったんだね」
「怖い夢を見たの」
太い指に涙を拭われながら、私は言いしれぬ安堵と共に息を吐いた。
「あなたが一人で行ってしまう夢。私はいつまでもあの村で待ち続けて、いつしか正体を怪しまれるようになっても、諦め切れずに待ち続けるの。最後は覚えていない。何度も同じ夢をくり返していたような気もする……」
「ジニー、夢は夢だ」
彼が耳元でささやいてくれる。心優しい少年のような、出会ったころと変わらない、おだやかで透明な声で。
「どんなに本物を擬えられていても、それが本当になることはないよ。まやかしと同じだ。大丈夫。きみはここにいる。ぼくと一緒に村の外にいる。ほら、しっかりと手を握って。掴んで。立てるかい? 少しだけ歩こう。馬車に乗るんだ。二人一緒に」
彼に手を引かれて歩き出す。
不思議と体が軽い。このまま飛んでいってしまいそうだ。
困ったことには、辺りに高い木が見当たらない。
ただ広い平原にいた。
低木の陰に荷馬車が停まっている。
黄色い太陽が小高い丘を照らしていた。
あの若草の丘の向こうへ行きたい。
きっと彼となら行けるだろう。
彼方まで行きたい。
二人離れることなく。
もはやそれはきっと叶うことだろう。
月は隠れ、夜は明けたのだから。
湿り気を帯びた岩肌は冬の氷より時に冷たいからか、頬にあたる木漏れ日が無性にあたたかく感じられた。清流を舐めるそよ風の余波が殊更に心地いい。鳴いているのは、翠鳥か。懐かしい泥と苔の香りを吸い込んで、ユージニアは眠りから覚めた。
彼女はどこか、小さな渓谷にいるようだった。ごつごつとした白い岩の合間から、可愛らしい飛沫と水音があがっている。森の奥の水場だ。さえずる鳥の声にも、木々の並びや岩の形にも覚えがあった。かつて住まいにしていた岩屋からほど近い場所にいると気づくと同時に、今しがたまで眠りこけていたことを自覚した。流れのそばに腰をおろし、冷たい岩に背を預けて。
(夢……か)
最初に去来した感覚は、嘲笑だった。らしくない夢を見て、いい気になっていた、自分に対する軽蔑の念だ。思い起こす限り、腹を抱えて笑い転げてもいいほど滑稽な夢だった。が、むなしくなったので考えるのからやめた。実のところ、鮮明に思い出せる部分が少なかったからでもある。
次に、驚いた。何に驚いたのかすかさず自分でもわからなかったし、不可思議さの方が気にかかったせいで、どんな顔をしてよいやらわからなかった。四肢があるのをまず目で確かめて、それから適当に利き手をかざしてみる。日差しがあたたかい。吹き通る風が涼しい。手を握ると、五指それぞれに力の入る感覚がわかった。拳の内側で爪が手のひらに食い込んでいく。
「生きている……だと?」
ユージニアは手のひらを何度も見返して戸惑った。もしやこれもまた夢なのではないかと、次第に根拠のない疑いに取りつかれ始める。しかし夢でないのだとしたら、自分はここへどうやって辿り着いたというのだろう。あの恐ろしい出来事から、どのようにして逃げ出してきたというのか。
恐ろしい出来事――ユージニアはそれこそが真実であることに思い至った。あの結末から逃れられたはずがない。つまり、今はやはり夢を見ているのだ、と結論づけようとした。しかし、その出来事の方を克明に思い出そうとすると、どうも頭の中に靄がかかったようになってうまくいかない。そんなはずはない、逆にあの恐ろしい出来事の方が夢だったとでもいうのか、と自問するが、答えは曖昧なままでユージニアを酷く懊悩させる。
そこへ赤い羽虫が飛んできた。赤い羽虫が飛んできて、ユージニアのかざした手にとまった。
その羽虫を目で追い、指先を這うこそばゆさをユージニアは確かに感じ取る。この感触もはたして錯覚だろうかと自問しかけはしたものの、そのときばかりはなぜか疑わしい気持ちを抱けなかった。
驚いた鳥たちが盛んに羽音を立てる。指先の羽虫も飛び立っていった。その大声を聞いて、ユージニアも我に返った。
「本当に連れていくおつもりですの!?」
沢の方から話し声がする。何か言い合いをしているようだった。一人が語気を荒げているので、水流の音にかき消されずユージニアの耳にもよく届く。その噎せ返った後のようなだみ声には、聞き覚えがあった。
ひとまず起きあがろうとして、ユージニアは自身の右足と左手が動かないことに初めて気がついた。見れば、どちらも細い薪を当てた上から色褪せた布がやたら厳重に巻かれている。布の中身がどうなっているのかを思い出すのに、さして時間はかからなかった。しかしなぜか痛みを感じない。それ以前に、左手の先などが何かに触れている感覚もなくなっていたのだが。
けだるい痺れのような感覚は全身にもあった。眠りの余韻に似ていたがどうやら違うようだ。幸いか、体が動かないわけではなかったので、右手と左足だけで苔のない岩を選んでつかまり立ちをし、その岩から身を乗り出すようにして、沢の方を覗き込んだ。
「ご立腹だなぁー」
どこかわざとらしい呆れ顔をした少女が、小川の中程に立って腰に手を当てていた。濡れた白髪を裸身に張りつけ、膝まで流れの中につかっている。ぼろ切れ同然だった衣服を捨て去ったその姿には、もはや神聖さ以外の何も残ってはおらず、水辺の翡翠石に宿る精霊と見紛うようだ。
片や、水際に突き出した岩の上へしがみつくようにしながら、黒衣の少女がしきりに喚き散らしていた。「いいからっ、ちゃんと説明してくださいまし!」しわがれた怒声は果敢に清流を波立たせんとしていたが、当の声の主は流れを見渡して絶えず子犬のように震えていた。
「ににに、ニグラムよりかわいらしいからなんて理由でしたら、お聞きしませんわよ!」
「え? それは大いにあるよ」
「なあああ!?」
むしろ問われたことが意外ですらあるというように返されて、黒衣の少女が絶叫する。ユージニアは紅榴石のはまったあの眼帯の下に眼球があるのかどうか知らなかったが、もしあるとすれば今どれだけ涙を溜めていることだろうかと想像した。今の光景にすらすでに小気味のよさを覚えていたので、その想像の半分はユージニアの願望でもある。
「まっ、真面目に答えてくださいませ!」
「真面目ねー」
コーシャの表情は困っているというより不満げだった。自分は至極真面目なつもりなのに、と顔に字で書いてあるかのようだ。しかし引きさがらない従者に懇願され続けると、呑気に水浴びを続行したい気持ちも多少は薄れるらしい。
「まー、ニグラムちゃんが納得しそうな《真面目》で言えば、やっぱユズにゃんがスゴイからかなー。だって屍肉なのに、生きてるのとほとんどおんなじ味がするんだよぉ? ケモノ肉や粘土で補修してるのもほとんど区別つかなかったしー。まー、土ばっかりだとさすがに落ちるんだけどー」
「……つ、つまり、何ですの? 屍肉を再生させて、食料を確保しようという魂胆ですの?」
「うーん、あと貯蔵係もかなぁ。ウン十年物とかもあったはずなのに、味落ち全然してないみたいだったしー。あっ、それからそれから、ケモノ肉をヒトっぽくできるってのは強みだよねっ」
「待ってくださいですの! 貯蔵と加工ならニグラムめにも充分できますのよ!?」
「おお! じゃあ、もう《ニグラムいらず》だね!」
「は? え、えぇええ!?」
手を打ってにこにこと微笑む主人と、がくっと顎を落として凍りつく従者。半分はユージニアにとっても溜飲のさがるやり取りだったが、もう半分についてはまったく安穏としていられるものではなかった。
なにしろ間違いなく自分の話をしているのだ。あの貪食の姫宮というやつは、調理師か何かとしてユージニアを連れていくとのたまっている。人の箱庭を完膚なきまでに叩きつぶしておきながら、その主を従者として軽々しく召し抱えてやろうというのだ。どういう神経をしていればそのように手前勝手な発想に至れるというのか。ユージニアには理解が及ばなかったが、しかし、自分がそれについて焦り散らすほど感情的になれずにいることにも、遅まきながら気がついていた。
「えーえー、ではでは、本日をもちましてぇ、ニグラムちゃん、従者解任とさせていただきまーす」
「ちょぉぉっ、お待ちに! いきなりですの!? い、いけませんのっ、ニグラムを捨てるなどそんな!」
「タッシャでね、ニグラムちゃん、お魚さんたちと元気にやるんだよ?」
「どぉっ、どどどどういう意味ですのぉぉぉ!?」
涙を拭うふりをしながらコーシャは髪を伸ばすと、素早くニグラムの腰に巻きつけてひょいと彼女を持ちあげ、有無を言わせぬうちに水の中へ叩き込んだ。小柄なニグラムでも半分しかつからないような浅瀬だ。だが流れは早く、水を吸って固まる胡椒の肌を容赦なく削り取っていくには充分だった。
「ばじぃぃぃる!! 溶ける! コーシャ様っ、溶けてますの!? お助けを! 後生ですからっ、後生べあぶぶぼぶぼ」
「はいはい、お顔までつかりましょうねー」
「ごべ、っ、ぼぼぶ、ぶっ、ぶぶぶぶぶぶぶぶッッ」
ニグラムは息ができなくとも死なないのだろう。首に巻きついたコーシャの髪に引かれ、頭を沈められても首から下はばしゃばしゃと延々暴れ続けていた。とはいえ逃れようはないし、頑丈であるだけになかなか逃してももらえない。
ああいう扱いは嫌だな、と真剣に考え込んでいた自分に気がついて、ユージニアは苦笑した。
貪食の姫は人の箱庭を完膚なきまでに葬った。完膚なきまでに――そうだ。それほどにだ。もはやあの場所には何も残っていない。あの場所は残されていない。行くところも、帰る場所も自分にはもうなくなった。貪食の従者となって、姫宮の夢見る牧場の支配人となるほかに、道があるだろうか。
牧場を管理し、家畜を肥え太らせ、殖やし、姫宮に納め続ける。貪食の大罪に沿うように。
……貪食?
そのときユージニアの中で引っかかるものがあった。あるいは、投げやりで怠惰な思考が焦点から逃げるように目を逸らそうとしたのかもしれない。
《貪食》と《管理》という言葉が頭に残る。
それをよく吟味もしてみないうちに、違う、という言葉がいつのまにか舌の上に乗っていて、ほんの少し唇に隙間を開いただけでするりと漏れ出た。
「違う……?」
「何が違うの?」
再び沢を見おろす。頭から白髪をさげた裸の少女が、ユージニアを見あげていた。蓮紫色の瞳に、擬蘇の名を冠する小さな魔女の顔が映り込んでいる。まるで真夏に雪でも見たかのような顔だった。
ニグラムはいまだに溺れている。
ユージニアは問い返した。促されるまま。不思議と怯えやためらいはなかった。
「お前は、貪食か?」
コーシャは曖昧に首を傾げる。答えない。やにわに愛想よく微笑んでみせただけ。代わりにユージニア自身が、「いや、違う」と、おもむろに否定してみせた。
「貪食とは、無下に喰らうことの罪だ。食欲が起源ではあるが、その欲に逆らわず放埓になすこと、それがゆえの罪だ。その罪そのものであるお前自身が、悪食を拒み、産めよ殖えよと指揮するのは矛盾に満ちている」
「食べるものがなくなっちゃったら、元も子もないんじゃない?」
「それだ。その理性だ。放埓の罪が、なぜ理性を持つ?」
今このとき恐怖を感じていない理由をユージニアはようやく知った。この問いに意味はない。ユージニアには関係がないことだ。だがその答えは、あえて隠されている何かなのだ。貪食の姫が隠しているのか、胡椒の魔女か、あるいは両方か。いずれにせよ、ユージニアが代弁しているのは、本来コーシャらが自問すべき胡乱であった。
その胡乱がユージニアによって、ユージニアの口から、くっきりとかたちをなすように紡がれていた。
「貴様は……何だ?」
微笑するコーシャの眼差しが、不意に足元で水音を立て続ける従者に注がれる。おもむろに片足をあげた彼女は、その丸い踵で従者の頭に乗せて、強く水底へ押しつけた。
髪を使わず、自分の足で。
その唐突で嗜虐的な奇行はユージニアをいささかたじろがせたが、同時に悟らせもした。
「もしや……《貪食》はそちらか?」
「わりとわかるよねぇー」
どこか自嘲するようにコーシャが相づちを打った。流れの向こう岸で、鶲か何かがしきりにさえずっている。コーシャにつられ、ユージニアもそちらを見ると、濡れた岩の上で瑠璃色の鳥が羽虫をくわえていた。
「〝餓死者の血を受けた杯とパン、三百対。三日のうちにこれを呑み干すことができれば、汝の魂は貪食の罪の顕れとなるだろう〟――この子がわたしに捧げた黒魔術は、だいたいそんな感じだったかなー」
「お前、元は人間か?」
コーシャはまたも口を閉ざす。何気ないかのように軽く息をついただけ。だがユージニアは、それを肯定のしるしと見なして、「しかし」と続けた。
「大罪の器となったのならば、やはり貴様が貪食の権化でなくてはならんではないか。その魔女はずっと従者と……」
「裁かれない罪なんてある?」
罪業が振り返り、ユージニアを見あげていた。毅然としたかんばせは狩人の守護女神を彷彿とさせるのに、死者を慰める祈り子のような目をしているのを見て、ユージニアは息を呑んだ。その瞬間、姫宮の言葉尻を理解した。
「……お前は、断罪なのか」
コーシャが微笑む。肯定が答えだとすればそれで充分であった。
「なぜ終わらせない?」
ユージニアは眉をひそめる。思わず岩の向こうまで身を乗り出しかけた。
「お前が終わらせなければ、その魔女は不死のままだぞ! その罪と罰をも叡智と思い込み、自らの理想郷を求め続ける。よもやここまで堕ちた心を救おうなどと浅はかに望んでいるのではあるまいな? そんなことのためにッ……!」
そんなことのために、私から村を奪ったのか――
ああ、なんだ。私め、ちゃんと怒れるじゃあないか。
天秤にかければ理不尽であると気づいたからか、人の人らしい迷いが気にくわなかったからなのかはわかない。たとえ同種の者に対する、鏡に吼えるような忌避だとしても、少なくとも今昂揚できていることが、少なからず嬉しかった。
だが、この苛立ちはやがてしぼむ。
ついに動かなくなったニグラムを、コーシャの髪が流れから引きあげた。体の部分が流れ落ちて、ほとんど背中側の服だけになってしまっている。服自体も胡椒でできているはずだが、この状態で耳が聞こえたりはするのだろうか。
「不死は生け贄たちの怨念が呪いになっただけ、つまりおまけだからねー。わたしからもたらされんるなら何でも、死でも地獄でもこの子は喜んで受け取っちゃうよ。バッチコーイだよ」
服だけになった従者を川辺に横たえながら、彼女はこともなげに、おどけたように言った。「わたしが消えちゃうしかないのでぇーす。ね?」
「断罪を解く気か?」
ユージニアは目を瞠る。
「ありえない……できるはずがないっ! 赦されるということだぞ? 大罪がだぞ? 悪徳に酔って盗みを犯す、手癖の悪い子供を戒めるのとはわけが違う。ましてお前自身がっ……」
声を荒げるユージニアの目の前を、突然小さな影が遮った。鋭く鳴き散らす声と共に瑠璃色の羽ばたきが頬を叩く。
ユージニアは慌てて頭をさげて手で顔をかばったが、縄張りを守ろうとする翠鳥の威嚇は執拗に続いた。たまらず叩き落とそうと腕を振るが、その手はあえなく空を切った。
にもかかわらず、それ以上固いくちばしが彼女を襲ってくることはなかった。
追い払えたのだろうか、とユージニアがおそるおそる目を開けると、小鳥はきょとんとした顔をして目と鼻の先に大人しく浮かんでいた。羽ばたくこともせず、独活の実のような黒い目でじっとこちらを見続けている。その首から下を、蜘蛛の糸のような白い髪の毛が包み込んでいた。ユージニアが呆気に取られていると、小鳥を縛っていた白い毛がひとりでにほどけ、自由になった小鳥は颯爽とどこかへ飛び立っていく。
そしてユージニアは、派手な水音を聞いた。
再び沢を見おろす。と、川面にあの白い髪の毛が広がるようにして漂い流れていた。浅い流れへ仰向けに背中を晒し、少女は陽光を裸身にまとっている。目を閉じたその様子はまるで眠っているかのようにおだやかで、巡礼を終えた聖女がきっとこのような顔をするのだろう。現世に残した肉の殻を、聖遺物として禊いでいるところとよく似ていた。
「……私の関わるところではない、か」
溜め息まじりに一人ごちて、ユージニアは沢に背を向けた。すがっていた白岩に体をもたせながら、小石の原にゆっくりと腰をおろす。そこでふと思い至ることがあって、苦笑が漏れた。
「しかし貴様、私が擬蘇術師と知って、不死についても知識があるのではないかと踏んだのではないか? あわよくば、終わらせてもらおうなどと」
答えはない。そもそも聞こえるように問うたつもりはなかったし、しいて聞かせるつもりもなかった。どうでもよいことだ。
「まあ、構わんさ。あるいは、本当に私の求道がお前の役に立つときが来るやもしれん。どのみち私に選択権はないのだろう? 拒むのも飽きた。動機としては、復讐というのも存外悪いものではないのやもしれんしな……」
ユージニアは少しだけ振り返ってみた。視界は岩に阻まれて、主人とその従者の姿を見ることはできない。その大きな白岩は、あの日少年がその上に腰かけていた岩によく似ていた。頼りなさそうな顔をしているくせに、言葉はどこか常に自信に満ちていて、あつかましく取り入ってきたあの少年。事実、動きは活き活きとして、肝が据わっていて、それでいて心優しく、手にぬくもりがあった。あの日自分を連れ出してくれたあの彼が、いつかもあの岩の上にいなかったろうか。
「ぶほゥ! 死ぬっ! なくなるぅ!」
岩陰の向こうがまた騒がしくなる。あの噎せ声め。もう復活したのか。追憶を偲ぶ間も与えてもらえない。これからあの気狂いと己が同僚であることを想像すると、まったくもって反吐が出そうだが、まあそれは向こうも同じことだろう。いいさ。せいぜいあいつの目の前では、食事をうまそうに取ってやることにしよう。そのうちスープか水にたっぷりの胡椒を盛ってくるだろうから、香りには重々気をつけておかなくては。
――行こう、ジニー。
声がした。声が聞こえる。ここにいるとしきりに思い出すのだ。あの日の声。いつまでも私を呼び続ける。
――ジニー、馬車が来たよ。
ああ。馬車は来たともさ。二人で乗れる馬車が何度も来た。だが、いつだって行くのはお前だけだよ、ベレム。
私はここに残していく。あなたとの思い出をここに置いて、この渓流をくだっていくとしよう。
ただ、もうしばらくだけ、この耳元でささやき続けてほしい。
木のそばの日なた、湿った岩の上で、山鳥の羽音を聞きながら。
零れる涙は、この指で払うから。
束の間の無風が訪れる。のどかな転調が始まるそのときを待ちながら、古き魔女はもう一度夢見ていた。
麝香草の香りがする。
The Princess of Glutton & a witch's “rondo”‐fin.
本作は、かつて4万字の短編としてひとまとめで投稿してあった同名作品を小間切れに再編集、再投稿したものになります。全5節。内容には手を加えていません。
・ 他サイト:青空文庫 http://slib.net/36704(こちらはひとまとめ版になります)