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序幕 蹂躙

【冒頭あらすじ】

 野盗に占領された山里。前触れなく訪れた奇妙な旅人。

 奇異な出で立ちながら、見目麗しい二人の少女。

 下卑たる野盗らは血眼で群がり……



(字数:7,969)

☆ イラスト提供はちゃ畜様(2020.11.21/ちゃ畜 on Titter:@700074FI72VBcF9)

挿絵(By みてみん)





父よ、彼方の慈しみに感謝してこの食事を頂きます。


此処に用意されたものを祝福し、私達の心と体を支える糧として下さい。


(『食前の祈り』)


 








 (なた)()ぎのメルゼスには六人の子どもがいた。男が四人、女が二人。ベレムは末の四男に当たる。


 幼い時分はさびれた村の三男坊以下の境遇として多聞に漏れず、特に実入りの知れている砥ぎ師の家に生まれては、穀潰し以外の何者ともみられなかった。その上、兄姉たちは皆気性が荒く、下品を好み、ベレムは格好の使い走りというどころか、奴隷か慰み者のように扱われた。


 この境遇にもかかわらず、ベレムは決して飼い馴らされることなく反骨豊かなままに育つ。兄たちよりも奔放に野山を駆け、姉たちよりもしたたかに村人に取り入った。極めつけは(よわい)十の折、人食いの魔女が済むと伝えられる森の奥へと迷い込み、生きて帰ってきたという噂から一躍英雄視され始める。少年から青年となりつつあった当時には、持ち前の処世の才ですでに若い衆の元締めのような地位にものぼりつめていた。粗暴な遊び人ではあったがその噂で箔もついたということか、こと女には困らず、また自らつき従う手下も大勢現れた。村八分の親兄姉をよそに、村の長を凌ぐ有力者となりつつあったベレムだが、いよいよ成人の日になって急に姿をくらませる。忽然と一人、その前夜のうちに。


 彼もまた、自らの大器を信じて勇む若者の例を逸せず、いやしい故郷を捨てて独り遠い旅に出たのだ。


 そして十数年後、ベレムは生まれ故郷に牙を剥く。


 出奔したベレムに表の世界はかみ合わず、彼はほどなく闇を目指した。先頃巷を騒がせていたとある盗賊団に入り込み、村にいたときと同様、着々とその中でのしあがっていく。団の統領は彼の犯罪の才能を見初め、やがて組織の一角を任せるに至った。ベレムはそれを名誉とし、統領に恩義あることを示すべく、自らの故郷の村を団の新たな隠れ家として献上したのである。


 ほどなくベレムの村は盗賊団の支配を受け入れ、村民はことごとく奴隷とされた。金財はまず取りあげられた上で、季節ごとの収穫を献上させられ、他に思いつくありとあらゆる奉仕を強要された。できない者は激しく虐げられた後に、家畜と同前の働きを命ぜられる。これに逆らえばもはや死するのみだった。


 ベレムは団の指揮役でありながら、献上品の督促係を買って出た。まずどこよりも出せるもののない自分の生家を家族もろとも焼き払う。そのときの業火を間近でしげしげと見つめる彼の相貌は、この役目を他の誰にも渡したくなかったのだとあけすけに物語っていた。ベレムは引き続き多くの家に乗り込み、いくつかの家を燃やすことになるが、そのたびに彼はどんな快楽からもほど高くほど遠い愉悦を、その精悍な顔いっぱいで表現した。


 ベレムがまず失ったのはその顔だ。頭部だ。


 この状況の変化に誰がついていけただろうか。ベレムの率いてきた盗賊たちはおろか、たった今彼らの恐喝に遭っていた村長の息子もその妹も、首を失くした一人の男をもの言わず眺めている。引き続いて彼の上半身まで消え失せたことは、彼らにどのような錯覚として捉えられただろうか。ベレムの腰から上にはその向こう側の景色が鮮明に広がっていた。決してそこがガラスのように透けてしまったのではなく、下半身を残してベレムが食いちぎられてしまったに過ぎないのだが、その事実より理解に苦しむ妄想など咄嗟の彼らには思いつかなかったに違いない。


 立ったままでいるベレムの下半身のかたわらに、何か重たいものがぼたり、ぼたりと落ちてきた。それを目で見て血と肉のかたまりであると平然と理解できる者もまた、この場にはいなかった。皆、今しも頭上で鳴り続ける猥雑な音に心を奪われていたためだ。水気の多い泥が泡の立つほどこね回されるのによく似た音だ。あるいは、土砂に呑まれた大樹がへし折れていくときに聞くような音だった。あるいは、果物の種子を口の中で砕くときの、耳の奥でこもるように響く音。神の庭で遊ぶ子らも、ときおりこれらの音を乱雑に混ぜ立てる。しかしこの場で音を立てているのは糞喰鬼(クプラサギヤ)のひき臼だ。ひとたび回せば厄鬼も耳をふさぐその臼が、木々の梢のそばに今、しゃくしゃくと浮かんでいる。


 姿かたちはいかにも顎門(あぎと)であった。牙はなく、舌も歯茎すらもないが、白い毛に覆われたそれは顎門以外に形容しがたく、また顎門のようにうごめいて、噛み砕くように伸び縮み、磨り潰すように蠕動し、嚥下するようにしなっていた。毛の隙間からは絶えず血が滴る。光沢のある白毛は照り返す光の加減で不思議と仄青くも仄赤くも色づいて見えたが、おとがいはしとど赤黒く汚れていた。咀嚼されているのは間違いなくベレムの上半身。ベレムの上半身だったもの。


 顎門を編む毛はひたすらに長い。束となって地上へ降りることで、その姿を蛇のようにも見せていた。いかにもベレムは大蛇によって食されたように思われる。毛むくじゃらの大蛇が突然襲い、彼を頭から呑み込み食いちぎったのだ。それが真相として明確に思えるのならば、たとえ大蛇が大蛇というにすらあり得ないほど巨大な魔物であったとしても、彼の手下たちは悲鳴をあげて逃げ出すなり、果敢にしゃなり声をあげて刀を構えるなりすることもできたかもしれない。


 しかし彼らは依然、呆然として凍りついたまま、一向に何かをする気配を見せなかった。一様でないのは頭上の顎門を見つめているか、地上に垂れた顎門の尾を見ているかの、ただ一つの違いによるものだ。


 白い顎門が一度固く閉じ、大きな塊を喉奥へ押し込むかのごとく、くぐもった音を立てて全体を波打たせた。それから鎌首をほんの少し反らせてまた顎門を開くや否や、人のおくびによく似た下品な音をかたわらの木に吐きかけた。


 その呼気に弾き出されたように、何やらくろぐろとしたかたまりが顎門の端からこぼれ落ちる。そのかたまりは盗賊たちの眼前に墜落すると、着地と同時に、至極珍妙な悲鳴をあげた。


「きゃらうぇいっ!」


 それは血と粘膜状の何かで目も当てられぬほどぐちょぐちょの有様であった。しかし、まだ生きている人間のようだった。泥にまみれた海草のように見えるのは、長い黒髪と布の多いドレスらしい。血で汚れ、毛が張りついてはいたが、突き出た腕は象牙細工のように白くなめらかな肌をわずかながら覗かせていた。


 その大きな柘榴の種の後に続いて、こまごまとしたものも顎門から吐き出されて降ってきた。陽光を受けて鈍く輝いたそれらは、カフスボタンやベルトのバックルのようだった。他にも小刀、コイン、真鍮のクルミ割り、野盗には不釣り合いな精緻な細工の嗅ぎタバコ入れなど、金属やガラスの入った道具が顎門の奥からばらばらと落ちてくる。そのうちの一つ、ゆがんた蹄鉄のお守りが、黒い髪の毛のちょうど真ん中に当たり、胸の悪くなるような音と共に「たで!?」とまた奇妙な痛苦があがった。細い腕がビンと跳ね、すぐに力を失くして地面に落ちる。かと思いきや、その手が草をつかんで震え始める。


 顎門は咀嚼できないもの、消化のできなさそうなものをすべて外に出し切ったらしい。そのあたりでようやく、最初に吐き出されてきた彼女が勢いよく立ちあがった。「カシュゥゥゥ……」と長く息を吐いたかと思えば、両の拳を力強く振りあげ、大きく胸を反らして口を開ける。


「こゥりあんだああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 咆哮は、胡椒を吸い込んで()せた後のようなだみ声だった。見かけ通り年端のいかぬ少女の高音も、かろうじて残ってはいたが。


 伸びあがった体はあくまで小さい。ロバに乗せれば駿馬を駆るように見えていかにも滑稽なことだろう。しわくしゃのドレスはレースとリボンをかき集めたミノムシのみのだ。黒ばかりで彩りがなく、豪奢ながら喪服のように辛気臭い。だが象牙よりも白い漆喰のような胸元と首筋にはよく映えていた。


 その薄い胸と細い肩とを上下させ、彼女は荒い呼吸をくり返す。千々に乱れた髪もまた一層黒く、うねる模様の刺青(タトゥー)のように、露わな肩や二の腕へ張りついている。前髪が目許を覆い、頬を這って口にもいくばくか侵入していたが、少女はそれを払う素振りも見せず、腕をあげたままひたすらに喘ぐ。


 あの〝顎門〟の中で弄ばれたのだとしたら、よほど疲弊してしまうのも無理のないこと。しかしその柔肌を舐める赤い墨汁は、ひとしずくたりとも彼女のものでなかった。皮膚にも衣服にも無残な損傷は見受けられない。骨折もないことは今彼女自身が身を呈して知らしめている。


 銅や鉛の製品同様に、顎門に吐き捨てられたことからしてすでに少女は不自然の極みであった。啜られた跡すら見受けられないとなれば激しく訝られて然る。


 しかしながら改めて狼狽を示す者はここにいない。この場はすでに不自然を重ねすぎていたから、誰もが最前までと同じく石のようである。最初の堰すらまだ誰も切れてはいないのだ。


 ややあって独り口を開いたのが、その最初の堰だ。


「おかえりなさーい、ニグラムちゃん」


 霧深い森の静謐さの中で、その声は山伏の鈴よりも玲瓏と苔むした大地に染み入った。よしやこれを聖堂にて耳にすれば、誰しも聖母の降臨を予感したことだろう。いや、どこであれそれは神託を担うに値するものとして鳴り響いたに違いない。水辺においては水霊の調べ(ウータ=ピレニ)、獄中にては守護天使(ジゥブリカ)の慰労、妊婦に寄り添う助産神(アボルテュイア)戦場(いくさば)で歌う女神(イズナス)。そして深山幽谷にあっては、導く者(イルージャ)のささめきにも等しかったはず。だが、あらゆる神話の異端めいたこの場において、この世ならざるものの(さえず)りは冥帝(ダリュシカ)のいざないの呪詛となるしかなかった。そして本来そうなるべきだった。


 黒衣の少女が背後の村長の家を振り返る。ニグラム、とは彼女の名であったろうか。鼻先まで降りた緞帳(まえがみ)を透かして、紅漆(あかぐろ)くつめたい眼差しが光る。


「逃げますよ?」

「好きにすればいいんじゃないかなー」


 だみ声の苛立たしげな挑発に、冥府の女帝(エイ=ダリュシカ)は気安いあしらいで答えた。


 二度目の悲鳴があがったのはそれからすぐだ。


 目という目が一斉にその方を向く。尾の細い別の顎門が一条、盗賊たちの一番後ろにいた男の肩から胸へ向かって喰らいついていた。男の絶叫は長くは続かず、背骨と肋骨のひしゃげる音と共に、上腕と胸の半分をそのままかじり取られて絶命する。ひとくち目を丸のみにした小顎門(こあぎと)は、獲物が地面に倒れ伏すより早くその頭部へかじりついた。


 盗賊たちが無様な置物でいられたのはそれまでだ。今や彼らの目には死の恐怖が鮮明な意義をともなって読み取れた。あまりに単純なその含意は非常に単純なシグナルとなって各々の全身を駆け巡ったに違いない。後退る者、たたらを踏む者、先に腰を抜かし下草を掴む者と動きは様々であったが、少なくとも皆一様に脅威に尻を向け、全力でこの場から逃れ去ろうとした。


 ただし、彼らの行く末はことごとく輪切りだ。


 澄ました御使いがさっとタクトを振り薙いだように思われる。盗賊たちの動きがそれでいっぺんに止まった。誰か彼らの中に、己の姿を(あらた)められる余裕のある者があったろうか。蜘蛛の糸のように細い繊維が彼らの全身に気づかぬうちにまとわりつき、ピンと張りつめて皮膚に食い込んでいた。その糸に沿って肉が骨まで裂けたのはほんの一瞬の出来事で、誰も痛みの慟哭をあげることなくまとめて幾百の肉片と化した。


 村の真ん中に赤い沼ができあがる。


 散った飛沫は黒衣の少女をまた生臭く染めた。


 白糸は立ち尽くす彼女を避けて、今しがたの緊張も忘れたかのごとく、枯れ葉のように血の川へ浸っている。


「……下品な」

「残しはしないわよ。それに今のあなた、とーってもいい香り」


 毒づく少女のすぐ上に、白毛の盲蛇が降りてきた。かと思えば、枝葉の上の積もりすぎた粉雪のように、その長い毛が根こそぎ一切抜け落ちた。毛の層は分厚く、顎門はみるみる小さくしぼんでゆく。しぼみにしぼんで、ついにその姿は消えてなくなる。毛で編まれた蛇に血肉はなかった。ほどけた白毛は扇のように広がり、最前の白糸と混ざって屍肉の川を覆う。


 白毛はニグラムの上にもゆるやかに降りかかった。


 長いヴェールを頭にかぶり、花嫁のようになった彼女のそばに、傍観を続けていた彼女の主人が歩み寄る。 その者もまた少女である。


 絵描きが天使に施す肌と、詩人が嫉妬ゆえに貶めるかんばせ。


 ニグラムとは違って騎士のように背は高いが、手足も胴もユリの葉のようにしなやかで細い。


 この陰惨たる場に、その者ほど似つかわしくない姿をしたものはなかったろう。


 ただしその清らかな肌を覆うものは、下着代わりのアンダードレス、ただの一枚だけだった。しかもその全体に破れやほつれや色褪せのある惨憺たる様相。それはこの卑俗な幽境の村落に見合う唯一の汚点であった。が、着潰される以前の名残からは、裾にひだを何段も重ね、ふんだんにレースや刺繍もあしらわれた絢爛な絹織物(シルク)がうかがい知れる。また、破れから覗く肌やむき出しの手足は、布のみすぼらしさも泥をよける用をなさないこともまるで意に介さぬかのように美しくなめらかであって、まとうものだけが生々しさを帯びたその不合理は、逆に少女の神秘性を聖画(フィクション)のごとく助長していたとも言えた。


 いかにも彼女は神秘であった。神秘でなければ魔であるより他になかった。(まが)か罪かを体現する者があるとすれば、それはまず彼女であるとたちまち羊飼いも述べるだろう。その是非を問うて最後に目を奪うのは彼女の髪だ。しゃんと伸びたその背とぴったり並んで走る長い髪。白髪(はくはつ)だが老婆のようにみすぼらしくはなく、光の加減で仄赤く、あるいは仄青く色艶を帯びる。あの顎門を織りなしていたのと同じ色彩と光沢だ。そして今、彼女の眼前に横たわる死の川の上流は、狭く一条の束となって、彼女の背に落ちる滝と流れを同じくしている。


 かつて顎門の尾も同じ滝つぼに溶け込んでいた。


 否、この少女こそがかつて顎門の尾であった。


 少女の髪は長い。途方もなく長い。比類ないほどに長い。


 屍肉と血の沼一面に浸かった彼女の髪は、やがてそれ自体が別の生き物のようにさざ波立つ。そのひと筋ひと筋が回虫のようにのたくりながら、主人のもとへ引き返し始める。


 毛先が地を擦った後には土だけが残った。さざめきは微細な嚥下の音だ。


 ごくごくと沼を呑み干しながら、白い毛の川は水源へ向かって引いていく。


 ニグラムにかかった髪も彼女に吸いつくように絡まり、肌や衣服を引きなぞりながらニグラム自身のでない血を啜っていった。髪が乾きを取り戻し、肌の上で固まりかけていた血糊まで消えていくので、それは拭われているというよりも、やはり啜られているか、舌でこそがれているかのようだった。


 やがて川下は近くなり、流れの幅は人の肩幅よりも狭くなる。最後の房の先が主のくるぶしのそばに来て地面から離れたとき、髪はようやく短くなるのをやめた。


「フゥー、ごっそさん、でしたー」


 神じみた少女は満足げにひとりごちる。


 すでに彼女の頭髪は、吹く風にも容易くなびく無防備な繊維に過ぎないようだった。血塗れてもおらず、血の沼を這いずった痕跡はどこにもない。ただその白銀色の色つやが、こころなしか溌剌として、淡い燐光を帯びたようにも見える。


「ニグラムちゃんもつくづくスパイシィでしたっ」

「ふん!」


 無邪気な仕草で覗き込んでこようとする主人から、ニグラムは憮然と顔をそむけた。重く垂れた前髪で両目はまだ隠れたままだ。


「ふぅーん、って、またずいぶんと不機嫌ですこと。なんでまた?」

「予告なしに丸呑みにされかけて気分のよくなる生き物は花の種と寄生虫だけですの。それより!」


 ニグラムはいきり立って主人の背後を指さす。


「どうするんですか?」


 そちらにはこの村の村長の家がある。入り口のテラスで幼い兄妹が、心ここにあらずといった様子で立ち尽くしていた。


「どうするんですか!」


 語気を強めてくり返し、ニグラムは続けて反対側を指さした。鋳物や打ち物ばかりが転がる土肌の広場。そこは先刻まで盗賊たちがたむろしていたし、下草が伸びたい放題の草地でもあった。


「んー」


 少女はおとがいに指をそえて思案するような仕草をした。しかし、誰が見てもとぼけた様子であった。間もなく、やはりわざとらしく何か妙案を思いついたように顔を輝かせて、村長の息子らを指さす。


「おまかせ?」

「またですか!? どうせそんなこったろうと思っていましたけどまた手前頼みなのですか!」

「だって知らない人とお話しするのこわいんですものー」

「率先して宿の交渉を進めていたのはどなたですの!?」

「それにぃー、ほら……」


 しゃがれ声でがみがみ喚く従者の前に、少女は小指を立てた片手を差し出す。見れば、白い髪が一本だけ小指の根元に巻きつき、さらに末端はいずこかへ向かって伸びていた。ニグラムが目で追うと、村の奥の林へ続いているようだった。ピンと張ったその髪は、しかも今なお伸び続けている。


「あっちでずっと見張りしてた子たち、逃がしちゃった」

「逃がしちゃってないじゃありませんですか。確かに気がつきませんでしたけど。抜け目ない方ですわね」

「ふっふーん」


 呆れ返るニグラムを見おろし、少女は昂然と鼻を鳴らした。


「じゃ、あとお願いね」

「ええぇ〰〰」

「不服ぅ?」

「あーいあーい。行ってらっしゃいませ、行ってらっしゃいませ。ひぃ、めんどくさいったら」


 従者に聞えよがしな不平を言わせておいて耳を貸さず、少女は鼻歌交じりに自身の髪の毛をたぐって歩き始める。


 白い裸足も軽やかに、ゆらゆらと林の奥へ消えていく主人を見送ってから、ニグラムは一度うんと背筋を伸ばした。その身の丈は綿羊(ひつじ)ほどしかない。


「コーシャ様にも困ったものですわ。もう少しわかりやすい指示をなさってくれればよいのですけど。いつも何をお考えになっているのやら、手前めにはわからなくて、あなた方にもわかるはずはありませんわよね?」


 テラスにいる青年と少女を振り返って、ニグラムは自分の泣き言に同意を求めた。相手二人はその声でようやく言葉がわかるようになったと見えたが、互いに手を取り合って固い表情でニグラムを見返すだけだった。その露骨な反応を見てニグラムは口の端をゆるめる。


「そうですわね。出し抜けにあんなものを見せられれば、怯えて当然。怯えるのが至極当然。いいえ、まだお話ができそうな分、あなた方は秀逸。秀逸な方かもしれませんわね。幸福ですわ。そう、幸福。あなた方にとっても、手前めにとっても」


 噎せるようなだみ声でそうごちて、黒衣の従者はようやく前髪をかきあげた。


 眼光のように見えていたのは、四角い大粒の紅榴石(ガーネット)だ。


 露わになるはずの両目はそろって黒い布に覆われていた。血色の宝石がその右目の位置に縫いとめられている。


 その異貌を見せつけると、村長の娘の方が顔を伏せ、慌てて兄の後ろに隠れようとした。透けぬ眼帯と石の下からでも景色はよく見えているらしく、ニグラムはそれで得意げに相好を崩す。


「それも実に当たり前の反応ですわね。そして手前めやあの方があなた方に危害を加えないと言っても、すぐには信じてもらえないのが当たり前でしょう。ご安心を。あなた方には牙を剥きませんわ。お話ができそうですしね。必要とあれば申し開きもいたしましょう。心ゆくまで。でもその前に――お風呂を貸していただけないでしょうか?」

「……」

「なにぶん、拭っても血はべとついて仕方がありませんの」


 ニグラムは丁寧に付け加えたが、後には沈黙が舞い降りた。彼女の要求は合理的だったが、緊張し切った若輩らが呑みくだすのにその悠長さは状況とあまりに落差が激しい。とはいえ、最後には断るわけにもいかず、ややあって兄の方がわずかながら顎を引いた。




 本作は、かつて4万字の短編としてひとまとめで投稿してあった同名作品を小間切れに再編集、再投稿したものになります。全5節。内容には手を加えていません。


・ 他サイト:星空文庫 http://slib.net/36704(こちらはひとまとめ版になります)

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