花街にあるこの屋敷を、そんなダイニングバーになんか変えないで
また、花街の路地裏の匂いのついた恋愛ものを書いてみたくなりました。「現場」は、少し通ったことのあるお店から派生してます。
カウンター越しのそのひとに話した最初の出だしは、ちょっと盛ってありますが、妄想ばなしは受けて、明るく「みんな雇われ人です」と切り返されたのは、覚えています。
いまはありませんが、隣の母娘連れのお客さんとの一期一会のやりとりなんかもあって、いい思い出です。
「このお店、勝手に妄想してたんだけど」
二本目を頼んだあたりから酔いが回って、口が軽くなる。カウンターにはわたしのほか、お客は引けて、仕切った奥の厨房にいたバイトの男の子も引けて、彼女と二人きりだ。そのタイミングに前から気になっていたことを聞いてみた。
「この路地通ったときに、いつも気になっていたんだ。こんな花街の名残のある町屋をあまり改装せずに洒落たダイニングバーにするなんて。きっと、商売っ気ばかりのオーナーなんかに先を越されて今時の和モダン風に染められてしまう前に、この屋敷に漂ってる叙情のわかる女性が脱サラして始めた店なのかって」
入店したのは初めてだったが、通るたびに磨りガラスの格子戸から覗いて何度も復唱してたんで、こんな気恥ずかしいセリフも、すらすら淀みなく出てきた。
客慣れしていても。初めてのお客にこんな長台詞聞かされるなんて準備してないから、彼女の頭には?が回ってる。それでも意味を察したら、地の笑いを隠そうと両手で口と鼻の先を隠して下を向いたんで、飛び出でてきた額が意外なほどデコッパチだった。
「せっかくの美しい世界に水を差すようで申し訳ありませんけど、残念でした。みんな雇われ人です。それにしても、すっごい遠いところから引っ張ってきましたね」
そのあと、ロマンチストだとか、過去にそんな憧れのひとでもいたんですかと、散々に茶化されて、一気に彼女との距離が近づいた。
オーナーがこうしたことが好きで、先にこうしたリノベーションのお店を駅前の路地裏につくり、ここは2号店だという。オーナーは元々フレンチ出身で、「私も前はそこで働いてた」と、半年前のオープンから此方に移って来たのだとテキパキ応えてくれる。
「もともとワインより日本酒の方が好きだから、性にあってるんです」
気づかなくてゴメンといって、彼女にぐい呑を用意させ、少し燗冷ましになった魚沼の地酒を注いだ。
「ごちそうさまです」と口を付け、ほかのカウンターからは見えない場所においてくれる。お互いに、燗冷ましで唇を濡らし、さっきの大笑いの余韻が冷めてきたら好きな日本酒の話題でもと思っていた矢先に新しいお客が格子戸を開ける。
「いらっしゃいませ」
こうしたカウンターだけの店の空気は新規客の登場で一気に変わる。わたしは、新しいお客とやりとりするため再び新鮮な声に戻った彼女をBGMに燗冷ましをひとりで片付けて、それがひととおりの済んだ彼女を待って、家路につく挨拶をする。
「今度きたときは、あらかじめリクエスト聞いてからごちそうしますよ」
「ありがとうございます。ずーと楽しみに考えています」
「かずささん。ひなちゃん、急にいなくなったんですよ」
アルバイトの男の子とばかり思っていたこの店の童顔の店長が、先の二人客のひけたあと、少しくぐもった声で切り出してきた。その言い方が、ずっと溜めてたものを吐き出すように唐突だったので、ワケアリ話と承知し前屈みする。
「あのひと、オーナーも目をかけてたんで、少し落ち着いてきたらこの店任せる話も出ていたんですよ。本人も、それって聞いてたはずなんだけど・・・・・それより、」
声は小声だが、エッジを立て、ここだけの話といった感じで詰め寄ってくる。
「けっこう、ここのお客さんから援助してもらってたみたいなんですよ、彼女。わたしが此処と1号店の掛け持ちなんで、わたしがひけて、ほかのお客がひけて、そのお客さんだけになったときにちょっとした身の上話みたいなの始めて、そっちに持っていくのが手口だっていってましたよ・・・・」
一度だけあった。リクエストに応えて少し奮発して伏見の大吟醸をごちそうしたのに、あまり口をつけてる感じがしない。グラスばかり汗をかいて、まだ半分以上も残っている。
「かずささん、思い切って頼んじゃうんだけど、20万円都合つかないかしら」
ぶっきら棒だなーと思ったが、彼女の怪訝がお金で済むことだと分かり、ほっとした。ずっと考え考えして、一気に正面から話してくれたのも嬉しかった。
「いまは持ち合わせないけど、次に来たとき。来週でもいいかな」
「ほんとに。助かるぅ、来月には返せる当てがあるから、本当にそれまでの繋ぎなの。今日までいろいろ当たってみたんだけど、どうしても20万円足りなくて」
そういって、白紙の伝票の裏に走り書きする。お勘定の数字以外で、彼女の文字を初めて見た。小学生中学生まできっちり書道を習ったひとの、一文字一文字をしっかり見つめている文字だった。
「はい、借用書」
「これって、こっちがお金渡したときにもらうもんだよ・・・・・・ちょっと、待ってて」
わたしは、トイレでも行く足取りで格子戸を開けると、路地を出た先のコンビニで20万円を下ろし、そのままの現金を手掴みで渡した。
「えっ、こんなすぐに急かせちゃって。なんて、言ったら、いいのか」
「早くて困ることじゃないんだし、・・・・・そっちの借用書こっちに頂戴」
取り上げた借用書のちぐはぐな硬い文言を読んでは、少しふざけた笑いを零し、ぬるくなった吟醸酒を空けてもらえば、此方はお開きのはずだった。
「ねぇ、かずささん。・・・・・・すぐお店しめるから、このあと付き合ってくれない」
彼女の声の調子で、どこに行こうと誘っているのかは、伝わった。
何のために用立てたか言わず、聞かず、すぐに20万円用意したことへの真心を彼女はこのあと渡そうと考えてる。
今夜でこの店に来たのは十度目になる。週に一度、木曜日の客の引けた店にやってくる私目当ての常連客。もうそろそろ、そうした称号を与えられてもいい時期かもしれない。
彼女からの突然の申し出は、わたしがずっと期待していたことだった。それが、こんな風に彼女から一方的に押しかけてもらえるなんて、と。
けれど、どこで、そうした匂いを感じ取っていたのか。わたしはついぞ、そんな気配は見せていなかったはずなのに。今までだって、世間にだって、ずっと隠し通してきたはずなのに。なぜ、彼女はこんなにも正確にわたしの胸の中の匂いをしって、何の迷いもなく、「異性」をぶつけてきたのか。
「ううん、今夜はよそう。思ってくれている気持ちだけで十分。ごちそうさま」
いつものように、格子戸を開けてお見送りしてくれる。「ありがとうございました。それと、・・・・ごちそうさまでした。足元が悪いので、気を付けて帰ってください、ね」」
ひなちゃんは、余計な話はなにも語らなかった。ほかの男のお客に話したという身の上話はわたしには一言もなかった。ただ、20万円足りなくて困っていることと一緒に、正直にわたしとのことを伝えてくれたのだ。それは本当のことだと思う。だから、最後にわたしに頼ったのだ。 -このひとは、自分が求めている本当のことに気づいていない。わたしが、それに気づいてることを知って驚いても、怒ったり、恥ずかしがったり、誤魔化したり、噓をいったりはしない。
わたしは、あの晩、彼女のすべてを知らなくて本当に良かったと思う。彼女は、わたしが何かつまらないことのために断ったのではないと、知っているはずだ。それでいい。あの20万円が彼女の困った状況を救ってくれたなら、それでいい。
「かずささんも、ひなちゃんファンだったから、ついほだされてなんてことなかったんですか」
「まさか。だって、わたしに色仕掛けきかないじゃない」