夢現
よく夢を見る体質だった。変な内容の夢ばかり見る人が結構いるが、僕はその中でも割とかなりおかしい部類に入る、と自分で評価している。
でも何故か、変な夢だったのは覚えているのに、肝心の内容は思い出せない。僕はそういうタイプだった。
それから、体格は貧弱で、性格も残念で冴えない男の子だった。そのせいか、小学校ではよくいじめのターゲットにされた。
「お前のえんぴつダッサ!ハハハ!まだそんなやつ使ってんの?」
「上履き?知らねーよ、はっ!」
「おい、触んなよバイ菌が移るだろ」
一年生の頃からいじめられていた僕は、すごく悲しい思いをしたし、怒りも憎しみも抱いた事もあった。でもいじめっ子達に、こっちから手を出すことはしなかった。その時はなんでそうしたのか分からなかった。
中学生になれば環境が変わって、いじめられなくなると思っていたけど、なんにも変わらなかった。いじめっ子は増えた。僕は変わらずいじめられっ子だった。やっぱり悲しかった。
一度堪忍袋の緒が切れかけて、手を振りあげた事がある。でも振りあげた手を振り下ろして、反撃することは出来なかった。その時、なんで僕がこんなに相手が憎いのに手を出そうとしないか、気がついた。
僕は殴られて悲しいのを知っている。悪口や陰口を言われて苦しいのを知っている。差別されて憎しみを抱く事を知っている。だから僕をいじめる相手にも悲しくなって欲しくなかった。具体的に言うと、いじめたことを反省して、後悔して欲しかっただけで、何も暴力に悲しんだり、悪口に苦しんだり、傷ついたりする事はして欲しくなかった。だから振り上げた手で彼らを殴ることはしなかった。
そんな自分を犠牲にする優しさが、何の因果か、僕に夢を見させてくれたのだろうか?……その夢の内容を不思議と明瞭に覚えていたのも、奇跡だ。
どこだか分からない街な気がした。でも見た事がある気もした。夕日が住宅の壁に投げかけられて、オレンジ色に染まっていた。
そんな中、僕はとある家に向かっていた。歩いている道が何処なのか見覚えは無かったが、目的地に向かえているということは分かっていた。
そうして辿り着いたのは、立派な二階建ての一軒家だった。二階の窓のカーテンが締め切られているのが何故か印象に残った。
玄関ドアに手をかけて引くと、あっけなく開いた。靴を脱ぎ捨て、ふわふわした意識のまま階段を上る。そしてある部屋のノブに手をかける。これも何故だか開いてしまう。
カーテンがしっかりと閉められていて、部屋の中は西日すら入らず真っ暗だ。その部屋の隅っこに、髪の毛の長い少女が、膝を抱えて座っていた。その子が、我を忘れてこちらをじっと見つめていた。
その瞳が、なんの感情も、生気すらも欠落していて、でもこの世に存在するどんな美しいものよりも綺麗に見えた。僕はその瞳から目を離す事が出来なかった。
「……ぁ。なんで」
彼女は掠れた声を上げた。
「どうやって、入ったの」
僕は我に返って、視線を逸らしながら答えた。
「え、えと、普通に、ドアが開いたから」
「お母さんもいるし、鍵かけてるのに。」
「……?この家には誰もいなかったし、鍵もかかってなかったよ」
そう言うと、彼女の全てが欠落した瞳は恐怖をなみなみと湛え、涙と共に全てを嫌悪する感情を迸らせた。
「来ないで!!」
逃げる場所もないのに下がろうとする。彼女は僕を拒絶した。否、彼女は人間そのものを拒んでいる。
「来ないで……!!」
悲痛な叫びだった。
「君は……」
「私の事なんか忘れて!!」
その声で目が覚めた。時計は午前二時半を示していた。それから朝日が射すまで寝つけず、おまけに学校に行く気も起こらなくて、その日は親に嘘をついてサボった。
私の事なんか忘れて。
その言葉と、声色と、彼女の瞳がどうしても忘れられなかった。ずっと反芻思考を繰り返して、彼女の事以外何も考えられなかった。
朝十時頃、家の近くの公園のベンチで青い空を見上げながらその夢の事を考えていた。木の陰でぼんやりとしながら、ちょうど夢現かのように、夢と現実の境が分からなくなるように……。何度も、繰り返して。
何度目かのリフレイン、夢の初めの方を思い出した時、急に気づいた。
夢の中の街は、僕が住むこの街だ。
……ということは、あの家もある……のか?
居てもたってもいられなくなった僕は、勢いよく立ち上がって、公園を飛び出した。
道ははっきりと覚えていた。電柱の数、このカーブミラーを左、あの標識の配置、覚えている……。
やがて辿り着いた夢の中の家は、本当にあった。加えて、二階の窓のカーテンも、固く閉ざされていた。
僕は吸い込まれるように玄関ドアに手をかけたが、一度考え直してノックした。母親らしき人が現れて、ドアを開けてくれたが、僕を見て怪訝な顔をした。
「君、どこの子?」
「あ……えっと」
僕が戸惑っていると、母親は、あ、と気づいたような顔をした。
「もしかして、……中の生徒さん?一年の?」
「そ、そうです!」
実際母が出した中学の名前は、僕が通っている学校の名前だったし、嘘ではないので肯定した。
「でもなんでこんな時間に?」
「先生が、今行けって急に頼まれて……色々とお願い事をされて」
ごにょごにょと誤魔化したら、母親はええと、と僕をフォローして、
「何をおねがいされたの?私に任せて貰えないかな?」
と提案した。もう嘘をつき続けられないと思った僕は、強行突破することに決めた。
「いや、僕が自分で伝えるんで!お邪魔します!」
「あ、ちょっと!」
母親の制止を振り切って、僕は家に入って階段を駆け上がった。夢の中では鍵のかかってなかった部屋があった。
意を決してドアをノックすると、その向こうから声が聞こえた。
「……お母さん?」
少しの沈黙の後、僕は答えた。
「いや、違う。多分、君は……知らないかも」
「……その声……。」
部屋の中をゆっくりと移動する音。そして、カチャリと鍵が静かに開いた。
ドアを開くとそこには、あの夢の中で見た彼女がいた。
「……」
「…………」
「君は、あの夢の?」
「……もし、僕らが同じ夢を見てたんだとしたら、そう」
「……ごめんなさい。……ドア閉めたいな。入って」
僕は彼女の部屋に招き入れられた。ドアを閉めると、部屋の中は夢で見たのと同じ様に真っ暗になった。
「あの、ね」
彼女は暗闇の中で、膝を抱えて、下を向いたままぽつりぽつりと話し始めた。
「私、……小学校のころ、いじめられてて。それで、中学校の同じクラスにも私をいじめてた子がいたから、行きたくなくて。もっと私をいじめる人が増えたらどうしようって考えたら、怖くて行けなかった。それで……そしたら、中学の初めから不登校になってて。……君、何年生?」
「中学一年」
「あ……私も。学校は?」
「……中」
彼女は少し目を見開いて、そのあとまた目を伏せた。
「え、一緒の中学だ。もしかしたら同じクラスかも。私入学式の頃から行ってないから、みんなの顔も名前も知らないや。……それでね、それに私が悪いんだろうなって、私が目障りだからあの子達もいじめるんだろうなって思って。じゃあ学校に行かない方が、私にとってもあの子にとっても平和なんじゃないかなって。」
「……」
僕はただただ話を聞くことに専念した。
「だから、行かなくて。お母さんは許してくれたけど。部屋の中で一人でいて。光も眩しくて嫌いで、カーテンも閉めちゃって、そしたらどんどん行きたくなくなって、部屋の外がどんどん怖くなって、これって、引きこもりだよね?」
「……そうかもね」
「やっぱりそうだよね……。でね、そうやって過ごしてたら、昼夜もわかんなくなるし、夢と現実の差もわかんなくなるの。それで、部屋の隅っこで、うつらうつらしてたら、閉まってるはずのドアが急に開いて、君が入ってきて。あの後目が覚めたから、ああ、これは夢なんだって気づけたんだけど」
「うん」
「その時に私ひどいこと言っちゃった。『来ないで』って。だから、ごめんなさい、謝りたくて、でも謝る方法なんてないと思ってたけど、こうやって会えて、謝れて良かった。ごめんなさい」
彼女が謝る必要なんてない。そう思ったら、僕の中の言葉が溢れ出てきて止まらなくなる。
「謝る必要なんてない。……君は優しすぎるよ。目障りだから学校に行かないなんて、僕と似たようなもんだ」
「……え?」
「自分が傷ついてるのに、傷つけられた相手に優しくしようとするんだろ?君は立派すぎるんだ。誰にでも優しくしようとする。例え相手がどんなに酷いことをしたり、敵だったとしても」
「……私、あの子達のこと敵だと思ってないよ」
「でも理不尽だとか、不愉快だとか、モヤモヤした気持ちを、抱かなかったことは無いだろ?」
「うん……」
「そうやって自分だけが傷つけばいいって思ってるんだろ?……そんなの、可哀想だ。不公平だ。なんで優しい君が傷ついて、いじめた側が平気でいていいんだ」
「……」
「思い返せば、僕もそうなんだ。僕がいじめられて奴らの気が済むなら、いくらでも殴られていいって思ってしまってた。でも、君の話を聞いて考えが変わったよ。自分が可哀想だ。こんなの、おかしいよ。ねぇ、僕は君の力になりたい。ここから出なくたっていい、君が君自身を大事にする手助けがしたい。だから手助けさせてくれ」
彼女は迷うそぶりをしながら答えた。
「……君がそうしたいなら」
「だめだ、君自身が決めていいんだから、君自身が決めて。」
沈黙が訪れる。
「私が、私自身を大事にする……。よくわかんないや」
僕は、そうか、と言いかけたが、それより早く彼女が言葉を続ける。
「でも、だからこそ、自分を大事にする方法を教えて欲しいな。だから、お手伝いしてくれる?それから」
「それから?」
「私は、君が君自身を大事にするお手伝いをさせて。君も、私と同じなら、そうした方がいいでしょ?まさか、自分はいいよって断るの?優しすぎるよ」
彼女はひび割れたガラスみたいな微笑み方をする。酷くもろく、でも乱反射する光がとても美しいような、そんな微笑みを僕に向ける。だからその提案を、僕が断る筈も無かった。
「……うん、わかった。お願いするよ」
そして、ゆっくりと彼女は顔を上げた。その瞳には、生気が少し宿っていた。これまでも美しかった瞳が、さらに綺麗になっていく。乱反射する光は、ひび割れたガラスのそれではなく、丹念にカットされた宝石の輝きになる。
「……あ、名前、なんて言うの?」
彼女はふと気づいたように聞いた。内部から発していると錯覚するような、吸い込まれるような目の光に魅入られる。
「……しおん」
「しおん君か。私はみつき」
「みつきちゃん」
どちらからともなく、僕達は互いに抱き合った。
後日、僕のクラスにはみつきちゃんが現れた。彼女が言っていたように、やっぱり同じクラスで、先生は酷く驚いていたし、クラスメイトは僕とみつきちゃんの関係をしつこく聞いてきて大変だった。
不登校の女の子と仲良くなって、その子が学校に行くようになったことが男子の中で英雄視されて、僕はいじめられることが少なくなった。みつきちゃんの事でいじられることはあったけど、僕は気にしなかったし、気にならなかった。みつきちゃんもいじめっ子の女の子に色々言われていたようだが、気にしている様子はなかった。それに、僕がいじめられなかったから、みつきちゃんもいじめられることが少なくなった。やがていじめっ子も、僕達に関わることをしなくなっていった。
お互いに、自分自身を大事にする事を心がけていたし、何よりお互いの存在が、心の支えになっていたんじゃないかと思う。その一番最初の始まりが、あの夢なのだとしたら、まるでファンタジーみたいだ。出会いは突然、知らないはずの人と……こう考えると、やっぱりファンタジーっぽい。初めに出会った夢の中で、魂の無い虚ろな目をしていた彼女は今、現実で誰よりも命の火を煌々と灯した目をしている。
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