四、怪しい男
俺は鞄を教室に置き忘れたことを思い出したが、今更引き返すのも面倒だし、引き返したところで桃田に文句言われるのがウザかったので、そのまま街へ向かった。
今頃「時雨はどうした!」とか言って、大騒ぎになってるんだろうよ。
別にそんなこと、どうでもいい。
勝手に騒いでる「フリ」でもやってろ。
手に持った弁当箱が、カラカラと音を立てていた。
俺はそれが、なぜかおかしくて、ほんの少し笑った。
「よう、坊主」
そこで俺は一人の中年男性に引き止められた。
「あ?誰だよお前」
そいつは大柄で、がたいもよく、例えるならプロレスラーのような風貌をしていた。
「こんな時間にガキが、なにやってんだ」
「うるせぇよ、お前に関係ねぇだろ」
「ふんっ。くそ生意気なガキだな」
「ってか、なんだよ。俺になんか用でもあんのか」
「学校はどうしたんだ、学校は」
なんだこいつ・・補導員か・・?
「具合が悪くて早退したんだよ」
「ほう。具合の悪いやつが、笑いながら歩いてるってのか」
「具合が悪けりゃ、笑っちゃいけねぇ法律でもあんのかよ」
「口の減らねぇガキだな、まったく」
「用がないなら行くぜ」
俺はそいつと離れて歩こうとした。
「まあ待て」
そいつは俺の腕を引っ張ってきた。
「なにすんだよ!」
俺は思いっ切りその腕を振り払おうとしたが、そいつの力には敵わなかった。
「離せよ!」
「いいから俺に着いて来な」
「は・・はあ??やめろよ!」
俺がいくら抵抗しようとも、そいつは強引に俺をどこかへ連れて行った。
なんだってんだ!ってか、こいつ誰なんだよ!
やがて俺たちは、五階建ての、とあるビルの前に到着した。
「入るぞ」
「ちょっ・・ちょっと待てよ!」
「なんだ」
「あのさ、お前って誰なの?俺に何の用だよ」
「いいから来いよ」
そのビルは街の外れに建っていた。
見るからに古びた建物で、外壁のあちこちに亀裂も見られた。
なんだよ、ここ・・
やけにギシギシときしむ音のする、汚いエレベータで三階まで上がった。
エレベータが着くと、いきなり事務所らしき部屋が現れた。
「兄貴、おかえりなさい」
細身のモヤシみたいな若い男が、俺を連れて来た男に挨拶をした。
「いいの見つかったぜ」
男は口を斜めに開きながら、汚い顔で笑った。
兄貴・・?どういうことだ。
ここはヤクザの事務所なのか。
「お前、ここに座って待ってろ」
男が俺に、ソファに座るように促した。
「おい!見つけたとか、なに言ってんだよ!ってか、ここはなんの事務所なんだよ!」
「兄貴のいうことを聞け!」
モヤシ男が俺を強引に座らせようとした。
「触るんじゃねぇ!」
俺はモヤシ男を突き飛ばした。
「なにをしやがる!くそ生意気な!」
モヤシ男は俺に殴りかかって来た。
「伊豆見!止めとけ!」
「でもっ・・兄貴、こいつっ!」
「せっかくの掘り出しもんだ。傷つけるんじゃねぇ!」
モヤシ男の名前は、伊豆見ってのか。
このプロレスラーは誰なんだよ。
「おい、ガキ。いいから座れ」
俺はプロレスラーにそう言われ、仕方なく座った。
伊豆見は俺を睨んだままだ。
けっ、上等じゃねぇか。むしゃくしゃしてたんだよ、俺は。
殴るんなら殴って来いよ。
いや・・待て。
プロレスラーは俺のこと、掘り出し物とか言ってたな。
どういう意味だ・・
それにしても建物も汚いが、この部屋も汚い。
タバコの臭いが充満してるし、机の上には食い散らかした跡が、そのまま置かれてあるし。
まるで俺が昔、暮らしていた家と同じじゃねぇか。
俺は思い出したくもない過去を思い出し、吐きそうになった。
「ほお・・この子ですか」
隣の部屋から出て来たであろう、か細い声をした老人が俺を見てそう言った。
年のころなら、七十代前半ってとこか。
「こんにちは」
その老人は優しい顔で、俺に挨拶をして笑った。
なんだ・・この爺さんは・・
「あのさ、俺、突然ここに連れてこられて、ぜっんぜん事態が呑み込めてねぇんだけど」
「あはは。そうでしょうねぇ」
老人は俺の前に座り、左手をそっと自分の顔の横辺りに差し出した。
すると伊豆見が素早くタバコを持ってきて、老人の指に挟み、ライターで火を点けた。
「ところで・・」
老人はタバコの煙をフーッと吐きながら、静かに話を続けた。
「きみ・・高校生ですか」
「ちげーし」
「ほう・・中学生ですか」
「そだよ。だったらなんだってんだ」
「随分、大人びた風貌ですね」
「はあ?悪いかよ」
「きみ・・今から話すことを聞いてくれますか」
「っんだよ!そんなの知るかよ!」
プロレスラーと伊豆見は、俺を睨みつけたままで、なんなら今にも襲い掛かってきそうな勢いだった。
「あのね、一か月、いや、長ければ二か月でいいんですが、身代わりをやってもらえませんか」
「はあ??身代わり?」
「はい。身代わりです」
「ってか、誰の身代わりだよ」
「私の孫です」
「いや、ちょっと待てよ。爺さん何者なんだ。で、孫って何なんだ」
「私はね・・弱小ですが組長をやっているのです。私が引退する前、娘に婿を取らせたのですが、二人とも駆け落ちして出て行きましてね。たった一人の孫を置き去りにして。孫は和樹という名前なのですが、その和樹は現在十七歳です。和樹が跡目の立場なのですが、どうにも身体が弱くてね、今も入院しているんですよ」
お・・おい。
ちょっと待て。
少しずつ話は見えてきたが、なんで俺がヤクザの孫の身代わりをしなきゃいけねぇんだ。
一方で俺は頭が混乱しながらも、親に捨てられた和樹と俺が重なっていた。
「それで、和樹が退院するまででいいんです。跡目がいないことが他の組にバレてしまうと、組は解散しなければならないのです」
「いやいや・・俺、無理だから」
「身代わりを引き受けれくれれば、きちんとお礼はさせてもらいますよ」
「お礼・・?」
「ええ。それ相当のお礼です」
金・・ってことか。
「きみ、名前は?」
「時雨健人」
「私は東雲龍太郎です。これが柴中、これが伊豆見です」
プロレスラーは柴中ってのか。
「それで、どうですか。引き受けてくれますか」
「そっ・・それは・・」
「和樹が退院するまででいいんです」
俺は迷いながらも、突然降って湧いた身代わり話に、退屈で仕方がなかった日常が変化するであろう今後に、ほんの少しだけ期待感を抱いた。