二十一、進学してもいいか
「ただいまぁ」
「おっ!おかえりー」
いつにも増して、兄貴の元気な声が俺を迎えた。
「もうちょっと待ってな。すぐに飯にするから」
兄貴は台所に立ち、夕飯の支度をしていた。
「おかずは、なに」
俺は兄貴の横に立ち、覗きこんだ。
「いつもの焼き魚だよ」
「そっか」
俺は私服に着替え、ちゃぶ台の前に座った。
「なあ、兄貴さ~」
「ああー?なんだー」
「俺さ、進学してもいいか」
「なにー?聞こえねぇよ!」
「反故ってなんだー!」
「はあ??またそれかよ」
「あはは」
「なに笑ってんだよ」
兄貴はそう言いながら、飯を運んできた。
やがてちゃぶ台には、焼き魚のサバが並んだ。
「今日の味噌汁は、玉ねぎだぞ」
兄貴はそう言いながら「お茶を入れてくれ」と言った。
俺は冷蔵庫からペットボトルを出し、コップに注いだ。
「俺さ、進学してもいいか」
「あっ!それそれ、それだよ」
「っんだよ」
「今日な、桃田から電話があって、お前に済まないことをしたって謝ってたぞ」
「ふーん」
「お前さ、授業中、手を挙げて質問したんだってな」
「ああ」
「まあ、桃田の言ったことはムカついたけど、桃田の気持ちもわかるぜ」
「そうかー?」
「だってよ、何度言っても聞かなかったのが、これまでのお前だぜ。そりゃびっくりするって」
「・・・」
「桃田も他に言いようがなかったんだろうよ。許してやれな」
「ああ・・」
「それにしても、俺は嬉しいぜ。絶対に頑張れよ」
「でも兄貴、それでいいのか」
「なにがだよ」
「だって・・お金とか・・」
「はっ!くっだらねぇこと心配すんじゃねぇ。そんくらい俺が何とでもしてやる」
俺が進学すると、また三年間も兄貴に面倒かけることになる。
俺はふと、あの金を貰っとけばよかったかな、と思ったりもした。
「俺、バイトもするし」
「そんなことは、入ってから考えるこった。お前は勉強に集中すればいいんだ」
「うん・・」
とにかく兄貴は、俺が進学すると決めたことが、嬉しくてたまらない様子でご機嫌だった。
「俺のも食うか?」
そう言って兄貴は、自分のサバを差し出した。
「いらねぇし」
「遠慮すんなよ」
「してねーし」
俺が爺さんからもらった五万円は、まだ四万も残ってる。
この金で、兄貴に美味いもんを食わせてやりたいと思った。
しかし、そんなことをすれば、「バイト」がばれてしまう。
そしてヤクザの跡目である、和樹とダチなのがばれてしまう。
兄貴なら、事情を話せばわかってくれるとも思ったが、俺が進学することで喜んでいる兄貴に、余計な心配をかけなくないし、今は話す時期ではないと思った。
まあ、金は腐るもんでもねぇ。
いくらでも使い道はあるしな。
「俺、高校行くからには、公立にする」
「ああ、頼むぞ。いくら俺だって私立は払いきれねぇ」
「同じクラスのやつに、頭のいい女子がいてさ。俺、そいつに勉強教えてもらってんだ」
「へぇー、女子かぁ。かわいいのか?」
「ばっ・・バカっ、ちげーよ」
「あはは。まあ、いいさ。俺はお前がやる気になってくれたことが一番だ」
「・・・」
「それと、翔もいるじゃねぇか。あいつも出来んだろ」
「ああ」
「いいねぇ、タダで家庭教師が二人もいるってこった」
「まあなあ・・」
「あれ・・?」
そこで兄貴は何かを見つけた風に、そう言った。
「なんだよ」
「お前、それ辞書だよな」
兄貴は俺の鞄の中から、ほんの少し頭を出していた辞書を見つけてそう言った。
「え・・あ・・うん」
「それ、どうしたんだ」
「借りたんだよ」
「誰に」
「その・・女子に・・」
「そうか」
そこで兄貴は俺の顔をじっと見つめた。
「っんだよ」
「お前、やっぱりその女子が好きなんだろ」
「はっ!?ちげーし!」
「そうかそうか・・だから勉強する気になったんだな」
「お前な!勝手に決めつけてんじゃねぇよ」
「ふふふ」
「くっ・・なにが、ふふふだよ」
「まあいいさ。その子、今度連れてきな」
「はああ??ねーーしっ」
バカ兄貴!単純すぎるだろ。
やっぱ恋愛経験のない人間って、こうも単純なのかと呆れた。
俺としちゃあ、由名見より和樹を連れて来たい心境だってのによ。
そういや、和樹も頭がいいんだ。
あいつに教えてもらうことだって出来るな・・
しかも和樹は高校生だ。
由名見や翔よりも、もっといいに決まってる。
次の日・・・
「ねぇ、たけちゃん」
「なんだよ」
「僕さ、名案が浮かんだんだ」
「なんの?」
俺と翔は昼休み、校庭のベンチに座って話をしていた。
「僕もたけちゃんも、和樹くんに会いたいでしょ」
「うん・・まあな」
「でさ、会うって言ったって、親分の家へ押しかけるのもなんだし。そこでね、あの事務所を勉強に使わせてもらうっていうのはどうかな」
「へ・・?」
「だから、僕と和樹くんで、たけちゃんの特訓をするって言ってるんだよ」
「特訓?」
「だーかーらー、勉強の特訓だよ」
「マジか・・」
「マジマジ」
「そりゃ、お前と和樹に教えてもらったら、百人力だけどよ」
「外で会うっていったって、和樹くん四代目だし、何かと不都合だと思うんだ」
「まあなあ・・」
その後、翔は早速、和樹に連絡をし、和樹も爺さんに了承を得て、事務所を「塾」に使わせてもらうことになった。
しっかしなぁ・・あの事務所、学生が行く場所じゃねぇぜ?
きったねぇし、タバコ臭いし、環境、最悪だぜ?
そして、あれよあれよという間に、特訓初日を迎えることとなった。
「さあーて、今日から張り切って行きましょう~~」
翔は、事務所へ向かう道すがら、手を挙げてそう言った。
「翔、お前、あの事務所の環境、知らねぇだろ」
「うん」
「めちゃ汚ねぇんだぜ。んで、臭いし」
「へぇーそうなんだ」
「息が詰まりそうになるぜ」
「掃除すればいいじゃん」
「え・・」
「掃除すれば済むことでしょ」
「そりゃまあ・・」
「あはは。何も問題ないじゃん」
翔はそう言って笑った。
こいつ・・なんでこんなに前向きに考えられるんだ。
そうか・・掃除すればいいんだ・・
俺が考えることって、何かに逆らってばかりで、そうすることが当たり前だと思ってきた。
周りの人間は「ものさし」で計ったように、その価値観に縛られていると思っていたし、それを押し付けてくるものだと思っていた。
でもその「ものさし」で計った考えってのは、実は俺自身だったんじゃねぇのかな・・
だからこそ、「掃除すればいい」という当たり前のことすら、思いつかなかったんじゃねぇかな・・
「っていうか、事務所を使わせてもらうんだから、そうするのが当たり前だよ」
「うん・・」
翔の言う通りだ。
こんな簡単なこと・・今まで俺はわからなかったんだな・・