四話
セリアは毎朝早起きだ。しかし、今日の俺はそれ以上に早く起きた。
見慣れたテーブルの上に「世話になった」と書き置きを残し、音を出さないよう細心の注意を払って家を出る。
森の中で、途切れ途切れの朝日を浴びる。今思っても、ここもかなり良い場所だった。
食事も寝床も与えられ、セリアと共にいる時間は不快に思うことだってない。二人でいる限りは、心もやさぐれなかった。問題は彼女以外の、それも敵対視する人間の存在。しかしながら、人である以上は必然で当然の擦れ違い。むしろセリアが擦れていないのも、この環境によるものだと推測できる。
草原に足を踏み入れるが、町の方角には行く気になれず、少しずつ逸れながら歩く。
草を踏みしめたときの音と、朝日を受けて優雅に飛び回る鳥の鳴き声が心地良い。昨日の出来事を思い出さなければ、の話だが。
これから、俺はどうすればいいのだろう。
どこに行けばいいのか、なにをしたらいいのか、どうすればいいのか。勝手のわからない辺境の地でできることなど、俺にはない。旅をしても、全員がセリアのように快く接してくれるとは限らず、むしろ邪険に扱われるのが筋であろう。逆に言ってしまえば、セリアのような人間こそ特別だと言える。
町を横目に通り過ぎようとしたとき、聞いたことのある声色が耳に飛び込んできた。
「あら、この前の……」
「ああ、確かミラノさん……だったか」
「セリアに聞いたのね。どこかに出かけるのかしら?」
「いや、出かけるわけじゃない。ただ単に出て行くだけだ」
ミラノさんは、なぜか悲しそうな瞳を向けてくる。
「あなたも、あの子を魔女だと言うの?」
「馬鹿なことを。セリアが魔女だと言うのなら、彼女を魔女と呼んで蔑む奴らは皆悪魔だ。俺の目にはそう映る」
「正直なのね。でもその気持ちは大切だと思うわ」
ミラノさんもまた、少なからず同意の意思があるのだろう。
ここで俺は気になっていたことを投げかけてみる。
「そういえば昨日、セリアが町に行ったんだ。あんたに礼をするとか言ってな。しかしあんたはどこにもいなくて、あいつは町の住民に水を掛けられ、追い出された」
「知り合いの家まで行ってたのよ。それよりも、セリアが追い出されたって本当なの?」
「嘘を吐いてどうする。もしもあのとき、俺が割って入らなかったらどうなっていたかわからないほど、住民は憤っていた。あの肌にまとわりつくような気持ち悪さは、今でも忘れられない」
「それはマズイわね」
彼女は俺の顔を見ていない。視線を斜め下に向け、考え込んでいる。
「なにがマズイ? もしかして、セリアの身になにか起きるとでも?」
「その通りよ。この前も話したように、セリアを魔女と呼ぶのは一部の人間だけ。でもね、その一部が、結構過激派なのよ。だからもしかすると――」
最後まで聞いているほど、落ち着いてはいられなかった。
今まで歩いてきた道を、全力で駆けていく。俺の耳にはもう、草の音や鳥の鳴き声は聞こえていなかった。
セリアが大人しいことを、奴らは知っていた。
セリアが手を挙げないことを、奴らは知っていた。
セリアが自分に厳しいことを、奴らは知っていたんだ。
俺に被害がいかない程度に彼女を痛めつけ、彼女が呵責に苛まれることを利用したのだ。
俺が男である以上、かなり邪魔に思っていただろう。だから彼女が持つ純粋な心を逆手に取り「ゼレットという男に被害がいく」可能性を見せつけた。あのセリアだ、当然のように可能性を危惧し、自分から離れて欲しいと言う。あとは俺が出て行くの見計らい、奇襲をかけるだけ。動機や理由なんて、後付してくるに違いない。正しかろうが誤っていようが、正当性を主張しては無理矢理もぎ取るのだろう。
「汚い、汚いやり方だ」
結局俺もセリアも、手の平で踊らされただけなんだ。
今はもう、森に漂う幻想にも溺れない。ただ一つ、彼女に会ったら言わねばならないことがある。それしか考えられなかった。それと同じくらい、奴らが許せない。素直で優しいセリアの気持ちを、自分勝手に踏みにじったから。
「煙……? クソッ! アイツら火を付けたのか!?」
走っている最中に、岬の方から黒い煙が見えた。その黒を今の心情と重ねてしまい、心苦しいことこの上ない。もちろん、セリアに対してだ。
それから、俺は走り続けた。
額に汗が滲んでも、それが頬を伝っても、目に入っても口に入っても、足が止まらないのであれば問題ない。
途中で石に躓いた。
途中で足がもつれた。
途中で、煙が太くなった。
連なる木々の切れ目を視界に捉え、俺は思わず叫んだ。
「セリア!」
今まで森の中にいたせか、太陽がやけに眩しく感じる。俺は、セリアと初めてあったときのことを思い出す。鮮明に、明瞭に、脳内を巡る。
「ゼレット……さん?」
離れていたのはほんの僅かな時間でしかない。それなのに、久しく会っていないかのように錯覚してしまう。瞳は赤く、泣いているのだとも容易にわかった。
「おいおいどういうことだ? コイツはもう草原を抜けたんじゃないのか?」
リーダー格の青年が、気怠そうな表情で言う。右手には剣を持ち、セリアののど元に突き付けている。俺が現れたことで儀式を中断、こちらに向き直った。
「お前ら……」
昨日セリアを嘲笑した奴らが、俺の腕を掴んできた。右に二人、左に二人、背後に一人。なすがままに拘束され、地面に膝をつく。
「おっと動くなよ、こっちには魔女がいるんだぜ? お前は魔女を助けにきたんだろ? 動いたら本末転倒だぞ?」
一々癇に障る言い方をする。しかし、今は拳を握り込んで耐えるしか方法はない。
剣を向けながら悠々と闊歩し、靴が地面を擦る耳障りな足音が、俺の目の前で止まった。
「お前も物好きだよな。厄災しか運べない魔女がそんなに大事かね」
剣の切っ先が、俺の顎を上方に向けさせた。その汚らわしい笑い方が嫌だから、下を向いていたというのに。
「なんか言ったらどうだよ!」
いきなり振り上げられた足に反応できず、奴のつま先が鳩尾を直撃した。気を失えた方が遙かに楽だったが、そうするわけにもいかない。
長く息を止め、呼吸を強引に戻す。
「なら言わせてもらってもいいか?」
「ああ、いいぜ。どうせここで終わりだしな」
その場にあった全ての空気を吸う勢いで、肺の中を満たす。
「セリアが魔女であろうがなかろうが関係ない」
「カッコイイね」
奴は一瞬剣を引く。
「格好いいけど、邪魔だよ」
そして、剣を思い切り突きだした。
「俺にとってはお前が邪魔だよ」
掴まれていた腕を即座に引き抜き、一重で剣を躱す。目の前のそいつに右の拳をぶつけてやった。しかし、相手は握っていた剣をまだ離さない。
「お前!」
「油断してるからだ」
相手の右腕を、俺は左足で踏みつけた。
「お前は俺が武器を持っていないからと、今でも慢心している。自分は殺す手段を有しているが、相手にはそれがないと、そう思っているだろう」
腰を屈めて、奴の首側面に中指を当てる。
「でもな、人間は武器がなくったって人を殺せるんだ」
俺の気迫に押され、そいつは目を潤ませた。お構いなしに、力を込めた。
「やめて!」
予期せぬ側部から衝撃。体勢は崩さなかったが、少々驚いた。
セリアは震えながらも俺にしがみつき、尚も泣き続けている。服は冷たい染みが広がり、なんとも言えない気持ちになった。
セリアを泣かせたのはこいつらだ。でも、今彼女が泣いている理由も、全部こいつらのせいなのだろうか。そんな思いが胸中に溢れて、止まらなくなってしまったから。
「こいつらはお前を殺そうとしたんだ。なのになんで……」
彼女の顔は涙と鼻水に塗れ、瞳の光は今にも消えそうなほど儚い。本当に悲しんでいるのが、身体を通して伝わってくる。
「それでも! 私と出会ったのが原因で、こうやって不幸を背負っているじゃないですか! 暴力を振るわれて、謂われもない罵倒を受けているではないですか! それは間違いようのない事実なんです! もしも私と関わらなければ、こんなことにはならなかった……」
セリアは、あまりにも純粋過ぎる。
そうやって良心の呵責に苦しんで、彼女はどれだけの時間を過ごしてきたのだろう。なにがあっても自分が悪いのだと思い詰め、それでも健気に振る舞っていた。
屈託のないあの笑顔が、脳裏を掠めては消えていく。そして、消えたそばからまた蘇るのだ。
「出て行ってと言ったではないですか……戻ってきてはいけないと、言ったではないですか」
俺の胸にしがみつき、染みを広げていく。己が心の揺らぎにも似ていて、俺は自分に叱咤する。
そうじゃない。
なにをしに戻って来たんだ。
彼女を、セリアを泣かせるためではないだろう、と。
「お前が魔女であろうがなかろうが、人の気持ちを考えられる奴が不幸になる世界なら、壊れてしまえばいいだろう」
「え?」
「人の不幸で優越を味わう奴が蔓延る世界などに価値はない」
驚いたような彼女の瞳が俺を射る。しかし、気にすることなく、その小さな肩を抱き寄せた。
「謂われなき罵倒や差別とは、お前が受けてきたそれだ。自分をもっと、労ってやれ。お前は美しい。心も体も、その全てが、俺にとって輝いて見える。だから、魔女だのと言われても、俺は気にしない」
言い終わったところで、森の方が騒がしくなってきた。もう身構えることもしない。争うのは、もう疲れた。セリアと共にあるのなら、この身投げ捨ててでもいいとさえ思えてくる。
「ほらほら急いで! セリアの家がなくなっちまうよ!」
しかし、森から現れたのは、先ほど俺と別れたはずのミラノさんだった。脇には町の住民らしき人間をたくさん連れ、皆が皆バケツを持っている。更に背後には、家半分程度の樽を積んだ馬車まで用意してある。
町の住人たちは、こぞって白い家に走っていった。バケツの中にある水や、馬車に積まれた水で、火を沈めていくではないか。
火は見る見るうちに小さくなり、跡には黒い残骸だけが佇んでいた。
「これは……」
「町の衆を総動員してきたよ。岬の方から煙が上がっていたもんだから、これは若いのがやらかしたのかもしれない、と思ってね」
ミラノさんは「どいてどいて」と言って、俺が足蹴にしていた青年を掴み上げた。
「あんたたちはこれから町で処罰を受けるんだよ。勝手にこんなことをして、なにが魔女だい。私には、あんたたちの方がよっぽど悪魔に見えるわ」
俺に向けて片目を瞑ってきたが、苦笑いしかできなかった。
「ゼレットだっけ? あなたには言ってなかったけど、セリアはたまに町に降りてきては、町のご老体の世話をしたり、子供の面倒をみてくれてたんだよ。仕事なんかも手伝ってくれたりしてさ、私たちにとっては天使だったのさ」
腕の中で赤面するセリアを放り、俺たちは会話を繋いだ。
「セリアの希望で公にはしなかったけどね。それでも事実は変わらないよ。そんな娘を、誰が魔女だと罵るんだい。心ない馬鹿ども以外ありえないね」
町の人たちはセリアに一言ずつ声を掛け、森の向こうに消えていった。
「すまないね」
「これからもよろしく」
「あんたがいないと寂しいんだよ」
「またあそんでね、おねーちゃん」
「セリアちゃんは魔女なんかじゃないからね」
「今度ご馳走作って待ってるわ」
「セリアちゃんの顔が見れんで寂しかったわい」
「クッキー、またつくってよ!」
「新しいお料理でも教えてあげようかしらね」
たくさんの声が、セリアに届いた。
「一応明日には家の立て直しが入るだろうから、今日からウチに泊まりなさい。家で待ってるわ」
ミラノさんも、自分の家に帰るようだった。
俺とセリアしかいなくなった岬で、彼女はまた泣き出した。静かに、淑やかに、慎ましい泣き方ではない。嗚咽を隠すこともせず、大声で海に向かい、泣いた。
「それでいい。誰もお前を責めはしない。責められても、大丈夫だ」
お前の隣にいよう。その涙も悲しみも、笑みも喜びも、共有できないことなどない。
俺が全身で受け止めた彼女は、そのまましばらく泣き続けた。