一話
「……きて……ください」
胸に染み込んでいくような波の音と、少女のか細い声が聞こえてきた。重たい目蓋を開ければ、瞳が日差しで潰されてしまいそうになる。
「大丈夫ですか?」
目が少し慣れ、ようやく声の主を視認できた。彼女は不安そうに顔を覗き込んでいる。もしかしたらずっと俺の目覚めを待っていたのだろうか。そう思うと、少々心苦しい。
「ああ、一応生きている」
上半身を起こし、辺りを見渡した。前方には広大な海が広がり、背後には森が広がる。左側には小さく崖が見え、それよりももっと小さく白い家が見えた。改めて彼女に視線を向けると、長く青い髪が風に流れ、見惚れてしまう程、それくらい美しかった。髪の毛だけではなく、少女の顔立ちも可憐である。鼻が高く瞳が大きい。
「そうですか、よかった……。いつまで経っても起きないので、このまま死んでしまうのかと思いましたよ」
頬笑む彼女もまた、輝きに満ちていた。本当に嬉しそうに笑うものだから、とても優しい少女なんだろうな、と思った。
「お腹、空いてますか?」
「少し……いやかなり」
驚いた表情を浮かべたのは一瞬だけ。すぐに笑顔を見せ、持っていたカゴの中からパンを取り出し、俺の目の前に差し出す。
「どうぞ」
「いいのか?」
「お腹、空いているんでしょう? 家に着くまでは、これで我慢してください」
家に、という単語に疑問を抱きつつ、俺はパンをかじる。動物のように勢いよく食べるのは、なんだか躊躇われた。
長細いパンを食べ終わると、彼女は手を伸ばしてきた。
「立てますか? 私の家に案内したいのですが」
朗らかで大らかで、寛大な心を有しているのであろう。おそらく先ほどの言葉通り、彼女は家で食事をご馳走してくれるに違いない。
「俺はゼレット。正直言って、記憶がない。それでもいいか?」
「私はセリア。記憶など、些細な物ですよ。貴方がここにいることが重要なのではないですか?」
俺を見る瞳は優しく、偽りない気持ちがこちらまで伝わってきた。
セリアの手を取るが、できるだけ自分の力で重い腰を持ち上げる。彼女に体重を負担させるわけにもいかないからだ。見るからに華奢で、力を込めれば折れてしまいそうな手が、妙に愛おしい気持ちにさせる。
立ち上がった後で、彼女はすぐに手を離した。まるで熱湯に触り、温度の高さに反射したかのようなその動きは、俺の気持ちを不快にさせない。彼女は自分の手を見つめ、悲しそうに眉根を寄せたからだ。
「す、すみません」
謝りながら作る笑顔も、酷く悲しそうだった。「では、行きましょうか」とさり気なく続け、俺の前を歩く。その後ろ姿は、知らない間柄であっても不安を抱いてしまう。その小さい背中がなにを語っているのか、まだわからなかった。
森の中は、葉と葉の間から差し込む光で、幻想的だった。地面に生える雑草を明るく照らし、歩くだけで様々な形の光に包まれる。しかし一本道で、道なりに進めば迷うことはない。途中で分かれ道があったものの、町へ行くための道だと言われて納得した。
崖の上に建つ、二階建ての白く小さい家は、彼女のイメージと一致する。穢れなき純真を思い起こさせた。
白いドアが開かれ、ミルクの匂いがする。心が落ち着くようで、それでいてなぜが妙にざわめいてしまう。
二人で住むには充分な広さではあるが、中央に置かれているテーブルとイス、そしてその下に敷かれる絨毯、あとは壁に掛けてある海の絵だけしかない質素な部屋だった。部屋の中央に置かれているテーブルは小さく、イスも二人分。おそらく二人で使うことのみを予想されて造られたのだろう。
「ここには一人で?」
「はい、小さい頃からおばあちゃんと一緒だったのですが、数年前に亡くなってしまいまして」
また、眉根を寄せた。
「そう……か」
俺には、これ以上傷を抉るようなまねはできなかった。図々しくはあるが「悪いが腹が減った。なにか頼めるか?」と言った。
「はい、ちょっと待っててくださいね。今から作りますので」
今度は普通の笑顔を持ち、小走りで左手にある入り口に入って行った。作るという発言からして調理場にでも行ったのだろう。なにも言われていないが、一番近くにあるイスに腰掛けた。俺の体重を受け、木製のイスは小さく軋む。座ってみてわかったことだが、この場所からは、セリアが料理をする姿がよく見える。祖母がいたときは、きっと彼女はここから毎日祖母の後ろ姿を眺めていたのだろう。急ぐわけでもなく、それでいて動作自体は遅くない。優雅に、自由にキッチンの中を歩いては、拍子の度に違った匂いが俺の鼻孔をくすぐる。
気を失う前、海を漂っていたときのこと、砂の感触、森の清涼感、そしてこの家のことを思い出して考えているうちに、料理は完成したようだ。
スープとパンと、数種類の野菜を使用したサラダがテーブルに並べられた。
「申し訳ないのですが、元々私が食べることが前提だったもので、お肉とかはないんですよ」
「いや、食べられるだけでも充分ありがたい」
山のように用意されたそれを、二人で減らしていく。八割は俺の胃袋に収容されたのだが。
食器の片付けを手伝い、セリアが洗い物をしている最中は当然やることがない。仕方なく外に出て、潮風に当たる。
どこまでも広がっている青。見上げれば一面の青空で、下を見ても渺茫たる青があるだけだった。
ここに来る前には、分かれ道があった。セリアは「町に通じる道なんです」と言っていたが、なぜ町から孤立する形で暮らしているのか、俺には理解できなかった。あんなにも儚げで悲しそうな笑顔をされては、それ以上突っ込む気にもなれない。
「ゼレットさん?」
背後からセリアの声が聞こえてきた。
「勝手に出て悪かった。ちょっと外の空気が吸いたかったんだ」
「そうだったのですか。でも謝る必要はありませんよ? 自由にしてください」
その後で、彼女は思い付いたようにこう言った。
「しばらくうちに泊まっていかれてはどうですか?」と。
家は二階建てで、元々セリアは二階に自分の部屋を置いていたのだが、祖母の死をきっかけにして一階に住むようになった。だから自分が昔使っていた部屋が空き部屋だと言ったのだ。行き場のない俺にとっては朗報だが、彼女はそれでいいのだろうか。
「どうしますか? 滞在なさるなら、今から二階を片付けるのですが」
「――では、頼もうか」
俺の言葉を聞き、彼女の顔がパッと明るくなった。そして元気よく家内に戻ると、階段を上っていくセリア。ずっと一人だったから、同居人が増えることを嬉しく思っているのか。しかしここは祖母と暮らした場所なのだ。俺のような浮浪者紛いの人間が踏み荒らしてよいものかと困惑してしまう。
「ゼレットさんも来ていただけますか?」
階上からの声で、俺も二階にお邪魔させてもらうこととなる。
中途半端にねじ曲がった螺旋階段のような構図で、一周すると二階に出る。短い通路の先に、ドアが一つだけ佇んでいた。先ほどの声はこの中から聞こえたのだろう。開き掛けのドアに少し力を加えた。
西と東に窓があり、日がよく差し込む部屋だ。埃っぽさなどなど微塵もなく、セリアが一生懸命掃除に励む姿が目に浮かぶようだ。
「荷物ないのでベッドだけ使えるようにしておきました。必要なものがあれば、その都度言っていただければ用意しますね」
「わかった、お言葉に甘えさせてもらう」
セリアは嬉しそうに笑った。
階下に戻るセリアとは対照に、俺は頭を抱えそうになった。だがベッドに腰掛け、そのときに舞った太陽の匂いが少しだけ思考を緩和してくれる。俺も彼女も出会ったばかりで、互いを知らないはずなのに。そんなことばかりを考えてしまった。
夕食も昼食と大差はなかった。スープとパンとサラダ。ただし量はかなり減っている。
「足りますか? いつもと同じ感覚で二人分用意したもので……」
「充分だ。俺は元々小食だから問題はない」
足りる、と言えば嘘になる。しかし、足りない、と言うにも語弊がある。食べられる、という事実こそが、今の俺には大切なのだから。
「そういえば、ゼレットさんにお願いがあるのですが、大丈夫ですか?」
「そういうのは、疑問符を付ける前に用件を言え。その言い方だと、断らせることを前提としているようだ」
「は、はい。それでは――」
彼女は一つ咳払いをして言い直す。
「今日だけで野菜がなくなってしまって、収穫に行くか買いに行く必要が出てきました。お使いを頼めますか?」
俺はパンをかじり、一拍置く。
「ああ、構わない。野菜が底を尽きたのも俺のせいだしな。喜んでとはいかないが、なんでもしよう」
今日一日だけで、彼女はどれだけの笑顔を俺に見せてくれただろう。しかし、輝きを含んだ笑顔と、憂いに苛まれた笑顔。どちらが本物かを見分けるだけの人間性は、俺にない。
彼女は目元に笑みを浮かべたまま、食事の時間は過ぎた。