酒と歯と女
四月も近くなった東北は、日中こそ日差しの暖かさを感じることができるが、夜ともなるとコートなしでは往来を歩くことすらままならない。太郎はまだ午前二時だというのに所々シャッターの閉まった寂れた繁華街をほろ酔いながら歩いていた。
彼には行きつけの店というものはなかった。人と親しくすることは生きるためのサービスとサーカスであって、楽しみではない。それが彼の人生を支える背骨だった。もし行きつけの店のマスターなどに、酒を多めに入れてもらって世間話をしつつ、また来週も飲みに来ておくれよ、なんて言われた日には彼はげんなりしてしまうに違いない。
太郎はぼんやりしているようで、しかし何かを絶え間なく考えているようにも感じていた。けれども、それが何なのかはさっぱり分からなかった。ただ、無意識に動く舌が、昨晩酔って転んだ際に前歯を欠いたことによる口の中の違和感と切れた唇の無感覚を教えてくれた。
そういえば、と太郎は思い返す。先ほどの店では若い男女のグループが何人かで寄り集まって飲んでいた。楽しそうであったが、騒ぐようなこともなく、嗜む程度に酒を飲んでいた。ほんのり頬を朱に染めた男が、将来の夢を語りなから隣にすわった黒い髪のニコニコとほほ笑む美しい女の太ももに手を置いていた。太郎は何ともなしにそれを見ていたが、酒の回るにつれて、真人間そうで、幸せそうな、この集まりを非常に不快に感じ、そしてまっとうな人間のまっとうな幸せを不快に感じる自分自身の矮小さに気づいて狼狽した。会計をそそくさと済ませて伏し目がちに店を出た。悪かったのは僕なのだから、と。
行きかう人の少ない飲み屋街はどこか暗く感じられた。太郎は誰も渡らないスクランブル交差点を見ていた。すると、やんわりとした白い光を背負った病的に白い女がスクランブル交差点の歩行者信号の点滅するのに気付いて、滑るように走り出した。ハイヒールが歩道にぶつかる硬質な音と不釣り合いな滑るような挙動、信じがたい白さと、どこか霊的な存在感から、太郎は直感した。昨日折った僕の歯は、きっとどこぞで生まれ変わって女となって今は僕を探しているのだと。勿論そんな考えが妄想の産物にすぎないことは分かっている。しかし、わかっていることと、直感してしまったこととは関係がない。
歯の妖精は、そのまま大通りから一本奥の道に入ってしまった。太郎は女の後を追った。細い道だった。年老いた犬のようにひっそりと静かな狭い飲み屋やスナックが、ぐったりと道の両脇に密集していた。道を歩く者は太郎と白い女以外にいない。曲がり角が近くなって、女を見失わないように太郎は歩を速めた。しかし、曲がり角を曲がった先には女はすでにおらず、彼は茫然とした。女を見失ったのは、なにも彼女が太郎に気付いて、走り去ったからではない。彼女が入った道の先は思いのほか人通りが多かったからだ。こんな時間だというのに、随分人がいるな、そう思った太郎は時計を見たが、どうやら電池切れのようで、二時のまま時計の針が止まっていた。
「あら、遅かったじゃない」
と突然太郎は後ろから話かけられた。待ち合わせをしていた記憶はない。振り返ると、例の女がいたが、道が明るいせいか先ほどの白っぽく現実感のない印象は失われていた。
「二時にここの店で待ち合わせだったでしょう」
何だかよくわからないが、女の顔に見覚えがある。そうこうしているうちに、他にも数人の男女がやってきた。
「太郎、遅れてすまん、英次がテスト近いから飲みに行きたくないとか言いやがるもんで」
といった彼とその友人英次にも見覚えがある。酔って何か約束を忘れていたのかもしれない。そういえば、そもそも今日は調子が悪かったし、女を見かける前から頭がなんだか働きにくかったことは確かだ。
「おう、そうだな、ぱーっと飲むか」
飲み屋にはやけに不健康そうな顔をした30代半ばと思われる男が、バーカウンターで一人酒をしていた。太郎はあんな人間になってはならないと思って見ていたが、目があってしまった。男の存在はどこか儚いような現実感のないような印象を受けたが、虚ろで濁った目だけはやけに印象深かった。
「太郎くんももう卒業だものね」
「そうだね。君は、そうか、留年したんだったな」
「留年なんて言うと聞こえが悪い感じがするが、彼女、好んで留学して一年ダブったのだからね」
「ああ、いや僕だってな、夢はあるんですよ、夢はね。どこか寂れた港町で喫茶店を開くんですよ。そして、死に場所を探しに来た疲れ切った老紳士に美味しいコーヒーを一杯出してさ、開け放した広い窓から柔らかく服潮風と夕陽を感じた男が、気を取り直してすっと日常に戻っていけるような」
「なんというか、大学で培った専門性の欠片も生かしていないところが本当にお前らしい夢というか、セカンドライフをすでに夢見ているのってどうなのよ」
と言いつつ友人は女と目を合わせる。
「そういえば、結婚式っていつ頃やるのがいいのかしら。籍を入れるのは、やはり仕事が落ち着いてきたタイミングだよね」
ああ、そうだった、この友人二人は長いこと交際していたんだっけな、と太郎は思い出した。そして彼女に「あなたとは友達のままがいいかな」と言われたのももう大分前のことになるのだな、と思った。なかなか酒が進まないせいで、じっとりと結露したオールドファッショングラスをつかむとカランカランとゆすってから太郎はアードベックのダブルを一息に飲み干した。
「ああ、私にも太郎くんみたいに、こう、なんというか夢らしい夢があればなあ」
と彼女は美しい顔で言った。ウイスキーのせいで胃がキリキリした。僕の本当の夢はね、と言いかけたがなんだか、非常に馬鹿らしくなってやめた。
「寂れた港町に行く前に、一仕事して、お金をためないといけないわけで、そう考えると、こう興味のない仕事にだって熱心さをもって打ち込めるような気がして」
「そうね」
と言った彼女の太ももに太郎は手を置き、温かいなと思った。
「今日随分飲んだのね」
「いや、そんなことないね、決して」
と答えはしたが、夕方からずっと飲んでいたせいで、舌がまともに回らなかった。
翌朝目覚めると、自分の床で寝ていた。ひどい二日酔いだった。目が回り、口の中はべたつき、カラカラで、頭は脈にあわせて割れるように痛んだ。昨晩の記憶は非常におぼろげで、どうやって家に帰って来たのかすら定かではなかった。財布の金は思ったより減っていないから、記憶を失ってから先はどうやら飲んでいないらしい。太郎はなんとか起き上がって台所で水を飲んだが、その時何か固いものをふみつけた。よく見ると、それは白い歯のようだった。スモーカーの太郎には似つかわしくない、やたらと白い歯だった。
寝ぼけ眼で郵便受けを開くと旅行のパンフレットと大学の同期で仲の良かった英次と美紀の葬儀の知らせが届いていた。しばらく、妙に現実感のない状態で、その知らせを握ったまま立ち尽くしていたが、やがて太郎はよたよたと庭に行き、穴を掘って歯を丁寧に土に埋めた。太郎にはどうにも、自分には不釣り合いな美しいこの白い歯の欠片が、自分に最後に残されていた綺麗な魂の部分だったように感じられてならなかった。随分長く寝ていたようで、もう日は傾きつつあり夕暮れが近いことに太郎は気付いた。
太郎は部屋に戻って机の上に置いてある旅行のパンフレットを捨てたが、そこに印刷されていた彼の夢見ていたようなさびれた港町には彼は勿論もう気づかなかった。