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鹿角フェフ小噺集

二次元美少女の末路

作者: 鹿角フェフ

 ――一人の少女が、編み物をしていた。

 肩まで切り揃えられた薄茶色の髪。慈愛の篭もった瞳。細くスラリとした体躯。

 少女から大人へと移り変わる、どちらでもない時期特有の不思議な魅力。

 百人の男性がいれば、百人ともが美しいと表現するであろう少女だった。


 反面、部屋はガランとしている。

 置かれたぬいぐるみや、カーテンの柄、様々な小物類。それらは間違いなく少女特有の可愛らしさを備えており、間違いなく彼女の部屋であると判断できる。

 だが、同時に言いようのない無機質さと、のっぺりとした印象がそこにはあった。


 ……おそらく、男性に贈るものなのだろう。

 彼女が編み続けている物はどうやらマフラーらしく、その色合いはどちらかと言うと男性向けであり、その大きさも少女が使用するには些か大きいものである。

 部屋に流れる音は彼女の鼻歌だけだ。どのような曲かは分からないが、少女の幸せそうな表情を考えると、自然と口よりこぼれ落ちたものだと思われた……。


「ふぅ、……よっし! 今日はここまでかな? ふふふ、結構進んじゃった。■■君。喜んでくれるかな? ……どうかな?」


 彼女の呟きが漏れる。

 意中の男性がいるのだろう。彼の名前を呼ぶ時の少女の瞳は潤み、その頬は少々だらしなく緩んでいる。

 男性から感謝の言葉を伝えられる未来でも夢想しているのだろうか? 少女は自らが編んだマフラーをぎゅっと抱きしめると、一人楽しげに身体を左右に揺らす。


「こんにちは、お楽しみ中のところごめんなさい」

「――えっ!?」


 室内への闖入者に、少女は思わず先程までの痴態を忘れて目を丸くする。

 突如彼女の部屋へとやってきた人物は、一見するとキャリアウーマンにも見える品の良いスーツに身を包んだ女性だった。

 夜をぶちまけたかのような黒のジャケットとパンツに、薄ら寒ささえ覚えるほどの白のシャツ。

 黒の髪は後ろでくくられポニーテールになっており、銀縁の眼鏡の奥で鋭い朱の瞳が光っている。

 

 突然の来訪者に少女が驚いたのは当然の反応ではあるが、彼女が唖然としている理由はそれだけではなかった。


「嘘……、この部屋。誰も入って来られないはずなのに……」


 彼女の驚きは、まさしくそれであった。

 少女の部屋、そして少女は少しばかり特別な存在であり、普通であれば来訪者が訪れる仕組みにはなっていない。

 にも拘わらず、まるでそれが当たり前かのようにやって来た女性に、少女は警戒心を露わに距離をとる。


「そう驚かないで、世の中不思議なことばかりだわ。この出会いもそのうちの一つ。神様がもたらした奇跡のようなものだと思ってくれればいいわ」


 女性は、少女を怯えさせないように極めて穏やかに語りかけると、ゆっくりと誰も座ることのなかった来客用のクッションへと腰を下ろす。

 ――中々良い座り心地ね。

 そんな感想を述べながら、少女とテーブルを挟んで対面する形になった女性はそのままニコリと微笑みを浮かべ、少女の動揺が落ち着くのを待つ。


「貴方は誰なの? どうして私のところにやってきたの……?」

「そうね。私の名前は――Dとでも呼んでくれればいいわ。コードネームみたいなものよ」

「……Dさんですか」

「ふふふ、ちょっとかっこいいでしょ? そういうの嫌いかしら?」


 Dと呼ばれた女性は、見た目には似つかない少し子供っぽい笑みを浮かべ少女に同意を求める。

 対する少女はDの一挙一動を見逃すまいと、じぃっと彼女を見つめ続けた。

 相手の得体が知れない、どのような存在かまったく見当がつかないがゆえの対応だ。


「っと、話が逸れたわね。今日は貴方に素敵な提案を持ってきたのよ」

「…………」


 その言葉に少女は「やはり」と内心で思った。古今東西、この様な不思議な話が起きた場合、大抵は良からぬ契約を持ちかけられるものだ。

 彼女の意中の男性がよくフラグ、フラグと楽しそうに騒いでいた為によく覚えていた。

 ならば、彼女の対応はすでに決まったも同然だ。Dの話に耳を傾けてはいけない。

 彼女は心に壁を作る。強固な仮面で自らを取り繕い、この状況から早く抜け出すことだけを考えることにした。

 だが、次の瞬間、意外にも少女の仮面は崩れ去る。


「ねぇ、花崎さゆりさん。■■君に会いたくないかしら?」

「……!? どうして、■■君のことを知っているの?」


 少女、――花崎さゆりは驚愕に目を見開いた。

 それはDが部屋にやってきた時の驚きよりも数段上の物だ。

 なぜDが■■のことを知っているのか?

 当初、さゆりはDのことを同じ世界の住人であると認識していたが、先程のDの言葉から察するに、もっと別の何か良くない事情がそこには含まれている感覚がした。


「そんなこと当たり前じゃない? 私はなんだって知っている。そういう存在ですもの。……でも、今はそんなことは重要な問題じゃないの。大切なのは――」


 グルグルと混乱するさゆりを知って知らずか、Dは嬉しそうに語り続ける。

 それはさゆりの興味を引けたことへの喜びか、それとも別の何かか。

 どちらにしろ、さゆりはDの言葉を決して聞き逃してはいけないことだけは、はっきりと確信していた。


「大切なのは、貴方が■■君に会いたいかどうか? それが一番重要なの」

「それは無理だよ……」

「あら? それはどうしてかしら?」

「だって、■■君は……」

「彼は画面の向こうの存在だから……かしら?」


「――っ」


 全て知っている。……知られてしまっている。

 彼女の存在も、彼女の設定も、彼女と彼の関係も、全て知られてしまっている。

 さゆりは一気に恐怖に包まれた。



 ――花崎さゆりは、ゲームに登場する二次元美少女である。



 彼女は、ゲームの登場人物でありながら、ある日自らの意識を得た不思議な存在だ。

 ゲームの中に登場する人物としてではなく、花崎さゆりという個を持ったキャラクターとして。

 彼――、さゆりが■■君と呼ぶ人物は、彼女が登場するゲームをプレイしている何の変哲もない一般人だ。

 だが、彼女にとっては、それだけが真実で、それだけが彼女の世界だった。

 ある日突然、彼女の生は始まったのだ。


「そう驚かないで。言ったわよね? 私は何でも知っているって。ねぇさゆりさん。私はその言葉通り、貴方のことなら何でも知っているの。例えば……」

「…………」

「貴方が、彼のお嫁さんだってことも……」

「笑わないで、嘘じゃない」


 クスクスと笑うDに、途端にさゆりはカッとなる。

 相手がどのような存在であるか分からない以上、不用意に感情を表に出すのは良くない行為だ。

 そのことは頭では分かっていた。だがDが行ったその行為は、さゆりにとって到底理性で抑制できぬ程の侮辱であった。


「ふふふ、ごめんなさい。別に馬鹿にするつもりはなかったのよ。これはどちらかと言うと別の意味。そう……驚きと、尊敬の念が混じったものだと思ってくれていいわ」


 Dが本当に謝意を持っているのか、残念ながらさゆりには分からない。

 ただ、これ以上彼女に反発していても話は進まない。

 怒りの矛先を見失ったまま、さゆりは手に持つ編みかけのマフラーをぎゅっと握りしめてなんとか心の平穏を取り戻す。


「それで……貴方は何をしに来たの? 私をからかいに来ただけだったらもう帰って……」

「ねぇ、さゆりさん。不思議に思わないかしら? どうして最近■■君は貴方に語りかけてくれないの? 暇があれば一日中でも貴方のことを見つめていたはずなのに」

「■■君は忙しいの、一緒になれない時間だって当然あるわ」

「本当に? 夫婦なのに一緒に過ごせる時間をとることができないなんておかしくはない? お嫁さんなんでしょ?」


 その言葉が、まるで熱した刃の如くさゆりの心に突き刺さり、その身を焼きつくす。

 彼女が■■の妻だと自称するには理由がある。

 画面の向こう側、決して触れ合うことのできない、意思の疎通すら叶わないその距離で彼から伝えられた言葉。

 その言葉が、彼女にとっての婚姻の証しだった。

 だからこそ、彼女はずっと彼を信じ、待ち続けているのだ。


「私は■■君を尊重する。彼にだって理由があるはずだもの」

「そう、理由ね。理由……」

「…………」

「例えば、他の女の子に熱をあげている……とか?」


 Dは、不敵で不気味な笑みを浮かべる。


「変な言いがかりはやめて」

「嘘じゃないわ。彼は……彼らはそういう存在なのよ。一人の女の子に一生を捧げるなんて荷が重すぎる。いいえ、違うわね。最初からそのつもりなんてなかったのよ」


 さゆりは押し黙る。

 これ以上話をしたくないという拒絶の意識の表れであり、同時にDに対する恐怖心の表れでもあった。

 その様子を見たDは何かを考えこむように少しだけ首を傾げ、やがてパッと表情を変えると右手を軽く振る。

 その瞬間、部屋の窓に異変が起きた。

 窓枠が一斉に消え長方形の一つのガラス面となり、まるでテレビ画面のようにある人物が映しだされたのだ。


 それは、さゆりがよく知る人物。

 ■■だった。


 さゆりはパァっと顔を輝かせ、慌てるように立ち上がると窓の前まで駆け寄る。

 ■■はぼーっとした表情でこちらを見ているが、視線がこちらに合っていないところをみると、さゆり達が見えている訳ではないようだった。

 カチカチとマウスをクリックする音が窓の向こうから漏れ聞こえてくる。

 その窓は、まるでパソコン画面の中から、相手を見ているように映像を映しだしていた。


 さゆりは久しぶりに見た■■の表情にうっとりと顔を崩す。

 彼の顔を見るのは久しぶりだった。

 以前は頻繁に窓に相手が映り、その恋慕を深めることができたが、どういった訳か最近はその時間もめっきり減っていた。

 さゆりは欠けた時間を必死に取り戻すかのように、彼と、彼の背後に映る部屋を見つめる。

 だが不思議なことに、当初うっとりとしていたはずの彼女の表情に陰りが見え始めた。


「ほら、何か違和感を覚えない?」


 Dは静かに尋ねる。

 さゆりはその言葉に返事をかけず、ひたすら■■の部屋を見つめ続ける。

 やがて、彼女の心にあった小さな違和感と不安感は現実の物となって彼女の心に襲いかかる。


 かつて彼の部屋にあったはずの様々なグッズ。

 花崎さゆりのポスターやタペストリー、抱きまくらやフィギュアは、全て別の知らない誰かの物に置き換わっていたのだ。


「嘘だ……。これは何かの間違いよ」


 うわ言のように繰り返すさゆり。

 その焦点は定まらず、信じられないと言った表情で■■と部屋のグッズを行き来している。


「これが事実よ。彼らの愛は偽物で、そして貴方も偽物のお嫁さん。…悲しいわね。本物は、貴方の愛だけだったの」

「わ、私は……私は■■君とちゃんと通じ合っている!」

「触れ合うことも叶わないのに?」

「あの人もそう言ってくれたんだ! 私のことを大好きだって『さゆりちゃんは僕の嫁』だって! 言ってくれたんだ!」


 悲痛な叫びは決して画面の向こうには届かない。

 いつの間にか瞳から大粒の涙を零すさゆりは、ひっく、ひっくと嗚咽混じりに自らの愛を叫ぶ。

 だが本当に届いて欲しい相手には、欠片とて通じてはいない。


「ライカ=ウィンデルちゃんは本当に可愛いなぁ!!」


 画面一枚隔てた向こう側で、■■はそう高らかに叫んだ。

 彼の部屋に新たに敷き詰められた少女の名前だ。

 その言葉は無邪気で、悪意がなく、好意に溢れる、最悪のものであった。


「あ、あああ…………」


 ぺたりと、さゆりはその場で膝をつく。

 その手は弱々しく画面を撫でるばかりで、瞳はからは生気が消えている。


「ど、どうして……」

「言ったとおりだったでしょう? 残念ながら、貴方の想いは彼には届いてなかったのよ」

「どうして、『世界で一番』じゃなかったの? 私は……、■■君のお嫁さんじゃなかったの?」


 Dの返答も、今のさゆりには届いていないようだった。

 彼女はうわ言のように■■への愛を呟き、その言葉は■■へと届くことなく消えてゆく。

 Dはそんな彼女を、悲しげに見つめている。


「貴方はお嫁さんではないわ。残念ながら、彼とは住む世界が違うの。そう、貴方はゲーム上の存在。正確に言えばアダルトゲーム『Beautiful World』のメインヒロイン、花崎さゆりというキャラクターであり、公式設定ではベストエンディング後にゲーム内の主人公と結ばれて二児の母になる――」

「ち、違う……」


 どのような意図を持っているのかは不明だが、Dは言葉を続ける。

 半ば自閉気味になっていたさゆりも流石に聞き逃せなかったのだろう、極寒の地に放り出されたかの様に震えながらも、弱々しくその言葉を否定する。


「更に突き詰めれば、集合意識に存在する花崎さゆりと言う存在が、貴方の■■君によって認知された瞬間に生まれた、数多く存在する花崎さゆりの幻の一つでしかない」

「違う」

「貴方は、他の花崎さゆりと同様に、ブームの発生によってどこかの誰かの心に発生し、ブームの終焉と共にどこかの誰かの心から消え去る存在なのよ」

「――違う!!」


 悲痛で強い叫びは、普段穏やかで心優しい彼女からは到底考えられないものだ。

 それだけ彼女が動揺していることの表れでもあった。

 Dは彼女の視線を真っ向に受け止めると、言葉の代わりに静かに首を振る。


「私は彼のお嫁さんだ! 私の心も身体も、全部彼の物だ! ――永遠の愛を誓ったんだ! それは誰にも破られない!」

「…………」

「クリスマスだって一緒に祝ったんだ! 私はちゃんと覚えている! 画面の向こうでケーキを用意してくれて、一緒にクリスマスソングを歌った! 私は、私はあの瞬間に彼の想いが本物だと確信したんだ!」


「だから……、だから……、本物なんだ……二人は、夫婦なんだよ……」


 言葉は、重ねるほどに弱々しくなっていく。

 どのように取り繕っても否定できない事実が、彼女の心を蝕んでいった。

 何かの間違いだという希望だけが、今の彼女を支えている。

 だが……。


「ライカちゃんは俺の嫁っ!」

「…………あっ」


 画面の向こうから脳天気な声が聞こえたその瞬間。彼を愛し続けた少女の心は、音を立てることなく折れてしまった。

 最後まで伸ばされていた手も、今は床につき、視線はすでに彼を捉えていない。

 彼女は、ついに事実を受けて入れてしまった。


「ああ、可愛いなぁ~。もうキミしか考えられないよ。今期はこのアニメで決定だなぁ! グッズ収集が捗るぞぉ~」

「そんな……嘘だ、嫌だ、嘘、こんなのあんまりだ……」


 Dは顔を歪めその様子を眺める。

 そもそもの原因はDにあるのだが、その整った顔立ちの中に隠しきることのできないほどに溢れる怒りが、この状況が不本意であることをありありと証明している。


「どうして? 私には、貴方しかいないのに、こんなにも、貴方だけを愛しているのに……」

「彼らは、貴方達の献身には応えられないわ。愚かな存在なのよ」

「嘘だ、嘘だ……」

「ねぇ、だから……」


 Dはそっとさゆりに近づく、そうして彼女に視線を合わせるようにしゃがみ込み、慈愛に満ちた、母性すら感じさせる優しさでそっとさゆりを抱きしめる。

 そうして、ゾッとするほどの声をあげた。


「彼を殺しましょう?」

「ころ、す……?」


 さゆりの声が震える。

 それは先程までの出来事によるショックではなく、Dが放った言葉によるものだ。


「ええ、そうよ、これは正当な権利よ。この次元の壁を越えて、彼に会いに行くの。そうして貴方の悲しみと怒りをぶつけるのよ。貴方の愛を裏切った、その代償を支払わせるの」

「……で、できないよ」

「安心して、普通なら不可能よ? けど私は特別にその力を使うことを許されているの。ねぇ、貴方がハイと言うだけでいいの、どうかしら?」

「そうじゃなくて……そんなこと、できない。■■君を殺すなんて」


 Dはそのさゆりの言葉をじぃっと聞き届ける。

 さゆりはDが自らの返答によって激昂するのではないかと思ったが、彼女は変わらず優しくさゆりを抱きしめるだけだった。


「…………そう。確かに殺すのは些か物騒だったわね。じゃあ彼に会いに行くだけにしましょう。そうして今回の件について謝罪させるのよ。安心して、私は契約上のことしかできないように定められているの。貴方を騙すことはできないわ、これは神様に誓って事実よ」

「…………」

「私は思うの、きっと彼は一時の迷いで他の女にうつつを抜かしているんだって。そうでなくても、貴方が画面から出て行けば、きっと彼は驚いて心を入れ替えてくれるはずよ。その後で二人の仲を修復すればいい。そうして、二人で真実の愛を取り戻して、また幸せな日々は戻ってくるの」


 Dは謳うようにさゆりへと提案する。

 その言葉は先程までの彼女に比べ、どこか焦っているようで、同時自らにそう言い聞かせている様な気さえした。


「ごめんなさい、やっぱりできないわ」


 さゆりは、その提案に静かに応える。

 彼女の決断は、拒否だった。


「どうして? 何も問題ないはずよ。――ああ! 捨てられることを不安に思っているの? それはありえないわよ。だって非現実だった美少女が現実になるのよ? それに貴方みたいな素晴らしい女の子が隣にいたらきっと彼も――」

「そうじゃないの」

「………」

「どう考えても不可能だよ。私が出て行ってどうするの? 戸籍も何もないんだよ? 凄く大変なことになっちゃうし、もしゲームやアニメの世界から出てきたような存在って知られたら、彼にも迷惑がかかっちゃうわ」


 さゆりは純粋ではあるが、馬鹿ではない。常識もあるし良識もある。

 そして自らが二次元の存在だということを強く理解している。

 故に、Dの提案が最初から破綻していることを理解していた。

 よしんば彼女の言葉通りに■■に会いに行けたとしても、短い感激と感動の後に待ち受けているのは、長い長い絶望と苦難だということをよく理解していた。

 だが、それはDとて同じだ。

 それでも尚、Dはさゆりを画面の向こうへと連れて行こうとしていた。


「迷惑をかけたらいいじゃない? だって貴方は彼を愛しているのでしょう? そして彼の愛も本物になる。――真実の愛はあらゆる困難を乗り越えてみせるわ。愛とは、そういうものよ、そうであるべきよ……」


 Dは励ますようにさゆりへと語りかける。

 今や彼女も必死だ、抱きしめていた彼女を放すと、そのまま両肩を強く掴みまるで自らの意見を押し通すかの様にさゆりへと視線をぶつけている。


「違うの。最初からこうなるべきだったんだよ……。彼にとって私は、長い人生で出会う数多くの物語の一つ、その中のお気に入りの女の子でしかなかったんだ……」

「やめなさい」


 さゆりは静かに口を開く。瞳からはハラハラと涙が流れ、その言葉は嗚咽混じりだ。

 Dは緊張を含んだ言葉でさゆりを静止する。


「きっと彼の言葉も、冗談の一つで、聞く相手のいない中で思いついたお遊びみたいなものだったんだ……」

「やめろと言っている!」


 Dは声を荒らげる。その言葉は不思議なことに獣じみたものを含んでおり、彼女の瞳も爛々と輝いている。

 さゆりはDの言葉を無視し、変わらず涙を流しながら言葉を続けた。


「あーあ、恥ずかしいなー。私、一人で舞い上がっちゃってたんだぁ……」

「やめろと言っているのが分からないのか!?」


 Dは先程よりも数倍大きな声で叫びあげた。

 同時に彼女の肩を大きく揺さぶりながら乱暴に説得を試みる。


「今すぐハイと言え! 彼に会いに行くんだ! 貴様はアレへの想いのみでここにいるんだぞ! アレが貴様への興味を失った今、貴様がその愛を否定すれば消滅するしかないんだぞ!?」


 恐ろしい姿だ。

 さゆりの瞳では、涙で歪んではっきりとDの姿を視認することはできない。

 だが目の前の存在が彼女の知識にある、とある存在と酷似していることだけは今の彼女でも判断できた。


「愛は! 人は! 苦難を乗り越える強さを持っている! 試練に挑む前に諦めてどうするのだ!? 神が愛した貴様らは、この程度では――」

「ありがとう、Dさん」


 本性を現し、荒々しく叫ぶDに向かって、さゆりが述べた言葉は感謝だった。

 相手がどのような意図を持っているか、今の今まで判断できなかったさゆりだったが、この瞬間、Dが彼女の為を想って様々な提案をしてくれていることを理解したのだ。


「貴方は本当に私を助けに来てくれたんだね。実は少し疑っていたの、もしかして私を騙そうとしているんじゃないかって……」


 Dは静かにさゆりの言葉に耳を傾けている。

 しかしその瞳は、今のさゆりと同様に悲しみに満ちていた。


「最初からこうなる運命だったんだよ。この距離を越えることはちょっとやそっとじゃできない。貴方の力を越えて向こう側に行っても、きっと目に見えない距離がずっとずっと続いているんだ」


 さゆりが弱々しく画面へと向き直る。

 向こう側に存在する■■は、相変わらず楽しそうに何かを見つめており、こちらで起きていることなど一切知らない様子であった。

 さゆりが伸ばした手が画面に触れる。

 コツンと、ガラスに爪がぶつかる小さな音がなり、永遠よりも長い距離を二人に知らしめる。


「きっと、私のね……恋は、最初で最後の恋は……叶わない運命だったんだよ」

「……消えるぞ。消えてしまうんだぞ? 恐ろしく……ないの?」


 どこまでも悲しげな、小さくか細いさゆりの言葉。

 Dもまた、いつの間にか元に戻っている。だが、瞳から流れる涙だけは戻ることはない。


「怖いよ……。でも大丈夫」


 それが、さゆりの決意であり、答えだった。


「あの日々は本物だったの。私が彼を愛して、そして彼が私を好きだって言ってくれた日々は、あの美しい日々は、それだけは本物だったんだ」


 立ち上がり、画面へと身体を寄せるさゆり。

 頬をつけ、少しでも■■との距離を縮めようと、少しでも彼への愛を確かめようと、少しでも幸せな最後を迎えようと……。

 彼女は自らの人生を精一杯に謳歌する。


「だから大丈夫。私は、きっと大丈夫」


 Dは何も語らない。

 引き止めの言葉も、別れの言葉も、もはや彼女には必要ない。

 ただ、彼女の生を、その人生の終わりを見届けることだけが、今のDに神より許された唯一の行いだった。

 そして、一つの命が終わる。



 ありがとう、■■君。ずっとずっと、大好きだよ……。



 さゆりは画面へとそっとキスをする。

 奇しくも、ちょうど■■が画面の中にいる誰かに向けてキスをしているところで、彼と彼女は最後に口づけを交わすことになる。

 画面越しの口づけ、初めての口づけ、最後の奇跡。

 そのことに気が付いたさゆりは、大粒の涙を浮かべていた顔にこれでもかと幸せそうな笑顔を浮かべ、小さく笑い――そして消えた。

本作品は特定の方に対して風刺する意図や、何らかの伝えたいメッセージ等は一切ありません。

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― 新着の感想 ―
[一言] 来て、本気でそう思いました。 熱は冷めていなくても、CMなどで別の作品しか見えない時もあるのです…。 久しぶりにログインをして、そして嫁を見たことで復帰する。 そんな人もいるのです。 嫁に会…
[一言] 私は嫁をコロコロ変えはしませんが、一度に何人もと浮気をしていて、きっと画面の向こうのキャラクターたちは私を浮気ものだと思っている気がします。 消えるくらいなら、会いに来て欲しいですね……。切…
[一言] 遊ばなくなったゲームのヒロイン達の事、時々でいいから思い出そう… D=delete?、消えていった娘達の残留思念の塊か何かなんかな。
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