5. 真実?
「さぎ、し……?」
私は言われた単語の意味が理解できなかった。もちろん知っている言葉、とても簡単な言葉なのだけど。けれど、どうしてもクルシッド様とは結びつかなかった。だってあの方は異国の高貴な方で、とてもお美しくて優雅で、お仕えする方のために戦いを選んだ高潔な方。私をこの平凡な人生から救ってくれる方。詐欺師だなんてことが――
「奥様は実際に会ったのだからお分かりでしょうが、見た目の良い異国人ですからな。そんな男が同情を惹くような話をすれば助けになりたいと思う――思い込まされる者がいるのは仕方ないでしょう。ことに、若いご婦人などは」
初老の警吏の、旦那様の視線が私に突き刺さる。あるいは粘りつく。とても、厭な感じだ。あの方のことを貶めないでと叫びたい。なのに、舌が凍りついたかのように固まってしまって、何も言うことができなかった。
私の目も、自由に動かすことができない。警吏の皺だらけの汚らしい顔がしたり顔で続けるのを、見たくもないのに見てしまう。
「最近、貴族の殿様方の間で噂になっていたそうで。奥方が気に入っていたはずの宝石を最近つけていない、と」
「ライサ」
旦那様に唐突に呼ばれて、私はびくりと震えた。やっと身体を動かすことができて旦那様の方を向くと、私の夫だとかいう人は、今までに見たこともない険しい表情をしていた。
「リラの花の髪飾りを見せてくれないか」
「……はい」
いつもの習慣で従順に頷いて――次の瞬間、私は言いようのない怒りに捕らわれた。
この人たちは、私があの方の気を惹くために宝石を渡すような女だと思っている!
私たちの関係はそんなものじゃないのに。もっと清らかで、もっと純粋なものだ。他の方たちとは違う。それは、下心があって貢ぎ物をした方もいたのかもしれないけれど。それほどに、クルシッド様は美しい方ではあったけれど。でも、あの方はそんな女たちを見下したに違いない。だからこそ私を選んでくださったのだ。あの方は、私を貞女と褒めてくださった。この人たちに分からせてやらなくては!
しまっておいた髪飾りを見せた時の二人の表情は見ものだった。呆然とするのは、今度はこの人たちの方だ。私が狼狽えて取り繕うとする様をいたぶろうとしていたに違いないだろうに、 あてが外れて目を剥く旦那様を眺めるのは、大層良い気味だった。やはりこの人はうんざりするほど器の小さい人だと思う。
「本当に私が贈ったものか? 似たようなのを作ったのでは?」
「お疑いなら気の済むまでごらんになってくださいませ。旦那様からいただいたものに間違いございません」
未練がましく目を近づけて髪飾りを吟味する旦那様に対して、警吏はどこかすっきりとした顔をしていた。
「奥様。いや、大変な失礼をしまして――」
「分かっていただければ良いのです」
警吏の謝罪を、私はごく冷淡に受け止めた。すると彼は少々慌てたようにまくし立てた。
「職業柄、わざと無礼なことを言って動揺を誘うのが常になってしまっておりまして。いや、まことに、貴女は貞女の鑑でいらっしゃる。そこらの浮ついた方々とは、その、心から申し上げているのですが、まったく違った真心をお持ちだ」
「ええ……」
演技だった、とでも言いたいのだろうか。実際、私は動揺したし大変に苛立った。そして、態度を改めたこの男の喋り方は、真摯で礼儀正しいとさえ思えた。
けれどどうにも厭な感じが拭えない。彼が語ったことも、私が先ほど考えたこと、クルシッド様がおっしゃってくださったことと重なっている。
私は他の方たちとは違う。貞淑な女だ。その通りのはず。なのに、なぜ?
「ご夫君のことを許して差し上げてください。お疑いになるのも無理はないのです。何しろ例の詐欺がいよいよ発覚したのは、とあるお偉方が奥方の――お耳汚しで恐縮ですが――不貞の現場を抑えたからなのです。相手はもちろんあの男です」
私は目を瞠った。今、この男は何と言ったのだろう。あの方が、私以外の方と? それも他所の奥方を? ありえない。これはこの男の手管に違いない。この男はまだ私を疑っているのだ。だから、油断させた振りでまた揺さぶりをかけようとしているのだ。
例によって私の驚きは何かしら適当な解釈をされたらしい。警吏は得々と続けた。
「奥様とは全く違った、何というかご夫君への感謝も忘れた浅薄なご婦人です。
あの浅黒い肌ですから夜闇によく紛れたようでして、その場で捕らえることは叶わなかったということなのですが――まあ、とにかく犬も食わない何とやらの結果、そのご婦人が肉体ばかりか宝石までも差し出していたことが明らかになり、ご夫君の訴えによって私共の仕事が増えたという訳です」
「それは――大変でしたでしょうね」
やっと口から出たのはありきたりかつ誠意の篭らない相槌だったが、警吏は特別気を悪くした様子もなく大きく頷いた。
「それはもう。例の詐欺師の足取りを追った結果、方々のお屋敷で似たようなことをしていたのが明らかになりましてな。被害を詳らかにするためとはいえ、泣き叫ぶご婦人方を宥めたり、激昂した夫君方に詰め寄られたりするのにはまったく閉口しておりました。どちらも裏切られたと思っているのですから本当に何と言ったら良いものか。
――その点こちらのご夫婦は理想のご結婚との評判通りで、いや、心が清められる思いでしたよ」
理想の夫婦。私たちの評判はそんなに広まっているのか。感情を表に出してはならないと思いつつも、私の口元は苦々しく歪んだ。勝手なことを言うものだ。旦那様はどう思っているか分からないけれど、私は決してこの結婚で幸せになっていない。こんなのは私の理想じゃない。
不本意な評価は新たな怒りを呼んで、私に反論する勇気を与えた。私はまだこの男の言うことを信じた訳ではない。嘘に惑わされてクルシッド様を見捨ててはならない。
「本当に、その方は――その、騙すつもりでそのようなことをしていたのでしょうか。それだけの理由があって、本当にお金が必要だから、そのようにご自身をも軽んじるようなことをなさったのでは?」
「ああ、奥様は本当にお優しくていらっしゃる」
警吏は嘲るように笑った。殿方が女を見下すときの、何も知らないのを嗤う時の調子だ。でも彼らだって分かっていない。女は愚かかもしれないけれど、バカにされているのが分からないほど愚かではないのだ。嘲りが透けて見えていると、彼らは決して気付かない。
「優しすぎるほどですよ、あの悪党相手に! あいつが語ったことは全て嘘っぱちです。あいつは確かに南の国の出身ですが、放蕩ゆえに実家を追い出されたのです。以来顔と口先三寸だけで生きている。奥様がこんな言葉をご存知かは分かりませんが、生来のヒモですよ」
「とてもよくご存知なのですね、その方のことを」
「引っ捕えて全て吐かせましたからな」
私の胸を引き裂いたのも知らないのだろう、警吏は自慢げに胸を張った。
「それに、いかにかの国が遠いとはいえ、その気になれば調べることはいくらでもできます。もしも奥様が心を痛めていらっしゃったのなら、ご安心ください、かの国はまったくのどかで平和な国です。内乱などきざしすらありません」
「そう、ですか……」
捕縛され痛めつけられたあの方の姿を想像して、私は胸を痛めた。それではあの方は取り調べを逃れるために作り事を言わされたのかもしれない。南の国の実情? いいえ、私には確かめる術がないもの。みんな嘘、私とあの方を追い詰めるための罠に違いない。
何か言わなければ、あの方の味方をして差し上げなければ、と言葉を探す私を、旦那様の聞き苦しい声が邪魔をした。
「他の宝石は!? 詐欺師めから押収したのだろう。この髪飾りでなくても他のものを差し出したのではないか!?」
「無駄だと存じますが」
警吏も呆れたように肩を竦めつつ、控えていた部下らしい者に目配せをした。
そして並べられた眩い宝飾品の数々に、私はため息を吐いた。紅玉に青玉、真珠に金剛石。翡翠や琥珀を彫刻したものもあるし、金銀の土台の細工もそれぞれ見事なものだった。
けれど、ため息の理由はそれらの美しさのためではない。宝石の幾つかは、私も確かに目にしたことがあるものだった。口では旦那様の愚痴をしながらどこか嬉しそうにしていた、くだらない結婚に満足していたはずの方々が身につけていたものだった。
「奥様のものはありますか?」
「ない……、と、思う」
「当然と存じますよ。奴め、開き直ったのか落とした奥様方のことを赤裸々に自慢げに語りましたからな。こちらの奥様のような美しい方ならば絶好の武勇伝になったに違いない。けれどこの方のことは奴の口からは一言も出なかった。貴方様は奥様を自慢にお思いになるべきです」
私に聞かせたいのか聞かせたくないのか、警吏は抑えてはいるけれど言っていることははっきり聞こえる程度の声量で旦那様に進言した。それが本心なのか罠なのか、私は判じる気力をなくしつつあった。あの方の美しく整った唇が他の方との情事を語ったなどと、たとえ真っ赤な嘘だとしても想像するだけで恐ろしく悲しく憤ろしく――汚らわしく感じた。愛は、肉体の情欲とは離れたものだと思っていたのに。
宝飾品を手に取ろうとしては警吏に止められている旦那様のことなど心底どうでも良かった。仮に、万に一つでも私が宝石を捧げていたとして、この方は私の持ち物を全て覚えているとでも思っているのだろうか。自分が贈った髪飾りでさえ偽物ではと疑った人が!
そこで、私は宝石の下に何やら布が敷いてあるのに気付いた。どういう扱いを受けたのか、少々ほつれ汚れてくたびれているように見える。それでも元はぱりっと清潔だったであろう生地に、艶やかな白と緑と金の絹糸で刺繍がされたそれは――
「その布は? それも押収したのですか?」
証拠品を守ろうと旦那様から宝石を遠ざけながら、警吏は首を傾げた。
「ええ、まあ。ですが価値のあるものではありません。単に奴が戦利品を包むのにこれを使っていたということです」
「……そう、ですか」
それは、私がクルシッド様に贈った鈴蘭の刺繍の生地に違いなかった。確かに宝石のように高価なものではないけれど、私が真心を込めて作ったものだった。あの方も受け取ってくださった。でも、これは。この扱いは。
ここに至って、私はやっと自分が騙されたことを認めざるを得なくなった。
硬い宝石と触れ合ってか、あるいはあの方が捉えられた時の悶着によってか、ほつれ、擦り切れた刺繍の生地は、私の踏みにじられた真心だ。春先まで溶け残った雪のように、薄汚れてしまった夢の名残だ。
私はあの方にとって獲物にすらなれなかった。私の名を挙げなかったのは落としたうちに数えていないからだ。ダンスに誘って、甘い言葉をくれてやって、それでころりと落ちるかと思えば差し出したのは薄っぺらな布切れ一枚で、あの方はさぞ割に合わないと思っただろう。
貞女だなんて褒め言葉ではなかった。ただ堅苦しくてつまらない、役に立たない女という意味だった。他の方々と同じようにあの方に身を任せていたら、あるいはもっと甘く蕩けるようなことを言ってくれたのかもしれないけれど、そんなこと、私は考え付きもしなかった。どうして? 私は他の人と違うと思っていたから。私にだけは、何か特別で素晴らしく美しい恋が用意されているのではないかと思っていたからだ。
旦那様にも警吏にも見られないように、私は俯いて唇を噛んだ。
私はやっぱりどうしようもない愚か者だった。夢なんて見てはいけなかったのだ。私は物語の主人公、王子様と結ばれるお姫様なんかじゃなかった。
そんなことを信じていたから、私はものの見事につけ込まれたのだ。