4. 無礼な来客
翌日の夜、クルシッド様は約束通りにいらっしゃった。
屋敷の者の寝静まった真夜中、人目を忍んだ裏口で。見張りの者には適当な口実で葡萄酒を与えた。きっと今はぐっすりと眠っているだろう。
目立つ淡い色の髪を隠すために厚手の外套をすっぽりと被って、私は愛しいお方の胸に飛び込んだ。
「クルシッド様。本当に来てくださるなんて」
「貴女のため――いえ、私たちの未来のためですから。証しの品は……?」
「これを、お持ちくださいませ」
差し出したものにクルシッド様が困惑したような表情になったので、私は早口で説明する。
「ひと針ひと針丹精込めて縫ったものです。これほどの腕の娘はお国にもそうはいないと思いますわ。絵柄も私が考えました。貴方様の妻にするのに相応しい者だと、きっとどなたにも納得していただけるものと思います」
私が考えついたもの、クルシッド様に託そうと思ったのは、鈴蘭の刺繍だった。今日のうちに急いで仕上げたから目も指先も少々痛む。それでも、不揃いなところ歪んだところはないはずだ。
私がこの方を思いながら作ったものだし、私の腕は確かなはず。女らしい嗜みと忍耐強さ、美しいものを知る感性があることを知ってもらえるもののはずだった。
「紋章などでないようですが……これで良いのですか? 貴女の血筋などを語るような――」
「良いのです」
やや当惑した表情のクルシッド様を、私は早口で遮った。私は今まで流されて生きてきた。お父様や旦那様に流されるばかりで、自分で何かを決めるということをしなかった。
でも、この方の手を取るのは私自身の意思。なのに、私という女を証すものが家の名前や紋章であって良いはずがない。
「血筋や家なんてくだらない。そんなもののために私はつまらない夫に嫁がされたのです。そんなものより、私自身を見て、愛して欲しいのですわ」
随分と長い間、クルシッド様は私と刺繍を見比べて逡巡しているようだったので、私は心臓が凍る思いをした。これでは不足だったのだろうか。みすぼらしいと思われてしまったのだろうか。焦がれる熱さも恐れる寒さも、この方が私に与える感情はとても激しい。
「では……」
クルシッド様はやっと刺繍を手に取ると懐にしまった。そして、私を抱き締め、口付けしようとしてくださる。
わずかに残った理性をかき集めて、私は愛しい温もりに抗った。――まだ、いけない。旦那様のお屋敷の中、旦那様の妻としては。
「いけません。それは貴方様が帰ってきてくださった時のために。私はまだ他の方の妻なのです」
魂を引き裂かれる思いで告げると、唇に息を呑む気配を感じた。そして、背に腰に回された腕が解け、夜の寒さの中に取り残される。
「――貴女はまことに貞女でいらっしゃる」
ため息とともに告げられて、私は慌てて言い添えた。
「貴方様の妻になれば、貴方だけに貞節を誓います」
「楽しみにしています」
クルシッド様は苦い笑みを――嫉妬なのだろうか? もしも喜んで良いなら――浮かべると、私の手の甲に口付け、身を翻して夜の闇へと溶けていった。
楽しみに、している。
私はそのお言葉をそっと胸に抱き締めて、屋敷の中へと戻った。リラの花の髪飾りを付けるのを楽しみにしている、と。言葉だけなら旦那様と同じだ。けれど、あの方のものだというだけで、その短い言葉がどうしようもなく私の心をかき乱した。
それからの私は抜け殻のようだった。何をしても手につかないし、頭に浮かぶのはあの方のお姿ばかり。無事かどうかを知りたいと思っても、遠い南の国のことなど私には調べるあてもない。
今までも会えない日ばかりだったとはいえ、同じ国にいて噂話を聞くことができた分幸運だったのだ。
夢でお会いできるのはせめてもの慰めだったけれど、ほのかな期待で眠りについても悪夢にしばしば裏切られた。クルシッド様が戦場に斃れる夢、あの方が他の女性と微笑む夢。旦那様にあの方のことを知られて地下室に閉じ込められる夢。ああ、でもあの方が助け出してくださるなら――
「ライサ、ライサ」
眩い太陽を背に、救いの手を差し伸べてくださるクルシッド様のお姿を夢に見ていた時だった。私は、名前を呼ぶ声に眠りから醒めさせられた。
あの方がもう来てくださったのかしら、と薄目を開け――私は危うく悲鳴を飲み込んだ。
「旦那様!?」
そう、ベッドの枕元に腰掛け、私を見下ろしていたのは愛しいあの方などではなく、地方にいるはずの旦那様だった。夢の中ではひどく怒って顔を歪めていたから、思わず構えてしまったのだ。
「ただいま、寂しい思いをさせたね」
私の驚きをどう都合良く解釈したのだろうか、旦那様はへらりと笑うと私の髪をひと房取って梳いた。何度も何度も。あの方の夢の名残をぬぐい去るようで、不快でしかないというのに。
振り払う口実に半身を起こしながら、私は抗議めいた口調で訴える。
「こんなに早くお戻りだなんて。言ってくださったら――」
けれど言葉は宙に浮いた。
何を言ったら良いか分からない。 旦那様の帰りを聞いていたらどうだったというのだろう? あの方を諦めていた? 考えるのも止めて、本当に、心から貞淑な妻になっていた? ありえない。この気持ちを知った後では、ありえない。
「ああ、君と話したくてね」
すると、旦那様は珍しく顔を顰めて苦々しい表情を見せた。言葉だけなら、私が恋しくて――この方の発想と考えるにはあまりにバカバカしいけれど――来てくださったようにも取れるのに、表情がそうではないと言っている。
「旦那様……?」
「朝食と支度を済ませたら客間においで。待っているから」
最後に首筋に口付けて私の肌を粟立たせた後、旦那様は私の疑問の眼差しには答えずに寝室を去っていった。
一体どういうことかしら、と思いながら、私は淡々と食事を済ませ、適当な衣装に着替えようとして――手が止まった。一体どのような服を選べばよいのだろう。
客間に呼ばれたからには誰かいらっしゃっているということだろうか。ご婦人なのか殿方なのか、どのような地位の方なのか。すぐにご挨拶に出なくて良かったのだろうか。
しばらく悩んだ末に、私はまあ良いか、と思い定めた。私はしょせん旦那様のものなのだから、旦那様の言う通りにすれば良いだけだ。そして言葉が足りなくて粗相があったというのなら、それは私の咎ではなくて旦那様のものであるべきだ。
結局私は義母に会いにいく時のような感覚で衣装を選んだ。派手ではないが質の良いもの、大げさではないが決して気を抜いたのではないと分かるようなものということだ。これなら、誰が相手であってもそうそう恥をかくことはないだろう。
「ごきげんよう――?」
そして執事に客間の扉を開いてもらった私は、待っていた方を見て戸惑いに言葉を失った。
紺色の制服に金の肩章。胸に飾られた勲章の、星の数の意味は私には分からないけれど、腰に佩いた剣で知れる。官憲の役にある方だ。けれど、どうして我が家に、私の元に?
「驚かせてしまったね、ライサ。でも大事な話だから。どうか偽りなく答えておくれ」
「は、はい……」
宥めるような旦那様の声も、大した助けにはなってくれない。旦那様に促されるまま、恐れと不安を抱きつつ、私は着席した。
「お休みのところを大変失礼いたしました、奥様」
「いえ……」
警吏は私のことを奥様と呼んだ。老け込んだようで嫌になる呼び方で。
不満を顔に出さないように従順に答えながら、相対する男の姿を観察する。初老の、恰幅の良い男だった。浮かべた笑顔も自然でにこやかなもので、私の警戒を解こうとしているかのようだった。けれど、あまりにもできすぎた笑みに、かえって気を許してはならないと思わせる、そんな男だった。
「ご夫君のご依頼を受けましてね。私共も、普段はお偉い方々のご家庭の中までは立ち入らないのですが――少々、見過ごせないことがございまして」
「私に何かお手伝いができるのでしょうか」
「よろしければ、ですが」
隣に座る旦那様に目をやると、無言でうなずかれた。であれば私もうなずくより他にない。何か嫌な予感を感じつつも、肯定の返事を返す。
「……私にできることでしたら喜んで」
「ありがとうございます」
警吏の浮かべた笑みは先と少しも変わるところがなくて、私の同意を求めたのは形だけのことに過ぎないと知れた。本当に、厭な男だ。
私の嫌悪の眼差しに気付かないか意に介さないように、警吏はなにやら帳面を取り出し、丸っこい指先である頁を示した。
「この男をご存知ですか」
私が小さく息を呑むと、警吏の目が鋭く光った気がした。
そこに描かれていたのは、確かにクルシッド様の似姿だったのだ。紙の上の線であっても愛しい方の姿に、私の鼓動が早まった。けれど同時に不安も強まる。一体なぜ、この警吏がこんなものを? そして、私に何を聞こうとしているの?
「……はい……」
おずおずと答えると、警吏は変わらぬにこやかな笑顔で問いを重ねる。
「直接に見たことは?」
「夜会で、何度か拝見しました」
「それだけですか? 話したことは?」
「……二度、踊っていただきました」
しぶしぶと認めると旦那様がうろたえたように顔色を変えたのが目の端に映った。いつもぼんやりと笑っているだけのような人なのに。本当に、今日はこの人の珍しい表情を見る。
「ライサ!」
旦那様が叫んだのはいっそ滑稽だった。一度目の時はこの人も同じ会場にいたのに、気付いていなかったのだ。
「ご夫君はご存じなかったようですな」
とはいえ可笑しいのを顔に出す訳にはいかない。どういうことかは分からないけれど、尋問されているような気がするのだ。
だから、私は慎重に言葉を選んだ。
「異国の方で言葉が分からなかったものですから、お断りしかねたのです」
少なくとも周りの方からはそう見えたはず。事実、警吏は納得したように――とりあえずは――頷いた。
「それ以外には何か?」
「何か、とは何でしょうか」
「二人きりで会うとか……何か約束をしませんでしたか?」
あの方を想う時とは違う理由によって、私の胸は締め付けられた。
この男が、旦那様が私たちの間柄を知っているというのだろうか? 一体どうやって? そしてこれは不貞にあたるのかしら。私を責め立てようと、旦那様は警吏を連れてきたのかしら。面と向かって妻を問い詰めることもできないなんて、やっぱりこの人はつまらない方。
いいえ、例え知られたとしても、何ら恥じることはない。私とあの方の間にはまだ何もないはず。あの約束は――私を正式に妻にしようという申し込みのはず。クルシッド様は何も後ろ指を差されることのないようにしてくださるはず。そのための証しではないのだろうか。
そこまで考えて、私はあの方がどんな形で迎えにきてくださるか何一つ聞いていなかったことに気付く。
「……いえ、何も」
真正直に答えてはならないと判じて嘘を吐いた時、私は急に寒さを感じた。何か取り返しのつかないことを犯してしまったような気がして、怖くなったのだ。
そして、その恐怖を振り払うかのように、私は声を荒げた。普段なら決してしないこと、するべきではないことではあるけれど。私にこんな思いをさせたのは、目の前のこの警吏だと思ったのだ。
「その方が何だというのですか!? 私に何の関係があるのですか!」
すると警吏は肩を竦めた。お客様の前で激昂してしまった私以上に、無礼な仕草だった。それから私と旦那様を交互に眺めていやらしく間を持たせ、にやりと唇を歪めて告げる。
「その男はね。詐欺師、なのですよ」