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3. 変化への一歩を踏み出す勇気

 その日から、私の日々はクルシッド様を中心に回るようになった。地上のあらゆる生き物が日の出と共に目覚めて日の入りと共に眠るように、木々や草花が太陽の恵みによって育まれ生かされるように、太陽の名を持つあの異国の方が私の全てを支配していた。


 お茶会ではあの方の噂の欠片でも得られないかと必死で耳を傾けた。あの方と会ったという方なら、今まであまりお付き合いのなかった方でもお招きしたり、逆に伝手をたどって招待状をいただけるように尽力したりした。

 旦那様とのダンスはさっぱり楽しいと思えないから、練習をすることなんて久しくなかった。けれど、あの方とのひと時を思い出すと、朝、食器を並べる前の食堂や夜、人気のない廊下で思わずステップを踏んでいる私がいる。……そして侍女に見られて気恥ずかしい思いをしたのも一度や二度ではない。

 髪や肌を磨くのも。旦那様のためにはさほど熱心になれなくても――だってどれだけ綺麗になっても旦那様の外見は私と釣り合わない――、あの方とまたお会いした時のために、と思うと、侍女たちにどれだけ褒めそやされてもこれで十分と思えることがなかった。


 刺繍も、もはや暇に飽かして手遊(てすさ)びにするものではない。そうでもしていないとクルシッド様のことばかり考えて何も手につかないから、気持ちを落ち着かせるためにするものだ。


 糸が描き出す模様に歪みはないか、布地に引き攣れはないか、時折全体を確かめる。何度目かに手を止めて、出来上がりつつある鈴蘭の図柄を眺めながら、私はほう、とため息を吐いた。


 あの方と初めてお会いして踊っていただいたあの日から、私は夜会に出る度にあの方を探していた。遠目にお姿を見たことは、何度かある。けれど、あの方の周りにはいつも人がいて、私も旦那様を放り出す訳にはいかなくて、また踊ろうと言ってくださった約束はまだ果たせていない。言葉を交わすことさえも無理だった。

 それでもあの方は時折私に視線を投げてくださった。あのお言葉を忘れるようなことはないと、信じたいけれど。密かに向けられた微笑みには、純粋な愛情が篭っていたと思うけれど。それでも、あの方が他所の令嬢や奥方と話しているのを見ると、どうしようもなく苦しくなってしまうのだ。


 あの方と二人きりになりたい。いえ、それは許されない。でも、せめて踊るくらいなら――


「……イサ、ライサ」


 物思いに耽っていた私は、だから名前を呼ばれていることにしばらく気付かなかった。


「旦那様? お帰りでしたの?」


 刺繍から顔を上げると旦那様のいつも変わらない地味な顔があって、首を傾げてしまう。


「君がとても集中していると聞いたから、驚かせようと思ったんだが……驚いてもくれなかったね」

「申し訳ございません。お出迎えもしないで……」


 がっかりしたように眉を下げる旦那様に申し訳なく思いつつ、実際に口でも謝罪しつつ、私も内心で同様にがっかりする。私が生涯を捧げるべきこの人は、びっくりする程私に何の感情も与えてくれない。


「いや。君が刺繍を好きなのは知っているから構わないよ。やはり、いつ見ても素晴らしい腕だ」

「ありがとうございます」


 旦那様の目を避けるように、私はそそくさと針と糸とできかけの刺繍をしまった。クルシッド様を想いながらひと針ひと針縫ったものだから、旦那様に見られるのは何か気まずく後ろめたい気がしたのだ。


「それに、最近一段と綺麗になって。君が妻でいてくれて本当に誇らしいよ、ライサ」

「……恐縮ですわ」

「あのリラの花の髪飾りはさぞ君の美しさを引き立てると思うんだが。まだつけてくれないんだね」


 旦那様の愚痴めいた言い草は、私に罪悪感と同時に微かな苛立ちをもたらす。文句があるならそうと言えば良いのに、妻に対してであってもこの人ははっきりと言い出せないのだ。


「これだけ機会がないとよほどの席でないともったいないと思ってしまいますの。それに、ドレスとの色合わせもありますし。いずれ必ずつけますわ」

「きっとだよ。待っているから」


 旦那様が弱々しく情けなく笑ったので、私の苛立ちはいや増した。微笑みの内側に閉じ込めたその感情は、旦那様に読み取れるはずもなかったけれど。


「今日はお戻りが早かったのでは? 何か変わったことでもあったのでしょうか」


 私は片付けた刺繍道具を侍女に預けながら問いかけた。そう、私だっていつもいつもクルシッド様のことで頭が一杯という訳ではないのだ。旦那様のお帰りまでまだ時間があると思えばこそ、刺繍に没頭する振りで甘い夢に浸っていたのだ。


「ああ、そうだった、君に伝えたいことがあって」


 旦那様は相変わらずぼんやりとした表情で私の手を取った。次いで、身体を引き寄せられて抱き締められる。旦那様の体温はクルシッド様とは違ってどこか温く、厭わしい感じさえした。


「仕事で地方に行くことになってね。しばらく屋敷を空ける。君のことだからつつがなく取り仕切ってくれるとは思うが……既に招待を受けている夜会には一人で出てもらわなければならない。心細い思いをさせてすまな――」

「まあ。構いませんわ」


 心が浮き立つのを必死で抑えて――抑えきれたかどうかは自信がなかったけれど――私は旦那様を遮った。一人で夜会に! 私が人妻であること、それを周囲の方々が知っていることはどうしようもないけれど、少なくとも旦那様の目は気にしないで済む!


「私は一人でも大丈夫。どうぞ心配しないで、旦那様。安心してお勤めに行ってらっしゃいませ」

「そう。本当にすまないけれど、任せたよ」


 私はやはりはしゃぎ過ぎていたのかもしれない。鷹揚に頷いた旦那様は、けれど、どこか不審そうな目をしていた。




 初めて一人で出席する夜会の日、私はできる限りの装いを凝らして自身を飾り立てた。リラの花の髪飾りは宝石箱の奥にしまったままだ。あの方にお会いするかもしれないのに、旦那様からいただいたものを身につけるのはふさわしくないと思った。


「ライサ、今日はお一人なのね」

「ええ、旦那様はお仕事で」

「きっと沢山の方から踊りに誘われるわ」

「まさか、そんな。浮かれる訳にはいかないわ」

「ライサは若いもの。少しくらい構わないわよ」

「子供もいないしねえ。たまには息抜きも必要でしょう」


 お友達が言ってくれることに、私は困惑の表情を浮かべつつも内心では歓喜していた。控えめで貞淑な女、理想の妻という評判は素晴らしい。誰も彼も私が多少はしゃいでも大目に見てくれそうだった。


 これなら、今日こそ、クルシッド様と踊れるかもしれない!


 私の目の青は静かな水面のようだとよく言われるけれど、今日に限っては嵐の海のように波立っているだろう。それとも青い炎だろうか。とにかく、それだけの情熱を持って、私は会場の人ひとりひとりの顔に目をこらした。

 そして――


「――――?」


 差し出された手と異国の響きに私の胸は破裂しそうに高鳴った。私にはクルシッド様のお国の言葉は何一つ分からない。でも、その耳慣れない響きにも、黒い瞳にも、好意が満ちているのはよく分かった。


「まあ、また……」


 赤く染まった頬を隠すように手で覆って形ばかり困った顔をしてみせれば、周囲の方々は思った通りのことを言ってくれる。


「ライサ、気に入られてしまったのね」

「外国の方だもの、お断りもできないわね」

「踊ってしまった方が気が楽だわ」


 笑ってしまいそうなのは内心に留めて、私はあくまで仕方なく、の体でクルシッド様の手を取った。それは私の胸の内が伝わったかのように熱く、私の慎みも恥じらいも燃やしてしまうようだった。


「やっと、踊っていただくことができました」

「本当に、どれほどこの日を待ちわびたことか……!」


 曲が始まり踊りだすと、クルシッド様は私にも分かるこの国の言葉で語りかけてくださった。

 手を握って、腕に頼って。ステップを踏み出す際には足が触れ合って。間近に微笑む黒い瞳があって、低く優しい声が私の心まで震わせる。

 ダンスをしているだけではあるけれど、近く密に抱き合うような体勢に、この方を愛しく思う気持ちが、愛されているという――勘違いかもしれないけれど、あまりにも甘美な――実感が、高まっていく。


「私のことなど忘れてしまったかもしれないと思っていました。あんまり長くお会いできなかったので」

「そんなこと」


 心を疑われたようで、私は思わず声を上げた。けれど同時に、この方も私と同じように焦がれる思いをしていたのだと知って、胸が熱くなる。


「ひと時たりとも、貴方様のことを忘れたことはありませんでしたわ」

「私もです、美しい方」


 そうささやいてくれるクルシッド様の笑顔こそこの上なく美しい。舞い上がった心は身体さえも羽のように軽くして、私は半ば飛んでいるかのように、疲れも息切れもなくその一曲を踊りきった。




 すっかり火照ってしまった私を、クルシッド様は飲み物を手にテラスへ導いてくれた。人目につかないだろうか、との懸念は、この方ともっと言葉を交わせるという誘惑の前にはあまりに些細なものだった。それでも一応は人通りの少ない一角を見つけて、私はクルシッド様の手から冷えた葡萄酒を受け取った。


「今日、お会い出来て良かった、ライサ」

「ええ、本当に」


 冷たい夜風も葡萄酒も、熱くなった身体を覚ましてはくれなかった。だってこれは恋の熱からくるものだから。何回かお会いしただけのこの方に、私はすっかり恋をしている! この熱い思いこそ、私がずっと憧れていたものだ。物語のように素晴らしくときめく出会いを、私はずっと求めていた。それが今実現するなんて。もし私が結婚していなかったら――今からでも遅くはない、なんてことがあるのだろうか。


「どうしてもお会いしたかったのです」


 クルシッド様はほんの束の間微笑むと、一転して苦しげに表情を歪めた。


「実は近く祖国に帰るのです。戦いに、加わるために。手紙を受け取りました。我らの旗印となる方が見つかったと」

「そんな……」


 思いがけず突きつけられた言葉に、恋の熱も葡萄酒の酔いも瞬く間に醒めた。信じられなくて、嘘だと言って欲しくて、曖昧な笑みと共に紡いだ言葉は、いかにも間の抜けたものだった。


「危険ではないのですか? どうしても帰らなければならないのですか? ずっとこちらにいらっしゃれば――」

「私もそうしたい! 貴女を知った今、別れることがどんなに辛いか」


 クルシッド様は激しく頭を振ると、不意に私を抱き締めた。


「でも行かなくてはなりません。私に流れる祖先の血のために。国のために戦わなければならないのです」

「そんな」


 私は再び喘いだ。強く抱き締められて喜ぶ心と、クルシッド様を案じる心。この方の高潔なお気持ちに心打たれながら、別れたくないと泣き叫びたくなって、そんな浅ましい自分を嫌悪して。私の心は千々に乱れて、頭の中は真っ白になった。そしてこぼれ落ちてしまうのは、私の偽りのない本心。夫のある身では言ってはならないこと。


「どうしても、ですか……? 私、私……貴方のことをお慕いしておりますのに!」


 私を抱き締める腕がぴくりと震えた。揺さぶるように身体を離されると、踊った時よりも間近にクルシッド様の黒い目がある。夜の闇の中でも輝きを放つ、炎を秘めた瞳。こんな時でも見蕩れずにはいられない瞳。


「本当に? 本当に、私を思ってくださると? しかし、貴女には……」

「夫は私を愛していません! 私の方も……ずっと、誰かに攫って欲しいと思っていたのです!」


 必死に訴えると、クルシッド様の表情が揺れた。苦悩、逡巡? この方も、私がこの方を想うのと同じ強さで私を想ってくださっているのだろうか。そんな甘い夢を見ても、良いのだろうか。


「あの……もし、どうしてもお戻りになるなら……私も連れていってください。離れるのが耐え難いのです。愛しもない人を夫と呼び続けるなんて。どうか、お願いです、もし私を哀れと思ってくださるなら――」

「そんなことはできない!」

「あ……」


 表情を歪めて突き放されて、私の心が凍てついた。さっきまで暑いほどだと感じていたのに、今は寒い。はしたないことを言う女だと、ふしだらな女だと見放されてしまったかと後悔が胸を締め付ける。


「クルシッド様、あの、私そんなつもりでは――」

「いえ、嬉しいのです。ただ、貴女を危険に曝すのが怖くて……」


 震える声で訴えたところを再びかき抱かれて、私の寒さは驚く程あっさりと消えた。髪を結い上げてむき出しになった耳元を、熱い吐息がくすぐる。


「もしも貴女のお気持ちが本当なら、ライサ」

「本当です。どうか信じて」

「ならば、待っていてくださいますか? 私がまたこの国に来るのを」

「え……」


 私の背に腕を回したまま、クルシッド様が問いかけた。真剣な眼差しから目を逸らせなくて、恐ろしいくらい。


「戦いが終わって生き延びることができていたら、新たな主君に褒美をねだるつもりです。異国の高貴な女性を、すでに夫のある方を奪い取る、その許しを。それまで、待っていてくださいますか?」


 クルシッド様の強い言葉は、私の心に再び火をつけた。黒炭の瞳がその炎を一層激しく掻き立てる。


「はい……いつまででも、必ず!」


 旦那様のことも家のことも考える(いとま)もなく、私は頷いていた。次の瞬間には恐怖が押し寄せたけれど――でも、クルシッド様の嬉しげな笑みはそれをかき消してなお余る喜びを私にもたらした。


「ありがとう、ございます……!」


 再び強く抱きしめられた後、クルシッド様は名残おしげな表情で私を離した。……そのように求められている、想われているという実感が、一層私の思慕を燃えさせるのだと、この方は気付いているのかしら?


「では――主君に妻となる人の身元を証すのに、何か形見をいただけませんか? 貴女の出自や人となりを示すような――褒美に望むに足りる方だと分かるようなものを」


 言われて、私の脳は目まぐるしく回転した。勲章や何かがある殿方と違って、女の身には身元を証すものというと中々難しい。家紋が入っているというものというと、宝飾品になるだろうか。結婚祝いに母から贈られたもの。義母から譲られたもの。それから――あのリラの花の髪飾り。紋は入っていなくても、私という女をよく表している。


「では」


 ぴったりのものに思い当たって、私はごくりと息を呑んだ。


「今身につけているものにはありませんの。明日の夜、屋敷に来ていただけますか? 場所はお教えします。見咎められないように手配もいたします。それで、来てくださるなら――」

「貴女のためです。必ず、うかがいます」


 力強い言葉と声に、私は思わず涙が流れそうになるのを必死で堪えた。

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