2. 異国の太陽
殿方には殿方の会話があって、女には女のそれがある。
旦那様がご友人方の輪に加わったので、解放された私は知己の姿を求めて会場に視線を巡らせた。そして、近い身分や財力や年頃の方々が集まる一角を見つけて、そちらへ足を向ける。
「ご機嫌よう、皆さま」
挨拶を述べると、鳥のさえずりのような、絹のドレスが触れ合うざわめきのような華やかな声に迎えられた。
「まあ、ライサ」
「お久しぶりね」
「ええ、皆さまはお変わりなく?」
「相変わらずよ」
「見て、ドレスを新調していただいたの。似合うかしら」
「ええ、とても」
「ライサ、聞いてちょうだい。旦那様ったら――」
近い境遇ということは、この方たちも皆、私と同じようにつまらない結婚をしている。
領地が隣り合っているとか、親がいとこ同士だとか、その程度の縁で嫁がされたのだ。
なのに、皆さまそれなりに幸せそうで、物語のような結婚を夢見ていた私が特別に愚かだったのだろうかと思ってしまう。夢を見ていなければ今のこの現実にも満足できたのだろうか。少女時代、私は特に賞賛を浴びて華やかな場所にいたからこんな不満を抱いてしまうのだろうか。
型通りの会話を交わしながら、集まった方々のお顔を確かめていく。その中にお姉様の姿を認めて、私は歩み寄って挨拶をした。
「お姉様、旦那様に私が好きな花を教えてくださったのね。おかげで素敵な髪飾りをいただいたわ。ありがとうございました」
「私は聞かれたことに答えただけよ」
お姉様はさらりと微笑んだ。今日は大きなお腹を隠す意匠のドレスを纏って大儀そうに座っている。姉夫婦の仲は良好とのことで、間もなく我が家の後を継ぐべき子が生まれるということだった。
それを気の毒だと思う私は、女としておかしいのかもしれない。両親には娘しか生まれなかったから、お姉様の旦那様には第一にお婿に来てくれる方が条件だった。もちろん何のときめきもない結婚だったのに。――少なくとも、私はまだ子供は欲しくない。
「それよりも義弟にきちんとお礼は言ったのかしら? 貴女の好みが分からないと悩んでいらっしゃったようよ。
愛されているわね、ライサ」
「もちろん丁寧にお礼を申し上げました。旦那様も安心なさったようだったわ」
本当に私を愛しているなら、私の好みは見ていれば分かるのではないだろうか。私に似合うものはいくらでも考えつくのではないだろうか。
なのにまずお姉様を頼った旦那様は、私に興味がないか流行に疎いかのどちらかだろう。どちらがより悪いかは分からない。それに、どのみち旦那様はその両方に当てはまるのだと思う。
お姉様が何か言おうとしたところへ、黄色い嬌声が耳に入った。私は思わず舞踏場へ目をやる。私たちのように夫を持った女は軽々しく他所の殿方と踊ることがないからには、ダンスの場所はもっと若い――かつての私のように――夢に満ちた令嬢たちのためのものだ。
「どなたかしら。若い方たちがもてはやすような方はいらっしゃらないと思っていたのだけれど」
お姉様が呟いた意味は私にもよく見て取れた。舞踏場の一角を占領した色とりどりのサテンやシフォン、宝石や花々は、令嬢たちを彩るものだった。どなたかと踊る順番を巡って張り合っているのだ。もしも結婚していなかったら、私のあの輪の中にいたに違いない。そして、そういう時に一番に手を取ってもらうのは私だったのに。
「あら」
「なんて、珍しい」
周囲の奥様方もその人だかりに気付いたようだった。妻たちと少女たちが注目する中、優雅な音楽が始まると、中心となっていた人物が明らかになった。
「まあ――」
私も、息を呑んだ。それほどに、その人は美しかった。
黒い髪に黒い瞳は、この国でも見ないわけではない。でも、雪のような色の肌の人間が主に住まうこの地では、その人の浅黒い肌はひどく目立った。太陽の恵み深い、南の国の特徴だ。夏でも涼しい気候になれた私には、彼の纏う黒は熱いとさえ思えた。炎を秘めた黒炭の色だ。
それに、姿形そのものも整っている。高く通った鼻梁に切れ長の目。官能的な唇は彼の印象そのままに熱い言葉が似合うだろうと思わせる。長い手足が選ばれた幸運な令嬢を見事にリードして、羨ましいほどだった。
「外国の方かしら」
「そのようね」
近くの方々がささやき交わす声もどこか遠くに聞こえるほどに、私はその人の姿に魅入られていた。
「――様のところのお客様ですって」
「亡命?」
「ええ、何でも内戦があって――」
それでもその人に関することはしっかりと耳が拾う。それではあの人は国を追われた高貴な人。魔法で蛙にされた王子様のような。以前の私だったら、自分こそがあの方を救うのだと思っていただろう。私の口付けがあの方を救って、共にあの方の国へ帰って――
「――――?」
甘い夢に浸っていた私は、異国の響きが私に向けられたものだということに気付かなかった。その低く柔らかい、天鵞絨で撫でるように魂をくすぐる声の主が、あの方だということにも。
「何ですの……?」
目の前に差し出された手に私はひたすら困惑する。大きな掌に、やはり長い指。剣を握ることもあるだろうか、掌の皮膚は硬そうで、けれどなめしたように滑らかで。
「ダンスに、誘っているのではないかしら」
お姉様が横から口を出してくださったけれど、私の――ある種の――窮地を救ってはくれなかった。
「そんな。私は人妻です」
吸い込まれそうな黒い瞳に酔いそうになりながら、私は必死に首を振った。こんなことがあるはずはない。私は平凡な結婚をした平凡な女で、物語から抜け出してきたような美しい異国の殿方に誘われるなんてあるはずがない。
そう、それに私は結婚してしまった。ぱっとしない旦那様ではあるけれど、愛するなんてできないけれど、私はあの方に貞淑でなければならない。誠実な夫と美しく控えめな妻。理想の夫婦。実のない幻想であっても、守らなければならないのだ。
けれど、その美しい方は異国の言葉を再び口にした。魔法の呪文のように私を酔わせる誘惑の調べだった。蕩けるような微笑みも、また。いけないとは思っても、つい身を委ねたくなってしまう。
「言葉がお分かりでないのかしら」
「一曲くらい、構わないのではなくて?」
「ええ。旦那様はライサに甘いもの。分かってくださるわ」
周囲の方々が口々に言うことに、私の体温が上がった。どうしてこの方々は私の言い訳を封じてくださるのかしら。これでは無理に断る方が失礼になってしまうみたい。お姫様は必ず王子様や騎士様と結ばれるように、私をこの方の腕の中へ導いてくれるというのかしら。
「では……」
心中嬉しくて仕方がないのを隠して困惑の仮面を作ると、私はその方の手を取った。見た目から思い描いた通りに温かく、熱いほどに私の心に火をつける手を。
そして、本当に久しぶりに舞踏場へと導かれていった。
美しい異国の方は、先ほど見ていた通り洗練されたリードで私を踊らせてくれた。錆び付いてしまった足でどこまで踊れるかしら、という懸念やこの方の足を踏んだりしたらどうしよう、という不安は全く必要なかった。
次のステップを考えなくても、どこに足を運べば良いか分かる。私はただついていけば良いだけ。旦那様と踊る時にはついぞなかったことだ。
「――無理にお誘いして、申し訳ありませんでした」
すっかりリードに身を任せて力を抜いた頃に耳を打ったのは、少々危うい発音ではあるけれど確かにこの国の言葉だった。
私が目を瞠ったのを見て、その方は笑った。密着させた身体に低い声が響いて、私の肌の上を妖しい震えが走る。
「滞在している国の言葉くらい分かりますよ。でも、貴女から断られるのが怖かったから」
どうしてだろう。姿だけでなく、声も、話し方も、言葉も。この方の全てが私を惑わせる。
答える声は、自分のものでないかのようにどこか遠くから聞こえるようだった。
「結婚しているとお気づきだったのに誘ってくださったのですか?」
「ええ、どうしても貴女と踊りたかった。この場のどなたよりもお綺麗だから。だから、何も知らない振りをしました」
この方は私が人妻だと気づいていた。なのに、それを口実にさせまいと言葉が分からない振りをしたのだ!
喜びのあまりにステップを間違え掛けた私に合わせて、その方は足の運びを巧みに変えた。少し強引に回転させられて、ドレスの裾が花びらのようにひるがえる。
「お名前を伺っても?」
「ライサ。ライサです。姓は――」
「どうかそれは仰らないで。貴女が他の男のものだという証だから。ただのライサと呼ばせてください」
「ええ、もちろんですわ」
夢見心地でうなずくと、その方はとても嬉しそうに微笑んだ。お返しに私が浮かべた笑顔は、旦那様に向けるのとは違う、心からのものだった。
こんなことがあって良いのだろうか。こんなに美しい方が、私を選んで踊ってくださって、甘い言葉をささやいてくださる。私自身を求めてくださる。少女時代に思い描いた夢が、今現実のものとなっている。
周囲に踊る男女も、会場のどこかにいる旦那様のことも全て忘れて、私は目の前の美しい方だけを見つめ、その方の手の熱さ、背に回した腕の確かさだけを感じていた。
それでもいつか曲は終わる。楽団が奏でる最後の音が消えた時、私はひどく名残惜しい気持ちでその方の手を離した。夫を愛していなくても私は人妻なのだから。他所の殿方と踊った上に、いつまでも手を握り合っていて良いはずがない。
「――夢のようでした」
せめてこの浮き立った気持ちを伝えたくて、一言に万感を込める。それはきちんと届いただろうか。美しい方はやはり美しい笑みを浮かべた。
「ご友人方と離れてしまいましたね。送って差し上げましょう」
「ありがとう、ございます」
気づけば、リードに従って踊るままに会場を半周近くまわっていた。お姉様を始めとする知己は広間の反対側、次の曲を踊る人々の合間に霞んで見えた。
「お手を。見られる距離になったら離しますから。貴女に悪評を立てたくはない」
再び差し出された手に、私を気遣う言葉に、そしてそれでも隠しきれない好意――そのはずだ、この方は私を好いてくださっている! ――に、ダンスは終わったにもかかわらず私の鼓動がまた早くなる。
「……本当に、ご親切に」
その方の腕に触れたところから蝋燭のように溶けてしまいそうな気分になって、私はそう小さくつぶやくのがやっとだった。
会場の壁際をできるだけゆっくりと時間をかけて歩きながら、私たちは舞踏の音楽に紛れるようにささやき声で言葉を交わした。人の耳を避けての秘め事のような会話に、私の胸は一層落ち着き無く高鳴ってうるさいほどだった。
そしてその方が語ってくださったことは、先ほど聞いた噂話を裏付けるものだった。
遠い南の国からいらっしゃったこと、由緒あるお家の方だけれども、反乱で仕える方を失って落ち延びられたこと。そして、この国で援助を求めて活動されているということだった。
「お国にはご家族や――愛する方もいらっしゃるでしょうに。ご心配でしょうね」
この方に惹かれていく気持ちを抑えるために、私はあえてそう言った。南の国でも貴族の結婚の習いは変わらないだろう。私が夫に嫁がされたように、この方にも妻か、少なくとも決められた相手がいるはずなのだ。
「縁者と呼べる者はおりません」
けれどその方はきっぱりと首を振った。
「皆死ぬか殺されるかしました。――このような境遇でなければ、貴女に申し込んでいたでしょうが」
「まあ」
お悔やみを述べるべきだというのに頬を染めてしまった自分を私は恥じた。ではこの方はお一人なのね、と思ってしまったのだ。いいえ、夫がいる身でこれ以上は望んではならないのだけど。でも、妻のある方を想ってしまうよりはいくらか罪が軽いように思えたのだ。
「そろそろお別れを。もうすぐご友人方の席ですから」
確かに皆さまの顔や衣装の模様が判別できる距離に近づいてきていた。これ以上この方の腕を取っていたらあらぬ噂になりかねない。
「え、ええ。ありがとうございました」
でも、二度目に手を離すのは先ほどよりも一層耐え難かった。未練がましい思いが顔にも出ていたのだろうか。その方は子供をあやすように笑った。
「私の名はクルシッド。もうしばらくこの国にいて、夜会などにも顔を出すつもりです。祖国のことを気にかけてくれる方を見つけたいので。
――お会いできたら、また踊ってください」
「は、はい」
私は都合の良い夢を見ているのではないかと疑いながらうなずいた。受け入れて良いことなのか考えもしないで。
「クルシッド、様……?」
そして、教えてもらった異国の名前を口の中で転がす。私の舌で発音するその響きは、美しい人が紡ぐ時とは違ってどうにも不器用に聞こえた。
「私の国の言葉で太陽という意味です」
その方――クルシッド様は、一際艶やかに笑うと、私の手を取って口付け、人混みの中に紛れて消えていった。
私は、待ちかねたお姉様が探しに来るまで、あの方の唇が触れた手を抱き締めてその場に立ち尽くしていた。