1. リラの花の髪飾り
***注意***
本作は「夫の愛に気付いて徐々に絆を育む」系の話ではありません。
あしからずご了承ください。
嫁ぎ先が決まったと告げられた時のことを、正直に言って私はよく覚えていない。
お父様もお母様もその時のことに特に触れないということは、多分私は上手く振る舞ったのだろう。
つまり、はにかんだように微笑んで、私にはもったいないお話です、とか何とか言ったのだと思う。そして、娘のために良縁を見つけてくれたお父様にお礼を申し上げたのだろう。
はっきりと覚えているのは、部屋に戻ってからのことだ。
私は侍女に命じてずっと大切にしてきたお伽話の本の数々を処分させた。最初は乳母やお母様に、次にはお姉様に、何度も読み聞かせてもらったもの。もっと大きくなってからも、最近になってからも折に触れて読み返して、挿絵も物語も空で思い浮かべられるまでになった本たちだった。
侍女もそれを知っているから、本当によろしいのですか、と何度も聞かれた。それに対して、私はもう結婚するから子供っぽいものはもういらないの、と押し切った。
その後一人になってから、本がなくなった分だけ寂しくなった部屋でベッドに突っ伏して私は泣いた。
貧しいけれど美しく優しい娘が王子様に見初められる。
心映え良く働き者の娘が身分の違いや困難を越えて高貴な人の妻になる。
そんな素敵な物語、小さい頃から慣れ親しんで憧れた物語が作り物に過ぎないと思い知らされたからだ。私のように愚かな娘を宥めすかして礼儀作法やダンスや刺繍、家事全般というものを身につけさせるための方便に過ぎなかったのだ。
滅多にないこと、ほとんどあり得ないことだからこそ物語になるのだということは私にだって分かっているつもりだった。でも、両親やお姉様やお友だち、歳の近い使用人なんかは揃って私をのぼせ上がらせて物語の主人公になれるかもしれないと勘違いさせてくれた。
――姉妹なのに貴女の方がずっと綺麗ね。お姫様みたい。羨ましいわ。
――素晴らしい刺繍だ。お前はどこの王様や王子様にやっても恥ずかしくない自慢の娘だよ。
――王太子殿下にダンスを申し込まれるなんて、さすがライサね。まるで絵のようにお似合いだったわ。きっと殿下は貴女に求婚なさるはずよ!
――今日もどなたよりもお綺麗でした、お嬢様。
みんなの言葉の一つ一つは嘘じゃないと思う。ただ、ほんの少し大げさだっただけ。そして間に受けた私が大馬鹿だったというだけだ。
でも、手を差し出してくださった殿下や私の髪や瞳やダンスのステップを褒めてくださった貴公子たち。あの方々との夢のようなひと時、高鳴る胸や熱く潤んだ瞳を知った後では、私が少しばかり自惚れたのも仕方ないことではないだろうか。
ありえないわ、とか私なんて、とか言いながら、私はずっと夢見ていた。期待していた。私だけは他のみんなと違うのではないかと。いつか王子様が跪いて薔薇を捧げてくれるのではないかと。
とにかく、私の愚かな夢、虚しい幻想はものの見事に打ち砕かれた。
私はお伽話のお姫様なんかじゃなかった。
私は結局、平凡な殿方と平凡に結婚して平凡な家庭を築く、平凡な娘に過ぎなかったのだ。
「旦那様がお戻りです」
「そう、今行くわ」
侍女に呼びかけられて、私は針を置いて立ち上がった。刺繍の腕を認められて玉の輿、だなんてもう信じてはいないけれど、黙々と針を動かすのは気持ちを落ち着かせてくれる。それに、色とりどりの糸で季節折々の花などを描くのは、手の届かなかった美しい世界をせめて布の上に閉じ込めているようで――私は、好きだ。
部屋を出る前に、髪を撫でて、座ってできたドレスの皺をなおす。
「おかしくないかしら」
「今日もお綺麗ですわ、ライサ様」
「ありがとう」
侍女たちは私を奥様とは呼ばない。その呼び方は、私にとってはお母様やそのお友だち、つまりは年配の小母さま方を指すものだったから、どうにも馴染まない。先に嫁いだお姉様が奥様と呼ばれるのさえ落ち着かないのに、まして自分がそう呼ばれるとなると、ひどく老け込んでしまったような気になってしまう。
せめて子供に恵まれるまでは娘気分でいさせて欲しい、実家と同様に名前で呼ばせるようにして欲しいと頼むと、夫となった人は快く許してくれた。少なくとも寛容で優しい人ではあるのだ。
妻の役目の一つとして、私は玄関先のポーチで旦那様を出迎えた。
世間では私たちのことを誠実な夫と美しく控えめな妻の理想の夫婦だと言っているらしい。そんな評判を裏切る勇気は、私にはない。
「お帰りなさいませ」
でも、頬に口付けるのも抱擁を受け入れるのも、ごく義務的なものだ。旦那様の特別醜いわけでもないけど特別整っているわけでもない顔、ぱっとしない暗い色の髪と瞳を見上げて、私は内心ため息を吐く。
見れば見るほど、平凡だわ。
いっそ顔に醜いイボがあるとか背中にコブがあるとかの方が良かった。それなら私は怪物に嫁がされた可哀想なお姫様で、王子様に助け出してもらえる希望があったから。
でも、例えば殿下と踊っていただいた時のようなときめきはなくても、旦那様はまあまあ感じが良い普通の人で、つまりは私も普通の妻、普通の女だということになる。
旦那様が脱いだ上着を受け取りながら、私は微笑みの仮面を身につけた。
「今日は何をしていたんだい? ライサ」
「いつも通りです。刺繍を」
「何の模様?」
「鈴蘭です。大判のハンカチの四隅を花と葉で飾って、陽光に見立てた金の模様で縁を囲むつもりです」
「君のことだからきっと見事なものだろうね」
「ありがとうございます、旦那様」
どうすればこの人との会話に胸を躍らせることができるのだろう、と考えながら私は淡々と受け答えた。多分、何を話しても同じだろう。旦那様との結婚で私は不幸になった。ただのその辺にいくらでもいる女に過ぎないのだと思い知らされた。だから、私はこの方をどうしても好きになれない。
この方が相手だったから、結婚式もずっと思い描いていたのと違って、ただただ灰色の気が滅入るような時間だった。
私はいつものように朗らかに振る舞うことをしなかった。そんな気持ちになれなかったし、みんな良いように取ってくれると分かっていたからだ。恥ずかしがって緊張しているとか、実家やお父様お母様と離れるのが寂しいのだろう、とか。私を責めるどころか、むしろ誰もが慎ましい花嫁だと口を揃えて、旦那様は素敵な方だからと励ました。
初夜の床でも私は横着をして、ろくに笑いも口を開きもしなかった。旦那様はやっぱり何かしら良いように解釈したらしく、とても――私には比較する相手などもちろんいないのだけど――優しくしてくれた。
私も旦那様も健康そのものだから、どうせすぐに子供を授かるのだろう。そうしたら私は平凡な母親になって、旦那様に似た平凡な息子か、私に似て美しいかもしれないけれど結局平凡な男に嫁ぐ娘を育てるのだ。
今日はこれから食事を共にして。お仕事の話を聞いて、関心がないとあからさまにならない程度に相槌を打って質問をして。お酒に付き合うかもしれない。それから、旦那様がそういう気分なら、一緒に寝ることもあるだろう。
いつも通りの、つまらない――くだらない夕べだ。
「今日は贈り物があるんだ」
「え?」
だから、旦那様のいつも通りでない言葉に驚いて、私は反応するのが遅れた。
「……まあ、何かしら。楽しみだわ」
「気に入ると良いんだが。食事の後に渡すよ」
そう言って笑った旦那様の笑顔もまた、いつもとは違う表情だった。照れているというのか、はにかんでいるというのか――どちらにしても、私にはなんだか気味が悪いとしか思えなかった。
著名な宝飾店の包装紙を開けると、中に入っていたのはリラの花を象った髪飾りだった。
「まあ」
思わず、嘆声がこぼれる。
あの甘い香りが漂ってきそうなくらいに精巧なもので、枝を模した銀の土台に、小さな花が散りばめられている。花びらを彩るのは、透明から薄い紫と桃色の水晶。ところどころに白い琺瑯のものもある。私の淡い金の髪にも、深い湖のような青い瞳にも、磁器のようだと言われる肌にもよく映えるはずだった。何て、素晴らしい。
「義姉上に君の好きな花だと聞いた。きっと似合うと思って」
けれど、旦那様の言葉は私の高揚にすっと水を差した。
……では、この方は私の好みを察してくださった訳ではないのだ。手っ取り早くお姉様に答えを聞いただけなのだ。
「ありがとうございます、旦那様」
まあ、分かっていたことだ。この方が家のために迎えた妻に対してそこまでの気持ちを割くはずはなかった。そうと悟ると、私のお礼の言葉はいつもと同じ、礼儀正しいけれど心の篭らないものになった。
「気に入った?」
「ええ、とても」
どこか不安げな目をした旦那様に、にっこりと微笑みかける。大丈夫、今まで通りおかしなところはないはずだ。
「今度つけたところが見たいな」
「ええ、今度必ず」
その証拠に、旦那様は安心したように笑った。
やっぱりだ。この人は私の表面しか見ていない。
数日後、夜会のために着飾った私の姿を見て、旦那様はほんの少しだけ眉を下げた。
「あれはつけていないんだね」
あれ、とは言うまでもなくあのリラの花の髪飾りのことだろう。
「特別な機会に取っておこうと思いますの」
私は笑顔の仮面を貼り付けたまま嘘を吐いた。本当は、あの髪飾りを見るのも身につけるのも嫌だったのだ。私は旦那様を愛していないと、愛せないと改めて思い知らされたから。
嫁ぐ前の舞踏会でのことだったら、私はもっと些細な贈り物でも喜べた。
殿下が私のために取ってくださった葡萄酒だとか、あるお方が庭先から折り取って髪に挿してくれた白い薔薇の花だとか。
葡萄酒は注がれてから時間が経ってぬるくなってしまったし、薔薇の花は盛りを過ぎて花びらの端が少し萎れてしまっていた。
でも、私は嬉しかった。心から幸せを感じた。あの方たちの目が確かに私を見ていたからかもしれないし、物語から抜け出てきたような美しく洗練された方々だったからかもしれない。
とにかく、あの頃の私はいつか王子様――のような素晴らしい方――と結ばれるという夢をどこかで信じきっていた。
でも、現実に私の夫となったのは白馬の王子でも薔薇の騎士でもない平凡な方だった。
旦那様から贈られたという一点で、どんなに素晴らしい装飾品でも、私は素直に喜ぶことができないのだ。
とはいえ、今夜の席は王族を招いたようなものでも、何百人もの貴顕を集めたようなものでもない。身内の集まりの多少規模の大きい程度のものだ。だから、旦那様は私の言葉を否定することができないはずだ。
「そうだね。その時が楽しみだ」
思った通り、旦那様は気を取り直したように笑うと私に腕を差し出した。この方は私に強く出られるような方ではない。それがまた、気の小さい人だと思ってしまうところなのだけど。
とにかく、私は教え込まれた優雅な所作でそれを取って――私たちは理想の夫婦として社交界に繰り出した。