<Act.06>悪魔と契った人柱
――パシッ!
ルオは手を伸ばして、彼の包帯だらけの手首を掴んだ。
「待てよ!」
するとオズは、彼を振り払うように振り向く。よってルオの手は、安易に彼から離れた。
「いいんだ。これで僕がどうなろうと、先に進むくらいならいっそ」
「そう言って、てめーは逃げてるだけじゃねーか!」
全てを悟ったように語る、オズの口調は優しい。しかし、ルオは黙っていられないとでも言うように。必死に彼へと訴えかけていた。
それでも、届かない思いもあるのだ。
「もう僕のことは放っておいて。ばいばい……!」
「っ、オズ――!」
オズが再び踵を返して、ルオから逃げるように駆け出す。己の身など、顧みないまま。
ルオは成す術もなく、ただそれを見送ることしか出来なかった。
――ことはなく。
「てっめえ、」
素早く腰を屈め、足元に落ちていた何者かの靴を拾うと
「健診受けろおおおおお!!」
「ギャー!!」
バコーン!
大きくそれを振りかぶり、オズの後頭部へ向かって投げた。狙い通り、見事オズの頭にクリティカルヒット。
軽い脳震盪でも起こしたのか。それともただ単に驚いただけなのかは分からないが、オズはその場に転倒した。
すぐに立ち上がることが出来ず、彼は倒れ込んだままピクピクと軽い痙攣を起こしている。そこへルオがお構いなしにツカツカと歩み寄って行き、ガッと首根っこを掴んだ。
そしていとも簡単に片腕だけでオズの体を持ち上げると、胸倉を掴む。
始まったのは説教であった。
「あんたね、何カッコいいこと言って定期メンテナンスから逃れようとしてんだよ!」
「人間と同じ定期健診を受けるルオとは違うんだよ! 僕たちは電流を体中に流し込むんだ! 気持ち悪いことこの上ないんだよ!」
「んなこと知るか! こっちだって針を体にぶっ挿すっつー魔の注射があんだよ! それでも逃げずに頑張ってんだ!」
「注射くらい我慢しろよ!」
「てめーこそ電流くらい我慢しろ!」
イヤイヤと必死に首を左右に振り、ルオの心に訴えかけるオズ。だがしかし、彼にはまったく効果無し。
至近距離で二人はいがみ合って、ギャーギャーと騒ぎ続けていた。それを傍から見守るエリの呆れ顔は、既に疲れ果てている。
そこへ、ひよりが腕を押さえながらやって来た。
「何だ、少年たちはまだやってんのか」
「先ほどからずっとあの調子なんですよ」
やれやれ、とエリはそう言って首をゆるく左右に振る。ひよりが彼らに視線を向ければ、相変わらず言い争いを続けていた。
本日はアンドロイドと、PLANTスタッフによる定期メンテナンス及び健診の日。外は生憎の曇り空。だが、メンテナンスと検診双方とも屋内で行うので別段問題はなかった。
「今日は天気が優れないですね。明日は雨が降るとか」
「これも自然の摂理のひとつだろう。おじさんたちが兎や角言ったところで、どうにもならねえさ」
「僕はもう直に死ぬし別にいいもん、別にいいもん! メンテナンスなんて必要ないね!」
「そうやって永遠と駄々捏ねやがって、往生際が悪いんだよ! 今まで腕やら足やら切ってきたんだろ、それに比べたら断然楽じゃんこれくらい我慢しろ!」
「それとこれとは全ッ然違うんだよバカアアア!!」
「……優れませんね、こちらも」
当たり障りのない話題で場繋ぎをしている二人だが、ルオとオズの水掛け合戦に終わりは見えない。
胸倉を一方的に掴まれていたオズは、いつの間にかルオのそれを掴み返している。明らかに、先ほどよりも状況は悪化している。
流石にこのまま待つのも埒が明かないと思ったのか、ひよりが二人の元へと歩み寄っていった。そしてルオの首根っこをガシリと掴むと、ベリリと二人を引き剥す。
突然のことにルオはポカン。オズも彼と同様に「え?」といった反応をしていた。
そんな彼らのことなど気にすることもなく、ひよりはエリに向かって言う。
「少年が少年のお守をするのもこれくらいでいい。手前さんは早く注射してこい。エリ君はそっちの少年を頼む」
「は、はい分かりました。行きましょう、オズさん」
彼に促されるがまま、エリはオズをアンドロイドたちのメンテナンスルームへと連れて行った。ひよりはルオをズルズルと引き摺り、今しがた自分が出てきた健診所に彼を放り込む。後が押しているようだ。
「ほら、さっさと右腕を出す」
「……逃げるぞ、アイツ」
むすっとした表情で、ルオは袖を捲りながらひよりを下から睨みつける。
アイツ、とはオズのことだ。
「その時はその時。楽しくみんなで鬼ごっこと洒落込もう」
「はあ。付き合ってらんねー……」
文句を零しつつ、彼は丸椅子に腰を下ろす。白衣を着た医師に腕を差し出して、準備を待った。
「何をそこまで躍起になって、オズ君に突っかかる必要がある」
「気に掛けろって言ったのはあんたじゃん」
ゴムで腕を縛られ、液体を染みこませたコットンが肌を叩く。その作業を眺めながら、二人は暇つぶしにも似たような会話を交わしていた。
「面倒を見てくれとまでは頼んでないだろう? おじさんは、オズ君の自傷癖を何とかしてやりたかっただけだ」
「あんなに気が弱いくせして、自傷は出来るんだね。勇気の使い道を絶対に間違えてる」
別段気にした様子もなく、ルオは自分に向けられる針を見つめる。針が腕に近付いた。入った。
彼は少しだけ表情を引き攣らせる。が、すぐに表情を元の無に戻した。
「注射は怖いか?」
「うん、苦手」
「やけに素直だなあ」
無表情で腕に差し込まれた針を、ルオは眺めている。目を逸らす理由もないからだ。――なかったからだ。
「!」
自分の体内から抜かれた赤い液体。血ソックリに見えるソレ。
刹那、ルオは目を丸くしてそれを凝視してしまった。そして気分を害したように、パッと顔を背ける。
「うっ……」
「おい? 少年、どうした」
内臓がせりあがってくるような感覚。脳裏を駆け抜けたのは、幾多の残像。それは、シータによってルオが見せつけられたもの。
吐き気を催してしまった彼に気付いたひよりが駆け寄ってくる。しかしルオは、それを暇を持て余している左手で制した。
「はぁっ、……はー、平気。ごめん」
「ルオ君……」
まさか血を見ただけで気分を悪くしてしまうとは、思っても見なかった。と、彼は目を瞑る。
油断してしまっただけだ。そう自分に言い聞かせて、再び医師の方へと向き直った。
その時既に針は抜かれており、傷口には小ぶりのガーゼが押し付けられていた。
「……さっきの続きだけど」
「おう?」
器具が外されていくのを最初同様に眺めながら、ルオは口を開く。終わったかと思われていた会話が、再び持ち出された。
「俺の弱さを、オズは、表しているように見える。それが酷く、むかついた」
『俺は、生きたかったわけじゃない。ただ、死ぬのが怖かっただけの臆病者だから』
あの小屋でルオが零した〝本音〟が、ひよりの頭で再生される。その時の光景が、視界に重なって見えた。
弱さを曝け出し、世界から逃げようとする少年。対照的に、弱さを直隠し、世界に従う少年。今、ひよりの眼前にいるのは、後者だ。
「……強がりの青二才め」
「?」
ひよりがボソリと呟く。頭上で零された言の葉を上手く聞き取ることが出来ず、ルオは顔を上げて首を傾げた。サラサラと、彼のブロンドの髪が重力に従って流れ落ちる。
それと同時に、ゴムの拘束からルオは解放された。もういいと空気に促されて、彼はゆっくりと席を立つ。
「暫く押さえておけ」
「うん」
ひよりの言葉に、彼はコクリと素直に頷いた。消毒液独特のにおいが、彼の鼻腔をつつく。
今しがた血の抜かれた腕をルオが凝視していると、その横でひよりは彼に問うた。
「手前さんは、己の弱さをどう思う?」
「は?」
慮外な質問に、ルオはキョトン。
パチクリと何度か瞬きを繰り返して、彼はひよりを見つめていた。ルオが質問の意図を汲み取るよりも早く、ひよりは続けて話し出す。
「弱さは隠すものじゃあない。誰かに助けてもらう部分だ」
「……何が言いたい?」
眉間に皺を寄せて、ルオは訝しげに訊いた。しかし、彼が答えることはない。
ポンポンとルオの頭を軽く撫でて、笑顔を浮かべると言ってのけた。「それは自分で考えろ」と。
益々形の良い眉を顰めて、ルオは小首を傾げた。
その時である。
「!!」
「あ」
バッタリ。と、彼らの目の前にオズが現れた。
しかし言葉を交わすよりも早く、彼は一人で何処かへと駆けて行く。
その背中を呆然と眺めていると、遠くから「ルオさん、ひよりさん!」と、二人の名前を呼ぶ声がした。振り向かなくとも、声の主が誰であるかは安易に想像がつく。
「エリ」
メンテナンスルームの方から駆けてきたのは、先ほど別れた片割れ。もう一人はたった今目の前を通り過ぎて行った。
ルオにはもう、彼が一体何を口にするのかが分かっているらしく。心底煩わしそうな視線でそれを待っていた。
「オズさんが!」
「逃げたんでしょ」
「そうなんですよ、僕がメンテナンスを受けている最中に!」
ルオの言葉にエリが頷く。返事の代わりに、彼は盛大な溜息を吐いた。空いた左手でこめかみを押さえ、ジロリと下から上に向けて視線を投げる。
向けられた先はひよりの顔。ルオの眼が語るのは「ほらな」という問責の念。それから逃れるように、ひよりはスイッと顔を逸らした。
「じゃあ、折角だし鬼ごっこでも開催するか青少年たちよ」
「は? え、さっき言ってたことガチだったわけ」
そして場にそぐわない提案を飄々と上げる。先ほど、ルオが冗談かと流したものだ。どうやらひよりは本気だったらしい。
ルオはその提案を、さも当たり前とでも言うかのように流す気でいた。が、しかし、エリは彼と同じような反応は示さない。
「鬼ごっこ?」
「そう、人生楽しんだモン勝ち! 何事も楽しんでいかないとなあ。ってえことで、オズ君を探すついでだ。この中から鬼を一人決めて、みんなで逃げ回ろうじゃあないか」
「俺はパス」
「はい少年逃げない」
ガシ!
ヒラリと左手を反して、その場から離れようとしたのは金髪頭。けれどもそうはさせないと、ひよりの右手が素早く彼の首根っこに伸びた。
まるで猫を扱うように彼を捕える。ルオもまた、まるで親猫に首を咥えられた子猫のように大人しかった。既に無気力である。
ひよりに襟を背後から掴まれた状態で、子猫はジロリと横目で飼い主を睨む。
「……あんた、俺の首掴むの、好きだな」
「掴みやすい位置にあるからなあ、ちっこくて」
「うるせーよ」
自分で振った話題ではあったが、ひよりのアッサリとした返答にルオは噛みついた。言うなれば、威嚇しているようにも見える。
がるるる、と居間にも食って掛かりそうな勢いのルオとは裏腹に。ひよりはエリと話を進め始めた。
「鬼ごっこのルールは分かるな?」
「はい。でも、オズさんを探すなら全員で探した方が」
「それじゃあ楽しくないだろー?」
どうやら彼にとって重要なのは、オズを探すことではなくいかに楽しむか、らしい。どうせいつかは見つかると踏んでいるのか、余裕綽々と言った感じだ。
それには誰もが気付いた様子。エリは呆れたような笑みを浮かべて「分かりました」と参加表明を口にした。因みにルオは、半ば強制的に参加は決まったのも同然なので省略された。
「よっしゃ、ジャンケンいくぞ!」
「……ジャンケンのルールってどうだっけ」
「ルオさんってば、しっかりして下さいよ」
やる気満々のひよりは、すでに捲ってある袖をもう一度捲りなおす。その隣で、ルオは己の拳を見つめながら呟いた。思わずエリは苦笑を漏らす。
ルオは滅多にジャンケンを行ったことがないので、ルールをイマイチ覚えていないようだ。
「知ってはいるけどさ、実際にやるのはないから」
「僕が教えてあげます。ええっとですね、ジャンケンは――」
人の良いエリは、嫌そうな素振りも見せずにルオへジャンケンを教える。彼も馬鹿ではないので、一度の説明ですぐ理解した。そもそも難しいルールでもない。普通ならば、小学生でも出来る遊びのひとつなのだから。
「じゃあいくぞ、ジャンケンホイ!」
「あ」
「えっと、エリの負け!」
ひよりの掛け声に合わせて、三人が手を出した。エリだけがグーを出している状況。それを踏まえて、ルオが今しがた覚えたばかりのルールで結果を口にする。
つまり、エリが鬼というわけだ。
「僕は、あまり走るのは好きじゃないんですが……」
エリは自分の手をグーにしたまま、苦笑いを浮かべる。だからといって、結果が変わるわけでもない。
「場所はPLANT施設内限定でいくぞ」
「いいけど、オズは平気? 外に逃げたりしてないわけ?」
「オズ君はちょっとばかし気弱だからなあ。一人で遠くまでは行ってないだろう」
そういうものなのか。と、ルオは妙にひよりの言葉に納得した。次いで、エリもひよりに対して質問を投げかける。
「普段ひよりさんが連れている、猫のカルビさんは? 今も懐に?」
「え」
それを聞いた途端、ルオは素早くひよりから距離を置いた。臨戦態勢だ。
ハハハと軽く笑いながら、彼は「いない、いない」と右手を横にヒラヒラと振る。証拠に白衣を捲って見せれば、確かに何もいなかった。
ホッと胸を撫で下ろし、安堵するのはルオである。
「おじさんも流石に、猫連れて健康診断には来てないぞ」
連れてくるか? と提案するひよりに、素早く「必要ない!」と即拒絶の意を口にしたのも当然ルオであった。
あえて彼に称号を何か与えるのであれば、それは間違いなく〝猫嫌い〟というものだろう。勿論、そのような称号はない。
(っつーか、この人どうやって猫を懐に入れてんだ。カンガルーじゃあるまいし)
という、今更すぎる疑問は口にしなかった。
ジト目で彼のことを睨みつけているルオには気付かず、エリたちは話を続ける。
「では、三十秒ほど数えてから捕まえに行きますので、二人は逃げて下さいね」
「いいぞー」
「え、あ、了解」
ハッと我に返り、ルオは持っていたガーゼをペイと近くの屑籠へ捨てた。それを見たひよりが「もういいのか?」と彼に問う。
するとルオは無言で右腕を差し出した。注射針を差し込まれた部分を晒して、一言。
「もう塞がった」
確かに傷口は見えなかった。らしきものすらなく、本当に塞がっているようである。
「これくらいならすぐ回復する。酷い傷ならこうはいかないだろうけど、それでも人間よりかは早いよ」
乱雑に捲っていた袖を丁寧に戻しながら、彼は平然と言った。普通とは違う彼の治癒力に、エリはポカン。ひよりは、一度は息を飲んだものの、すぐに「そうか」と受け入れた。
(何でも人間と同じ、とういうわけではないんですか)
食べなければ壊れてしまう構造や、人間と同じくココロを持つ人形。本当に人間なのでは、と疑うことも出来るほどの近縁性。エリはここに来て初めて、ルオが人間ではないという確信に近いものを得た。
「じゃ、そろそろ始めようよ。オズのことも放っておけないし」
「あ。そうですね、数えますよー」
唐突に始まるカウントダウン。ルオとひよりが、その場から駆け出した。
ルオは暫く辺りを走り回り、人気の少ない通路にやって来たところで足を止める。少し呼吸を乱して、後ろを振り返った。
誰もいない。
「はぁー……」
呼吸を落ち着けるために、何度か深く空気を吸い込んで吐き出す。
(鬼ごっこなんて、何年振りだ)
――何年振り?
ふと、自分が今しがた考えたことに疑問を持った。
何年振りとはどういうことだ。自分は生まれてからずっと、PLANTで生活をしてきた。ここにはスタッフと、檻に閉じ込められたアンドロイドぐらいしかいない。ひよりに至っても、鬼ごっこをした記憶はない。
では、何故自分はそう思ったのか。
(ただの気のせい? それとも語弊か)
そもそも鬼ごっこのルールを、何故自分は知っていたのだろう。本で得た知識か何かだろうか。そんな本、ココにあったか。
「……」
まぁ、そんなことはどうでもいい。と、彼は考えることをやめた。
何故なら、他に気にするべき者がやって来たからである。
「あっ! ルオさん発見!」
通路の向こう側に、エリの姿が現れた。まだ小さい。
(適当にあしらって逃げるかな)
ルオは微苦笑を浮かべて、エリに背を向けた。そして小走りでその場所を離れる。その姿は、まるで幼稚園児相手に手加減をする保育士のようだ。
が。
「待てー!」
「え? えっ!? えええぇ!!」
ビュン!
エリが猛スピードでルオに接近してくるではないか。姿が大きい。
その時ルオの脳内では、先ほどのエリの言葉がリプレイされた。「僕は、あまり走るのは好きじゃないんですが」という台詞だ。
「何が好きじゃないだよ、何がああああ!」
全速力。先ほどまでとは打って変わり、彼は力の限り走り出す。しかし、本気を出すのが遅すぎたらしい。
「好きじゃないとは言いましたが、遅いとは言ってませんよー」
「しかもなんでそんなに余裕なん、ぐっ」
途端にルオは黙った。どうやら舌を噛んでしまったようである。走りながら喋っていたのだから、無理もない。
それに伴い、彼のスピードが減速した。
必然的に、
「はい、タッチ!」
「ぅうう……」
確保。
エリは笑顔でルオの肩に触れていた。
(こんなに早く捕まるとか、呆気なさすぎる)
口元を押さえながら、ルオはしなしなとその場にしゃがみ込む。相当痛そうだ。
エリは気にした様子もなく、「オズさん待ってて下さいねー!」などと言って、どこかへと小走りで去って行く。
その背中を恨めしそうに眺めながら、ルオは思った。
(何でオズだけ?)
――刹那。
ユラァ、と彼の背後から人影が現れる。気配を察してすぐ振り返ると、脱力し切ったひよりが立っていた。
まさか。
「……つかま、た?」
「一番目にな!」
「ドヤ顔やめろ、悲しくなる」
舌が痛むのか、ヨロリとした滑舌でそれだけを問う。すると、ひよりは仁王立ちで凛々しく答えた。その自信は一体何なのか謎である。
若干涙目であったルオは、ゴシゴシと袖口で目元を乱暴に拭って立ち上がる。そしてため息交じりに「エリがあんなに走るのが早いとか、予想外なんだけど」と愚痴をこぼした。
ひよりも同意らしく、ウンウンと頷いている。彼もルオと同じく、油断して捕まったらしい。
この親にしてこの子あり。ではなく、この師匠にしてこの弟子あり。と言ったところだ。
「ここで反省会開いてても意味ないし、俺たちもオズを探そう」
舌の痛みは引いたのか、最初よりもはっきりとした口調でルオは提案する。もっともな意見ではあったのだが、ひよりは賛同しなかった。
「そう急ぐな。手前さん、ちょっとおじさんのリハビリに付き合え」
「リハビリ?」
一旦彼に背を向けたルオは、振り返って首を傾げる。ひよりは、チョイチョイと右手でルオを招いていた。
少しだけ考える素振りをして、彼はひよりの後を歩く。
「何すんの?」
「エリ君やオズ君には悪いが、手前さんと二人だけになる機会もそうないからなあ。まあ、おじさんのちょっとした遊戯だ」
「……俺は、別にいいけど」
一瞬だけ、ルオはチラリと後方を見やった。エリが駆けて行った方向である。
彼だけでなく、オズまで放置しておくということがルオには不安だったのであろう。何処か腑に落ちないような面持ちのまま、歩き続ける。
するとやって来たのは、あの中庭だった。
「ほら、入れ」
ひよりに促され、中庭へと出る。短く切りそろえられた芝を踏んで、数歩進んだ。ひよりもルオと同じように中庭へと足を踏み入れる。
何故か二人は三メートルほど距離を取った状態で向かい合っていた。正確には、距離を取っているのはひよりの方である。
不思議に思ってルオが首を傾げるのと同時に、彼は言った。
「PLANTの刀剣を出せ」
「!」
思ってもいなかった台詞に、ルオは自然と後退する。和やかな空気から一変して、どこか張り詰めた雰囲気が彼らを覆った。
「そう警戒するんじゃあない。ただ、少しだけ手合せしようぜってだけだ。おじさんは武器を持っちゃいねえから、ルオ君に借りたい」
「……」
出来るだろ? と彼に言われて、初めてルオの左手が自分の首輪に触れる。だが、外そうとはしない。何かを考えるように、目線は落とされていた。
それを釣り上げたのは、ひよりの言葉。
「それとも手前さんはまだ、PLANTの刀剣を具現化出来ない臆病者のままか?」
「……はっ、冗談」
ぐっ。ルオの左手が、首輪を強く掴んだ。しかしそれ以上は何もしない。また、彼の動きは止まってしまった。
「覚えてるか? 手前さんに、ソレを渡した時のこと」
「……一応、ね」
先ほどから、一向にひよりとは目線を合わせない。フイ、と逸らされた視線も彼から大きく外れていた。
――それはまだ、ルオが自分の名前すらよく理解していない時。およそ、十年前のことである。
「……」
暗い部屋の、ベッドの上。隅の方で縮こまっている幼子こそ、ルオであった。
梳かれていない金髪はボサボサ。眠れていないのか、目の下には深い隈。泣いていたのか、瞼も腫れていた。
その表情は、無。どんよりと濁った碧眼は開かれたまま、どこかを眺めている。
破かれた衣類から除く鎖骨の下には、痛々しいものがあった。焼き入れられたばかりの製造番号だ。
――ガチャ。
「ん、真っ暗だなあ。電気どこだ、電気」
ノックもなく開かれた扉。入って来たのは、白衣の男。ルオは驚いた様子もなく、しかし興味もなさそうに、瞳孔をゆるりと動かして男を見やった。
刹那、パッと明るくなる部屋。男はルオの姿を見た途端「うわっ」と小さな声を上げた。
「ああ、驚いた。電気くらいつけておけ、座敷童か何かが出たのかと思ったぞ」
「……」
その男こそ、ひよりである。今よりも大分若い印象を受ける。因みに、その頃はまだ猫など動物の類は連れていなかった。
「おおい? 聞こえてるか? ル――、おっと。名前が違うんだっけな」
ひよりがベッドの真ん前まで歩いて行き、しゃがみ込む。ルオと同じ高さの目線になって話しかけるが、彼の反応は皆無だった。その際、ひよりはルオの名前を言い直す。
「RUO、ルオ君」
「……?」
その時、初めてルオが反応を示した。ピクンと肩を震わせて、おずおずと顔を上げる。そしてひよりを見ると、こてんと首を傾げた。
「まだ昨日の今日だもんなあ、名前が分からないのも無理はないな。……に、しても」
ジー。ひよりはルオを凝視して、あることに気付いた。眉間に皺を寄せて、ベッドに両手を突くと、一気にルオへと近付く。
「!」
二人の距離は、五センチほどに縮まった。それに驚いたのか、ビクリとルオは身を引く。しかし彼は既に隅の方にいたため、あまり距離は取れない。
そんなことは気にせず、ひよりは彼のか細い腕を掴むと、言った。
「手前さん、いつから風呂入れられてない」
「?」
「ああもう、アイツら。せめて呪印を入れる前に風呂には入れろって、ああ言ってない。というか、言わなくても気をきかせろ!」
「ふ、ぇ?」
ビクビクビクビク。
自分の腕を掴んだまま、ブツブツと独り言を漏らす男をルオは怯えた目で見続ける。ぱちぱちと何度も瞬きをしては、ぷるぷると長い睫を震わせていた。
彼の辺りに飛び交う疑問符を取り払うように、ひよりは彼の腕を引っ張った。
「ちょっと痛いかもしれんが、風呂入れてやる。行くぞ」
「ひゃ、ふ」
「お!? おい! あああ、軽! 飯も食ってないのかまさか!」
突然立ち上がらせてしまったがためか、ルオは貧血を起こしたようだ。彼の視界はグニャリと歪んで、頭が真っ白になる。脳みそが熱い。
それでも意識は辛うじて引っ掴んだのか、金髪の幼子はゆっくりとまた立ち上がった。
(ココのスタッフの奴らは、本格的にこの幼子を捨て駒に使ってんのかい)
目の前の、飽きて捨てられたかのような人形を見て、チッ、とひよりは舌打ちをした。
今となっては、細い首に巻かれた輪っかも人形用のタグに見えてくる。
自分が今日ここへ足を運ばなかったなら、もしかすると、眼前の小さき命は消えていたかもしれない。少しでも遅かったならば、衰弱死をしていたかもしれない。現代社会では少ない死因すら、安易に想像がついた。
「来い」
「ぅ」
ルオの手を握って、ひよりは部屋を出る。他人に干渉しない道行くスタッフたちですら、思わず彼らに視線を向けてしまう。その視線から逃れるように、ルオはひよりに引っ付いた。
大人の歩幅に追いつかない彼は、トテトテトテトテと慌ただしく足を動かして必死に付いて行っている。部屋を出た途端、頼れるものがひよりしかいなくなったのだ。無理もない行動であった。
そうしてやって来たのは浴場。時間がよかったのか、中に人は誰もいない。ひよりはロッカーの中に自分の白衣と上着を放り込んで、腕を捲った。
次に、しゃがみ込んでからルオの服を脱がし始める。着せ替え人形のように、特にルオは反抗しなかった。
「ほい、ルオ君バンザーイ」
「ぬ」
「洋服もちゃんとしたやつがいるなあ」
後で持って来てやる、とひよりはルオの頭をわしゃわしゃと撫でる。それを、彼は相変わらず濁った碧眼で傍観していた。
いざ浴室に足を踏み入れると、真っ先にひよりはルオを洗い場に連れて行く。そして一言、謝罪を口にした。
「痛いかもしれないが、我慢しろ。いいな」
「!」
ビクッ。
それを聞いた途端、ルオは逃げ出そうとくるりと踵を返そうとする。が、肩をガシリとひよりに掴まれて動けなくなった。
「うー! いやあああ!!」
「だああ! 騒ぐんじゃあない、響く! 少し! ちょっとだけ! ちょっとだけだから!」
「ああああああ! ぶっ」
バシャア!
ひよりがぬるま湯をルオにぶっかけた。すると彼は、焼鏝の刻まれた胸元が痛んだのか、思わず背を丸める。
「ほら暴れるからこうなる! ゆっくり洗ってやるから、大人しくしておけ。少しでも痛くないよう善処はするから」
「うー、うー、ううぅぅ~……」
心底恨めしそうな眼差しを、ルオはひよりに向けている。それがひよりの見た、ルオの初めて〝生〟を感じさせる表情だった。しかし言語がくっついてくることはない。
(舌でも切られて喋れないのか? それとも知恵遅れか)
そのようなことを思ったが、別のことが気に掛かり中断した。必死に己の胸元を守る小さな両手を、ひよりは見つめる。
「……そう、その焼印を恨むな。それは手前さんにとって、ある意味では救世だ」
その赤い目はどこか、優しかった。
思わず、ルオはキョトンとする。次いで、何かを考えるように沈黙すると、大人しく近くの座椅子にちょこんと座った。
どうぞ。
口にはしなかったが、彼なりの意思表示であった。思わず、次はひよりがキョトン。呆気とした顔をしてから、「いい子だ」という褒め言葉を口にして、ルオの頭にぬるま湯を掛けた。
金髪の柔らかい髪の毛を、頭皮に爪を立てないように丁寧に洗髪していき、湯で流す。体はそれ以上に気を遣って洗っていった。
ルオの体は細く、肌も透けるように白い。傷をつけないよう、且、焼印に負荷を与えないように慎重にひよりは洗う。思わず無表情になっていた。ひよりはこのようなことに、あまり慣れていないようだ。
「ぅ、う……」
それでも泡が沁みるのか、ルオは顔を顰めている。声が漏れる度に、ひよりは「もう少しだからな」「あとちょっと辛抱しろ」など声を掛けた。
ルオの洗浄を終えて、ひよりはふぅと息を吐く。すると、間髪入れずに「はくちっ」と小さなクシャミが聞こえた。当然ルオのものである。冷えてしまったらしい。
「風邪引いたら大変だな、湯銭にも入れそうにないし……出るか」
ひよりの言葉に、ルオは大人しくコクリと頷いた。
浴場を出ると、ひよりは洗う時とは違って大雑把に幼子をバスタオルで拭いていく。あまりの乱雑さに、ルオは腰が引けていた。が、ひよりが気にした様子はない。
新しいバスタオルをもう一枚使って、ルオの体をぐるぐると巻く。そして座椅子に座らせると、簡単にドライヤーを当てていった。
「お」
サラサラ。まるで陽の光でも手繰り合わせたように、一本一本が蛍光灯の光を反射させる。天使の輪を浮かべながら、ルオは小さな声をあげたひよりの方を振り向いた。ふわりと鼻腔をくすぐる、柔らかい香り。
「見違えてるじゃないか。スッキリしただろ」
「……うん」
ルオが返事を口にする。しかしながら、その声はドライヤーの音に掻き消され、ひよりの耳には届かなかった。
バスタオルを体に巻かれた状態のままで、ルオはその場を後にする。ひよりに手を引かれて廊下を歩いて、ある部屋へと入った。目の前に広がるのは、衣服。衣類。洋服。つまり、服だ。
「子どもサイズのは~……お、あっちだ」
元々はアンドロイド用なのだろう。奇抜なデザインの洋服がズラリとハンガーに掛けられて、行儀よく並んでいた。
その中から、ひよりは幾つか手ごろなものを取捨選択し、ルオに合わせていく。
「これがいいな! よし、これを着なさい」
「……」
彼から洋服を受け取り、ルオは怪訝そうに眉を顰めていた。手に持っているのは、フリルのあしらわられた子どもサイズのワンピース。女物である。
「手前さんには似合うぞ」
ニィ、と笑っているひよりには、悪びれる様子はない。それを今一度確認をして、ルオは、ふぅと息を吐き出した。
――パサリ。
バスタオルが床に落ちる。彼は洋服にモゾモゾを袖を通して、手早く着替えを終わらせた。性別は男ではあるが、見た目は女である。
「おっ、これ可愛いんじゃないのかあ? 似合うぞ、つけてみろ」
「う」
すると、またひよりが何かを彼に手渡す。それは、先ほどのワンピースと同じ系統のカチューシャであった。
ルオは思う。目の前の人間は、自分の性別を勘違いしているのではないのかと。だがしかし、先ほど風呂に入れられたばかりなのでそれはなかった。
つまり、腑に落ちない。
ぷくり。と、ルオは密かにほっぺたを膨らませた。それでも文句を口にしないのは、慣れているからだ。慣れとは恐ろしい。
「……」
「?」
ふと、視線を感じた。顔を上げると、ひよりの赤い双眸が彼を見下ろしている。どこか真剣な面持ちで。
「手前さんに、渡したいものがある。おじさんからのプレゼントだ」
そう言うと彼はルオの手を取った。来たとき同様に小さな手を引いて、敢然と歩き出す。
長いものに巻かれるように、可愛らしいお人形さんのようになっているルオは、それに連れ添って進んで行った。
カツン、カツンと間隔の開いた跫然と、テクテクテクテクと間隔が短く軽い跫然が廊下に響く。傍から見れば、彼らの姿は正に父子であった。
「さあ、ここだ。入ってみろ」
とある扉の前でひよりが足を止める。戸に掌を張り付けて、ルオに微笑んだ。
それに促されるかのように、彼はひよりと同じく、扉へそっと両手を添える。軽く押せば、安易に隙間が生まれた。
すると何故か、突然胸の奥底から不安がせり上がってくる。扉から顔を逸らして、ルオは心配そうにひよりを見上げた。「大丈夫だ」とでも元気付けるかのように、彼はルオに頷く。
この底知れぬ畏怖は、一体何なのだろうか。意を決し、彼は扉を押し開いた。
室内は暗い。しかし、部屋の奥にはスポットライトのようなものが当てられていた。そこにあるのは、何の変哲もない首輪。金具の部分がライトによってキラキラと存在を強く主張していた。
「行け」
「ゎっ」
トン、とひよりに背中を押されて、ルオは一歩踏み出す。途端に振り向いて彼の姿を確認すると、ゆっくりとルオは首輪の方へ近づいて行った。
「……」
足を止めて首輪を見つめる。輪に飾られた金色のドッグタグには〝57θ〟とアルファベットと記号が刻まれていた。遅れて、それが自分を指し示す番号であることに彼は気付く。
恐る恐る両手を伸ばして、それを手に取った。まじまじと至近距離で幾ら凝視したところで、ルオには普通の首輪としか認知出来ない。
「それはだな」
「!」
突然自分の真後ろから声がして、彼はビクリと体を跳ねさせた。急いで後ろを振り向けば、すぐそこにひよりが立っている。
「アイデンティフィケーション。所謂、IDっつうものだ。PLANTで過ごしていく上で必要になる。それと同時に」
一旦ひよりが台詞を区切った。そして彼は、しっかりとした口調で告げる。
「これから手前さんのことを護る、騎士になるだろう」
正確には、その手助けをするといったところかもしれねえなあ。と、ひより。ルオにはよく理解が出来なかった。
自分を護るというのは、一体どういう意味なのか。こんなただの首輪が、一体どのような役に立つというのか。分からないことだらけである。
「その首輪には、PLANTで手を加えられたとある刀剣が憑依されている。手前さんの精神、基、魂に呼応して変化するんだ」
「……」
瞬きをゆっくりと繰り返し、ふたつの碧眼はひよりを見上げていた。そして、またゆっくりとした動作で首輪を見つめる。彼の小さな両の手に乗っかっているそれは、大人しくそこにいた。
理性と知能を携えた、大の人間であれば鼻で笑うような内容の話。だが、まだ幼い彼はそれを簡単に飲み込んでいた。
「手前さん、その焼印を入れられた時のことを覚えているか?」
「ッ!」
びくり。ルオの肩が震える。
人には、トラウマというものが存在する。忘れようにも、忘れられない痛ましいものだ。第三者が、安易に触れることの出来ない領域。
ルオにとってのそれに、ひよりはいとも簡単に触れた。触れると言うよりも、抉るように握りしめた。
『ごめ、なさ……! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!! 言うことなら何でも聞きます、従います! だからっ、だからあっ!』
ルオは顔を顰める。思い出してしまった痛ましい記憶。途端に、忘れていたはずの痛みが、胸元にじんわりと広がり始めた。
「つらかっただろう。――憎かっただろう? 人間のことが、憎かったろう」
「……に、くい?」
耳元で囁く声が、ひよりのものなのか。それとも、悪魔というものからなのか。その時のルオには判別がつかなかった。
憎いなどと、考えたこともなかったのだ。
(あの時は、焼鏝から逃れようと必死で)
考える暇もなかった。全てが終わった後も、思い出すこともつらく、思考を動かすことも気怠く。糸の絶たれた操り人形のように、ただベッドの上で座っていたのだから。
しかしひよりの一言によって、彼はトラウマを徐々に自ら掘り下げていった。
幾ら謝罪を口にしようとも、表情一つ変えない人間。幾ら懇願したところで、揺らぐことなく焼鏝を自分に向ける人間。
(僕は何もしてないのに。僕は何も悪いことをした覚えなんか、ないのに)
ぎゅうう……。
ルオの手に力が籠り、首輪を握りつぶした。その時である。
「――!」
彼の掌握する首輪が、眩く光りを発したのは。
驚いたルオは、思わず首輪から手を離した。後ろに退けば、背中はひよりに当たる。見たところ、彼はまったく動じていない様子。
ルオの肩に両手を置いて、口を開く。
「見てみろ」
「……?」
ひよりに促されるままに、ルオはそろりと首輪を見た。が、そこに首輪はない。
代わりに、段々と光を失っていく縦長の黒い鉄――刀剣があった。
呆然と目を見開いているルオの肩から手を離し、ひよりは刀剣へ近づいて行く。そしてそれを右手で拾うと、ルオへと振り向いた。
「これから先も手前さんは、きっと人間たちに酷な仕打ちを受けるだろう」
「……」
「手前さんの存在は、在って無いようなものだ。駒鳥のように軟禁され、娯楽のために生かされるかもしれない」
それでも、と台詞を繋いで、ひよりはルオに一歩近付く。その場で膝を突いてしゃがみ込むと、ルオに刀剣を差し出した。
「自分の運命は、自分自身で守れ。それを切り開くことが出来るのも、棄てることが出来るのも、ルオ君自身だけだ」
「…………」
長い沈黙が流れる。ルオの大きな眼は、ずっと逸らされることなく刀剣に注がれていた。やっと彼が手を伸ばしても、またすぐに引っ込める。
どこか禍々しく、黒い刀身。形も歪で、手にすれば自分が傷つく両刃の剣のようにも思えた。
それはもしかすると、ルオの〝恨み〟の念に呼応した所為かもしれない。
何かを考えるかのようにふた呼吸間ほど俯いて、顔を上げた。ひよりの赤い瞳を真っ直ぐと、射抜くように見つめている彼の双眸には、今までになかった光が宿っていた。
光という名の、それは生気であった。彼が今まで抜け落としていた、生気だった。
桜色の唇が割られ、金髪の人形は悪魔の名を呼ぶ。
「おじさん」
「!」
今まで一言も言葉を発しなかったルオが、突然、しっかりと単語を口にしたのだ。それには呼ばれた本人である彼も、酷く吃驚したらしい。目を丸くしてルオを見つめていた。
「手前さん……喋れたのか?」
「うん」
こくりと彼は頷く。途端にどこか悲しげな眼をして、ポツリと言葉を紡ぎだした。
「喋ったところで、現状は何も変わらないから。だから僕は喋ることも、生きることもやめていた」
「……それだけ舌が回れば、たまたま今のタイミングで喋れるようになったっていうのはあり得ねえなあ」
冗談を言うように、ハ……と小さく笑いながらひよりが返す。その表情には、明らかな動揺と困惑が見えていた。
それに気付いたルオも、小さく笑みを浮かべる。
「僕の存在にも、言葉にも力はないでしょう? それなら無駄に足掻くこともやめて、ただ従っていればそれが一番楽なんだろうって……諦めた」
でも、おじさんは酷い人だよね。と言い、ルオは視線を落として空の両手を握りしめた。
「折角つらくない生き方を見つけたのに。こうして、希望を僕に持って来るんだから」
彼は、そっとひよりの持つ刀剣に手を添える。離れた位置を照らすライトを、刀身は薄らと反射させていた。
ツツツ、と彼が黒の刀身に小さな指先を滑らせれば、ピリッとした痛みが指に走る。目を向けると、赤い液体がドーム状に指の腹を覆っていた。
「ん……」
ルオの舌がそれをペロリと舐めとる。ちゅ、と唇を這わせて血を啜った。その時微かに、刀剣が薄ぼんやりと白く光ったように見えたが、あまりにも弱々しかったために二人は気付かない。
「手前さんは、これを希望と呼んだな」
「……」
今まで彼の行動を黙って見ていたひよりが、口を開く。ルオはチラリと視線を向けて、唇に当てていた手を下ろした。
桜色に、赤色が付着している。
「勘違いをするんじゃあねえ。これは実験の一環だ。この刀剣は異常だからな」
「異常?」
ひよりの言葉を反芻して、ルオは黙った。
「正確には、異常だった。よって、手を加えて通常にした。それを確認するために、手前さんを人柱にするってことだ」
だから希望なんて口にするな、とひよりは言う。それでもルオには、目の前の刀剣がパンドラの箱のように見えて仕方がなかった。
手に取ってしまえば、不幸に見舞われるかもしれない。分かっていても、拒絶することは出来ない。
恐る恐る手を伸ばして、刀剣の柄を握りしめた。ひよりが彼に刀剣を預けた瞬間、刀身はしゅんと萎びる。
「あ……」
気付けば、元の首輪へと戻っていた。その様子は、まるで花がコマ送りで萎れるようであった。
「言っただろう、魂に反応すると。刀剣を持つ意思のない手前さんには、まだ使いこなせないようだな」
「……」
よいしょ。と、ひよりが立ち上がる。項垂れている首輪をじっと見つめるルオの後頭部を見下ろし、話を続けた。
「言っただろう? 自分の身は自分で守れ。……と言っても、長いものに巻かれる主義の手前さんじゃあ無理かあ?」
「!」
まるで挑発するかのように、ひよりが語尾を上げた。安易に釣られたルオは、すぐに顔を上げる。そこには、ニヤリと微笑む赤い眼がふたつあった。
――自分は今、この悪魔に試されている。
警鐘のようなものが、彼の頭に鳴り響いた。
「このままPLANTの玩具でいることが嫌ならば、抗ってみろ。死にたくないなら、精々必死にもがくことだ」
抗う。もがく。
双方、ルオが諦めた言葉である。
「まだ餓鬼である手前さんに、何かを守るために刃を手に取れとは強いらない。せめて、ヒトを悵恨するのなら、それを糧にチャンスを手にしろ」
「チャンス……これが……?」
ひよりの目を見つめていたルオが、視線を下ろした。先ほどから微動しない首輪が、そこには垂れている。
先刻、確かにこれは刃となった。それも禍々しい形貌であった。自分の目で見たことなのだから、受け入れることは出来ている。
「手前さんは、この刀剣を手懐けることが出来るか?」
ぎゅう。ルオの両手に力が籠った。密かに下唇を噛んで、目蓋を下ろす。
「おじさんは、剣術が分かる?」
「護身用程度には出来るぞ」
それを聞くと、彼は顔を上げた。凛とした視線がひよりを射抜く。
――澄んだ、屈託のない目だった。
「これの使い方を、僕に教えて」
その台詞を聞くや否や、ひよりは彼の頭をグシャグシャと撫でる。まるで「その言葉を待っていたんだ」とばかりに、強く。
あまりの強さにルオは顔を上げることが出来ずに、ただ耐えていた。それを見るひよりの表情が、どこか悲し気であることにも気づかずに。
「そんじゃあ、今更ではあるが自己紹介といくかあ」
言うと、彼の手がルオの頭から離れる。そして眼前にその手は曝された。
「おじさんの名前は、ひよりだ。よろしくな、ルオ君!」
「……ひ、より」
他人の名前など口にしたことが無い。恐怖か、それとも恥ずかしいのか。彼は目を逸らし、ちらりとひよりの顔色を伺いながら名を口にした。
対し、ひよりはニカリと大げさな笑顔を浮かべる。「大丈夫だ」とでも言うかのように。それがルオにも伝わったのか、彼はそっと差し出されたひよりの手を掴んだのだった。しっかりと、彼に縋るように――。
それからと言うものの、ルオはまず首輪を刀剣へと具現化させる特訓から始めた。ひよりの言う通り、刀剣は感情によって姿を変えるものらしく、憎悪の念で変化させれば禍々しい両刃の剣へと姿を変えた。素人では到底扱えない両刃だったため、普遍的な刀剣へ変えるのには時間を要することとなった。
「あの時の俺には、あんたは悪魔の使者のように見えたよ。悪魔にでも縋る思いだった」
懐かしそうに目を細めて、金髪の少年はボソリと呟く。
記憶の中の幼子。その名残を残す金髪と碧眼、そして端麗な顔立ちは昔とあまり変わらない。
「昔はあんなに可愛かったのになあ。今じゃあもうワンピースとかは」
「着るわけねーだろ、ばか」
ひよりがおどけた調子でルオを煽った。ギロリと睨み付ける視線と口調は、記憶とは違ってトゲがある。
どうやら成長過程で、ルオという人格そのものには多少の歪みが生じたようだ。
「俺は男だって言うのに、いつもいつも女扱いして……」
「だあってルオきゅん可愛いんだもーん。ある日突然一人称が僕から俺に変わったとき、おじさんは娘が一緒にお風呂に入ってくれなくなった父親のような感情を抱いた。実際に入ってくれなくなった」
シクシクと涙する仕草をして、ひよりはルオから顔を逸らす。すると若干困ったように、ルオは頬を人差し指で掻いた。
「例えが分かりづらいんだっつの……。元々、親しく入る間柄でもなかったじゃん」
「いいや、おじさんは手前さんのことを実の娘のようにだなあ!」
「俺は男だ!」
ひよりの言葉にルオが吠えた。それを見て、ひよりは愉快そうにケラケラと笑う。ルオはと言うと、疲弊したのか脱力していた。
足元に落とした視線を、何気なく目の前の男に向ける。その相貌を見て、彼はふと思った。
「……ひよりは、老けたな」
「あれから十年は経ったからなあ、仕方ない」
流石のおじさんにも、時の流れはどうすることも出来ねえ。と、ひよりはまた笑う。
思わずルオは無言を返した。曲げていた背中を伸ばして目を伏せると、ポツリと呟く。
「俺は、ここ三年ほど身体に成長した様子が見られない」
不貞腐れた中学男児というわけでなく、何処か深刻そうな面持ちだった。ひよりもそれには気付いたらしく、笑うことを止めて彼の話に耳を傾ける。
「先刻の傷のこともそうだ。まるで、時がそこで食い止められてるみたいに……あれは治癒というよりも、巻き戻しだった」
「変なことを言うんじゃあねえ」
「!」
自分の体のことであるのに、ルオには分からず、その不安を口にした。
すると彼の話を遮るようにひよりは開口して、彼に歩み寄る。昔と同じように金髪に手を置くと、ワシャワシャと乱雑に撫でた。
変なこととはなんだと、ルオが胸中に蟠りを作る。それを言葉にして吐き出すよりも早く、ひよりが口を開いた。「手前さんは、人間に限りなく近付けることをポリシーとして造られたアンドロイドだ。普通のアンドロイドは成長なんて機能はない。手前さんにはそれが〝実験として〟備わっていた。それだけだ、だから不安に思うな」
「……そっか、分かった。ごめん、変なこと言って」
それは彼を慰めたり、宥めたりするような口調ではなく。まるで、「納得しろ」「理解しろ」とでも押し付けるような物言いであった。
(ひよりはたまに、俺を突き放すような言動をする)
本当の親のように振舞って近づいたかと思うと、途端にPLANTのスタッフと同等の立ち振る舞いをするのだ。その時の彼の眼差しはとても冷たいことを、ルオは幼少から知っている。
彼が謝罪を口にしたのを聞いて、ひよりの手が離れた。乱れた髪を押さえるように、ルオは左手を脳天に添える。
「でもさ」
「何だ」
ポソリと彼が口を開けば、ひよりは「まだ何かあるのか」とでも言いたげな視線を向けた。
途端にルオの目は座り、不機嫌そうに文句を零す。
「もう少し身長は伸びてくれてもよかったんじゃないかと思うんですけれども」
「それは、うん。ドンマイ!」
「畜生」
急いでひよりは白々しい笑顔をつくって、ルオに向かって親指を立てた。それが余程悔しかったようで、ルオは不貞腐れる。
ぷくりと頬を膨らませ、そっぽを向く彼を見て、ひよりは密かに(昔と変わってないなあ)などということを思ったが、それはあえて口にはしなかった。
……その時、カチャリと小さな金属音が鳴る。ルオが首輪を外した音だ。
「しっかり見ててよね」
ひよりから距離を取り、振り向き際に彼は言う。左手には、首輪がしっかりと握られていた。
途端に下がったように感じる気温。ルオの、エメラルドグリーンの硝子玉のような目玉が冷やかに首輪を眺める。
そこには肌を突き刺すような、凍てついた雰囲気が帳を下ろしていた。
(成程、精神統一か)
納得したように、ひよりが小さく頷く。
ギャグで二人は師匠や、弟子などと言い合っていたわけではない。実際に、護身用程度に剣を扱えると言ったひよりはそれ以上の実力を持ち、ルオの剣術修行を率先して行っていたのだ。
「刃よ、主の声に応えよ」
ドクン。彼の声に呼応し、首輪が己の存在を主張し始める。
感情をあまり曝け出すことのないルオは、こうしていつも同じ台詞を口にすることで、精神を高めているのだ。
当然、声に出さなくとも感情さえ昂れば、首輪は刀剣へと姿を変える。だが、長閑な昼下がりに、中庭で殺意を沸かせることなど彼にとっては至難の技であった。
それが分かっているひよりは、あえて何も口にしない。
ルオが無理に刃を手にしていることが、彼には重々分かっていたのだから。
「我の手腕となり、障碍を抹消せよ……!」
首輪が一振りの刀剣へと姿を変えて、その身を二つに分散させる。ルオはその片割れを、ひよりの方へ投げた。
ボスン、と刀剣が芝に沈む。
「上出来だな。その刀剣にキーワードでも仕込んだのか?」
「そんなとこ」
「ほう」
ルオと他愛のない言葉のキャッチボールをしながら、ひよりは足元に落ちた刀剣を拾い上げた。
少し目線より高い位置に刀身を晒し、その刃ぶりに目を向ける。
「……まずまずだな」
「褒めてるの、それ」
「さあなあ」
彼の言葉に、怪訝そうな表情でルオが問うた。だがひよりは真面目に取り合わず、彼の質問を簡単に受け流す。
キーコード。それは錠のかかった扉を開けるための鍵のようなもの。鍵穴がなければ〝開けごま〟と言う。それと同じだ。
本来このPLANTの刀剣は、感情の昂り次第で姿を変えることが出来る。しかし、ルオには幼いころからそれが出来ないのだ。戦う意思がなく、尚且つ、自分の感情を殺しに掛かっているという理由があるからである。
そのためのキーコード。刀剣へと変化させるために、言霊がキーコードとなっていた。
咄嗟の場合に、それは致命的な隙になるだろう。だが、開始の号令がある破壊活動に関係はあまりなかった。その為彼も、今更あまり気にはしていない。
強いてあげるならば、時たま湧き上がる羞恥心のみである。
ひよりはルオと対峙して、ゆっくりと剣を構えた。それを見たルオも、同じように刀剣を構える。
「本気で来てみろ。おじさんを退屈させないでくれよ?」
「あははっ。愉しくて思わず悲鳴をあげてしまうくらい、躍らせてあげるよ」
これはおっさんの遊戯なんでしょ? と、挑発的な笑みを浮かべながら、ルオは言った。
対し、ひよりは(口だけは一人前だなあ)と胸中で呟く。実際に口にした台詞は、
「ったく、躾がなっちゃいねえ。おっさん呼ぶなと何度言えば分かるんだ。この、金髪女顔」
「な!」
カチン。
負けじと彼もルオを挑発した。分かりやすい地雷をここぞとばかりに踏み付けて、彼を誘う。簡単にそれにのった少年は、素早く男に切りかかった。
キン! と、甲高い音が上空へ向かって響く。
「おいおい、こんな幼稚な挑発にのってどうするんだ」
「……分かってるっつの。ばぁか」
ひよりが剣でルオを振り払う。それと同時に、ヒョイと彼は後ろへ飛び退いた。まだまだ序の口だということが見て伺える。
飄々としている様子からして、どうやら故意で挑発に便乗したようだ。
剣を交えて、攻防戦を続ける。キン、カン、と甲高い音が空へ登っていった。
最中、ひよりが懐かしむように口を開く。
「思い出すなあ。ちびっこだった手前さんが、刀剣を振り回すどころか振り回されていた頃のこと」
「よく覚えてない」
キンッ!
双方の刃がぶち当たって、一層大きな音が響いた。
「それより。喋ってたら、舌噛むよ」
「ほお?」
「……ッ!?」
ザアアッ!
ひよりがルオを弾き飛ばす。
後方に飛び退いた彼は、地面を削りながら着地した。轍のようなものを描いて、芝生が潰れる。
「調子に乗るんじゃねえよお! おじさんからしてみれば、手前さんはまだまだひよっ子だ! 圧されて舌なんか噛むわきゃぬっ」
「あ、噛んだ」
「……」
ひよりから離れた位置で、ルオは冷ややかに突っかかった。ひよりはだんまり。
そして吹っ切れたように、今までの動きが嘘のような素早い動作でルオに切りかかった。
「わっ!?」
危なげにそれを刃で彼は防ぐ。
「オラオラオラァ! ガキが出しゃばるなあ!」
「ちょっ、何を躍起になってんだよ! あんたこそ挑発乗ってんじゃん!!」
「うるッせえ!」
キン、キン、キンキン! ガッ!! カン!
ひよりが次々と繰り出してくる牽制に圧されて、ルオは攻撃が出来ずにいた。防ぐだけで手一杯らしく、徐々に後退していく。
とうとう壁際に追い詰められた時、ひよりが峰打ちでルオの手を打った。
「くっ」
痛みに耐えきれず、次の攻撃によって刀剣が宙に舞う。弧を描いて、サクラの木の根元に落ちた。
瞬間、ルオの眼前に突き付けられた矛先。王手。
眼を丸くした後、彼は文句を口から零す。
「なんだよ、力でゴリ押ししただけじゃん。技術なんてあったもんじゃない」
「それに負けた手前さんの立場は?」
「……はぁ。ない、ね」
諦めたように、ルオは笑みを浮かべた。ひよりは勝ち誇り口元を綻ばせ、刀剣を下ろす。
シュン。刀剣が首輪に戻った。ぶっ飛ばされた方の剣は消えている。
「手前さんには腕力がない。ガチムチになれとは言わないが、刀剣を扱う以上はそれを補える俊敏性や技術面を養うこったな」
ほらよ。と、ひよりがルオに首輪を押し付けた。それを彼が受け取ると、ひよりは背中を向ける。
ルオはじっと左手で持った首輪を眺めながら、「ねぇ」と彼の背に声を掛けた。
「俺、少しは強くなった?」
「んん?」
半身で振り向き、ルオを見つめる。答えを待つように、ルオはぱっちりとした大きな目でひよりを見つめ返していた。
すると、彼の口角がニィと引き摺りあがる。
「まだまだだな」
キョトン。
それを聞いて、何度かルオは瞬きを繰り返した。暫くして言葉の意味をしっかりと飲みこんだのか、フッと軽く笑む。
首輪をぎゅっと握りしめて顔を上げれば、そこには微苦笑が浮かんでいた。
そして開いた口で
「だよね」
と、自嘲的に答えたのだった。
昔も現在も変わらない。姿が変わろうとも、多少中身が成長しようとも。
幾ら、その手を汚していようとも。
彼らの関係が、変わることはない。
そう。少なくとも、今は。きっと。
「……あれ」
陽が大きく傾き、朧月が中庭に顔を出した頃。二人はそろそろ帰ろうか、と腰を上げた。
そんな時、ふと。何かを思い出したようにルオが口を開く。
「そういやオズたちは」
「…………あ」
――その後。
PLANT施設内部で迷子になっていたエリと、男子トイレの個室に身を潜めていたオズを、ひよりとルオが無事保護したのであった。




