<Act.05>スーサイドサンソ
少年は夢を見た。彼の実体験なのか、ただの悪夢なのかは定かではない。
何せ、そこに光はなかったのだから。
『ゃっ、ぃやあ!』
幾人もの人間たちが喧噪としている。怒声が飛び交い、金髪の幼子が恐れ戦いたように震えあがっていた。しかし、彼は孤独ではない。
『そのガキを返しやがれッつッてンだよォ!』
子どもが大人に腕を掴まれた。それを見たとある男が、声を張り上げる。彼を止めようとする男たちを必死に押しのけて、子どもに手を伸ばそうとした。
また、その幼子もその手を取ろうと必死に腕を伸ばして暴れる。が、それさえもまた別の男性に阻まれてしまった。
それとほぼ同時に、子どもを救おうと必死になる男の背に向けられたのは、黒い悪魔。――銃口。
ドンッ――!
重低音が響くと同時に、その夢は幕を下ろしたのだった。
「……っ!」
ルオはハッと目を見張り、飛び起きる。
刹那、背骨が痛んだ。視界に入る己の脚は、黄緑色をした芝の上に投げ出されている。
彼の現在地は中庭。ひよりとの待ち合わせをした場所である。待っている間に、どうやら眠ってしまっていたようだ。
「はぁ……」
永い悪夢を見ていた気がする。しかし目を覚まして、それらは一瞬で事切れた。もう覚えていない。夢とはそういうものである。
頭の片隅に在った記憶の欠片を、たまたま見つけてしまったような……そんな感覚だった。
しかしルオには身に覚えがない。現に、夢の内容すら既に葬ってしまっている。
最近おかしいような気がする。今まで滅多に見ることのなかった夢を見たり、PLANTの刀剣シータは、アンドロイドの記憶を垣間見せるようになったり。
ノイズは唐突に自分の存在を面白がるようになり、昔の恩師であるひよりが再び自分の前に姿を現した。そして、先日から同じ部屋で過ごすこととなったアンドロイド、エリの存在。
(色々なことが、今の時期に、どうして)
考えても答えを見出すことなど出来る気はしなかった。それでも考えずにはいられない。彼には、嫌な予感に思えて仕方がないのだから。
(何者かの陰謀?)
例えそうであっても、一体どのような陰謀というのか。自分を殺したいのであれば、もっと他に方法があるであろう。その他に、一体自分にはどんな利用価値があるのか。分からない。
(俺自身にも、そんなこと分からないというのに)
自然と伸びた手は頭に置かれ、そっと目を伏せた。すると、
――サッ、サッ、サッ。
遠くから芝が踏みつけられる音が聞こえてきた。段々と近づいてくる。
「……」
殺気のようなものは感じなかった。あれば、不用意に足音すら立てないであろう。プロともなれば、気配も殺気も隠して背後に回る。
閉じていた目をそっと開けて、見上げれば。そこには見慣れてきた青年の笑顔があった。
彼は先ほどまで隣にいたが、いつの間にか何処かへ行ってしまっていたらしい。
「ルオさんは、ここが好きなんですね。安心したような顔で、いつも寝てしまっているので」
「うん、どうしてかな」
そんな場所で、胸の辺りがざわつくような夢を見てしまうなんて。
だが、そのような台詞は決して口に出さなかった。続かない会話を、ルオが再び繋げるように言葉を発する。
「ところで、ひよりは?」
「え、いないんですか?」
質問を質問でエリは返す。うーんと考えるように唸って、一旦口を閉じた。
彼の様子から察するに、もうこの場にいると思っていたらしい。しかし、ルオにはひよりの気配は感じられなかった。が、
「――!」
刹那、彼の後方から何者かの殺気が放たれる。思わずルオはその場から飛び退いて、素早く先ほどまで自分のいた場所を睨みつけた。
そしてハッとしたような表情をして、彼は俯いてしまう。
「え、え? な、なんですか。何があったんですか、ルオさん」
「あーくそ。またかよ」
「?」
ぶつぶつ。エリの言葉はまるで聞こえないらしく、彼は文句を口から垂れ流していた。
疑問を解決されないまま、エリは視線を大木に向ける。ルオが先刻座っていた場所だ。
「ハッハッハ! そりゃあ、プロなら気配くらい消さねえとな」
「あ、ひよりさん!」
「……はぁ」
木の裏側から姿を現した男を見て、エリが声を上げる。今日、この場に皆を呼び集めていた張本人だ。
ケラケラと笑っている男を余所に、ルオは大きくため息を吐いた。呆れ果てている。
「やあやあルオ君! 若いころから溜息ばかり吐いていると、すぐ老けるぞ?」
「俺って老けんの。ここ数年、成長なんか止まってんだけど」
「……アンドロイドだからなあ」
少し視線を逸らして、ひよりは呟くように言った。
ルオは人間のように幼少期を持っている。幼い姿から、今のような少年にまで成長した。しかし、まだ彼は成長期にも拘らず、既に成長は止まっている。
彼らの会話を聞いていたエリは、「ああ」と納得したように声を上げた。
「だから身長が小さいのですね」
「うるせーよ」
「可愛らしいですよ?」
「うるせーよ!!」
悪気のないエリは、サラリと本人が気にしているようなことを言ってのける。昨日も同じようなやり取りをした気がするが、彼らにそのつもりはない。
二人の様子を傍から眺めるひよりの赤い眼は、何処か、愁いを帯びていた。
気まずそうに視線が足元へ投げられて、またすぐ取り直したようにルオたちを見やる。
「じゃ、早速行くぞ」
「え、何処に?」
ひよりの言葉に、エリに頭を撫でられていたルオが反応した。キョトンとした面持ちでひよりを見つめている。
「何処にって、手前さん忘れたのか。会わせたいアンドロイドがいるって言っただろ?」
「あぁ」
どうやら本当に忘れていたらしい。ひよりの言葉で納得したような声をあげて、彼は未だに自分の頭の上に乗っかっているエリの右手を払いのけた。
エリは少し残念そうな顔をしているが、特に文句は口にせず、ルオと同じようにひよりの方を向いた。
彼らはもう行けるのだと察すると、ひよりは歩き出す。ルオとエリも、彼の後に続いた。
中庭から出て、灰色の道を突き進む。時たま認証が必要な扉に面すると、ひよりは通行証のような名札を晒して通って行った。ルオたちは首輪を晒して、同様に歩き進めていく。
すると、いつの間にかルオさえもやって来たことのない棟へ到達していた。彼は辺りをキョロキョロと見回している。場所こそ初めてではあるが、景色はそう変わったものではない。
EXITというプレートの取り付けられた目の前の白い扉を初めて目にしたルオは、どこか落ち着かない様子だ。無理もない。彼はPLANTより外へ出たことがないのだから。
「ひより。あんた、まさか」
「外にいるんだ、そのアンドロイド」
ここから出るのは怖いか?
そうひよりがルオに問うた。彼は頷くことはなく、ただゆるゆると首を左右に振る。
代わりに己の心境を彼に述べた。
「違うと言えば、嘘になるかもしれないけど。でも、いいのかなって」
「まあ、許可はいるだろうなあ。ちょっと待て」
通路の脇にある扉を、ひよりはコンコンと叩く。そのわずか数秒後、扉は開いた。
そこから顔を出した人物を、ルオとエリの場所からは確認が出来ない。
「ここが看守室か? 外出許可をもらいたい」
「別にいいッスけどぉ、って何をわざわざ? アンタなら許可を出さなくてもご自由に、」
「いや、おじさんじゃなくこいつらの許可だ」
「こいつら?」
ひょい、と扉から対話する人物が顔を出した。それを見た途端、ルオは目を見開く。
ピンクの髪と、長い前髪。隠れた右目の隣の水色が、彼には見覚えのあるものであった。
見覚えという曖昧な表現も似つかわしくない。ルオと彼は、顔見知り以上に言葉を交わした仲のようにも感じられる。
ルオは胸中で彼の名前を呟くが、対してピンク髪の少年――ノイズはまったくのポーカーフェイス。特に何のアクションも起こさずに、また扉の奥に引っ込んでしまった。
それがルオには意外だったらしく、少し肩透かしを食らったような顔をする。
「いいですよーぅ」
「お、案外早いな。有難う、お勤めご苦労」
「いえいえー」
行くぞとひよりが合図を入れて、扉のノブを回した。その後ろをエリが躊躇いなくついて行く。ノイズは扉を開けたままで見送っていたため、その際エリは彼に会釈をした。
看守帽を被っていたノイズは、それを片手で軽く外して頭を下げる。典型的な挨拶だ。が、それを訝しげにルオは睨み付けている。
おずおずと足を踏み出して、渋い顔のままエリの後を歩いた。
カツン、カツン、カツン。彼の靴音が響く。それを視線で追う水色の眼。
「……」
互いに目も合わせなければ、言葉すらも交わさない。もうすぐ、ルオが彼の前を去ろうとした、その時。
とうとうノイズが口を開いた。
「あぁー、57θさぁん。ちょおっといいですかぁ?」
「……」
ピタリ。製造番号で呼び止められたルオは、簡単に足を止める。
数度足を動かして、自分に制止の声を掛けた看守に向き直ると、低い声色で「何」とだけ返した。
一昨日、ルオに似合わないと貶された看守帽を目深に被って、彼は言う。
「本来、アンタの外出は許可されてません。個々人のみの行動は慎むように」
ルオの返事は聞かないまま、ノイズは言い終ると、バタンと扉を閉じた。ルオの目の前には、沈黙を口にする板だけが佇んでいる。
暫くそれを彼は睨みつけると、フイと顔を逸らし、豁然と、外に向かって歩き出した。
彼の靴が、サクリ――。と、新緑を踏みしめる。柔らかな土は少し凹み、彼の足跡を体に刻んだ。
ルオにとっては、初めての外。屋上や中庭、偽りの土を敷き詰めた仕事場ではない。本当の外の世界。
「しっかりついて来るんだぞ」
「あ、うん」
彼が思わず俯いて、己の歩みを凝視しながら足を進めていることに気付いたひよりは、遠回しに前を向くよう促しの声を掛けた。
素直に顔を上げたルオは、その男の背中を見る。薄汚れた白衣がバサリと風に靡いて、また遠ざかり始めた。
エリに「行きましょう」と微笑まれ、ルオは頷く。そして置いて行かれないよう、彼は前をしっかりと見据え、駆け足でその背を追い駆けた。
大らかに木々の間を梳いてまわる風。ざわざわと彼らの訪問を歓迎するように身を震わせる木々。まだ真上に登りきっていない太陽の陽射しは、この森散策には丁度良い眼差しであった。
道とも、獣道とも呼べぬような中度半端な道のりを、慣れない様子で歩くエリとルオ。打って変わり、その前を歩くひよりは慣れた様子だ。
暫く歩いたように感じるというのに、PLANTの外壁が彼らの視界からログアウトすることはない。それに薄々勘付いていたエリは、徐に呟いた。
「PLANTの裏側へ、向かっているんですか?」
「そういったところだ。正確には裏側に向かって、更に奥へ歩いた場所にソイツはいる」
彼らが草むらを踏みしめる音に掻き消されることなく、その言の葉を聴き取ったひよりが、歩みを止めずに淡々と答える。
エリとルオは特に何も意見することなく、ただ黙り込んでいた。すると、一旦閉口したひよりが、再びゆっくりと口を割る。
「――鎖に繋がれてな」
「鎖?」
あまり一般的でない単語に、二人は顔を見合わせた。一体どういうことなのだろうかと。
「其れは一体、どうして?」
問うても良い事柄なのか定かではなかったが、これから自分たちが会いに行く人物なのだ。知っておく権利はあるだろうとエリは考えて、再びひよりに問いかける。
それに対して、彼もまたすぐさま返答した。
「ソイツはなあ、どうもこの世界が気に食わないらしい」
「世界が気に食わない?」
先ほどから、ひよりの言葉を繰り返してばかりのルオが、その一言を境に何やら考え込む。
(世界が気に食わない。鎖に繋がれたアンドロイド……)
つまり、暴れ回るということなのだろうか。それともまた、別の理由があるのか。
そして何よりも、何故自分たちがソレと会わなければならないのか。
考えてみたものの、結局彼には分からないことしか残らなかった。
答えは全て、一番先頭を歩く赤目の男が知っている。
「――ほら、もうすぐだぞ」
恐らくPLANTの裏側まで回って歩いて来たのだろう。外壁から突然離れるように、ひよりは一直線に歩き出した。その後に続く、ふたつのお人形。
ざくり、ざくりと相変わらずの草音。跫。風が彼らの様子を伺うかのように、するすると三人の間を抜けて行く。
そうして見えて来たのは、小さな家だった。
「ひより」
ピタリ。
ルオが足を止めて、相変わらず先頭に立っている男の名を呼び止める。彼が歩みを止めたことに気が付いたのか、ひよりもまた足を止めた。
振り返り、どうしたと問う。
「ソレに俺たちは今から会うんだろ? それであんたは、俺たちに一体何を望んでんの? 訊いてもいいよね」
「……」
今までとは違い、その疑問に彼は口を開こうとしなかった。
それでもひよりの返答を待ち続けるルオ。彼の碧眼が、じっと彼を見つめていた。
どうやら彼は、頭の中で適切な言葉を選んでいたようであったが、結局見つからなかったようで。観念したような面持ちで台詞を紡ぎだし始めた。
「普通に、接してやってくれ」
「は?」
しかし。ルオが待っていたような解答ではなかったらしい。
素っ頓狂な声を上げて、ぽかんと口を開けた。ぱちくりと瞬きを繰り返している最中に、ひよりが次の言葉を紡ぐ。
「世界の美しさや、楽しさを教えてやれとまでは言わない。ただ、おじさんはアイツの素行を止めさせてやりたいだけなんだ」
「……他に適役、いたんじゃないの」
やっと我に返ったらしいルオが、ボソリと悪態を吐いた。
世界の美しさ。楽しさ。――そんなことがあるのならば、自分が教えてもらいたいほどだ。と、心の中で続けざまに吐き出してやりたいが、それらの台詞を彼は抑え込む。
思わず進行方向から背けた視線を戻した時、ルオは思わず息を飲んだ。
言いたいことは分かっている。
と、そうとでも言いたいような赤い眼で、ひよりが自分を見つめていたのだ。
二人の間に立っているエリは、何故か硬直してしまったルオを見て、キョトンと首を傾げている。
「共に、知ればいい」
「え?」
ひよりの言葉に、エリが振り返った。唐突に発せられた言葉を理解出来なかったらしい。
その台詞の意味は、曖昧ではあるが、ルオだけには伝わっていた。
エリが振り返った時、ひよりはドヤ顔で仁王立ちをすると、自信満々で二人へと言い放つ。
「ぼーいずびぃ、あんびしゃす!」
「それって、いつか流行ったものですよね」
「っつーか、発音下手くそ」
ビシッと腕を突き出して、親指を上へと立てた。単にその台詞を言ってみたかっただけである。
日本訛り丸出しの発音に、ルオが呆れ顔をして、微苦笑を浮かべた。分かったと、彼に返事をするように。
それを見たひよりは口角を上げて笑むと、小屋へと足を再び向けた。扉の前まで歩いて、ノブに手を掛ける。
「ん?」
安易に回転したノブに、ひよりが疑問符を浮かべた。
「鍵が開いている……」
不思議そうに言葉を零しながら、扉をゆっくりと押す。錆びかけた蝶番が、ギイィと典型的な音を鳴らして彼らを出迎えた。
まだ昼間だというのに、小屋の中は暗い。一人用のベッドが置かれ、部屋の隅にはデスク。壁には小窓が二つほど備え付けられており、生活感はあった。
しかし、肝心の人影も人気すらもない。もぬけの殻である。
ドアの隣で動きを止めているひよりの横に、ルオとエリも並んだ。そして内部をぐるりと視線で見回して、エリはひよりに顔だけで振り返る。
「いませんよ?」
「ほら、見てみろよ。ベッドの上」
その隣で、ルオが指を指しながら言った。その先には、影を被ったベッド。部屋に入って、最初に目についた家具である。
「あれは?」
ベッドの上に、キラリと何か光る物体があったのだ。それはどうやら、何か金属のようなもの。
それを確認しに行くよりも早く、ひよりが口を開いた。
「あれは、鎖だ」
「は?」
「あそこに、ソイツは拘束されていたはず、なんだが」
「……いませんよ?」
エリが先ほどの言葉を再び口にする。
闇に慣れてきた目が、ベッドの上にある物体が確かに鎖であることを確認した。相変わらず人の姿は見当たらない。
つまり。
「ひより」
「……テヘッ?」
逃げられたということであった。
ルオが名前だけを、まるで脅かすような声音で口にすれば、ひよりは何故か猫なで声でしらばっくれてみせる。
その悍ましい声に、思わず、ルオもエリも背筋をピンと伸ばした。
「テヘじゃねーよ!」
「キャピッ?」
「キャピでもない!」
「やってしまったでござるな」
「何か違う!」
ひよりがテンポよく謎の声を出しては、ルオがツッコミをする。
それを何度か繰り返した後、
「逃げられたあああああ!!」
「それだああああ!!」
やっと現実を迎え入れた。
開きっぱなしの出入り口に、人気のない小屋。外れた枷と、放置されたベッドの上の鎖。誰でも安易に想像出来る結論。
「ど、どうするんですか? その、アンドロイドさんは世界を憎んでるって話ですよね……ま、まさか世界征服を目論んでいるとか……!? ヒイ!」
「世界征服って、そんな中学二年生の精神疾患みたいなことをする輩が本当にいるわけないじゃん」
よからぬ未来を思い描いたのか、エリが小さな悲鳴を上げた。手で自分の両頬を包むようにして、目を見開く。
が、彼の空想を遮断するように、ルオがピシャリと言葉のシャッターを下ろした。
暫しの沈黙を挟んで、エリは「それもそうですね」と納得したように我に返る。表情は穏やかなものに戻った。
「アイツが中二病かどうかは兎に角、早速探しに行くぞ」
「そうですね」
二人の話を聞いていたひよりは、居ても立っても居られない様子で踵を返す。その後にエリも素早く続いた。
が、ここで話の腰を折る人物が一人。
「俺はパス」
「えっ」
よいしょ、とルオがベッドに腰を下ろす。リラックスモードだ。
「何言ってるんですか! 早く探しに行きましょうよ!」
「だって疲れたし。それに、戻ってくる可能性もあるじゃん」
「でも……」
まだ何か言いたげなエリの肩を、ひよりが叩く。振り返ると、そこには真剣な顔つきをしたひよりがいた。
何も言葉を発していないのにも拘らず、エリは何故か納得をしてしまう。
「頼んだぞ、ルオ君」
「はいはい」
ルオはひらりと左手を反して、返事をした。それを見送ると、ひよりたちは早足に外へ再び駆けて行く。
その背中をぼうっと眺めた後、彼は手元の鎖に目を向けた。
(無理に外された跡はないけど)
左手で、そっとそれを掴む。ジャラリと鎖特有の音がした。
見た目は普通の鎖と、枷である。壊された様子はなく、彼にはただ役割を放棄しただけのように見えた。
(暴れたような痕跡はない。なら、誰かが逃がした? 何のために? まさか、エリの言う通り本当に)
そこまで考えて、はっとする。そして慌てて首を左右に振った。
(ああ、もう。俺までエリに影響されてどうする)
枷をベッドの上に投げ捨てて、はぁ、と息を吐く。自然と左手は、そのまま己の首元へと導かれた。
首輪の金具に指先が触れて、ソレを取り外そうと動く。
「……」
――ひよりは、この小屋に幽閉されているのであろうアンドロイドの正体を知っている。エリの言う通り、本当に世界征服でも目論むような、凶悪なアンドロイドであれば、ルオを一人放置して行くわけなどない。それも、ソイツの根城に。
ルオが自分はこの場に留まると言って、ひよりは止めることをしなかった。
つまり相手の実力は、自分以下であるのか。それとも、ひよりに試されているのか。
「俺の実力を昨日のアレで見計られていたなら、とんだ計算違いになるだろうけどね――」
ぼそり、ぼそりと唇が言葉を綴った。
昨日のアレ、とは。ルオがひよりに対し好戦的に接していたことである。
勿論あれらは全て冗談であり、単なる〝じゃれ合い〟の一環。計算が狂っていたとしても、ルオには問題はない。
(鬼が出るか、蛇が出るか)
彼の碧眼が伏せられる。その時だった。
――バタン!
「!」
「はぁッ、はぁ……な、何なんだよ、一体」
開かれたままであった扉が、突然閉まったのだ。
風の悪戯といったものではない。何せ、ルオの目の前には確かに人影があり、喋っているのだから。
だが、別にルオに対して話しかけているわけではないらしい。まず、眼前の人影――黒髪の少年は、未だにルオの存在に気付いてない様子だ。
思わずルオは、ポカンとその場に硬直してしまう。相変わらず、少年はブツブツと何かを呟いていた。
「……あんたが、この世界を気に食わない云々っていうアンドロイド?」
「なああああッ!?」
「!?」
暫し唖然としていた彼だが、やっとのことで開きっぱなしの口から、台詞を紡ぎだす。瞬間、黒髪の少年は絶叫した。
あまりのオーバーリアクションに、声を掛けた本人であるルオも体を大きくビクつかせる。
バン! と、黒髪の少年が勢いよく振り返って扉に背を打ち付けた。それにより、少年の顔に〝あるもの〟が巻きつけられているのを見て、ルオは再び目を見開く。
少年の顔面には、白い包帯がぐるぐると巻かれていたのだ。両目を覆い隠すように、白い帯が、何度も。
よくよく見てみれば、少年の素肌は口元あたりしか見えていない。薄汚れて、若干ヨロけた洋服から伸びた四肢にも、包帯が巻きつけられているのだから。
途端に、ルオの顔つきが変わった。眉間に皺を寄せて、怪訝な表情をして少年を睨む。
(まさか、逆?)
世界が気に食わないから、世界に矛先を向けようというのではない。目の前の少年は、明らかにその逆に見えた。
世界から、逃げ出そうともがいている、哀れな人形にしか。
碧眼に映されている少年は、再びルオに背中を向けてドアノブを引っ掴んだ。どうやらこの場から、逃げ出すつもりらしい。
「おっと」
「ッヒィ!」
ヒュッ。――ドスッ!
ルオが左手に握っていた首輪を、少年に向かって放った。ソレは、鋭利な小型の刃物へと姿を変える。
そして、少年の顔の横を擦れ擦れに横切ると、木製の扉へ見事に突き刺さった。
包帯に視界を遮られている少年に、それが見えているのかどうかは定かではない。が、明らかに察した様子で、顔を青ざめていた。思わずドアノブから両手を離してしまっている。
ガタガタと震える少年を余所に、ルオは悠々とベッドから降りる。ゆっくりとその場から一歩踏み出すと、口を開いた。
「わざわざ遠路遥々やって来たお客さんを見た途端、逃走を図ろうとするなんて……礼儀知らずにも程じゃない?」
「だ、だったらおまえは招かざる客って言うんだ! 出て行けよ! 出てけ!」
「……成程、確かに。俺はあんたには呼ばれてない。これは中々図々しい振る舞いだったかな、失礼」
小首を傾げて、ルオはにっこりと微笑む。彼お得意の、人当たりの良い笑みだ。
彼の雰囲気が柔らかくなったことに少年も気付いたのか、強張っていた体の筋肉が密かに緩む。それをルオの碧眼は見逃さなかった。
「でも、まぁ」
「わッ!?」
一瞬だけ気配を殺し、彼は素早く扉に食い込んだ短刀を引き抜く。そして息をつく暇も与えず、その刃を彼の首筋に宛がった。
再び少年の動きが固まる。
「俺のツレは、あんたを探してるんだよね。面倒だから、逃げないでもらいたいんだけど」
「あ、あ……あ……」
ガタガタガタガタ。少年の立つ場所のみ地震が起きているかのように、彼は震えていた。突然のことに、頭がもう回っていないようである。
無抵抗。そして、微塵も感じることのない殺気。蛇に睨まれた蛙をも彷彿とさせる少年の状態に、ルオはニヤリとほくそ笑んだ。
その後、ひよりたちが小屋に戻って来た時のことである。
「はあー……で、手前さん。コイツに何した」
開口一番、ひよりは呆れ返ったようにルオへと問いかけた。
質問を向けられた張本人である彼は、ムスッとした表情で頬杖を付き、一人翔けソファの上で胡坐をかいて座っている。
コイツ、とひよりの親指によって指されたのは、あの黒髪の少年だ。ベッドの隅の方で身を縮込ませて、ガタガタと震えている。
「挨拶」
「どんな」
「……脅かしただけ」
「馬鹿野郎」
無愛想にルオが受け答えた。予想していた答えを聞いて、ひよりがピシャリと暴言を吐き捨てる。
それにカチンときたのか、ルオは「ちっ」と舌打ちをした。
「元はと言えば、コイツが自傷癖のあるアンドロイドだってことを、事前に知らせてればよかったことだろ。知らなかったから、俺は警戒して動きを止めてただけ。つまりおっさんが悪い」
「おっさん言うな! ダンディーひよりと呼べと何度も言っているだろ」
「いや、もうそれ誰だよ。初めて言われたっつの」
ルオの表情が、煙たそうに歪められる。不機嫌度は沸点へと達していそうだ。それでもひよりは気にすることもなく、相変わらずである。
両腕を腰に当てて、ソファに座るルオに向かって叱咤を始めた。
「他人の所為にするんじゃあない。それだから手前さんは、人付き合いがいつまで経っても下手くそなんだ」
「はっ」
が、それに対し、ルオはせせら笑った。
続けて吐き捨てられる言の葉は、とても反省しているようには感ぜられないもの。
「いーもーん。俺は別に一人好きだもーん。俺の対応で上の人の機嫌損ねても、困るのは俺じゃなくてスタッフだもーん。むしろいい気味」
「カルビ」
「にゃあ!」
「うわあぁ! ネコぉぉぉぉ!?」
ひよりが愛猫の名を呼ぶ。すると、なんと彼の胸元から一匹の白猫が飛び出してきた。
突然の奇襲に吃驚したルオが、悲鳴を上げて身を引く。が、ソファに座っているため後退は出来ない。
「ちょっ、何なんだよ! 今日いなかったんじゃなかったのかよ! どっから出てきた!?」
「ふっ。おじさんの白衣の下だ」
「ドヤ顔すんな! どこに仕舞い込んでんだ! 生き物何だと思ってるわけ!?」
「だぁってカルビは日光に弱いんだもーん。外で歩くときはいっつもこうだしいー。あっ、ちゃんと説明しておくべきだった? テヘペロ!」
「きもい!」
「ギャグに対して真顔でキモイ言うな! おじさん傷つく!」
ギャーギャーと騒ぎ出したひよりたちを余所に、エリはベッドに座っていた。昨日と同様、始まった二人の口論を、「どうしよう」と眺めている。困惑が半分、呆れが半分ほど占めたような表情だった。
チラリと逸らされた眼が映したのは、同じくベッドの上。黒髪の少年がいる場所である。彼は尚も、自分の身柄を囲む人々に畏怖していた。
「可哀そうに。こんなに怯えてしまって……」
あまりにも少年が慄然としているので、エリも段々と彼が可哀そうになってきたらしい。
「ヒッ!? ぼ、僕に近付くな……!」
彼が右手を伸ばすと、少年は壁に身を摺り寄せた。精神的に過敏になっている。
包帯で視界が不自由なこともあり、きっと、彼は精神を常に研ぎ澄ませているのであろう。過度な恐慌状態に陥ってしまっていた。
それを見たエリはすぐに手を引っ込めて、困ったように眉根を下げる。ちらりと振り返った先にいたルオは、必死にカルビから逃げていた。役に立ちそうもない。
続いて、それを見てカルビを煽るように声を掛けているひよりに視線を向けた。まだ比較的会話が成り立ちそうである。
よしと意気込んで、エリは体重移動を移動させた。ギシリとベッドのスプリングが軋む。
「ひよりさん、遊んでいないで彼の警戒を解いて下さいよ」
「おぅ?」
彼は意外にも、すぐさま反応を返した。それと同時に、黒髪の少年が震えあがっている姿を再び視界に収める。
そして思い出したように「あぁ」と声を漏らした。
「まったく。この金髪、余計なことしてなあ……帰ったらウンと懲らしめてやる」
「今でも十分懲らしめられてると思うんだけど!? 早くこの猫どうにかしろ!」
「ニャァアア」
ひよりの呟きに、ルオが衣装箪笥の中から叫ぶ。カルビは必死にタンスの扉で爪を掻いていた。中に入りたそうである。しかし、扉は内側からきつく閉ざされていた。
「ほら、カルビ戻っておいで」
「ニャァ? ニャー」
ひよりが白猫に向かって手招きをする。ピクピクと耳を動かして、猫は飼い主の方に振り返った。
名残惜しそうにもう一度タンスを見やると、ピョンピョンと軽やかにひよりの元へ駆けて行く。そうして、彼の腕の中に納まった。
ひよりの大きな手が猫の頭を掻き回し、のど元を軽く掻く。カルビはゴロゴロとノドを鳴らして、目を閉じていた。安心して、身を預けきっている。
「おーい、るーおくーん。もう大丈夫だから出てこおい」
「……」
ガチャ……。
猫の気配が無くなったことを確認して、タンスの中から恐る恐る金髪の少年が顔を出した。
カルビがしっかりとひよりに抱かれているのを確認した後に、やっとタンスから姿を現す。ルオは、相当の猫嫌いになってしまっているようだ。
「ニャアー?」
「手前さんも、いつからそんなビビリになったんだ」
「しるか」
猫を撫でながら、ひよりがからかう様に発話する。すると、ルオは腕を組んで、フンとそっぽを向いてしまった。
ひよりとエリは顔を見合わせて、やれやれとそれぞれ微苦笑を浮かべる。
「……」
ルオがチラリと横目で黒髪の少年の姿を確認した。次いで、はぁ、とため息をつく。
そしてベッドの方に足を向けると、ゆっくりと傍まで歩み寄った。彼の姿に少年は気付いているのか、いないのか。尚も震え続けている。
「あの、さ」
「!」
少年はルオの声がトラウマになってしまったのだろうか。彼の声を聞いた途端、大きく肩を跳ねさせた。
言いにくそうに、ルオは視線をうろつかせている。誰も彼を煽ろうとはしないが、何を思ったのか、黒髪の少年が先に話し出してしまった。
「ぼ、ぼ、僕を壊したいんだろ? そ、そう、なんでしょ」
「え」
思ってもいなかった話の内容に、ぎょっとしてルオは顔を上げる。
が、先ほどの自分の行動を思い返せば、彼がそう勘違いをするのも無理はない。と、ルオは遅れて勘付いた。
しかし、彼が弁解するよりも早くに少年は言う。
「だったら壊せばいい、一思いに。手間が省けて僕はとっても助かる」
「……」
言葉を失った。
幾つも、幾つも、アンドロイドの屍を重ねてきた彼にとっては、衝撃的な一言だったのだ。己を壊せと請う人形を、彼は初めて目の当たりにした。
(壊せ? 手間が省けて、助かる?)
苛々、苛々。イライライライライラ。
ルオの面持ちが、段々と険しいものになってゆく。彼の胸中に降り積もっていくのは、感情。
「ふざけたこと貫かしてんじゃねーぞ、てめー……」
「失礼なこと言わないでくれる!? 僕はふざけてなんか」
「なっ、ルオさん!?」
ヒュッ。
再びルオが、何処からともなく短刀を取り出した。少年の至近距離にいたため、少年の首元すれすれにソレが添えられる。
「ひっ」
思わず少年も息を飲んだ。
それを見たエリが、ルオを止めに入ろうと腰を浮かす。が、それは横から伸びた手によって制された。ひよりだ。
「どうして止めるんですか!」
「黙って見ていろ」
エリの双眸に映る男の横顔は、真剣そのもの。それ以上エリは何も言えず、静かにルオたちの方へと顔を向けた。
(本気で殺すつもりなら、今やっていただろう。彼は殺せる実力を持っている。そして、それを行う権利も、武具も)
ひよりも同じように、彼らを睨むように見つめる。
「俺は、あんたが世界に絶望したアンドロイドだと聞いてる。正直言うと、あんたを見てこっちが絶望というか、呆れたね。無様。そこまで醜態を曝して、何が楽しい?」
「だ、だ……だって」
つらつらと彼の唇から流れ出してくる台詞。少年はしどろもどろで、何かを言い返そうと言葉を探した。
が、彼がそれを見つけ出すよりも早く。猶予を与えないとでも言うように、ルオは続けざまに叱咤を吐き捨てていた。
短刀を少年に突き付けたまま、ルオの瞳が彼の体を見やる。
「その体の傷も多すぎる。死にたいなら、首でも掻っ切ればすぐだろ。人間さまのように、アンドロイドだって急所は等しい。知らないわけじゃないくせに。ただ、結局あんたは勇気がなかっただけじゃねーか」
「……」
「世界が醜い醜いと罵りたいなら、罵ればいい。でも俺は、その倍、あんたを醜いと罵倒するよ。弱味噌野郎。見ているだけで、反吐が出る。気分が悪い、気色悪い」
シン。
沈黙が流れた。黒髪の少年は、もはやルオの方を向くことも出来ないようで、俯いてしまっている。
しかし、それでもルオは彼を真っ直ぐと見つめ続けていた。その左手が握りしめる得物を、眼前の獲物に突き立てる瞬間を狙っているわけではない。詭弁を待っているわけでもない。
彼の本音を待っているだけなのだ。それは、ひよりとエリも同じである。
壁に掛けられた時計の長針が、ひとつだけ動いた頃。やっと、黒髪の少年に動きが現れた。
「僕は」と、相変わらずしどろもどろな口調で、必死に言葉を紡ぎだす。
「綺麗な、美しい世界を、この目で、見たかった」
「……」
ルオは口を閉ざしたまま、冷たい眼差しで彼を見下げ続けている。昂っていたらしい感情は、先刻よりも幾分落ち着いたようだ。
「でも」
「汚かっただろ」
「……うん」
少年の台詞を、ルオが取り繕う。それは少年が言いたかった内容と合致しているようで、彼はコクリと頷いた。親の言葉に素直に従う、子どものような返事だった。
再び口を噤んでしまった少年に対して、ルオが続ける。
「世界は醜い。俺は大嫌いだ。でも、絶望はしなかった。最初から、綺麗な世界という希望なんて抱いたことがなかったから」
もしかすると、それは幸せなことだったのかもしれないな。と、彼は微かに表情を緩めて呟いた。だが、すぐにまた彼の表情は強張る。束の間の微笑であった。
(――この刃を)
少しでも食い込ませてしまえば、彼の絶望を少しでも分かち合えることが出来る。そうルオは考える。さすれば、彼は楽になるのだろうかと。生を望むようになるのかと。
そう思って、柄を握り直し、やめた。
「……世界の総てが美しい緑と、花と、水と、空に囲まれていて、まさに桃源郷――ユートピアだとしたら、あんたはそれを、美しいと思う?」
「当然です!」
バッと、勢いよく少年が顔を上げる。その面持ちは、どこか晴れ晴れとしていた。
彼の胸中に思い描かれているのは、花鳥風月。青い空を旋回する白い鳥や、野を駆けまわる兎、小鹿。少年の現実味のない空想は、彼が信じていた〝世界〟の姿である。
「僕は、僕は……そんな世界を夢見ていた。そんな世界を、僕のこの手で描きたかった。……のに」
段々と弱々しくなっていく台詞の語尾。彼はまた、最後には俯いてしまった。キュッと握りしめられた、包帯でぐるぐる巻きにされた己の拳を見つめるように、動かない。
そんな彼の頭部を言葉の鈍器で殴ったのは、他でもないルオである。
「俺は綺麗だと、きっと思えない」
「えっ」
あまりにも意外だったのか、少年は先ほどと同様に、勢いよく顔を上げた。視界に入ったのは、自分を狙う短刀と金髪の少年。
自分の意見と決して交わらずに、むしろ反発を起こしたような彼の意見。思わず首を捻ってしまったのは、黒髪の少年だけではなかった。
ベッドの端に座っているエリも、納得がいかない面持ちをしている。
「どうして……」
「それが〝普通〟になるからだな」
「うん」
ひよりが、初めてルオたちの会話に口を挟んだ。彼の方を見ないまま、彼は同の意を示す。
しかし、黒髪の少年とエリは未だによく理解していないようであった。
「悪が在るから、善が在る。闇が在るから、光が在る。片方が失われた世界で、あんたは、片割れを感じることが出来る? 悪がない世界で、善を感じることが出来る?」
「それ、は」
「俺は出来ない」
少年が口を閉ざす。対してルオは、きっぱりと言い放った。迷いのない視線が、彼を射抜いている。
そこで、やっとルオは短刀を下ろした。
「……あんたは、見ようとしなかっただけだろ。探そうとしなかっただけだろ。闇にばかり目を向けて、光を見つける努力を怠っただけだ。その世界で生きる勇気を、探すために生きる希望を、欠いただけだ」
チラリ、と彼の碧がエリを覗き見る。突然目線を向けられたエリは、思わず背筋を伸ばして視線を正した。
一体何故、今のタイミングで自分を見たのか、彼は考える。そして数秒遅れて「もしかして」と勘付いた。
『あんたは、探そうとしなかっただけだろ』
『ルオさんが探そうとしてないからです』
それは、エリが何度かルオに向けた言の葉である。
つまり、彼はエリの言葉を覚えていたということだ。彼は、エリの言葉の意味に気付いてくれたということだ。
エリの望んでいた、ルオの変化であった。
総てを諦め、心を閉ざし、ただの絡繰り人形のように成り下がっていた、彼に現れた光だったのだ。
「行き成り、矛先を向けたことは謝る。悪かった、ごめん」
「いや……」
「でも」
シュン、と短刀が力なく垂れた。既に鋭い刃を失い、ただの皮になっている。
姿を変えた首輪に、少年とエリが驚くよりも早く、ルオは再び腕を上げた。首輪がダラリと重力に従って垂れ下がる。
少年に再び向けられたそれは、彼にとって〝凶器〟にしか見えなかった。
「まだあんたが死しか望まないのなら、生き続けていても無意味でしょう? いっそのこと、俺が壊してやってもいい。それも、一瞬で。どうする?」
「!」
謝罪をしたかと思えば、次いで口から出て来たのは殺傷予告とも取れる掛け合い。殺意を感じることはないが、冗談を言っている様子もない。相変わらず彼は真剣そのものであった。
「ぁ……」
少年が望んでいた、安楽死が目の前にある。首を縦に振るだけで、それは手に入る。
……だが、彼はすぐに頷くことが出来ずにいた。返事すら、ノドに支えて出てこない。
(僕は死を望んでる。今なら楽に死ねる。最高だ。最高だ。願っても無かったチャンス。でも、どうして、声が出ないのかな)
そろそろと下から伸びてきた自分の両手は、無意識に己の首を掴んだ。包帯だらけの両腕と、無傷の首。ルオの言う通りだ。死にたいと嘯きながらも、首に決して手を出さなかった。それは、彼に勇気が足りなかったからである。
だが、死にたかったのは本当だ。幾度も体を傷つけた。この痛みにはもう慣れた。少年は、これ以上の痛みを知っている。
「少年、悩んでいんのか」
「……」
近くの椅子にどっかりと腰かけたまま、ひよりが問うた。少年は何の反応も示さない。
「今すぐ死ぬ気がないんなら、少しおじさんに時間を貸してくれねえか?」
「時間を貸す?」
少年がやっと顔を上げた。それと同時に、ルオもひよりの方を見る。
その表情からは「邪魔するな」といった意が見て取れたが、あえてひよりは苦笑いを返しただけだった。
ヨイショと声を出しながら立ち上がると、彼らの方に歩み寄る。ベッドに座り込んでいる少年よりも、その目の前に立つルオよりも高い位置から見下ろすのは、赤い双眸。
「それは手前さんにも言えることだ、ルオ君」
「は? わっ、ちょ!」
刹那、彼は大きな手でルオの頭をグワシと掴んだ。そして乱雑に撫でる。撫でると言うよりも、髪の毛を掻き乱すと表現した方が合いそうな行動だった。
勿論、解放されたルオの髪はボサボサになってしまっている。脱力仕切ったような眼で、力なくひよりを睨みつけてはいるが、あまり怖くはなかった。
「て、っめえ……おっさん」
「おっさん呼ぶなと何度言えば分かる! だから、ダンディー」
ダンディーひよりと呼べ、とお決まりになって来た台詞を口に出そうとする。が、それを遮ったのは他でもない、ルオである。
「ヘイ、ダディー? これでいい? 満足? 死ね」
「生きる」
「殺す」
「生きる」
「漫才してる場合ですか」
再び始まろうとした水掛け合戦を、エリが無理矢理終わらせた。彼らは本気で言い争っていたわけではなかったようで、あっさりと素直に口を閉じる。
ルオは「はあ」と本日何度目かの溜息を零した後、首輪を己の首に巻き付け始めた。それを見た少年は思わず「え?」と声を漏らす。
伏せられていた碧眼が、すっと少年を見据え、興味無さそうに瞼が下りた。くるりと踵を返して、近くの壁に背を預けて立つ。
「俺の時間、あんたに預けてあげるよ。どうせ無駄に有り余ってるものだから」
「エーカッコシー」
「あん?」
「何でもない」
腕を組んで、軽く足を交差させた状態でルオが言うと、それを見たひよりが何やらボソリ。ギロリと睨まれた瞬間、素早く顔を逸らした。
呆れたように、ふうと吐息を漏らして、ルオは視線を再びベッドの上へと向ける。
「……で? あんたはどうすんの?」
「え、あ」
自分に話が戻ってくると思っていなかったのか、少年は相変わらずオドオドとした反応を返した。
「どうせ死ぬなら、死ぬほど絶望しているのなら……これ以上絶望することはないでしょ。このおっさんに、ちょっと余生を任せてみたら?」
「だーから、おっさん呼ぶなって何度言わせ」
「まぁまぁまぁ」
懲りずに先刻と同じやり取りを繰り返そうとするひよりを、エリが慌てて宥めに入る。ルオは素で呼んだらしく、少々驚いたように目を見張っていた。が、またすぐに少年へと視線を戻す。
どうする? と問いかける眼差しに、少年は声を頼りに彼らを見比べた。包帯によって視界は遮断されているのだろうが、少年はしっかりとルオたちの位置を把握している様子である。
一瞬だけ、彼は何かを言おうと口を割った。しかし思い直したように、すぐに口を閉じて俯いてしまう。
その行動から見られるのは、困惑だ。
「遠慮する……僕はこれ以上、苦しむのは、嫌だ」
「ふぅん」
ルオは素っ気ない返事をした。彼の態度からも、その感情を察することは安易である。
〝呆れてものも言えない〟。現在の彼の表情といい、態度といい、まさにそれだった。
だがしかし、その奥底には――苛立ちのようなものも見える。
(ああ、もう、気分が悪い)
自分の弱さを、見せつけられているようで。
思わず伏せられた瞼。彼の長い睫が、ふるふると震えている。
――自分だって、何度も世界に恨みの念を向けた。周りの人間たちが、恨めしくて仕方がなかった。運命を何度も呪った。己に刃を翳したこともあった。
それでもなお、彼は今まで生き続けてきた。別に、死ぬ術が無かった訳ではない。
「羨ましい限りだね」
「え?」
誰かに向けた言葉というわけでなく、ルオは独り言のように台詞を吐き出した。脈絡のない発言に、周りの三人はポカンとした反応をする。
「尊敬するよ。俺は確かに世界が大嫌いだったけど、あんたほど死には固執しなかった。いや……違うか。固執出来なかったんだ」
彼の脳裏に過るのは、いつだか忘れた昔の自分。仕事を終えて、それがどうしようもなくつらく感じ、自分の部屋でシータを取り出した。それを自分の首に向けて、突き刺そうとしていたのだ。
けれども、出来なかった。腕を目一杯伸ばして柄を掴んでいたが、体が酷く震える。そのまま手の力は無くなり、呆気なく刀剣は床に伏した。
己の弱さに、憤怒した。
「俺は、生きたかったわけじゃない。ただ、死ぬのが怖かっただけの……臆病者だから」
「……」
彼の言葉の意味を捉えた者は、この中に果たしていたのだろうか。皆が皆、何処か不安気な表情でルオを見つめる。
それに気付いた彼は「なんてね」と、にこり。笑顔をつくってみせた。
そして〝もう用はない〟とばかりに、黒髪の少年に背を向ける。エリの方を向くと、話を続けた。
「俺、あんたが言っていたものを探そうと思う」
「え? 僕が言っていたもの?」
しかし言葉の意味が分からなかったらしく、彼は自分を指差してポカン。ルオは一度頷いて、先ほどの台詞に主語を付け足した。
「俺が探そうとしなかったもの、だっけ。それを見つけるために、過ごしてみるよ」
「!」
途端、パアッとエリの表情が明るくなる。
誰がどう見ても分かる咋な反応に、ルオは狐に抓まれたような顔をした。が、すぐに小さく笑みを浮かべると、再び付け足した。
「暇つぶしにね」
人は此れを、浴に〝一言多い〟と言う。
しかしエリは「えぇ、ええ!」と何度か笑顔で頷いていた。最後の一言が余計であっても、彼にとって嬉しいことこの上ない台詞には変わりない。
「……」
その様子を黙って眺める黒髪の少年は、どこか、呆気に取られている様子にも見えた。
(違う……)
自分と同じように、目の前の少年は世界を嫌っているはずだと言うのに。自分とは、違う。同じなのに違うとは、どういうことなのだろうか。一体何が同じで、何が違うと言うのか。
少年の頭に渦巻きだした疑問は、複雑に絡み始め、次第に自分が何を疑問に思っていたのかさえ分からなくなってきてしまう。
まるで疑問という糸が、自分の体を拘束でもしているかのように。体中を縛り上げているかのように、四肢が動かせない。動かない。
「ひより、まだここにいる?」
「……いいや、もういい」
「そう」
出入り口付近から、ルオがひよりに問う。促されるようにひよりは立ち上がると、ベッドの上に座り込んでいる少年を見やった。
一瞥だけして、扉の方へと歩き出す。その後ろを、慌ててエリも付いて歩いた。
「力になれず、すみません……」
「気にするな」
しょんぼりとする彼の頭を、ひよりが右手でポンポンと叩く。彼なりの慰めであった。
エリに向けた視線を上げて、二人に対して口を開く。今更ながらに、彼が今日ここにやって来た理由を簡潔に説明した。
「彼はまだ、PLANT側から〝D_ANDROID〟の診断を受けていない」
「あんなに病んでるのに?」
「ああ。ココロデーターやセイカクデーター云々の異常は、本当にそれが異常なのかどうか調べるのに少々骨が折れる。だからこうして隔離されているわけだ」
彼が壊されるべきアンドロイドかどうか、見極めるためにな。と、ひよりは続けた。その台詞の中には「救われる可能性もある」という、希望めいたものが揺らいでいたが……呆気なく、沈んで行ってしまったようである。
ルオの言う通り、少年は病んでいた。D_ANDROIDと診断されていないことが不思議なほどに。
扉が大きく開かれたことで、蝶番がギイイと別れの挨拶を告げる。エリとひよりが扉を抜けて、最後にルオが潜ろうとした時、ルオが振り向いた。
まるで試しとでも言うように、部屋に向かって「ねえ」と声を掛ける。すると、今まで硬直していた少年の体がビクリと動いた。我を取り戻したようである。
「ばいばい。次にこの扉を潜ってやって来るのは、あんたが愛してやまない死神さんであることを、俺も願ってあげるよ」
すぐに消えてしまいそうな、儚い笑みを浮かべて。ルオは視線を戻した。
その背中に「あああああの!」と、少年の声が掛けられる。
ルオが再び部屋を見たとき、なんと少年はベッドの上に立っていた。足元が悪いために、若干フラフラとしている。
「ひとつ訊いていい、です、か」
力んでいるのか、少年の体も声もガチガチである。思わずルオは、先に小屋を出たひよりたちと顔を見合わせた。
「……どうぞ?」
小首を傾げて、彼に台詞の先を促す。すると、少年は意を決したように発言した。
「教えてほしいんだ。この世界には、美しいものを見出す価値はあるかどうか」
「……」
ルオは無言。そして呆れたように、ふうと息を吐いた。
「それを俺に訊く? あんた、今までの話の流れちゃんと理解してた?」
「おまえもどうするんだよ。探したって、汚いものばかりかもしれないじゃないか!」
再び沈黙が流れる。若干煙たそうなルオと打って変わり、少年は大真面目のようだ。
それにはルオも気付いているらしく、観念したような身振りで、しっかりと少年に向き直る。上げられた顔は、真剣そのものだった。
「現段階で答えさせてもらえるならば、俺は見出す価値はあると思ってる」
「え」
意外だったのだろう。少年は思わず驚嘆を漏らした。声こそ上げなかったものの、エリたちも驚いたような顔をしている。
「別に、人間に期待してるわけじゃない。勘違いしないでよね、俺が言っているのは自然のこと」
ああ、と妙に納得したような表情を浮かべたのはエリだった。彼は、ルオが楽しげに屋上で景色を眺めていたのを知っている。
「むしろ俺も訊きたい。エリはどう思う?」
「へっ、あ、僕?」
突然話を振られたために、彼は素っ頓狂な声を上げた。自分を指差して確認する。腕を組んだ状態のルオが、そうだと頷いた。
あ~、と言葉を探すように口を開いて、エリは考える。そして、視線を質問者へと向けると、しっかりと答えてみせた。
「この世界は悲しいことだらけで、むしろ、不幸で溢れかえっているでしょう」
「!」
少年やひよりの表情は変わらなかったが、ルオだけは目を見開く。どうやら彼は、エリの口からそのような言葉が出るなどと、想像していなかったようだ。
「生きていれば辛いことばかりだろうと思います。醜いものばかりが目の前に立ちふさがって、死にたくなることもしばしばだと思います」
酷なことを告げるエリの表情は、安らかである。
「だからこそ、人間たちは生きているんだと思います。それは僕も同じです」
「どういうこと?」
訝しげな表情でルオが問うた。彼のことをチラリと横目で見て、エリは続ける。
「幸せなことを見つけるために、生きるんですよ。諦めていれば、綺麗なものも幸せなことも見つかるはずありません」
ニコリ。と、笑顔を浮かべた。
ふたつ呼吸を繰り返した頃、ベッドの上の少年が沈黙を破る。
「僕にも」
その場にいた全員の視線が、そこに向けられた。
強張っていた肩の力は抜けており、体は微かに震えている。
「僕にも、見つけることが、出来るかな」
「ええ、勿論!」
「!」
エリが即答した。少年はバッと勢いよく顔を上げて、彼を凝視するように固まっている。
相変わらず、ニコニコと笑顔を浮かべているエリ。刹那、笑顔から少年が顔を背けた。
其処には、少し黄ばんだ布が垂れさがっている。というよりも、何かを覆い隠すように被せられていた。
「……これから、みなさんは何処に行くんですか」
「えー、決めてない。どうすんの?」
「取りあえず腹ごしらえだな」
少年の問い掛けを、後方のひよりへとルオは流す。彼は自分の腹部を押さえながら、力なく呻いた。どうやら腹が減ったらしい。
確かに、とルオも頷いて「そういうことかな」と少年に答えた。
流れる沈黙。少年は意を決したように、口を開く。
「僕も、一緒に行っても、迷惑じゃないですか」
「……」
ポカン。ルオたちは言葉を失くした。ひよりとエリは顔を見合わせて、思ってもいなかった少年の言葉を互いに確認し合う。
一緒に行きたいということか。つまりそれは、説得が成功したのか。
と、いう結論に達するよりも早く。ルオが怪訝そうに言い放った。
「回りくど過ぎて意味が分かんないんだけど」
「えぇっ!?」「えっ」
声を上げたのは少年とエリである。
無理もない。今の流れで、ルオのような反応はおかしかった。
意味を理解していないのか、鈍すぎるのか。それとも単に、嫌なだけなのか。
前者である可能性の方が高いが、後者ならば大変である。エリはそう思い、急いで弁解を入れようとした。しかし、それは杞憂となる。
「一緒に行きたいのか、それとも行きたくないのかはっきり言えよ」
「行きます! 行かせて下さい! だから、首輪に手を掛けるのはやめろよ!!」
「よし」
ルオが少年に迫った。左手を、己の首元に添えながら。
脅かされた少年は、必死に懇願をする。それを聞いて、ルオは満足気に笑んだ。一々行動が非社会的である。
「だから手前さんは、人付き合いが下手くそなんだと……はあ」
「中々ハードなコミュニケーションですよね」
それを見ていたひよりは、頭を抱えながら呟いた。その隣で、困ったような笑みを浮かべたエリが便乗する。
これはルオの性格なのか。それとも、あまり人と関わることが無かったという、生活環境の産物なのか。定かではない。
分かることは、ただひとつ。
「じゃあ、ここらでひとつ。ランチタイムと洒落込むか!」
「え、ここで? どうやって?」
「食い物ならおじさんがちゃーんと持って来てるぞ。それに、この小屋にも少しは蓄えがあるだろう。少年、台所借りるな」
ひよりは再び小屋の中に入ると、担いでいた袋を手近な場所に置いた。中からは適当なレトルト食品や野菜などが出てくる。見事に統一感がない。
量は少なめであるが、実際、空腹を満たす必要があるのは彼自身とルオだけであるので、むしろ多いのかもしれなかった。
「エリはそこにあるのを外で組み立ててくれ。少年たちは、近くの小川で水汲みを頼む」
「分かりました」
「了解」
ひよりの指差す方向には、手軽な組み立て式の机が置かれている。野外用のテーブルセットだ。彼がそれを取りに行く最中に、ルオと少年は近くのバケツを手にしていた。
少々埃などで汚れてはいるが、洗えばまだまだ使えそうである。
「あ、そうだ」
ふと、ルオが気付いた。バケツを片手に、少年の方へと振り返る。
「あんたの名前は何?」
まだ教えてもらってなかったよね、と今更なことをルオは言った。彼らの名前は、先ほどの会話の最中に何度も持ち出されたため、黒髪の少年は分かっている様子だ。
しかし、ルオとエリは少年の名前をまだ知らずにいる。
「僕は、えっと、NO,D-04……」
「はぁー」
途端、ルオは溜息を吐いた。
ゆっくりと方向転換をして、少年と向き合った形で立つ。
「あんたさぁ、別に俺たちはPLANTのスタッフじゃないんだから番号で呼び合ったりするわけないじゃん。製造番号じゃなくて、名前を訊いてんの。な・ま・え!」
「えっ、えっ、えっと、名前」
自分の名前を口にすることが滅多にないのか、少年はキョドっていた。アワアワと無意味に辺りを見回して、恥ずかしそうに俯く。
その様子を遠目から眺めているエリは、もうすでに咎めることを諦めたようで。ただ微苦笑を浮かべていた。
先刻から相変わらずの調子であるルオはというと、片腕を腰に付いて、少年の名を待っている。
「僕は」
ゆっくりと、彼は部屋の方へと振り返った。部屋の隅に置いてあるのは、黄ばんだ布に覆い隠された何か。近くに積み重ねられたのは、大きめのスケッチブック。
「……」
それらを確かめるように、何かを決心するかのように一瞥した後、彼はルオへと向き直った。そして、彼は自分の名を口にする。
「僕の名前は、オズ」
スッ。
ルオの方へと、差し伸べられたのは黒髪の少年――オズの左手だった。どうやら彼も、サウスポーらしい。
よろけた白いシャツの袖口から出てきた左手は、包帯などの拘束を受けておらず、無傷を保っていた。
「――画家です」
「!」
今までオドオドとしていた口ぶりから一変。彼はやけにハッキリと、そう言った。
それにより、ルオはやっと気付いたのだ。
『そんな世界を、僕のこの手で描きたかった』
美しい世界に憧れ、突き付けられた現実に絶望した。そういうことだったのかと、彼は理解する。同時に、その手を取ることが躊躇われた。
(画家、か)
オズの手に向けていた視線を、彼の顔へと移す。白い包帯でぐるぐると巻かれた目元。それが、不思議でならなかった。
画家であるならば、何故、このようなことになっているのか。画家の命である左手はこうして無傷であるというのに、何故、彼の目は包帯で隠されている?
まだ、ルオには解せない部分が多すぎたようだ。
答えが見えてこないということを察して、彼は考えることを中断した。軽く首を振ると、真っ直ぐとオズを見つめる。
「ちゃんと自己紹介、出来るじゃん」
次いで、差し出されていた左手を、しっかりと自分の利き手で握り返したのだった。
――分からないことだらけである。何もかも。しかし、それは今に始まったことではない。
分からないことは、分からないままでいいと。分からないものなのだと、彼は諦めていた。しかし今になって、それを知りたいと思う。
けれども、確かに分かることもある。それは、今、彼らが握り合った手は暖かいという事実。
まるで彼らの出会いを祝うように。はたまた、嘆くように。風に梳かれた木々たちが、ザワザワと葉を犇めき合せたのだった。