<Act.04>砂に描いたエタニティー
いつも通りの朝が巡って来た。目が覚めると、今までのことは全て夢だったなどという都合の良い現実は組まれていない。
相変わらず薄暗いPLANT内と、灰色をしたコンクリート壁。暖かくも寒くもなく、適温の室内。
けれども、いつもとは違う朝。今日からこれが、いつも通りになる最初の朝だ。
「ルオさーん! おはようございまーす!」
「ん……?」
軽く目が覚めたルオは、ぼうっと薄目を開け、天井を眺めていた。すると、その視界に乱入してきた人物が一人。
彼は頭の中で(誰だこいつ)と呟く。が、すぐにその人物が、昨日同室にやってきた新参者ということを思い出した。
「エリ、おはよ」
「もうすぐお昼ですよ」
僕、とても暇だったんですから。と、頬を膨らましながらエリは文句を零す。
どうやら彼は、熟睡しているルオを起こすことを躊躇い、自然と目を覚ますのをずっと待っていたらしい。手持無沙汰であったため、昨日PLANTから拝借してきた工具を取り出し、磨いてはまた仕舞うという行為を繰り返していたようだ。
すると今になって、やっとルオが目を覚ましたようだったので、二度寝をしてしまう前に声を掛けた、というわけである。
「そんな時間か、ごめん。ふあーぁ」
「……あまり眠れなかったんですか?」
「えっ」
エリがキョトンとしながら、ルオに問う。思わずルオは、伸びをしている最中に動きを止めてしまった。
その表情から窺える心情は、しまった。
「何で?」
瞬間、彼は表情を無に戻す。まるで何事もなかったかのような声色で、エリに対応し始めた。
「いや、僕と同時刻ほどに床に就いたにしてはよく眠っていたなぁと……今だって眠たそうですし」
「俺にはよく分かんないかな、そういう日もあるさ」
「うーん。ルオさんが気にしてないのなら、いいんですけどね」
それ以上の介入はせず、エリはにこりと笑顔を浮かべる。事実を述べず誤魔化してしまったという後ろめたさをルオは感じるも、その感情には素早く蓋をした。
話したところで、得がない。話さない理由もとくにはないが、強いて言うならば
(嫌われたくない)
ルオ自身が、この仕事を嫌っている。それを、この優しそうなアンドロイドが知ったらなんと言うのか。どういった対応をするのか。何よりも、それが恐ろしかったのだ。
「ルオさん?」
「……そうだ。暇させたお詫びに、PLANT案内でもしてやるよ」
「え! 本当ですか?」
「嘘は吐かない」
ルオの言葉に、エリは背筋をピンと伸ばして反応する。キラキラとした表情を見ていると、何故か笑いがこみあげて来たのか、ルオはクスクスと小さく笑い出した。
どうして目の前の彼が笑っているのか分からないエリは、不思議そうな面持ちで首を傾げる。
何でもないよと彼に声を掛けると、ルオは軽い身支度を済ませて、エリと共に部屋を出た。
「俺たちの部屋周辺は、スタッフとかの生活ルームなんだ。来る途中でエリも見ただろうけど、アンドロイドたちは普通、牢屋に隔離されてる」
「そうなんですか。どうして牢屋に?」
「不良品だから」
今の時刻が昼前ということもあってか、昨日に比べ廊下には人気が多い。二人の足音の他にスタッフが行き交う足音、屯するスタッフたちの会話や、どこかの部屋からの機械音が時たま聞こえてくる。
何れも温かい雰囲気は皆無ではあるが、活気があった。
(PLANTには、こんなに人が大勢いたんですか)
小さく感動しながら、エリは辺りをキョロキョロと忙しく見回す。人々の容姿は皆同じようであり、見分けは着かなかった。
「ここの突き当り。プレートが見える? あそこがシャワー室」
「あっ、はい」
「……悪いんだけど、浴びてきてもいい?」
「え?」
シャワーマークの描かれた、銀色のプレートを眺めていたエリは、思わず隣のルオを見やる。彼は着替えの類を入れた手提げ袋を持って微苦笑を浮かべていた。
どうやら最初からこれが目的だったようだ。
「すぐ戻るから。今の時間帯ならきっと空いてるし」
「いいですよ、いってらっしゃい」
「ありがと、悪いな。待ってる間は、向かい側の娯楽室にいるといいよ。じゃ」
そう言って、そそくさとルオはシャワー室の方へと駆けて行く。まだPLANTにやって来たばかりのエリに、暇つぶしの方法があるはずはない。素直にルオの言っていた、シャワー室向かい側の部屋に入ることにした。
内装は一般的な娯楽室とほぼ変わらない。マッサージ機や液晶テレビ、本棚が並べられていた。PLANTの内部ということを忘れそうになるような場所である。
エリは適当な本を一冊手に取ると、パラパラと捲った。目に入るのは、難しい数字の羅列や理解不能の論文など。
(やっぱりここはPLANTでした)
おかげで、すぐ現実に引き戻された。
他にすることがないかと辺りをキョロリと見回してみる。ソフトドリンクコーナーがあるが、別段のどは乾いていない。
というよりアンドロイドは、飲食は可能だがしなくてもよいのだ。空腹などを感じることはない。
結局エリは比較的簡単そうな内容の本を棚から拝借し、それを手にして近くのソファに腰掛けた。
(……まったく理解できないというわけではないですね)
ぺらり、ぺらりとゆっくりページを捲り、読み進めていく。その本には、アンドロイドの構造などが記されていた。
〝アンドロイドにはセイカクデーターというものが内蔵されている。それらは生きた人間から採取される。それらというのは、セイカクデーター単体で採取することが不可能であるからだ。必然的にココロデーターというものも採取する必要がある。
生きた媒体から採取するには、人命に関わる。当然だ、体内に大量の電流を長時間流しこむのだから。よって、このPLANTの関係者――尚且つ、死が確定された者から原則採取することとなっている。死体からの採取は不可能。〟
(成程、そういう作りになってるんですか)
最初は無理矢理文章に目を通しているような形であったが、エリは次第とその本の内容を真剣に読み取っていた。しっかりと頭の中に入れ込むと、ページを進めていく。
〝だがしかし、このままでは人間そのものを造りだしてしまう――人間と同等のものを造りだせば、いつか必ず〝不良品〟が出来上がってしまう。人間は他人を憎み、殺し合う。そのようなアンドロイドが誕生してしまっては元も子もない。殺し合いまではなくとも、人間に逆らってしまうこともあり得る。ココロデーターだけは消してしまわなければいけないのだ。
けれどもそう簡単にもいかない。消去出来ないのであれば、ロックを掛ける他ない。アンドロイドは、人間に忠実な下僕でなくてはならないのだ。〟
(つまり、僕にもココロデーターの種はあるということなんですね)
彼は無意識に、己の胸元に右手を添えた。人間のような鼓動は感じない。感じるのは、ツクリモノのぬくもりだけである。
それがどうしようもなく、悲しいことのように感じられた。
(この虚しさも、ココロではなく一種の対応)
セイカクデーターから、こういう場合はこう感じる。そうして出来上がっているツクリモノのココロ。
その時、ふと、昨日の出来事を彼は思い出した。
『大嫌いだね』
ココロが嫌いかと問うた自分に対し、ルオはハッキリとそう答えたことを。嫌いか好きかの次元ではなく、それはもう、拒絶であった。
(もし僕がココロを持っていたならば、彼の気持ちを分かち合えたんでしょうか)
それとも昨日と同じように、ココロは拒絶するものではないと豪語できたのか。と、そんなことをエリは慮る。
「――エリ」
「!」
突然後ろから声を掛けられ、彼はビクリと体を引き攣らせた。素早く振り返ると、そこには頬を赤らめたルオが立っている。
もう髪の毛は乾かされた後なのか、普段通りしっかりと結われていた。前髪にも、二本のヘアピンが鎮座している。
「お待たせ。時間は潰せた?」
「は、はい」
思わずぎこちない返事を返してしまうが、特にルオが突っかかって来ることはなかった。少なからず不思議そうにはしていたが、すぐに話題を変える。エリの持つ書物に気付いたからだ。
「あ、その本……読んだんだ?」
「えっ」
まさかルオが内容を知っているとは思わなかったため、エリは小さな驚嘆を漏らしてしまう。しかし、ルオが気にした様子はない。
すっと左手を伸ばすと、彼の手から本を取った。
「人間にとって俺たちアンドロイドは道具でしかない。ってことがよく分かる書物だよね、コレ」
「そうです、ね」
ニコリと笑顔を作ったルオは、簡単にページを捲る。読むという動作ではなく、眺めると言った感じだ。最後にはパタンと本を呆気なく閉じ、本棚の隙間に戻す。
次いで、あまり表情の浮かないエリに対し「行こう」と声を掛けると、彼はさっさと娯楽室を出て行った。
「……」
エリはすぐにルオの後を追うことが出来ず、その場に数秒留まる。そして、控えめにチラリと本棚を一瞥してから、彼の後を追うように部屋を後にした。
再び二人でPLANTを歩いていると、段々と人気が増えていく。比較的に広い廊下に出ると、突き当りには大きなガラスの扉があった。向こう側にはスタッフたちの姿があり、椅子に腰かけている。
「ここは食堂」
「ああ、だから人が多いんですね」
そこでエリは、「ん?」と声を漏らした。まさかといった表情でルオをゆっくりと見る。その視線を受けたルオは、先刻と同じようにバツが悪そうな笑みを浮かべた。
そして彼は言う。
「ほら、俺って人間に近縁性があるから。腹も減るんだよね」
食堂で、大量に並べられた席に向かい合うかたちで腰を下ろすエリとルオ。
ルオの目の前には適当な定食が並べられており、それを見やるエリはとても不機嫌そうである。
「まさかとは思いますけど、お詫びにPLANT案内とか言って……本当は付き合わせたかっただけじゃないんですか?」
「ごめんってば」
さっきといい、今といい。と、彼は胸中の蟠りを吐き出した。しかし、ルオは苦笑いを零すだけである。どうやら否定は出来ないらしい。
箸を動かしながら、彼は取り繕った言い訳を口にする。
「でも、案内するのは本当。付き合ってもらったのも本当だけど、あんたのことを置いて単独行動するのもアレだったし。要はついでみたいなもんだよ」
「はぁー、もういいですよ。……あっ」
ぶすっと不貞腐れて、エリは視線をルオから背けた。が、すぐに何かを思いついたように向き直る。
ルオさん、と突然呼びかけられたことにより、「ふぁ?」と間抜けな返事をしてしまう。今しがた料理を口に運ぼうとしていたからである。
口を開きっぱなしにするのも不格好なため、一旦彼は箸を置いた。
「今度こそお詫びをお願いします。部屋に戻ったら、ちょっと僕に付き合って下さい」
「え、何?」
「内緒です」
悪戯を思いついた無邪気な子どものように、エリはニコニコと笑う。ルオはまったく予想も出来ないため、キョトンとただただ小首を傾げていた。しかしエリは頑なに言うつもりはないらしい。
「教えてくれたっていいじゃん」
「教えません! それよりほら、早く食べちゃって下さい」
「ちぇ」
無駄と言うことが分かったのか、彼は怪訝そうな表情で食事を再開させた。
黙々と定食を食べ進めるルオに、エリは「美味しいですか?」と問う。彼にとってはただ暇つぶしの雑談のつもりだったのだろう。だがしかし、会話として成り立つことはなく、質問を受けたルオは箸をピタリと制止させてしまった。
数秒の間を置いて、彼は白飯にブスリと箸を突きたてる。
ルオの行動に、エリは一瞬テンパってしまう。何か気分を害すようなことを言ってしまったのかと。
だが、口を開いたルオの声色は怒りには満ちていなかった。
「これの、どこが美味そうに見える?」
「……あ」
彼が箸を持ち上げると、それに伴って白飯が持ち上がった。少量ではなく、器に入っていた全ての白米が、その箸にぶら下がっていたのである。
エリがそれをポカンと眺めているのを確認すると、ルオは箸を下ろして、再び料理をつつきだした。
どうやらPLANTの料理は、世辞でも美味いとは言えないようである。
「俺は食べないといけないプログラムになっててさ。正直煩わしいことこの上ない設定で嫌になるよね」
こんな美味くも不味くもよく分からないものを、毎日食べないといけないんだから。と、ルオは頬杖をついて愚痴をこぼした。もう慣れているのか、料理を口に運ぶ姿は機械的である。
「ご馳走さま」
「あれ、もういいんですか?」
「うん。あんまり食欲ない」
三分の二ほど食べ進めたところで、ルオは席を立った。エリの何気ない問い掛けに、ルオは微苦笑を浮かべる。
普段から大食でないルオだが、この程度の量であれば食せていた。しかし、今日はいつも以上に箸が進まなかったようだ。
(食えるわけがない)
エリに「食器を戻してくる」と言って背を向け、歩き出したところで彼は昨晩のことを思い出す。
実物を見たわけではないが、二度も〝死〟の光景を見せられたのだ。これでもよく食べた方だと、ルオは自負したいほどである。
吐き気を催さなかったのは、実際に立ち会わなかったおかげだろうか。などと、彼は不幸中の幸いだと考えた。
アンドロイドを幾つも破壊してきたルオではあるが、人間の死を実際に目にしたことはない。――いいや。正確には、立ち会ったことがなかったのだ。
(本当、シータは一体どうしたのか)
そっと己の首に巻きつけられた輪に触れて思惟する。が、それから返答がくるはずもない。
ルオは残飯を慣れた手つきでゴミ箱に落とし、食器を水の中に突っ込む。そして、もう用はないと言った風に踵を返し、既に席を立っていたエリと共に食堂を後にしたのだった。
その後、ルオは約束通りエリをPLANTの至る所へ案内した。細かい説明こそ省いたものの、エリにとっては十分なガイドである。
スタッフの研究室から実験室。倉庫や図書館、射撃訓練場などといったものまでもあった。その中には、昨晩シータが仕事を行った場所も含められている。
「PLANTは広いですね」
「正確にはPLANTのF班だけど。他の班も足したら、全面積どれくらいだろうね」
「――くそ!」
「?」
どこからか怒号が聞こえた。その声は二人に聞こえていたようで、彼らは足を止めると辺りをキョロキョロと見回しだす。
「今、声が」
「あの部屋からだ」
ルオの視線の先には、扉が半分ほど開いた部屋。幾つもある研究室のひとつのようだ。
二人は目で合図をし、その部屋に近づいていく。そして扉の隙間から、そろりと静かに内部を覗き込んだ。
部屋の中には白衣を羽織ったスタッフが一人と、赤いライトを点滅させる大型の機械。当然彼らには、その機械が一体何なのかは検討もつかない。
「どうしてこんな大事な時にぶっ壊れるんだ!」
ガツン! と、男は機械に蹴りを入れた。だがしかし、うんともすんとも喋らない無機物。
ルオたちの存在に気付かない男は、未だにブツクサと文句を垂れ流していた。因みにすべて独り言である。
「――呆れた。スタッフのくせに、故障も直せないんだ」
「専門外なんでしょう。仕方ないですよ」
はぁ、と呆れたようにルオが毒吐く。それに対し、エリはやんわりとフォローを入れると、何かを考え込むように口を閉じた。
突然黙り込んでしまったエリに対して違和感を持ったのか、ルオは心配そうに彼の名前を呼ぶ。すると、返事の代わりに彼は「すみません」と声を上げ、なんと部屋の内部へと入って行ってしまった。
「ちょっ、エリ!?」
突拍子もない彼の行動にルオは驚きつつも、放っておくわけにはいかないと。急いで彼の背中を追った。
「何だ、お前らは」
「ちょっと機械の様子を見せてくれませんか?」
「はぁ? 別に構わないが……」
スタッフの了承を得て、エリは機械の前にしゃがみ込む。そして腰に下げていたベルトバックから工具を幾つか抜き取って、慣れた手つきで機械の一部を解体し始めた。
「おい、お前――」
その行動を見たスタッフは彼を止めようと声を上げるも、肝心の静止させる単語を吐き出すことはしない。エリの性格だ。きっと、スタッフに止められれば無理強いをすることはないだろう。しかし、スタッフは止めなかった。
一瞬だけスタッフに視線を向けたが、エリはまたすぐに機械の方へ向き直る。その滑らかな手の動きに、スタッフもルオも釘付けになってしまっていた。
よく分からないコードを切り、また別のコードを繋ぎ直し。ボルトを緩め、締め直す。そのような行為を、エリは巧みな手さばきで続けた。
数分後、ふぅと軽く息を吐くと、エリはスタッフに向かって振り返る。
「終わりました。どうですか?」
「え、あ、ま、待て」
彼の声にスタッフは我に返ると、慌てて機械のスイッチを入れた。すると、今まで赤い点滅を繰り返していた機械に青白い光の筋が走り、部屋全体の機械が一斉に青い光を点す。
目の前の光景を見たスタッフは「直っている……」と、呆然と呟いた。
「お役に立てたようで、よかったです」
ニコリと笑みを零すと、エリはルオの背中を軽く叩いて「行きましょう」と声を掛ける。
ルオもスタッフ同様に唖然としていたようで、彼の言葉の意味を遅れて理解した。
「あ、あぁ。分かった」
視線は機械に向けられたまま、無理矢理返事をする。そしてまた、入って来た時と同様に、エリの後を追うかたちでルオは部屋を後にした。
良いことをして気分がいいのか、どこかエリの表情は晴れやかである。その横顔をじっと見つめるルオは、とても訝しげだ。
視線に気付いたらしく、エリは歩みを止めないまま彼を見る。
「どうしたんですか?」
「いや、別に」
特に何も言うことなく、ふいっとルオは視線を逸らした。胸中で、(きっと彼はこういったことが得意なアンドロイドなのだろう)と結論付けて。
そうですか呟くエリは、不思議そうに首を傾げ、思い出したようにルオに言った。
「次は何処を案内してくれるんですか?」
「え? あぁ、屋上に行くつもり。ほら、そこの階段から」
ルオが指差す先には確かに階段がある。廊下と同じようにコンクリートで出来たものだ。一般的に良く見るものと変わりはない。珍しいものでもない。
しかし、エリの表情はどこか険しいものがあった。
「……階段で屋上まで行くつもりですか」
「別にエレベーターもあるけど」
スタッフに見られたら、視線がえげつないよ? と、冗談っぽくルオは笑いながら言った。
どうやらスタッフたちからのアンドロイドに対する見解は厳しいものがあるらしい。ルオの言葉を聞いたエリは、先ほど読んだ本の内容を自然と思い出して、妙に納得した。
(機械風情がエレベーターを使うなと)
別段疲れるわけではないのだが、それでも永遠と階段を登ることに対して気乗りはしない。だが、ルオは階段を登る気満々のようだ。
小さく吐息を零して、エリは「じゃあ行きましょう」と階段に足を向けた。
階段を登り進めること数分足らず。どうやらこの棟は五階建てらしい。最後の階段を登り切って、ルオが屋上への扉を開け放った。
「わあ……」
そして、エリの双眸に映ったのは永遠と続くようにも錯覚するような大海原。今日は晴天だった。目に映る景色が、明るい青色を湛えている。
「景色いいでしょ。PLANTでも、数少ない気に入りの場所」
「ああ、僕はあっちに見える別の島から来たんです。あれ、あっちかな。こっちでしたっけ」
地平線に乗っかるように存在する島を指差して、手を引っ込めて、また指を宙で泳がせて。エリは辺りをキョロリと見回した。軽い足取りでスロープに駆け寄って行くと、また目を輝かせながら海を眺める。
彼の楽しげな顔を見て、ルオは思わずクスクスと笑いを零した。(楽しそうだな)と胸中で呟く彼も、どこか表情が柔らかい。
ゆったりとした動作でエリの隣まで歩み寄ると「はしゃぐのは構わないけど、落っこちないようにね」と、また冗談を口にした。
「もう、僕はそこまで子どもじゃありません。落ちませんよ」
むぅと口を尖らせてエリは答える。それを見たルオは、やはり愉快そうに笑った。どうやら彼は、他人をからかうことが好きなようだ。
風が吹く。頭上を悠々と流れていく白い雲。空中を旋回しては下降、上昇を繰り返すカモメ。
昨日の悪天が嘘のように、とても穏やかな時間が流れていた。
「人工物でギラギラ光る景色は嫌いだけど、こうした自然の姿を眺めることが、俺は凄く落ち着く」
ルオは手すりに腕を乗せて、頬杖をつく。瞼をそっと下ろすと、花鳥風月の声を拝聴するかのようにその場に佇んだ。
それを見たエリも同じように、暫しの間、その場で景色を静かに眺める。ふと視線を下げれば、鬱蒼とした木々が広がっていた。
PLANTは孤島にある施設である。その周りは開拓されていないらしく、まるで闇と化していた。深緑の葉っぱが鬩ぎ合い、風が通るたびにザワザワと騒ぐ。
(――あれ?)
思わず下にばかり目を向けていると、一瞬、木々の間を何かが走って行ったように見えた。エリはすぐに目を凝らしたが、何もいない。
動物か何かだろうかと納得しかけたところで、隣のルオが声を発した。
「この後は中庭に行こうと思うんだけど」
「中庭、ですか?」
「うん」
ルオは体を動かし、手すりに背中を預けてその場に立つ。PLANTの内部にいた時よりも、心なしか彼が生き生きとしているようにエリには感じられた。表情も何処か明るい。
「中庭には一本の大木があるんだけど、芝も切りそろえられていて……丘のてっぺんっていった雰囲気なんだよね。周りがPLANTの建物ってのが惜しいところではあるけど」
「そうなんですか。はい、行きましょう」
「了解っ」
にこりと幼い笑顔を浮かべて、彼は手すりから背を離した。大きく足を踏み出して、くるりと振り返ると「ついて来て!」などと当然のことを言う。
言われなくてもついて行くのにと胸中で呟きつつも、エリは「はい」と返事をした。
彼らはまた屋上にやって来た時と同様の行路で階段を永遠と下り、一階までやっと戻って来たところで、また灰色の景色を歩き出す。しかしどこか、二人の足取りは軽かった。
時はもう昼下がり。コンクリートに囲まれた道を歩き進め、とある角を曲がった。すると、景色に異変が起きた。
「あっ」
片方の壁がガラス張りになっていたのだ。其処から見えるのは、ルオの言っていた中庭と思しき場所。
黄緑の芝生のカーペットが敷き詰められ、その中央には青々とした葉を広げた樹木が居座っている。
「ほら、ここから入れるんだよ」
ルオがガラス張りの壁にペタリと手を引っ付けた。よく見ると、切れ込みが見える。分かりづらいが、扉のようだ。
慣れた手つきで彼は引き戸を開け放ち、中庭へと足を踏み入れる。その後ろを、エリもすぐに歩いて行った。
先刻、ルオが言った通り。まるでそこは丘の頂。そしてもう一つ表す言葉を付け足すとすれば、〝箱庭〟だった。
彼らは中央の大木の元まで歩みを進め、それを見上げる。木々の隙間からの木漏れ日に、思わず目を細めた。PLANTの建物に阻まれているため、風は吹いていない。とても静かな樹木が、二人を見下げていた。
「……一休みしようか」
「そうですね」
木を見上げながら、ルオが発案する。間もなく、エリはそれに同意した。
ルオは樹木の幹に背を預けて座り込み、ぼうっと枝葉を見上げている。ほどなくし、そっとその瞼を下ろした。続いて、かくりと首も垂らす。
それに対し、エリは尚も突っ立ったままで……やがて、右手を幹に伸ばした。
「これは、」
「サクラ」
「!」
エリの台詞を察したかのように、ルオが目を瞑ったまま続ける。エリは驚いたように彼に顔を向けた。
しかしルオは相変わらず座り込み、目を閉じた状態で続ける。
「サクラの木だ、コイツは。日本で最も知られている木の一つ。……でも」
すすす、と彼の左手が芝の上を這った。そして、地面から少しだけ顔を覗かせたサクラの木の根に触れる。
薄らと開けられた眼は、特に何処を見つめるわけでもなく。ただ、おぼろげに宙を眺めていた。
「俺は、コイツが花を咲かせた姿を一度も見たことがない」
「え……?」
「咲かないんだよ、コイツは。――成り損ないの、サクラの木だ」
それだけ言うと、ルオは口を閉じた。
一体彼がどのような思いで、そう言ったのかエリには分からない。しかし、なんとなくではあるが察した。
(自らの姿と、重ねているんですか)
しかし彼がそれを問うよりも早く、ルオはまるで制するかのように「少しだけ寝る」とだけ言って、また黙り込んでしまった。
大木に身を預け、瞼を下ろした金髪の少年。その光景は、どこかの絵画のように端麗であり、儚げでもあった。
「……」
彼と同様にエリも腰を下ろし、幹に背を預ける。暫くそうしていたが、ふと、彼の脳裏にある本の存在が浮かんだ。
ルオがシャワー室に行っている間、時間つぶしに読んでいたあの本である。どうやらルオはどこか疲れているようで、既に微睡んでいる。だがエリには、睡魔が襲ってくることはない。
(折角ですし、本を少々拝借しましょう)
静かに腰を上げて、独り言のように「少し抜けます」と呟く。返事は何処からもなかった。
彼はココにやって来た時と同様の扉を使い、PLANT内部へと戻る。辺りをキョロリと見回して、自分の現在地を記憶の中から確認した。
――瞬間、ズキリとした痛みが頭を掠める。
「痛ッ!」
反射的に己の頭に手をやるが、痛みはもうなかった。
「……?」
特に気に留めることでもないかと自己完結をして、彼は歩き出す。何度か足を止めながら、記憶を辿り、目的地へ。
しかしPLANTは、どこも同じような景色ばかり。それは中々骨の折れる工程だった。気付いた時には、迷子というオチである。
(おかしいですね、先ほどの道を右ではなく左折するべきでしたか)
むう、と彼は考え込む。お人好しな性格である彼は、ここはとりあえずスタッフに道を尋ねようという悠長な結論に達した。が、都合よく周りに人がいるわけではない。
しかし代わりに、扉を見つけた。いいや、正確には扉〝らしき場所〟を見つけたのだ。壁だと思わしき部分の一部に、亀裂が入っている。
エリはそこまで歩み寄ると、グッと指先をねじ込んだ。すると安易に壁は外れた。
(ここも研究室か何か、でしょうか)
ルオに案内してもらった限りでは、このような場所までは教えてもらった覚えが彼にはない。そもそも、ルオは説明すらしていない。
もしかすると、ルオさえも知らない扉なのでは? という考えが彼には浮かんだ。
部屋に足を踏み入れた感想は、暗い。明りが灯っていなかった。手さぐりでスイッチか何かを探そうと、彼は壁に手を這わせだした。
――ヴォンッ!
「!!」
が、壁に触れただけで辺りに電気が灯った。まるで部屋全体が機械のように、ビッシリとさまざまな電気が自己主張を始める。エリが壁だと思っていたものも機械であった。
「な、何ですかこの部屋は」
思わず呟いて、彼は後退する。ルオに案内されてきた研究室とは、似ても似つかない雰囲気の部屋。白い部屋でも、灰色でもない。色で表すのならば、黒だ。
動揺を隠しきれていなかったエリだが、次第に落ち着いてくる。大丈夫だ、特になにも起こらないという安心感からだった。
ゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ足を踏み出して、部屋の中央部に居座っている機械に近付いて行く。まるで円形の水槽のように、中には気泡が浮かんでいた。
しかし中には何もいない。
(これは一体……)
機械から発せられる光によって、エリの表情が闇に浮かんでいる。彼はその機械に記されていた文字を声に出して読んでみた。
「シークレット、データー……ネーム、ノエル?」
だが、エリにはさっぱり理解することは出来ない。他にも文字らしきものが綴られてはいたが、彼にそれを解読できるほどの知識はなかった。
もしかすると図書室にこれを解読するための本があるかもしれない。ルオが何かを知っているかもしれない。一旦戻り、ルオに訊こう。
と、エリは思い立ったところで、また脱力した。
(そうでした。僕、迷子でした)
つまり、戻ろうにも戻れない。さてどうしよう。そもそも、このような場所に勝手に入り、それをスタッフに見つかってしまってはヤバイのではないか。
(とりあえずこの部屋を出ましょう)
エリが踵を返そうとした、その時だった。
――パッ。
「お」
「はっ!」
突然部屋の電気が点いた。のと同時に、エリはバッチリと目が合う。出入り口の部分に、白衣の男性が立っていたのだ。
彼の指先には、電気のスイッチがある。もしかしなくとも、電気を点けたのはこの人物と言うことだ。
見つからない方が良いと考えた途端に、見つかってしまうというこの為体。エリは思わぬ事態に、頭の中を真っ白にしてしまう。
「手前さんは……」
「え、えとっあのっ、その。こ、これはですね、僕は」
男の赤い双眸が、ジロジロとエリを舐めるように見る。まるで品定めでもするような視線ではあるが、男は強いて言うならば、確認をしているようでもあった。
(コイツは、確か)
そして思い当たったのだろう。口元に当てていた右手を下ろして、口を開く。
「分かった! 迷子か!」
「へっ」
てっきり叱られるか、最悪消去されてしまうかもしれない。などと考えていたエリは、男の発した意外な言葉に素っ頓狂な声を上げた。
「あーあーあー、おじさんには何でも御見通しよお! だよなぁ、だよなぁ。このPLANTっつー場所は分かりにくい。うん、分かりにくい」
白衣を着てはいるが、今まで見てきたスタッフとは性格があからさまに違いすぎる。そして年齢も、彼らよりも上の方に感じられた。
「……どちら様ですか?」
一人で何故か納得したように、うんうんと頷いている男に、エリは恐る恐る問い掛ける。
このような場所にいる自分を咎める様子もなければ、連れ出そうという気配すらない。だがしかし彼はPLANTにいる。関係者であることは確かなのだが、まったく想像がつかない。
だが、男はエリの質問とはどこか噛み合わない言葉を返した。
「ん? おじさんは、手前さんと同じような可哀そうな迷子を捜している」
「はぁ、迷子……」
迷子であることは事実なので、エリは特に否定をすることはない。ただ、自分の知りたかった返答とは違ったため、どこか怪訝そうな表情を浮かべていた。
彼がこのような顔をするのは、PLANTに来て初めてである。
「知らないか?」
「いや、特徴を言ってもらえないと。どうとも」
「あ、わり。特徴は~そうだなぁ~」
男がエリに、自分の探している迷子を見ていないかと問いかける。が、エリの切り替えしは当然のものだった。
うんうんとまた男は唸りだし、閃いたように口を開く。
「よし、特徴はネコだ」
「はい?」
「ネコ。英語では、キャーット!」
「分かりますよ、それくらい」
「あそう?」
相変わらず怪訝そうな表情でエリは突っぱねた。彼がここまで人を杜撰に扱う光景は、中々珍しいものである。
「で、見た? ネコ」
「見てません。他を当たってください」
では僕はこれで失礼します。と適当に区切りをつけて、エリが部屋を出ようと男の横を通り過ぎようとした。が。
「手前さん、迷子だったんじゃねえのか」
「……」
ピタリ。エリの動きが止まる。
数秒の沈黙の後、彼はゆっくりと男の方へと振り返った。その顔は、どこかバツが悪そうである。
「よかったら、中庭の方まで案内してもらえませんかね」
「はっはっは! よしきた。おじさんは素直な子は好きだぜ」
そう言って、男はニカッと笑った。
その頃の中庭の出来事である。
「ん……?」
太陽の位置が変わり、PLANTによって中庭が影に覆われた。それを肌寒く感じたのか、ルオの伏せられた長い睫がぷるぷると震えだす。
少年のぼやけた視界に広がるのは白色。足にある暖かい重み。彼の意識が覚醒しようとした、その刹那。
「ニャー!」
「え」
ルオの目の前には、一匹の猫がいた。白く艶やかな毛並みと、金色と青色の瞳をした猫。
呆然としている少年の頬を、ザラついたピンクの舌がペロリと舐め上げる。
「うわっ!!」
突然のことに驚き、彼は素早く猫を払い退けた。そして眼前の小さな獣から逃げようと、体を後ろに引く。が、背中には樹木。
ゴンッ!
「ってえ!」
鈍い音を頭の中に反響させ、彼は見事に後頭部を幹に打ち付けた。
痛いと小さく呻きながら、己の頭を両手で押さえている。その瞳には薄らと涙まで浮かんでいた。
「ね、猫がどうしてこんなところに……」
ジンジンと鈍く疼く痛みを紛らわそうとしたのか、彼は無理に口を動かして声を発する。しかしそれは酷く震え、弱々しいものだった。
一方、少年に跳ね除けられ、離れた場所に着地していた猫は、キョトンと彼を見つめる。その後、警戒心など持ち合わせていないとでも言うように、テクテクと再び彼の元に歩み寄って行った。
少年は猫の行動を見た途端に、ビクリと体を大きく揺らす。そして、猫の動きに比例するように、段々と後ろへと後退していた。
「く、来るなって……あっち行け!」
「ニャー?」
「あっち行けってば! 俺は面白い玩具じゃないし、主人でもない! だからあっちへ行け! あっち行け、あっち行け、あっち行け! もうどこでもいいから行ってくれ!」
「ニャア!」
「だからってこっちに来るなあああ!! こっち以外!」
シッシ! と手で必死に猫を追い払う仕草をしているが、猫が言うことを聞く様子はない。どうやらルオには、猫に対する耐性がないらしい。
猫に対して警戒心を丸出しにしており、今にも木の上に避難しそうな勢いだ。既に彼の行動が猫と同じようにも見えてくる。
だが逃げたところで、相手は本物の猫。余裕綽々と彼の後に続き、木をヒョイヒョイと登るだろう。そしてルオが喚声を上げ、ドシンと木から落っこちる。
というような流れを、その数分後に彼らは実際に行った。
「いてえ……」
大木の下で、体を盛大に地面へ打ち付けたルオが呻く。
長閑な昼下がり。晴天。コンクリートに囲まれたこの場所に悠々と立っている大木。――そして、白い華奢な猫に怯えている、金髪の少年の姿。
絵画のような風景から一遍。傍から見れば、奇妙な光景である。
そこへ躊躇なく割って入ってきたのは、低いテノールほどの声だった。
「カルビー!」
「!」
男声にあからさまな反応を示した白い猫は、耳をぴくぴくと動かして、声のした方向へ振り返る。視線の先には、こちらへ駆けてくる人影がひとつ。ルオは眉をひそめてその姿を睨むように凝視した。
ヒラヒラと薄汚れた白衣が揺れる。それはアンドロイドではなく、人間である証拠とも言える衣類。
ルオはどうやら、エリが帰って来たのかと思ったようだ。しかしそれは、期待外れだとすぐに気付く。
ハァハァと軽く息を切らして、無精ひげを生やした男性は彼らの目の前でその足を止めた。
(人間……)
エリではなく、人間だということをその目で確認をすると、彼の目つきが鋭くなる。その刹那、「ニャア!」と大きく一鳴きをして、白猫はピョンと男性に飛びついた。
猫を大きな手でガシガシと乱雑に撫でまわす男と、尻尾をぐるぐると動かして喜びを表す小さな獣。どこからどう見ても、主人とペットだ。
人間が現れたことや、猫の被害を受けたルオの機嫌は最底辺。だったが、兎にも角にもこれで猫に弄ばれる心配はなくなったと、彼は密かに安堵する。
「はぁっ、ルオさん!」
「エリ!」
その時、出入口から少し息を切らしたエリが姿を現した。名を呼ばれた彼はすぐに起き上がろうとするが、体が痛むのか、一瞬表情を引き攣らせる。
「ルオ?」
白衣の男が、猫を撫でる手を止めた。そして、大木の下で伏せている金髪の少年に目をやる。
エリが口にした名前を、繰り返すように呟いて。男は猫を自分の肩に乗っけた。
「いやあ、少年! おかげでおじさんの大事な相棒が見つかった! 感謝の意をここに表したい」
「はぁ?」
ルオに一歩近付いて、男は大声でハッキリとそう口にした。しかし、状況を理解していない彼は怪訝そうな反応を返すだけである。
――が、その表情はすぐに違うものへと変貌した。
「っく!」
ルオは筋肉に力を込め、痛む体を無理矢理動かす。反射的に横へ飛び退いた。
グサッ! グサッ!!
(殺気……!!)
先ほどまでルオが倒れていた場所には、二本の短刀が深々と突き刺さっている。玩具などではなく、どこからどう見ても本物だ。
そして何よりも、一瞬だけ男から放たれた殺気が、本物だということを物語っている。
「なっ」
それを見ていたエリが、遅れて声を漏らした。驚きのあまり声がノドに突っかかり、それ以上の悲鳴は出ない。
被害者であるルオは、突き刺さった短刀を一瞥した後に、ゆっくりと男の方を向いた。
「お~、関心。今の攻撃を避けるとは、殺気でも感じ取ったかあ? ん?」
「あんたは、一体」
ニヤリと男が笑む。その表情を見た途端、ルオはぎょっとしたように目を見開いた。
薄汚れた白衣。黒い髪と、それを後ろに留めているヘアバンダナ。そして、赤い瞳。
ルオの胸中では(まさか、まさか)と同じ言葉が何度も何度も反響していた。
やがて彼は、思い当たる人物の名前を口にする。
「ひより……?」
「覚えていたか。関心、関心! 当然か、手前さんの大師匠だもんなあ!」
「まだ生きてやがったのかおっさん。もうとっくにくたばってるか、とうおあっ!?」
ヒュン、ヒュン! と、再びルオに向かって短刀が飛んできた。危なっかしくも、彼は何とかそれを回避する。
ひよりと呼ばれた男性が、再びルオへと短刀をぶん投げたのだ。
「おっさん呼ぶな、おじさんと呼べ! もしくはおじさまと呼ぶがいい、若人!」
「どっちでもいいだろ、どうせおっさんなんだから! てかもう、さっさと死ね! むしろ今死ね! 黄泉の国への引導を、どうせならこの俺が手渡してやろうか!」
「そう簡単にくたばるおじさんじゃない! 手前さんのような青二才に殺されるくらいならば、おじさんは自害する!」
「意味分かんねーよ、ばか! どうせ死ぬのかよ! 言葉のキャッチボールを真面目にやってくれ!」
「キャッチボールは好まん! おじさんはこう見えてもサッカーが好きだ!」
「知ったこっちゃねーよ、てめーの趣向なんざ!! ああもう、ああいえばこう言うぅううう~!!」
腰に両手を当て、仁王立ちをしたひよりは、得意気にふんぞり返る。それに対し、ルオはキャンキャンと吠え続けていた。
二人は知り合いらしい。状況を飲み込めていないエリを余所に、お互い罵り合いを始めてしまった。因みに見ての通り、主にルオが罵っている状態である。
「フッ、あまり褒めてくれるなよ。若造」
「褒めてねーよ!! 今の流れで俺がどうあんたを褒めた! やっぱそろそろ死んでおけって、あんたの頭の構造は既に死んでるっぽいから!! あと俺のことを若人と呼ぶのか、青二才って呼ぶのか、若造にするのか統一しろ!」
「え、え、えええ?」
中々会話の収拾がつかないようで、ルオは地団駄を踏んだ。そしてエリは相変わらず、呆然と隅の方に立ち尽くしてしまっている。どうやら自力で事態を飲み込まなければいけないようだと、理解した。
彼らが未だに言い争いを続ける中、そうして彼は冷静に現状をまとめだした。
年を重ねた風貌をした男の名前は、ひよりと言う。彼はPLANTで迷子になっていた、相棒の猫を探していた。その猫の名前はカルビと言うようだ。
カルビはルオと何故か遊んでいたらしく、中庭で捕獲。一件落着したかと思いきや、ひよりは突然ルオに奇襲を仕掛けた。その後の、この口争いである。内容からして、ルオとひよりは知り合いということは安易に想像がついた。
(つまり、この二人は……)
そこで、エリはハッとする。彼は、気付いてしまったのだ。
思わず口元を片手で覆い、一歩後ろに引いた後に確信を突く。
「二人は、まさか、親子!?」
「はいエリくん面白い、面白い。冗談はそれくらいにしておけよ、笑えないから全然」
が、ルオの反応はとても冷めたものだった。ハズレらしい。
「こんな性格の捻じ曲がった子どもがおじさんの息子なわけがない! おじさんなら、遺伝子捻り曲げてでも超絶可愛い女の子を作る!」
「うるせーよ。捻じ曲がった性格で悪かったな」
ひよりの言葉に、フンと彼はそっぽを向いてしまった。彼の横顔を見つめたひよりが、「まぁ、」と続ける。
「容姿は可愛いんだけどな、コイツ」
「うるせーよ!」
「確かにそうですよね」
「うるせーってば!! てめーらまとめて捻り潰すぞ!」
「俺の性格のようにー!」
「ぶふっ、とうとう自虐ネタに走りましたかっ!」
「いやいやいやいやいや、言ってねーよ!? っつーか、エリは笑いながら言うな、ムカつく!!」
ひよりのフォローは空振りをした。しかしそれを皮切りに、何故かルオのコンプレックスを抉るだけの会話がテンポ良く続く。
先ほどまで蚊帳の外であったエリも、共通の話題をひよりが口にしたことで、いつの間にか参入していた。彼はどうやら笑いを堪えるので必死らしい。肩が小刻みに震えている。
ネタにされていたルオはというと、ゼェゼェと肩で息をしていた。カルビと戯れていたこともあり、疲弊し切ってしまっている。
そんな二人を余所に、ひよりはさも愉快そうに笑っていた。
ひときしり笑ったところで、彼は「ふう」と一息つく。そして、本当の関係性について口を開いた。
「真面目に答えるなら、ちょいと昔にコイツの世話を焼いてたおじさんってところだ」
「と、いうか。正直なところ俺が玩具にされていたようにしか思えないけど」
「んー? はっはっは!」
いつの間にかその場に胡坐をかいて座っているルオは、不服そうに頬杖をつきながら口を挟む。ひよりは否定せず、ただ豪快に笑い声をあげていた。
詳しくルオに話が聞きたくなったのか、エリは「何故です?」と促しを入れる。
「……はっ」
すると、彼は何かを悟ったように鼻でせせら笑う。その眼が見つめる先は、どこか遠い。
「何かあれば修行、修行って言って。取りあえずこの人の身の回りの世話をやらされてた。で、問題があれば先刻みたいに刃が飛んでくる感じ」
「どこからどう見ても修行だろ?」
「どこからどう見ても、ただの雑用。暇つぶし。齢十にも満たないガキにする所業じゃない」
「今だってガキじゃねえか」
「うるせーよ」
「ま、まぁまぁ」
このままでは先ほどの二の舞と察したのだろう。エリが苦笑いを浮かべながら、二人を宥めに入る。
相変わらず楽しそうなひよりと打って変わり、ルオの機嫌は尚も最底辺を這いずっていた。
その話を聞き、尚且つ現在の彼らを見てエリは思う。
(ルオさんの性格が捻くれているのは、ひよりさんが原因では)
しかし流石の彼でも、それを口にすることは出来ない。ただただ、愛想笑いを零すしかなかった。
「……まぁ」
ぼそり、とルオが呟く。
「そのおかげで、反射神経とか……色々。身にはついたし、ある意味では感謝してるかもしんないけどね」
「ルオさん……」
エリが少しだけ、彼の言葉にジンとした。が、当のひよりの反応はと言うと、
「ルオきゅんがデレたー!」
「うるせー!!」
ふざけたものだった。
ルオの発言によって流れた感動的雰囲気は、須臾のことである。今にもひよりに殴り掛からんとする彼を、必死にエリが塞き止めた。
「そ、それで! そのような方が、今回は一体どういったご用件でF_PLANTに?」
「んー? あー」
呑気に煙草を指先に挟み、何故かマッチで火をつけているひよりに、エリが問う。
結局無理に押さえ込まれたルオはと言うと、再びイライラした様子で座らされていた。
「ココ、禁煙なんだけど」
「まーまー、外だろ? 細かいことは気にするなあって」
「……ふん」
それ以上彼が指摘をすることはない。ふぅと一息ついて、ひよりはエリの質問に答えた。
「少し、あるアンドロイドの様子を確認しにな」
「あるアンドロイド?」
エリが首を傾げる。ルオも声には出さないが、どこか不思議そうな顔をしていた。
このF班には、今も昔も、数多くのアンドロイドが収容されている。その中でも、わざわざF班の人間ではないひよりが赴いてくるほどだ。一体どのようなアンドロイドなのか。
「そのアンドロイドは、何を隠そう、手前さんのことだ……ルオ君」
「え?」
神妙な面持ちで、ひよりは彼をじっと見つめる。思ってもみなかった指名に、エリもルオも声を上げた。が。
「と、いう冗談は嫌いか」
「もう殺したいほどに」
「殺しはダメですよ!?」
呆気らかんとして、彼はネタ晴らしをすぐに行った。ルオは恐ろしいほど無表情で、近くの地面に刺さっていた短刀を引っ掴む。
慌ててエリが止めに入ろうとするが、ルオは既にひよりに向かって短刀を放っていた。
ヒュン、という空を裂く音。刃は真っ直ぐとひよりの顔面に飛んでゆき、そして、外れた。彼は素早く首を傾けて、それを避けていたのだった。
「え……」
彼の反射神経に、エリがポカンと口を開ける。ルオは予想の範囲内だったのか、別段驚いた様子はなかった。
ひよりも特に吃驚せず、相変わらず煙草を口に含んでは吐いている。因みに彼の肩に乗っていたカルビはとても驚いたようで、毛を逆立てていた。
「流石にあれから十年も経てば、狙いは正確になっているな。おじさん関心」
「そりゃどーも。どうせなら遠慮せず刺さってくれてもよかったのに。俺歓喜」
「馬鹿野郎。死ぬわ」
何事もなかったかのような彼らの対応に、エリだけが置いてけぼりになっている。どういうことなのか問い質したいのは山々ではあるが、タイミングを完全に逃してしまった。
(この人たちは、一体何者?)
そして今更ながらに、ルオやひよりの正体を畏怖してしまう。温和な性格をしている彼にとっては、恐ろしいこと極まりなかった。
「あ、そうだ。良かったら手前さんら、そのアンドロイドに会ってやってくれねえか」
「なんで」
「んー」
ルオの尖った反応に、ひよりはガシガシと頭を掻く。少し困ったように、白い煙った息を吐き出してから、何とか言葉を紡いだ。
「それがなあ、身体の不具合というよりもセイカクデーターに問題があるのかないのか……。兎にも角にも、精神的に病んでいるというかなあ? ほら、分かるだろ?」
「全然」
「る、ルオさん……」
まったく取り合おうとしないルオに対して、エリが少しの同情のようなものをひよりに向ける。その目は、少しは話を聞いてあげましょうよ。と語っていた。
それに気付いた彼は、あからさまな溜息を吐く。
「ああ、分かった。俺たちにはよく分からないけど、会えばいいんでしょ。会えば」
「恩に着る!」
「お礼ならエリに言って」
まるで照れ隠しのように、ルオがフイと顔をひよりから背けた。彼の促しによって、ひよりは「有難うな、迷子の天パ!」と元気よく礼を述べる。
迷子という単語が気になったのか、ルオがすぐに顔を戻して「迷子?」と不思議そうに復唱した。彼は眠っていたので、エリが迷子になっていたことは知らないのだ。
「この青年、さっきPLANTで迷子になってるところをおじさんが保護してやったんだよ」
「えへへ、すみません」
顔をへにゃりと崩して、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。年齢に合わないような、本当に頼りない表情を浮かべる青年である。
呆れたように、ルオはまた息を吐いた。
「はぁ、まったく何やってんだか」
「昔は手前さんもしょっちゅう迷子になってはわんわん通路のど真ん中で――」
まるで揚げ足を取るように、ひよりがルオの昔話を口にする。エリは思わずPLANTの廊下で、一人泣いている幼少期のルオを想像した。
(ルオさんにもそんな可愛らしい時代が)
時とは残酷なものだ、と口が裂けても言えないようなことを彼は純粋に思う。が、ひよりの口から続けて出てきたものは予想を大きく反するものである。
「暴言吐き散らかしてたくせに」
「どういうことですか」
てっきり、ルオが泣き喚いていたと、ひよりは言うとばかり思っていた。しかし、どこに泣いているという描写があるのか。エリには拾うことが出来なかった。
当時を思い出すかのように、ひよりは「いや」と、その時の話をする。少々その表情は、笑いを堪えているようにも見えた。
『あーもう! どうして〝ぷらんと〟はこんな薄気味悪いんだよ! どうして何処も同じような灰色なんだよ! 分かりづれーんだよ! 迷子にもなるっつの! 無理もないだろ、ばか! ばかばかばか!』
そう叫んで通路の壁を蹴ったり、地団駄を踏んでいたという。
(何てアグレッシブな……)
声には出さないが、エリはそっぽを向いてしまっているルオに、そのような視線を向けていた。彼は平然としている。
(やはり、ルオさんの性格は元々なんですかね)
それを思うと、何故かエリまで笑いが込み上げてきたようだ。彼はひよりとアイコンタクトをして、それが引き金となったように二人して笑い出す。
ルオは何が起きたのか分からないらしく、視線を彼らに向けて、何度も瞬きを繰り返していた。
「何だよ。変?」
「だ、だって普通そんな……暴言、って!」
そこまで口にして、エリは笑いを堪えることに必死になってしまう。腹部が痛むのか、両手を腹に当てている。
「大丈夫だ。見つけた後、この金髪、しっかり泣いたから。ぼ、暴言吐きながらっ……!」
「ぶっ。あははは! だからどうして暴言なんですか、もう!」
「え? え? え?」
二人は笑い転げる。ルオは何故笑われているのか理解できないまま置いてきぼり。そんな彼の顔色を見ては、また、二人は笑い続けたのだった。
寸暇を中庭で過ごし、空が陰りだした頃、誰からともなく「戻ろうか」と発案をする。誰も居座ることはなく、彼らはPLANTの内部に戻った。
「ひよりはこれからどうすんの?」
ルオが振り向き際に問う。特に考えた素振りもせずに、ひよりは答えた。
「PLANTに部屋を取ってあるから、そこで仕事だな」
「お仕事大変ですね、頑張って下さい」
「おうよ、おじさんに任せとけって!」
「ふふ。何をだよ、ばーか」
張り切りすぎて倒れたって知らないから。と、ルオは微笑を浮かべながら小言を漏らす。やっと彼が浮かべたそれに、ひよりも同じものを返した。
明日の午前に中庭で、という約束を交わして彼らは別れ、それぞれの帰路につく。
――その間際であった。
「ルオ君、仕事の方はどうだ」
「!」
ひよりがルオの耳元で、ボソリと呟く。エリは彼らが小声で話していることに気付いていないらしく、一人で先を歩いて行く。
彼の口からその話題が出るとは思っていなかったルオは、目を見開いた。だが、すぐに冷静を取り戻して、何事もなかったように答える。
「知ってるんだ」
「風の噂でな。上手くやっているのか」
「やってなかったら、今頃俺は、ここにいない」
「……それもそうか」
彼の台詞を聴いて、ひよりは嘲るように小さく笑った。次いで、「愚問だったな」と言葉を添える。
恐らく、何らかの情報をひよりは耳にいれたのだろう。ルオがどのような仕事を行っているのかも理解しているらしい。こうして、エリの耳に入らないよう話題を持ち出したことにも、納得がいく。
別れ際の会話に、これ以上時間が費やせないと判断したのか、ルオは「今日はこれくらいで」と彼に言葉を押し付けて、早足気味にその場を去った。
尚もその場に留まるひよりと、猫一匹。彼らの背中を見送った後に、独り言を口から漏らした。
「そういや、あいつが言っていたな」
それはもう、懐かしそうに。愛猫、カルビの頭を撫でながら呟く。
「ルオ君が初めて口にした言葉は、〝ばか〟だったとか、何とか」
「ニャア」
「そうだな、今日は戻るか」
口に含んでいた煙草を、携帯灰皿にねじ込む。慣れた手つきで白衣のポケットに仕舞い込むと、彼もまたこの場を去ったのだった。
ひよりと別れ、部屋に戻った二人。ルオは息を荒く吐きながら、ベッドに腰掛けた。
「はあー! 疲れた」
「今日はルオさん、溜息を吐いてばかりですね。幸せが逃げますよ」
「何それ」
エリはクスクスと笑っている。しかし、彼の言葉の意味が分からなかったらしく、ルオは首を傾げて問うていた。
知らないんですか? とエリが言うと、それにコクリとルオは頷く。
「そういう迷信があるんですよ。実際はストレス解消として、溜息は効果的だったりするという説もありますけどね」
「ふぅん……エリは、雑学を色々知ってんだね」
「え、普通ですよ」
ルオは足をぶらつかせながら、エリをおちょくる。思わぬ褒め言葉に、少々の戸惑いをエリは見せた。彼の反応を見て、ルオは愉快そうに笑む。
恥ずかしそうに顔を一旦伏せるも、エリは思い出したように顔を擡げる。そしてベッドの下へと突っ込んでいた小箱を引きずり出してきた。
「そう言えば、約束忘れてませんよね」
「え、わっ」
そう言うや否や、彼はルオの足をガシッと掴んだ。驚いたように声を上げて、ルオはビクリと体を揺らす。
約束。そう言えば、確か今日の昼間「部屋に戻ったら僕に付き合って下さい」とかなんとか言われた気がする。と、彼は思い出した。
一体何を始めるつもりなのかと、じっとルオはエリの行動を黙って見つめる。
「んー。ルオさんには黒が似合いますね」
「何の話?」
「コレです」
エリはルオの目の前に、黒い液体のようなものが満たされている小瓶を晒した。キャップを取り外してみれば、そこには小さな刷毛がくっついている。
ルオはあまり見慣れたものではなかったが、それはマニキュアだった。
彼の持つ小物の正体と用途に遅れて気が付き、彼は不安気にエリへ問いかける。
「塗るの? 俺に?」
「はい! 先ずは足に塗りますが、当然手も塗りますよ。ルオの手は綺麗ですから、絶対映えると思うんですよね」
「綺麗、か」
思わず、ルオは黙ってしまった。
エリが言ったのは見た目の話であるだろうが、その言葉をルオは素直に喜べないでいる。
神妙な面持ちで沈黙した彼には気付かず、エリはいそいそと準備を進めていた。
(きれいなわけないのに)
己の仕事を思い出して、彼はそっと瞳を閉じる。が、足のつま先にペタリと冷たい感触を感じて、またすぐに目を開いた。
「何してんの?」
「油分を取り除いてるんですよ。爪の表面に油分があると、斑が出てしまいますから」
「言ってくれたら洗ってくるのに」
エリはエタノールを含ませたコットンで、ルオの爪を磨いている。その表情は、PLANTの機械を直した時同様に、どこか晴れ晴れとしていた。
彼はこのような、細々とした作業が好きなのだろう。それに比例し、手先もとても器用である。つまり、
(エリの専門は、こういう系統なんだろうな)
昼間の予測が、確信に変わった瞬間だった。
黙々と作業を続けるエリの頭を、ルオはじっと眺める。コットンを手放したかと思うと、次いで取り出してきたのは透明の液体が入った瓶。
「それは?」
「ベースコートです」
「ふぅん……」
ルオが自ら質問したことではあるが、反応は薄いものしか返せずにいた。しかし、エリは別段気にした様子はない。
尚も変わらず、どこか楽しそうに作業を進めていた。
丁寧に爪の表面へベースコートを塗布し、やっと黒いマニキュアを使いだす。その塗り方も、とても地道なものであった。
だが、ルオは飽きることもなく、黒く染まっていく己の爪を無言で見つめ続ける。少なからず、興味はあるようだ。
「食み出たときはどうすんの? それ」
エリはとても器用に塗っているために、ほぼポリッシュの食み出しはない。が、ルオはその場合の対処法が知りたいらしく、エリに問うた。
すると彼は初めて作業の手を止めて、ルオの碧眼を見上げる。
「興味があるんですか?」
「うん。暇つぶしにも丁度良さそう」
質問に質問を返した彼の言葉に、ルオは素直に頷く。すると、エリは嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「では、後ほど教えますね」
「いや、そこまでしなくていいよ」
「折角ですし覚えましょうよ」
「んー……」
好意的にエリはルオに教えると言うが、当のルオはあまり乗り気がしないらしい。興味はあっても、覚えることは面倒くさいようだ。
視線を天井近くに投げて、数秒唸る。後、返事をしっかり携えてくると、彼はエリへ視線を戻した。
「ま、大丈夫でしょ」
「もう、何が大丈夫なんですか」
少し唇を尖らせて、エリはルオを睨む。そして、ルオの素足の裏側を、軽く指先で擽った。彼はペディキュアの塗り終った左足を軽くバタつかせて、キャッキャと笑い声をあげる。
「ちょっ、擽るのは反則!」
「あれ、弱いんですか?」
「他人に触れられ慣れてないだけっ」
まるで言い訳のような台詞に、エリは少し笑いを零した。満足したらしく、彼はまた作業を再開するように視線を落とす。
すると、てっきり終わったとばかり思われていた話題を、ルオが虚を突くように続けた。
「だって覚えなくても、エリがまた塗ってくれるでしょ」
「!」
エリは素早く顔を上げる。バッチリとルオの碧と目が合って、それはにこりと微笑した。
その笑みは、とても、純粋なもの。ココロを持つ彼だからこそ、作ることが可能のような微笑みだった。
知らず知らずのうちに、エリは彼の笑顔を凝視してしまう。するとその視線に気付いたルオが、突然照れたように俯いた。
そして、おずおずと言葉を紡ぎだす。
「俺、さ。友達、出来たことないんだよね。だから、その、これからも仲良くしてほしいというか。これから仲良くしてほしいというか……あ、エリが良かったらなんだけど」
ごにょり、ごにょりと。語尾になるにつれて、デクレシェンドしていく声量。それでも、エリには彼の言葉がしっかりと聞こえていた。
ぽかんとエリが呆けてしまっていると、
「っひゃ」
「あ!」
ペチャリ、とマニキュアの刷毛が盛大に爪から食み出た。突然皮膚に冷たい、不思議な感触を感じてルオが声を上げる。それによってエリは手元が狂っていたことに気付いた。
彼は慌てて除光液を手に取ると、コットンに含ませて余分な部分を取ろうと善処する。若干尖らされたウッドスティックで、細かい部分は修正をした。
「…………」
「エリ?」
取り繕いが終わると、また無言でエリは作業を再開する。しかしその様子は先ほどとは違い、何処か焦りのようなものが感じられた。
それはルオにまで伝わったのか、彼は不安気に名前を呼ぶ。するとエリは息を大きく吐き出して、棒読みで言った。
「ルオきゅんがデレたー」
「なっ!? 人が折角真面目に言ってんのに……!」
「動かないで下さい、ポリッシュがズレますから」
「う……」
黙々と作業を続けようとするエリに、ルオは押し黙る。彼は既に真剣な眼差しで手元を睨んでいた為、ルオはそれ以上文句を伝えることも叶わず、不貞腐れたようにそっぽを向いてしまった。
(何だか、分かりました)
声には出さないものの、エリは胸中で呟く。それは、昼間に出会ったひよりという男の心情の一部であった。
(あの方、照れ隠しをしてたんですね)
今の自分のように。
この金髪の少年は、ココロのことを嫌っている。故に、それを理性で抑え込もうと必死になり、今となってはどこか笑顔もぎこちないもので。時たま見せる瞳には、生気の抜けたような色合いが漂い、背筋が凍った。
けれど、本当にココロが殺されたわけではない。凍てついているだけなのだ。だから、こうして彼は
(ふいに、純粋な笑顔を魅せてくれるのでしょう)
エリは、彼の両素足にペディキュアを塗布し終わり、ルオへと手を差し出すように促しをいれた。差し出された右手に、彼は遅れて気が付いて、不思議そうにエリのそれに左手を乗っける。
その手は、どこか温かみがあった。
「……ルオさん」
「何?」
キョトンと、ルオは首を傾げる。それをじっと見つめた後、エリはまた手元に視線を落とした。エタノールとコットンを手にして、また先刻と同じ工程を行う。
「マニキュアは、時が経てば剥がれてしまいます」
「うん、知ってる」
彼の言葉に、ルオはあっさりと合槌を打った。エリの表情は、どこか愁いを帯びている。
しかしそれ以上、彼は何も語らなかった。代わりに、にこりと人当たりの良い笑顔を浮かべて、話をあっさりと切り上げてしまう。
「だったらいいんです。知っているのなら、それで」
「……?」
ルオも彼に少なからず違和感を感受してはいたが、それ以上問うことも出来ずに閉口した。
――マニキュアは、いつか必ず剥がれ落ちる。形あるものは、いつか壊れる。永遠は、そこには存在しない。
彼が嫌だ、嫌だとココロを拒絶したところで、それは無意味に等しいのだ。それを、エリは第三者でありながら察していた。
先ほどルオが口にした「これからも仲良くしてほしい」という言の葉すら、いつか朽ち果ててしまう葉っぱと同様。
永遠を約束出来るものなどない。
いつか壊れてしまうからこそ、大事にする。いつか枯れてしまうからこそ、美しく見える。
傷つくことがあるからこそ、喜びを感じられる。
今のルオは、ただの造花にも成りえていない。造花に、本物の美しさは見出せない。
傷つくことに億劫になってしまっていては、彼は本当の意味で死んでしまう。現時点では、死んでいるも同然なのかもしれない。
全てを受け入れろということは、彼にはつらいことなのだろう。それでも、エリは願うのだ。
「……はい、トップコートが乾くまでは手が不自由でしょうが。完成です」
「おぉ、凄いな」
ルオは先に塗り終っていた左手を蛍光灯にかざして、マニキュアがキラリと光を反射する様子を眺める。彼はどうやら、初めてマニキュアを塗ったらしい。
暫くそうやって眺めていると、エリが声を掛けた。
「僕とお揃いですね」
「お揃い?」
エリは自分の両手を顔の前に持ってきて、ルオに見せる。彼の爪にも、翡翠色のマニキュアが塗られていた。
彼の言葉に、ルオは思わず自分のそれと見比べる。
そして、
「……くすっ」
笑った。
色こそ違うが、それでも何故か、彼にはエリと何かが繋がっているように感ぜられたのだ。
それは、今まで人との関わりが淡泊であった彼にとって、とても喜ばしいものであり、羨望していたはずのものでもあった。
「さて、と。そろそろ寝る準備をしましょうか」
「あ、そだね」
そんな彼の心情を知ってか知らずでか、エリが発話する。ルオはハッと我に返ると、何事もなかったように合意した。
簡単に就寝の準備を済ませて、二人は固いベッドに潜り込む。
「電気消しますね」
「ん、いーよ」
「……あ、そう言えば」
「?」
部屋の電気を操作するリモコンを片手に、エリの動きが止まった。何事かとルオが布団から顔を覗かせて、小首を傾げる。
するとエリは彼を見て、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ルオさんってば、ネコが苦手だったんですね。あれだけ拒絶するだなんて……ルオさんにも不得意なものがあって、少し安心しました」
「は?」
「では、おやすみなさい」
「ちょっ!?」
ブツッ。
エリのその言葉を境に、部屋の灯りが消える。
闇に包まれた部屋に響いたのは、
「勝手に話を終わらすなあああ!!」
反論する猶予さえ与えられず、話を打ち切られた少年の忸怩たる叫び声だった。