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ガラクタのうた  作者: 花葉
PLANT編
18/19

 <Act.15>深淵の徒花



 ――もう眠らせてよ、疲れたんだ。ルオが暗闇のなかで寝そべっていると、誰かが執拗に体を揺らしては耳元で叫ぶ。


「57θ、57θ! ああもう、くそ……起きるんだ、ルオ!!」

「!」


 煩いなと眉を顰めて、彼は目を開けた。まず目に飛び込んできたのはスタッフの顔。目覚め最悪、と悪態を吐く前に……ルオは言葉を失う。

 ここは、どこだ。

 見慣れない天井には点々と眩いシャンデリア、壁には装飾の施された電灯、床は――真っ赤。

 カーペットが赤色だからという理由ではない。血だ。一面、血だらけだった。十人以上にも及ぶだろう亡骸の数々に現実味が沸かない。というよりも、本当にこれは死体なのか。血液と混ざり合う脂の臭い、死臭が鼻腔を這う。思わず口元を覆いたくなった。

 瞬間、記憶が段々と鮮明に覚醒していくではないか。

 血に染まった白衣を身にまとう者たちを、スタッフが数人がかりで抱え上げてはビニールシートに包んでいる。少し騒がしかった。幾つも並べられていくブルーシートの色のように、ルオは徐々に顔を青くしていく。

 ――PLANTから逃げ出そうとした。エリとオズの処分を免れるために、例え自分が捕まっても構わないという覚悟で挑んだ。途中、ひよりに止められ彼の動きも封じた。

 エリとオズとは逸れた。再会したと思えば、エリは狂気に駆られていた。彼に首を絞められて、それからの記憶がまったくない。

 自分の体を見やったが、腹部の古傷以外に特に酷い外傷はなかった。

 ならばあの後、エリはどうしたのか。


「今回はお手柄だったな、57θ」

「は……?」


 自分の眠りを覚ましたスタッフをキョトンと見つめる。この男は一体何を言っているのか。何がお手柄だ。むしろ今回、クーデターの主犯は自分だ。

 そんなこと当事者ならば分かるはず。監視カメラの映像を確認すればすぐに分かるはず。一目瞭然。

 しかし男は分かっていない。彼だけではなく、他のスタッフも同様に。


「まだ混乱しているのか、無理もないか。貴様だろ、ココロプログラムにより暴走したアレを破壊したのは」

「アレ……?」


 男が視線をどこかに向ける。その目線の先を辿って顔を向け、ルオは驚愕した。驚きすぎて、言葉を失った。目を見張る。


「エッ、げほ! ゲホッ、ごほ……!!」


 息を吸い込んで叫び声を上げようとするが、思い切り気持ちの悪い空気で咽た。

 男数人に抱え上げられていたのは、血だらけのエリだ。何よりも目を奪われたのは、彼の胸元に深々と突き刺さったままのPLANTの刀剣である。

 動揺を隠しきれていない彼のことは気にもせず、男は続ける。


「だが、中々それも大変だったようだな。おかげでF班スタッフはおおよそ百人近くにも及ぶ死者を出した」

「ひゃ、ひゃく?」

「百人近く、だ」


 彼は立ちあがって、動きを止めたエリに近付いた。ルオは未だに動くことは出来ず、ただ彼の背中をキョトンと目で追うだけ。

 男はエリの真ん前に立つと、突き刺さったPLANTの刀剣の柄に手を掛ける。ズボ、と容赦なく彼の体から引き抜いた。ビクリと一瞬エリの体が痙攣したように、ルオには見えた。

 刀剣は男の手に渡ると、すぐ元の首輪に戻り、ヘニャリと脱力。それを持って、彼はルオの元に戻ってきた。差し出してもルオが中々受け取ろうとしなかったので、仕方なく体の上に落とす。

 そうして男は、真面目に冗談を言った。


「暴走したG-49を、その身を以ってして破壊した。この実績は称えよう」


 しかしまったく笑えない冗談だ。表情を引き攣らせルオは口を開いた、が。


「何、言って」


 ――気が付いた。何故中々気付くことが出来なかったのか。可能性を分かっていながら、無意識的にその選択肢を排除していたためか。

 エリは、自ら壊れたのだ。ルオを守るために。

 あたかもルオによって壊されたように。PLANTの刀剣を使用して、自分で。


「あ……」


 エリの亡骸が男たちに連れて行かれる。遠くなっていく。姿が見えなくなってしまう。開かれたままの彼の目が、ルオにはどうしても自分を見ていたような気がした。

 そして、確かに、微笑ったんだ。この結末に納得いったと、満足そうな笑みを。「これで貴方は救われますね」と慈悲でも残していくように。


「あ、」


 開いた口からは意味を持たない母音。


「ああ」


 母音、母音。


「ああっ、あ、ぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「!?」


 発狂。ルオは己の両耳を必死に塞いで、声を張り上げた。

 もう何も聞きたくない、考えたくない。考えたくない、気付きたくない知りたくない。

 知ってしまえばもう、もう、もう。


「おい、どうした57θ! 57θ!?」

「あああああああああああああ、ああああああああああっ! ああああああ……ああああああああああああああああ!!」


 壊れた、壊れた。壊れてしまった。全部自分の所為で。自分の所為で。


(俺の所為で、おれのせいで。おれが、おれが、おれが)


 走馬灯のように彼らが頭の中で名前を呼ぶ。


『な、なぁ。ルオ、僕、おまえの友達になっても……いい?』

『やあやあルオ君! 若いころから溜息ばかり吐いていると、すぐ老けるぞ?』

『ルオさん、どうして空って青いんでしょう』


 もうやめてくれ。名前を、そんな、親しげに呼ばないでくれ。自分には、そんな資格はないんだ。もうやめて。お願い、もう、もう、もう。もう。


『僕は、こう思うんです』


 記憶の中の彼は、青空の下を歩いている。見慣れた屋上で、見慣れた景色の中、聞き慣れた足音を響かせながら、見慣れた笑顔を浮かべて。


『空が青く澄んで見えるのは、何も知らないからだと』


 彼の横顔はどこか寂し気で、それに気が付いていながら何も訊くことも出来なかった。でも、今ならエリが何を言いたかったのかが分かる。


『何も知らないから。だから、空は青く見えるんです』


 何も知らなかった。あの笑顔の裏に、彼はずっと直隠していた。記憶を失ってしまう恐怖と背中合わせの中で、彼はずっと微笑っていた。誰にも心配を掛けぬように。

 オズもそうだった。処分を知らされても尚、誰にも告げることも弱音を吐くこともなかった。あの、弱虫なオズが、だ。最後には己の弱さと向き合い、受け入れ、乗り越えた。

 何もしらなかった。何も知らなかった。知らないまま、本当に救うこともできないまま。


(大事な空を、失ってしまったんだ)


 ブツン。

 ――それ以降の記憶はもう、彼にはなかった。あそこで気を失ったのか、それとも自我を失って暴れていたのか。黙ってその場を自力で去ったのか。

 目を覚ましたのは、相変わらずコンクリートに囲まれた自分の部屋。普段通りの光景に、何故かほっとする自分もいた。

 いつも通り、いつも通り。いつも通りなのだから、あの事件はなかったことにしたい。普段通り、エリはどこかに散歩へ行っているのか。オズは小屋でまた引き籠っているのか。ひよりは相変わらずフラフラしているのか。

 ベッドに腰を掛けて、濁った碧眼は適当な場所を見つめる。そのようにして、彼は植物以下の生活を送り始めていた。

 ――コンコン。

 扉がノックされる音に、辛うじて瞳孔だけがゆるりと動く。唇は閉じ切ったまま、ジッと扉を凝視した。返事もしていないというのに、扉は勝手に来訪者を招き入れる。


「お邪魔するぞお、少年」

「……」


 松葉杖をガン、ガンと容赦なく地面に突き立てながら笑顔で入って来たのは、ひよりだった。ルオの視線は冷たいままだ。もれなくオプションで彼の頭にキノコでも群生しているようにも見えてくる。それほどまで彼の姿に生気は失われていたのだ。


「って、うおあ! なんだあ、このデジャヴュ。手前さんボロッボロじゃあねえか。おじさんがブラッシングしてやろうか。お着替えもしてほしいかあ?」

「…………何しに来た」


 そうしてやっと、ルオが声を出す。彼の声とは思えないほど低く、微かに擦れていた。ひよりは「おお、怖い怖い」とまったく怖がっていない調子でおちゃらける。

 あの日の出来事が嘘だったわけではない。互いにしっかりと覚えているというのに、彼はこうしてルオの元を訪れたのだ。ルオがこのような態度で出迎えるのも無理はない。


「何って、手前さんの姿を最近めっきり見なくなったからなあ、死んだのかと思ってミイラでも取りに来たつもりだったんだがー……まだ息の根はあったな」


 ゴソゴソとひよりが内ポケットを漁り、ほらよとルオに何かを差し出した。ラップに包まれたパンだった。

 彼の淀んだ碧眼はそれを睨みつけ、伸ばされた左手が容赦なく叩き落とす。ベシャ、と呆気なく地面に落ちた。


「オイオイオイ、食べ物は大事に扱えよお? まったくこれだから最近の若者は……食べ物の有難さというものをだな」


 彼はなんとか腰を曲げてパンを拾い上げる。そうして近くにあった丸椅子にどっかりと腰を落ち着けた。片手でパンを叩いている。


「いらない」

「手前さん、ここ一週間ほど何も食ってないだろう。死ぬぞ」

「構わない」


 ツン、とルオは愛想なくそっぽを向いた。ひよりの赤い眼が彼の横顔を睨みつけたが、まったくと言っていいほどに気にしていない。


「俺だけがこの世界でのうのうと生き延びるなんて、酷でしょう?」

「…………」


 動かない表情筋を無理に引き攣らせて嘲笑った。彼の台詞を黙って聞き入れると、ひよりは ガタンと音を鳴らして片足を庇いながら立ちあがる。そうして鞘に収めていた大剣を引き抜いた。

 あの日の赤色が嘘のような、白い刀身が露わになった。

 彼は躊躇いなく、ルオの首に矛先を宛がう。興味もなさそうな目で、ルオはそれを一瞥した。


「なら、今、死ぬか」

「……」


 彼はゆっくりとひよりを見て、顎を上げる。カツン、と矛先がルオの咽喉に触れた。彼自身が剣に首を差し出したのだ。従順に、人形として、犬のように。


「いいよ。ほら」


 ひよりは思わず目を見開く。ルオはまったく動じない。大人しく白く細い首を、従順に差し出したまま動かなかった。


「ッ……クソ!」


 イラついたように言葉を吐き捨てると剣を引き、勢いよく後方へと放った。ガシャン! と、機械が壊れる音がする。

 大剣は真っ直ぐと天井付近にぶら下がっていた監視カメラを貫いて、その機能を停止させていた。ルオの目はまるで他人事のように瞬かれている。


「殺さないの」

「できるわけないだろう、この馬鹿野郎」


 フンとふんぞり返って、彼はまた丸椅子に座った。ただの虚勢かと胸中でルオは呟くが、その表情はどうでもよさ気である。


「…………意気地なし」

「なんとでも言え」


 一方、監視カメラはバチバチと火花を散らせて存在をアピールしていた。だが、彼らはまったく目を向けてなどくれず……渋々黙る。


「監視カメラの映像記録は、何者かによって破壊されていた。管理室が滅茶苦茶だった」


 語りだしたのは、あの日の出来事。元々彼はこの話をするためにルオの部屋へ訪れたのだろうか。けれども、肝心のルオは何の返答もしない。

 感情が表情に出てこないために、聞いているのかも怪しい。それでもひよりは続けた。


「あの晩の生き残りはおじさん以外誰もおらず、手前さんの犯行を供述する輩もいなかった」


 やはり返事はなし。流石のひよりも不安になったようで「返事くらいしたらどうだ」と黙り込んだままのルオに言った。すると彼は煩わしそうに微かに眉間にしわを寄せると「ふぅん」とだけ返す。

 やっと口を開いたと思えばそれだけだ。


「訊きたいことが手前さんにはあるはずだろう。言わないのか」

「……」


 彼は本当に心底鬱陶しそうだ。益々眉間のしわが濃くなる。彼の要望に応えていれば、出て行くだろうかなどという期待を寄せて、ルオは開口した。


「あんたが供述すればいんじゃないの。あんた偉い人なんでしょ、その傷見せれば一発じゃん」

「良い質問だ、よくぞ訊いてくれたな少年!」


 ルオは一瞬で(訊くんじゃなかった)と後悔した。だが、後悔は先に立たない。まるで水を得た魚のように、彼から頂戴した質疑をここぞとばかりに応答した。


「言わなかった」

「……」


 一言だけ、きっぱりと簡潔に。その一言に、どれだけ意気込んでいたのか。

 それとも、とルオが別の可能性を浮かべる。それはもしかすると勝手に自分が思い込みたいだけの、一番楽な感情に従っただけの可能性だったのかもしれない。

 彼の瞳が、ひよりを睨みつける。やっとのことで彼が現した感情は、憎悪。


「それを俺に伝えることで、俺に許されようって魂胆なわけ。言っておくけど、俺はあんたのことは許さない」


 ギロリ。感情を宿した人情の言葉に、ひよりは呆気。図星で言葉が出ないのか、それとも何か言い返すのかと思いきや、彼は安心したように笑むと言った。


「それでいいんだ」

「は……?」


 今度はルオが唖然とする。一体目の前の男は何を聴いていたのか、意味が分かっていないのか。それとも嗜虐されることを喜ぶ性質だったのか。

 訝しげに彼を睨むと、ひよりはルオの胸元に握り拳をトンとぶつけてきた。


「憎しみを糧に、手前さんは生きろ」

「!」


 キレイゴトを吐くなんて以ての外。幾多ものファンタジー小説で、正義感を燃やすヒーローが「憎しみは何も生まない」と何度も豪語してきたことを知らないわけじゃなかろうに。

 目の前の男は、真逆のことをさも当然のように言ってのけたではないか。


「だから、死ぬなんて言うな。あいつらの分まで、手前さんは生きるんだ」


 ズルリとルオの胸元を拳は落ちて、彼の手を上から握る。怯えるようにルオの体が震えた。


「今はおじさんのことを恨むことを糧に、生きてくれればいい。その最中で、いつか、手前さんがまた誰かを守りたいと願えるようになる日まで。誰かの為に生きると決めるまでは……おじさんのことを、好きなだけ憎めばいいんだ」

「そ、な……」


 有り得ない。もう二度と誰も信用しないし、距離を縮めることもない。

 もう、ココロが恐ろしい。自分の中にあるココロというプログラムが恐ろしくて仕方がない。内なる恐怖に怯えながら過ごすなんてまっぴらごめんだ。

 ずっと何も感じずに生きてきたのに、そうすることで傷つくことから逃れていたというのに。また誰かを守りたいと願える日?


「ふざけんな」


 そんな日くるわけない。

 自分のために、ひよりを憎むことなんてできない。それでは前になんて進めない。その場凌ぎの生きる理由に、彼を生贄にすることなどできるはずがない。

 そんなの、ずるい。


「だからルオ君、頼む」


 ぎゅう、とひよりの手がルオの右手を握りしめる。そして、


「死なないでくれ」


 あの日とは対照的な言葉を、ボロボロの人形に請うたのだった。

 ――彼を恨むことがお門違いだということは、ルオも重々気付いている。しかしその程度の理性では、簡単にココロを操れるわけもない。


「…………俺の眼前から退けろ。二度と、俺の前に姿を現すな」


 彼は顔を逸らし俯くと、ひよりに言い放った。彼は何も言い返さず、その言葉を黙って聞き入れている。


「俺があんたを、殺してしまう前に」

「……ああ、分かった」


 ひよりは彼の手を離し、ゆっくりと立ち上がる。どこか寂しげな瞳が向けられていたことに、ルオは気が付いていた。

 しかし今更「ごめんなさい」の一言も言えやしない。全て自分が悪いのだと知っていても尚、彼はPLANTのルールに従っていただけだと分かっていても、どうしても。

 いっそのこと「手前さんが悪いんだ」と罵ってくれれば彼を恨むことも出来たかもしれない。だが、それもない。ましてや彼は「死なないでくれ」とまで言ってきた。

 だから、終わらせなければならない。無意味な恨みを向けることのないように、恨みを向ける自分のことを嫌いにならないように。

 暴走したココロプログラムによって、本当に、彼を殺してしまわないように。

 ひよりはすぐに立ち去ることはなく、ポケットを何やら漁っている。そして取り出したのは茶封筒だった。

 このタイミングで仕事の文書でも持って着たのかと、ルオの視線が鋭さを増す。


「最後に、手前さんへPLANTから通達だ」

「仕事? それ拒否したら、俺壊されんのかな」

「違う」


 ルオの言葉の一部ではなく、台詞全体を否定するようなひよりの口ぶり。嘲てみたつもりだったらしいルオは、ゆっくりと封筒に目を遣った。数秒睨みつけた後に左手を伸ばし、受け取る。そうして、ビリリと大雑把に封を切った。

 中に入っていたのは予想通り白い紙が一枚。しかし、内容には目を疑った。


「え」

「RUO_NO.K-57θ」

「!」


 唖然とするルオに、ひよりが強い口調で言う。そこに立っているのは慣れ親しんだひよりではなく、PLANTのスタッフとしてのひよりだった。

 両足をしっかりと地面に突いて、威圧感をルオに見せつける。


「手前さんに、アンドロイドクラッシャーとしてPLANT施設外――即ち、外界にて活動を行うことを、ここに命ずる」

「――!!」


 外界。つまり、PLANTの外。いつも屋上から眺めていたあの世界へ、出て行けということだ。あの日近いようで遠かった出入口の門を潜り、海を渡って外の世界へと。


「外の不良品処分に手が回らない状況が続いている。主人によって棄てられた者や、異常を発芽し脱走した者など様々。そのどれもが行方を晦まし、PLANTは困っていた」


 ひよりがルオを真剣な眼差しで射抜く。ルオは予想外の出来事に成す術はなかった。ただ、彼の話を呆然と聞くだけである。


「そこで手前さんの案が出たということだ」

「そんなことして、俺が逃げたらどうすんの」


 こんな時に呆然としたままでは駄目だと、彼はすかさずひよりに食って掛かった。だが、そのような質問も想定の範囲内だったらしく、彼はまったく悩む素振りもなく淡々と答える。


「PLANTは手前さんを逃がさない。どこまでも追いかけ、責任もって処分する」


 それは当然の答えであった。ルオは閉口する。


「それに、万が一を考えて手前さんに監視役のアンドロイドを付けることにもなった」

「信用されてないね」

「真っ先にそんな質問投げてくるくらいだろう、なくて当然だ。そもそもあると思ったか?」

「思ってない」


 淡々としたやり取りだった。ルオの潔さはむしろ清々しい。

 逸れかけた本題をひよりが素早く戻した。


「しかしこれは強制ではない、手前さんが決めることだ。因みに外で行動する以上は、ルオ君にもアンドロイドの掟には従ってもらう」


 外の世界もPLANT内部でも、アンドロイドの掟には縛られっぱなしである。しかし、一つだけ例外は存在した。

 ルオには主人が存在しない。ココロプログラムの所有以外には、ただそれだけである。それに気付くことが出来れば、彼の言いたいことなど手に取るように簡単だ。


「外界で主人となる人間を探し、そこを拠点に活動しろってこと」

「ご名答」


 パンパンパン、と重厚のある拍手を数回。


「そうして全てのアンドロイドを確保、および処分や連行を成功させた暁には――手前さんには、PLANTの手綱は切ろう」

「え?」

「つまり自由。アンドロイドクラッシャーという職から、解放するということだ」


 光を宿していなかった碧眼に、生気が微かに浮かぶ。

 ――自由。その言葉が一体どのような意味を持っているのか理解することに時間を要してしまうほど、今まで縁のなかった言葉。

 PLANTから解放される。意味が分からない。つまりそれは死ぬということか。分からない。

 混乱した頭の中をひよりは勘付いたのか、補足した。


「PLANTから解放されるとは言うが、アンドロイドであることは変わりない。マスターと、仲良く普遍的なアンドロイドとして過ごすことだな」

「……」


 ルオは目を見開いたまま固まっている。徐々に我を取り戻していくと、「はっ」と不敵に笑んだ。彼らしい笑みだった。


「人間なんて、俺、そのうち捨てるよ? あんただって分かってるんじゃないの?」

「これはおじさん個人の見解ではあるが、手前さんの性格からしてその可能性は大いにあると踏んではいる。今のルオ君ならな」


 今の。妙にその言葉を強調されたが、あえて気にしない。


「逃げたときは、またPLANTのお尋ね者ってだけだ。違う関係性で、PLANTとの復縁ってわけだな」


 説明は以上だと、ひよりは松葉杖を抱える。黙り込んでいるのは話すことがないのではなく、ルオの返答を待っているのだ。ルオは黙り込んで視線を逸らす。

 そうしてやっと口から出たのは、素っ気ない一言だった。


「もう、一人にして」

「……ああ、悪かったな。お邪魔した」


 ガン、ガン、ガンと冷たい床と松葉杖がぶつかる音が遠ざかって行く。彼はその音を聞きながら思った。もしかすると、ひよりとは二度と会うことがないかもしれない。

 彼の口から直接聞いたわけでもないというのに、不思議と口に出せば当てられる気もした。

 今日、F班から元の班に戻るのだろうと。彼は元々F班の人間ではないのだから。


「……ひより」


 顔を上げる。しかし彼の瞳の中には、人影はなかった。いつの間にか開いていた扉が、いつの間にか閉じている。もう松葉杖の音も聞こえない。


(畜生……)


 人付き合いが不慣れだからだとか、今更言い訳になんて使えない。

 ギュ、と目を閉じる。頭の中を埋め尽くすのはPLANTからの命ではなく、ひよりのことが占めていた。

 ――謝ることが出来なかった。


(それに、謝ってもらってもない)


 目を開け、ちらりと棚の上へ視線を向ける。ラップに包まれたパンがちょこんと大人しく居残りをしていた。ひよりには連れて行ってもらえなかったらしい。

 身を少しだけ乗り出してパンを取ろうとした、その時であった。


「こーんにーちはー!」

「!!」


 ルオは手を勢いよく引っ込め、声のした方を向いた。何故か勝手に開いた扉と、声の主であるのは桃色の髪をした少年。ノイズしかいない。

 ひよりのようにスタッフでない彼が、どうして部屋の扉を開けることが出来たのか。ニヤついている彼に対して真っ先にその疑問を投げかけようとして、気が付く。

 彼は右手に、何かのカードを妙にちらつかせて持っていた。マスターキーというものだろう。おかげでルオの問いはカットされた。


「ルオせんぱぁい、久しぶりですねぇー! オレと会えなくてぇ、寂しくなってきた頃合いかなぁーとか思っちゃったりなんかしちゃったりしてましたよぉー」


 相変わらず、依然となんら変わりない耳障りな喋り方にルオは顔をしかめる。ノイズが口に含んでいる棒付きキャンディーの甘い香り体に纏わりついた。――さらにルオの表情は険しくなる。


「心配ご無用、まったくそんなことはないから安心して帰れ」

「やっぱルオ先輩は辛辣ですねぇー、キャハハ!」


 そして、トゲのあるルオの言の葉にもまったく挫けることのない屈強な精神も健在だ。甲高い笑い声が狭い部屋に響き、一層ルオの表情は険しくなる。


「なにか用事でもあったんじゃないの」

「えぇー。早速本題に入っちゃいますかぁ?」


 ノイズは唇を尖らせた。ルオの顔に呆れの色が浮かぶ。

 何を思ったのか、ノイズは「あ、アメいりますぅ?」と、あろうことか自分が咥えていた棒付きキャンディーをルオに差出して断られた。当然の反応である。

 ――――彼の手にはマスターキー。そのような代物をPLANT僕であるノイズが簡単に持ち出せる物であるはずがない。

 前に彼自身も、ルオに対して「正直アンタと同じ立場」とも語っていた。つまり、そのマスターキーを使用してまでこの部屋に入ることが目的だったのか。それとも別の部屋に目的があり、その帰りに気まぐれな彼はルオの元へ足を運んだのか。

 これから、ルオを連れて行きたい場所でもあったのか。以上のどれかだろう。


「本題に入るに当たりましてぇ、ルオ先輩にはいくつか質問に答えてもらいたいんですよねぇー」


 早く済ませろとでも急かすように、ルオはノイズを睨んでいる。その視線を受け流しながら、彼はマイペースに、且つ、正確に斬り込んだ。


「あの事件、主犯がアンタってのは間違いないですよねぇ?」

「!」


 刹那、ルオは目を見張った。ノイズはニヤニヤと笑みを浮かべている。楽しそうに、楽しそうに。愉快そうに。アメを口に咥えたまま、ニヤニヤと。

 彼はルオの反応から意味を察したようで、彼の言葉も聞かぬまま勝手に喋りだした。


「やっぱりぃー。だというのにぃ、どぉーしてアンタは罪に問われていないんでしょぉーねぇー。それどころか英雄扱い。ふっしぎですよねぇー?」

「…………」


 布団を握りしめるルオの手が微かに震える。普段からノイズが何を考えているのか皆目見当がつかなかったが、それはまさに現状況にも言えることだ。

 これから彼は何を言い出すのか。ルオに脅しでも持ちかけてこようというのか、ただ弱みを握っているということだけを告げたいというのか。分からない。

 今は、ノイズの言葉の続きを待つしかできなかった。


「オレなんかよりぃ、きっとルオ先輩はさぞ不思議に思っていることだと思いましたんでぇ! 答えを教えてあげましょぉーう!」


 軽快なステップで、彼は出入り口からルオの座るベッドまで近づいた。口からアメを吐き出し、ズイ、と勢いにのったまま彼に顔を近づけると、一言。


「オレが管理室のデーター全部イカレさせました」

「な」


 ルオがノイズの顔を凝視する。視線を向けた先の彼は、やはりニヤニヤとしていた。

 ――恩を売ったと、言いたいのか。

 途端にルオの視線は鋭いものになる。だが、彼の予想とは裏腹にノイズの様子はなおも変わらず。恩を売りつけるつもりもないように感ぜられた。


「そぉーんな警戒しないでくださいよぉ。別に取って食おうってわけじゃないんですからぁー」


 クスクスクス。ノイズは楽しそうに笑っている。神経を逆なでしたいのかと疑いそうになるが、彼の言動はいつも素である。つまり素で逆なでる。いつものこと。


「まぁ、オレの方でもいろいろあったってことっすよぉ。あんたのためにわざわざ壊したってわけでもありませぇん。成り行きでぇーす」

「……話はそれだけ?」


 これ以上問いただしても、彼は何も吐かないであろう。まず、ノイズの口から吐きでるものは対外知らぬが仏ばかり。ルオは今までの出来事により教訓を得ていた。

 彼の反応は少し寂しかったらしいノイズは、また唇を尖らせる。


「ルオ先輩ってばツレなぁーい。本題はもうすぐですよぉ」

「じゃあ早くそれを」


 急かそうとルオが呆れるように口を開いた。瞬間、ノイズは口火を切る。


「あの事件により犠牲になった、とあるふたつのアンドロイドのことを知ってますよね」

「!」


 ドクン。

 ……先程の非などではない。今、彼が一番触れたくない話題をノイズはここぞとばかりに握りしめた。ギュウ、と絞めつけるように。

 ルオは目を見開いたまま声を失くし、ただただ呆然と視線を落としている。どこかを見つめているわけでもなく、頭の中を真っ白に染めていた。

 考えたくない。思い出したくないと、頭が拒否反応を起こしている。


「エリというアンドロイドは、ルオ先輩が使用したと思われるPLANTの刀剣による傷が致命傷となってスクラップ。FDFに搬送されたようですねぇ」


 FDFとはPLANTのゴミ箱のことだ。あの日見かけたバラバラのアセビも、そこへ棄てられる予定だった。

 胸がじくじくと痛みを帯びて、ルオは「やめろ」と小さく鳴く。しかしノイズは容赦をしない。容赦なく握りしめたルオの感情を、


「そしてオズ――あのミイラですけど」

「もう、やめ」

「まだ完全にはぶっ壊れてないんですってぇ」

「……え?」


 ――握りしめた感情を、優しくなでた。恐る恐るルオが顔をあげてノイズを見る。

 壊れていない。まだ、オズは壊れていない。ノイズは今、そう言ったのかと。聞き間違いではないのかと。


「人間でいう、意識不明の重体ってやつぅ? それとも植物状態? 脳死? まぁいずれも、生きてはいるけどもう二度と目は覚まさないと仮定していいと思います」

「……」


 言葉を失う。失ったままだ。穴をあけるほどにノイズを見つめてみるが、それ以上の事実は語られない。


「外部と内部の損傷が酷いらしく、結晶(コア)にも罅が入っているそうですよ。元々アイツの処分も確定してたらしいですしぃ、直にFDF行きみたいですわ。皮肉なものですよねぇー……これも運命ってやつぅ?」

「運命……」


 お手上げのポーズで嘲笑。彼は、エリはともかくとして、オズとは接触をしたというのにこの態度だ。彼に対して嫌悪を抱くよりも、ルオの中では「運命」の言葉がやけに響いて残る。


「ってことでぇ、前置きしゅーりょうっ!」


 ぐるん。ルオから体をそらしていたノイズが、勢いよく彼へ向き直った。突然声を上げたノイズに体をびくつかせて、ルオは「なに?」と戸惑いがちに問う。

 そしてノイズは、待ってましたとばかりにニイと笑った。悪戯でも企てる悪がきのような顔つきだった。


「オレとデートしましょうよぉ。ミイラ取りならぬ、ミイラ見物でもしに!」

「は?」


 ノイズの言葉を直に脳みそに送ったことで、クエスチョンマークがいくつも現れる。遅れて、彼の言語翻訳機と称した頭脳を回転させてから、やっと言葉の意味を知る。

 目の前の悪がきは、オズを見に行こうと持ちかけてきているのだ。もう二度と、目をさまさないというオズの姿を。


「なんで」

「……」


 ルオが何気なく問いかける。するとノイズは口を閉ざした。今まで饒舌だった彼が、「あぁ~」と言葉を探し始める。歯切れが悪い。

 どんなに凄惨な現実も、悲報も暴言も躊躇なく吐露する彼の口が止まるというのは、ルオにとって理解しがたい。きょとんと首をかしげて彼を見つめていると、ノイズは碧から視線を逸らした。非常に言いにくそうである。


「えぇっとですねぇ。オレにはぁ、絶対わからないことですけどぉー。……死んだのも同然なアイツでも、アンタは……ルオ先輩は、きっと会いたがるだろうなぁーって、そう思っただけです。……ホラァ、アンタってむず痒いこと大好きですし。それだけっすよ」

「……………………………………」

「……何か言ったらどうっすか」


 もしかすると、本日一番長い沈黙かもしれない。ルオは唖然としている。何度もぱちくりと瞬きを繰り返して、ノイズの姿を本物かどうかの判別も行った。

 少し目を離した隙に、偽物と入れ替わったのではだろうかなどというバカげた憶測さえ真面目に考えてしまうほど。


「ノイズ……これから言う俺の質問に答えろ。俺の目を真っ直ぐ見て、嘘偽りなく答えろ。いいな」

「は、はぃい?」


 呆然としていたと思えば、ルオは突然神妙な面持ちになってノイズを見据えた。声を潜めて問い掛けてくるもので、思わずノイズは息を飲む。

 一体どのような質問をぶつけてくるのかと身構えた、ところで。


「あんた……本物のノイズだよな。泉に落っこちたことで生まれ変わったキレイなノイズとかじゃなく、」

「ぶっ殺しますよ」


 チャキ。ノイズが腰からソードブレイカーではなくダガーを取り出した。いつもの笑顔ではなく、真顔である。

 突然目の前に曝された刃物に怯えたルオは、すぐに目を逸らしながら「冗談だってば」と白々しい態度で流した。まったくもう、とノイズは呆れ顔で得物をしまう。


「そうと決まればさっさと行きますよぉー。税は急げぇー!」

「善は急げ、でしょ。分かりづらい間違いすんなよ」


 その時、初めてルオがやっと笑った。微苦笑を浮かべる彼に対して、ノイズはしてやったりとニヤリ。


「だってぇ、ほら。税はさっさと収めておいたほうがいいじゃないですかぁー」

「妙に納得できるような意味を付けるな、ばか」


 クスクス。ルオが笑っている。

 それを見たノイズは彼に聞こえないよう、胸中で呟いた。「オレの楽しみを、そう簡単に手放すなんてイヤですからねぇ」と。――ルオのココロで遊ぶことが好きな彼にとっては、そう易々と彼を〝見殺し〟に出来なかったのだろう。


(もう一度、この人には心を宿してもらわないと)


 もしかすると、それ以外にも理由はあったのかもしれないが、今はまだ彼が口にすることはない。ルオが思い出したように「そう言えば」と口を開いたことで、ノイズはすぐ普段通りの顔つきに戻った。


「あんた、一体どうやってオズの場所に行くつもりなわけ? 俺たちなんかじゃ、簡単に入ることは出来ないんじゃ」

「はっはぁーん。ルオ先輩ってばぁ、もうお忘れですかぁ?」

「? ……あ!」


 ニヤー。ノイズはここぞとばかりに口元を緩め、そうして右手で何かを持ち上げた。ヒラヒラとひけらかすソレは、マスターキー。

 そこでルオは、やっと分かった。

 彼がわざわざマスターキーを盗んだのも、この部屋へ足を延ばしたのも、全て。このためだったのだと。……確かに本題だと言って渋っただけはある。


「じゃ、これでもオレは急いでるんですぅ! 見つかると面倒ですし、早速行きますよ!」

「わっ」


 言うや否や、ノイズはガシリとルオの腕を掴んだ。ベッドから引き摺り出して、覚束無い足取りで歩く彼を素早く正す。


「って、ぅお、歩けます? ふらっふらじゃないですか」

「う、うん。ごめん……もう大丈夫」


 二人で向かい合う形になり、ノイズに両手を持ってもらうことで、ルオは真っ直ぐと立った。傍から見ると、これからダンスでも踊るペアーのようにも見えた。


「…………これでオレ、アンタに借りは返しましたから」

「ノイズ……」


 フン、とノイズは「文句ないだろ」とルオを睨んだ。思わずポカンとしてしまったルオは、「コイツはそんな言い訳をしないと、人に優しくできないのか」と咥内で毒吐く。

 そのまま吐き出して彼の唯一に近い良い部分を殺すわけにもいかないので、ルオは別のことを口に出した。


「じゃあ今度は、この借りを俺が返す番だね」

「ゲッ。なんでそうなるんですぅ!? またオレが返すハメになるじゃないですかぁ、ヤメテ! そんなこと何度も繰り返されたら、そろそろノイズくんがイイコみたいな印象もたれちゃうヤメテぇ!!」

「はっ。ざまぁ」


 彼の悲嘆にルオは鼻で笑った。まさかこの人、狙いやがったかとノイズは顔を青くする。……してやられた。

 ルオは笑うことをやめて、もう大丈夫だと言うようにノイズへ向かって頷く。するとそれが合図だとでも言うようにノイズも頷き返すと、足を踏み出した。部屋を出れば、後は彼の先導に従い歩みを進めるだけ。

 あまり立ち入ったことのない場所に足を踏み入れて、迫りくる現実に胸を騒がせる。わくわくするだとかいうものではなく、むしろ、恐ろしいものをこれから見るような心境だった。


「ここですよ」


 ノイズは一つの部屋の前で足を止め、マスターキーを扉に通す。ピッという小さな電子音が聞こえたかと思うと、ギィと蝶番の音が響き――台に放り出された何者かの足が見えた。


「オズ……!」


 ルオは駆け出す。そして素早く、白い台の上に寝そべるオズの傍に寄り添った。体には白い布が被せられ、ノイズの言う外部損傷が直接目に入ることはない。

 普段からぬくもりのない手を握りしめてみると、一層冷たく感じた。洋服はあの日のままなのか、薄汚れた白いシャツが黒くなっている。恐らく酸化した血液が固まったのだろう。


「オズ……」


 やっと余裕が出てきたらしく、ルオは辺りに目を向けた。よくわからない機械がオズの傍らに寄り添い、そこから伸びる何本ものコードは彼の体に突き刺さっていた。

 もしかすると、エリもいるかもしれない……という期待もあったが、オズのようにコアが生きているわけでないのなら――期待するだけ、無意味なのだろう。

 彼には二度と会えない。別れさえも、謝罪さえも、お礼さえも伝えられぬままに。

 肩を落としたルオを見かねてか、ノイズが一歩前に出る。


「この場合、運命のお姫さまが目覚めのキスとかしたら目が覚めちゃったりするんじゃないんですぅー? 案外ガチで目覚めたりして!」

「……目覚めのキス?」


 最初こそ訝しげな視線を向けたルオだったが、はっと気が付いた。確かにその手の物語を、昔、昔に読んだ記憶があると。

 しかしそのような娯楽の物語をノイズが知っているとは意外だった。もしかすると、本当にもしかするのかもしれないという期待さえ芽生える。

 だが、その可能性を否定したのは他の誰でもないノイズ本人だった。


「なぁーんて、そんなことしても無駄っすけどぉー。そんなんで目覚めるほど軽傷じゃないですしぃ、コイツ」

「…………あ、そう」


 まぁそうだよな。無意識に、ルオはシュンと肩を落とした。それに気が付いたノイズは、「えっ」と驚いて目を丸くする。


「まさか、アンタ。今迷いました?」

「う、うっさいな! だってそれくらいで目が覚めるなら儲けものだし。その」


 場都合が悪そうに彼は目を背けた。瞬間、ゲラゲラとノイズが笑い出した。場を盛り上げたかったのか、それとも素なのかは分からない。


「ウッワァ、マジですかぁ! ホントに信じたとかマジ、アンタ、マジで……ブハッ! ギャハハハハハ!!」

「…………」


 腹を抱えて笑い転げるノイズ。それをジトリと睨み付けるルオは、閃いた。ニヤリと笑むのと同時に、ノイズの背筋には悪寒が走る。

 嫌な予感。慌てて彼は「ま、まぁ」と先ほどの言動を撤回しようとした。


「うん、アレですよ。そんな希望を持ち続けることも大事だとオレは」

「ノイズって、俺に借りがあったよね」

「うぐっ」


 ノイズの信条。それは、借りた仮は必ず返すというもの。恩を被ったままでは動きづらいという理念の元で、彼は動いている。

 雨の日、滑り落ちたノイズを庇ったルオに対する借りは、ルオは知らないだろうがカルビを救ったことで返済完了。ノイズの計画した〝おもしろそう〟なPLANT脱走計画にルオたちを利用したという借りも、こちらも同じくルオは知らないだろうが……監視カメラなどの破壊・オズの見舞いというもので返した。

 ただ返していないものはひとつ、シェイディとの戦いの最中で庇われた恩。尚且つ、ルオが唯一記憶しているものでもある。


「まさか」

「……あはっ」


 ルオが、ノイズの優位に立った瞬間であった。

 ――――次の瞬間には、ノイズの叫び声が部屋中にこだまする。意識のないオズが「煩い!」と怒号とともに起き上がっても不思議でないくらいには騒がしかった。

 ノイズの体を後ろから押さえつけ、彼の顔をオズにググググと近付けるルオ。勿論ノイズは絶叫している。それが騒音の原因だ。


「ウワアアアアア! やめろやめておやめくださいぃぃい!!」

「ほら、恩人からの頼み! これでひとつ借りが返せるんだから安いもんだろが! おら!!」

「ギャアアアアアー!!」


 ――それから数分後のこと。

 隅の方で落胆するノイズと、目を覚まさないオズを神妙な面持ちで見下ろしつつ「うーん」と唸るルオがいた。


「やっぱダメか」

「落ち込みたいのはこっちなんすけど」


 ノイズに関してはまったくコメントをしないルオ。あまりに無関心のために、ノイズは彼の後姿を睨みつけながら突っかかった。が。


「異性じゃないと意味ねーのかな」

「ムシっすか」

「それとも好きな人とか」

「またムシっすか。そろそろオレ泣きますよ」


 ルオは我関せず。流石にこれ以上無視してしまうと後々面倒なことになると思ったのか、彼は苦笑いを浮かべながら「ごめんって」とノイズに目を遣った。

 その顔を見て、彼は気が付く。……ルオは本当に落ち込んでいる様子だったのだ。むしろ目覚めさせることが出来なかったことを申し訳ないと思ってしまうほどに。

 ノイズは思わず顔を逸らす。ルオはまた、オズに視線を落としていた。


「ねぇ、オズ」


 目を覚ましてなどという、野暮な言葉は飲みこむ。それは自分勝手な願いなのだと彼も重々分かっていた。


「オズ、巻き込んでごめんな。怖い思いさせたと思う、ごめん」


 あの時一緒に行けばよかったのかと後悔の念を口にしてみようとするが、あまりの無意味さに気怠くなってしまう。後悔ほど無様な自傷はない。

 本来ならば、もっと安らかに眠ることが出来たのかもしれないというのに。それを隔ててしまったのは他の誰でもない、自分なのだ。


「俺に協力してくれたこと、嬉しかった。ありがとう」


 無意識に彼の手を握り締める手に力がこもる。離れたくないと体が叫んでいた。けれども、告げなければならない。理性はあくまで冷静だ。

 ――彼はもう、助からないのだから。別れを、告げなければならない。後悔してしまわぬ前にも。この場をわざわざ設けてくれたノイズのためにも。


(俺は、)


 開いた唇が震える。無意識にも忘れようとしていた記憶が蘇る。――つらい、つらいとココロが喚く。


(今まで、決められたレールに沿って生きてきた。ちょっと自立しようだとか考えたせいで、こんなことになるだなんて)


 これは後悔だろうか、それとも反省だろうか。もしも反省だと言うなら、これによって導き出すための答えは何だろう。これからの、未来のためになるものは何だろう。


(やっぱり俺は今まで通り、ここでココロを殺して生活するべきなのかな。それともいっそ、)


 ――消えてしまおうかな。償うためにも、逃げるためにも。


「…………」


 言葉として紡ぐことが億劫になっていると、後ろで何者かの気配が動いた。

 何者か、などという表現も煩わしい。この場にはルオとオズ、そしてノイズしかいないのだから。当然その正体はノイズに決まっている。


「のい、――!」


 グッ。腕を後ろから掴まれたかと思うと、ぐるりと返される。確かに正体はノイズであり、彼と見える形で向かい合った。瞬間、今度はもう片方の手も握られてしまい……そのまま台の上に上半身を押し付けられてしまう。

 ダン、と低い音が背後で響く。


「な」


 ルオは訳が分からないという表情でノイズを見た。目を白黒とさせるが、ノイズの顔は――真剣である。


「何してんだよ、ばか! こんな時にじゃれてるヒマは」

「別に襲うとかじゃないです。ちょっと今は大人しくしてください。何もしませんから、本当に」

「っ、……?」


 様子がおかしい。いや、彼にしてはおかしいという意味だ。まるで常人のような口調と顔つきだ。

 このような状態で、それもノイズに組み伏せられた状態で。信じろというのも無理な話なのだが――何故かルオは大人しくなった。

 彼が暴れないことを確認して、ノイズはルオの片手を解放する。そして彼の右手はルオの衣服に掛けられて、何故か洋服を脱がせ始めていた。


(ほ、本当に大丈夫か)


 今更ながらに不安が募り、彼は顔を引き攣らせてノイズを見やる。相変わらず真面目な顔をしていた。

 洋服を開けて露出させられたのは肌色。右手を服の中に入れて、胸に触れた。冷たかったのか、ルオがピクリと体を跳ねさせる。

 変なことをすれば、途端に暴れてやろうとルオが思ったその時。ノイズはやっと口を開く。


「冷たいですよねぇ、オレの手」

「は……?」


 何が言いたいんだとばかりにルオは彼を見つめる。当然彼の手はそれ以上進むことはなく、本当にルオの薄い胸板に触れているだけだった。

 次にノイズは、残った手をルオの腕ごと動かして……己の胸元へと触れさせる。

 〝あたたかい〟や〝つめたい〟という感想はない。何も感じない。――鼓動も、何も。


「オレだけじゃありません。オレたち〝普通のアンドロイド〟は、冷たい。打って変わって、アンタはとても……あたたかい」

「…………」


 言葉を失ったまま、ルオは彼のことを見つめ続けることしか出来ない。するとノイズは右手を服から抜いて、背後のオズへと手を伸ばした。掴んだのは彼に覆いかぶさる白い布。


「勿論、コイツもです」

「――!」


 バサッ。彼は躊躇なく布を引き剥した。ルオは思わず目を見開く。

 布が隠していたのは、オズの損傷部分。洋服も、肌も、無くなっていた。一体どういった構造になっているのかも分からない機械が露わになっている。

 目に見えた、無機物という証拠。


「見ての通り、ぬくもりのぬの字もありゃしねぇ」


 ハ、と自らを嘲るようにノイズが笑った。ルオは尚も言葉を失っている。


「アンタはこれから先もこのぬくもりを、ココロを、背負っていかなければならない。オレたちには背負うことのできないものを、背負うには重すぎる〝不良品〟を」

「……」


 ノイズの言葉に思わずルオが目を背けた。不良品という言葉には、例えどんな意味であっても――背を向けたくなってしまう。

 しかしそれを、目の前の桃色の少年は「背負え」と言う。


「このぬくもりを守ったのは、コイツらですよ。エリとかいうやつは、ルオ先輩のぬくもりを守るために消えました。アンタがこれから先も生きていけるように、コレを背負って生きられるように」


 エリ。彼の言葉によって思い返したのは、最期の出来事なんかではない。今となっては懐かしささえも感じる、初めて会ったあの日だ。

 ――彼は言った。「貴方のココロは凍てついている」と。それと同時に、「勿体無い」とも。


『ルオさんの瞳はとても綺麗だというのに、それが色を失ってしまっている』


 あの時は純粋に、何も知らないくせにと胸中で罵った。腹立たしいことこの上ない言葉を何度も向けられ、こいつとはやっていけないのではとも思ったほどに。

 しかし何故だろうか。いつしかそのような言葉が〝むかつく〟ものでなくなったのは。――それはエリやオズが、この〝ココロ〟という異常を好いてくれていた所為なのか。

 現に、目の前の彼も。

 おずおずと目を向けると、ノイズは相変わらず似つかわしくない真面目な顔で話を続けた。


「だと言うのに、先輩はあの人の命を無駄にするつもりなんです? 本当に申し訳ないとか、本当に償いたいとか血迷ってんなら……退場組のことを虐げるような、思いを踏み躙るような選択は、やめたげてくれませんかねぇ」

「!」


 ハッとして、ルオは目を見開く。怯えたように彼の瞳は震えていた。


(俺は、俺は、俺は)


 脳裏に並ぶエリとオズの姿。――俺は彼らを、彼らの想いを裏切ろうとしていたのか。と。

 無意識ながらに、先刻の自分の考えに対して怯えていた。後ろめたさのような、後悔のような、逃げ出してしまいたいような……名状しがたい思いに苛まれる。


「俺、俺は……俺は、そんな…………俺、あいつらに……!」


 胸の内から溢れて、むせ返りそうになるコレはなんだろうか。声が震え、頭が熱くなる。

 それを、眼前の彼は察したのか。いとも簡単に許してしまった。


「――泣いてもいいですよ」

「!」


 目を瞠って、ルオはノイズを見る。


「アンタ、泣けるんですよね? ココロって、悲しいときや辛いとき、苦しいときとか……泣けるものなんですよねぇ。あの日から、アンタ泣いてないんでしょ? もう、泣いていいですよ」


 彼の言葉に、ルオはこれでもかと目を見開いた。体が小刻みに震え始める。


「ノイズ……あんた……」

「!?」


 ガシ、とノイズの肩にルオの手が置かれた。思わずノイズが目を丸くしてしまったのは――予想もしなかった力が、そこに加えられていたからである。

 痛いと悲鳴を上げる間も与えずに、彼の体は後方へ反り返る形となり……当然、バランスを保てなくなった。一人で突っ立っているなら兎も角、肩を掴まれている。勿論受け身など取れるはずもない。

 呆気なく、押し倒された。その際、ガンと情けない音がする。ノイズが後頭部をぶつけた。


「ってぇ……! アンタ、何しっ――」


 文句を言おうと口を開き、言葉がそれ以上出ない。振り払おうとした手は止まり、それを二度見した。

 びくとも、しなかった。


(なんで、こんな力がこの人に)


 ――――前。彼とルオが、初めてまともに会話を交わした日のこと。ノイズはルオの腕を後ろで拘束し、ちょっかいを出した。その際、ルオは手も足も出なかった。

 しかし、この状況はなんだ。


(あの時のこの人が、本気で拒絶をしてなかったとか? そんなバカな。自分から誘うような淫乱でもないでしょうに。でもそれじゃぁ、この馬鹿力はなんだって言うんです?)


 分からない。――それと同時に、頭の片隅にとある言葉が浮かんだ。

 これは所謂、眠れる獅子を起こしてしまったのではないのかと。

 混乱し続ける彼を余所に、それを招いた張本人であるルオは、わなわなと口を開いた。感極まっているのか、言葉は散り散り。


(この人、自覚してない?)


 自分が今、どれほどの力でノイズの体を抑えつけているのかを。見たところ、それどころではないといった感じである。


「ど、して……そんな…………畜生、ばか……ばか……!!」


 刹那、塞き止められていたものが決壊した。今まで感じないように、考えないようにしていたものが一気に溢れて止まらない。

 ノイズが一瞬見た彼の目は酷く潤んでいた。――同時に、錯覚してしまう。彼のエメラルドグリーンの眼光が、紅く滲んで見えたのだ。

 え、と目を疑うよりも早く。縋る物がなかったのか、ルオは徐に眼前にいたノイズの体に突っ伏した。彼は驚いたように目を見開いて、彼の涙を隠す壁に代用される。


「ちょ」

「俺、あいつらのこと助けたかったんだ。俺に世界を見せてくれたから、俺の初めて出来た友達だったから。ずっと生きた心地がしなかった。ずっと自分はどうなったっていいと思ってた。だけど、そんな俺とずっと一緒にいてくれたから。嫌いにならないでいてくれたから。どうしても助けたかったんだ。消えてほしくなかった。エゴなのかもしれない。責められても何も言い返したりできない。自分勝手な思いを押し付けたことで、俺は、あいつらに最低なことをした。お礼も言えなかった。さよならも言えなかった。ごめんとも言えなかった。何も言えなかった、何も伝えられなかった。俺、だから、俺は、だから…………っふ、ぅ……、あっ、ぁぁああっ……!」


 吐露。涙と共に、ルオはしゃくりあげながら胸の内を垂れ流した。ノイズは言葉を失う。自分にしがみつく彼の力は強いというのに、どうしてこんなに弱々しいのか。

 未だに定位置を見つけていなかった彼の右手は微かに震え、ゆっくりと、怯えるように、誘われるように、泣き喚く金髪に乗っかった。

 ――なで、なで。なで。

 酷く不器用に、不格好に動く自分自身の右手が信じられないのか、ノイズは目を丸くしたまま己の手を凝視している。中々異様な光景だった。

 しかし彼自身も段々と落ち着いてきたのか、ふと思った。


(そういや、オレ、こうして他人に触れたの、初めてかもしんないですねぇ)


 自分で自分が気持ち悪い。やはりガラでもないことはするべきでない。――異様だ。

 落ち着いたところで、未だに己の胸で泣き続ける〝年上〟の少年を見やる。一度泣き出すと、もう自分ではどうにもならないらしく、ひっくひっくとしゃくりあげていた。

 あれだけの感情をずっと押し殺していた、もしくは無視していたというのならば無理もないのかもしれない。そのストッパーを外したのは他の誰でもない自分である以上、責任は取るべきか。

 面白半分で箍を外した。……なら兎も角、無意識に外してしまったのだから、またやりにくい。我ながらなにをやってんだと思ったが、なんだかどうでもいい気がしてならない。

 ゆっくりと息を吸って、吐く。閉じた目を開いて、ルオを水色の瞳が見た。閉じられた唇が開かれる。

 最初よりかは落ち着いたように見えるルオに、酷く優しい声が掛けられた。声の主は勿論ノイズであり、未だに信じられない人物である。


「あんまり、自分を責める必要ないと思いますよ。大事に思っていたのは、アンタだけじゃないはずですし。アンタのぬくもりには皆が惹かれ――尚且つ、愛しいから。同室のあの人も、空気も、……オレだって、正直なとこ。ですね」


 彼の中では、ひとつの答えが見つかっていた。カルビを濁流から助け出した日、ケイに掛けられた「あなたにとっての大事な人とか」という言葉の意味。何故自分が、ここまで彼に思い入れをしてしまうのか。

 ココロという異常プログラムが搭載させているという理由だけで、どうして自分がここまで。それは恩だとか借りだとかいうもの以前の問題だった。

 ――惹かれていたのだ。アンドロイドなら誰もが請う、ぬくもりというものに。


「言うなれば、アンタのココロはオレたちにとってヒカリ。……オレ思うんですよ、今なら分かる気がするんですよ。アンタがアンドロイドクラッシャーとしてD_ANDROIDを弔う理由が」

「理由……?」


 ルオがノイズの体を解放すると、彼はさりげなくルオの体を退けつつ立ち上がった。彼もノイズと対峙するように、ヨロヨロと己の足で立つ。水色と碧眼が見え、ノイズから口を開いた。


「ルオ先輩が彼らを弔う理由。それは、たまたまPLANTの刀剣適合者だったからだとか、アンタの使い道が他になかっただとか……そうじゃない」


 ユルユルと、彼は首を力なく左右に振る。


「それは、アンタが彼らに安らぎを与える人物だったから」

「俺、が?」


 コクンとノイズは頷いた。

 ココロ。ぬくもり。ヒカリ。安らぎ。全て初めて向けられた言葉ということもあり、頭はますます混乱してしまう。それも、今まで自分が〝不良品〟や〝異常〟だと罵り、罵られ続けたものに対してだ。

 ――わけがわからない。


「オレたちアンドロイドは自然と、ぬくもりに惹かれ忠誠する。アンタはそれを宿していました。このPLANTでも数少ない〝ヒカリ〟というものを」

「……そんなの、あんたの勝手な憶測だろ」


 やっとルオが口を開いたかと思うと、出てきたのは否定文。それも、とても自信の無さ気なもので、その場しのぎの言葉だということがバレバレであった。

 目は逸らされ、瞳孔はうろうろとしている。


「確かに全部オレの御託っすよ。でも、それでもオレにはこう思えて仕方がないんです。……アンタはこの場にいるべき者でないということだけは、しっかりと」

「!!」


 ――それと同じような台詞を、先日、誰かに向けられた気がする。誰であったか、誰であったか。思い出したくないもののなかに、紛れ込んだ台詞だった気がする。


『――貴方は』


 思い出したくない記憶と絡まっていて、上手に台詞だけを思い出すことが出来ない。

 赤い世界で、赤い姿の、赤い得物をもった彼が、確か、何かを。そんな台詞を。


『貴方は、ここにいるべき人間ではない』


 ――エリが、そう言ったのだ。

 頭を抱え込みそうになるが、それを阻止したのは耳障りな雑音。流石の彼にも、まさかエリが同じようなことを言っていたということまでは分からなかったらしく……気にした素振りもなく誤魔化した。腕を頭の後ろで組むと、ケラケラと乾いた笑いを零す。


「何だかオレらしくないことばぁーっか言ってたら、そろそろオレってどんなキャラだったっけかなぁーって感覚マヒしてきましたよぅ。キャッハハ」

「…………」


 しかしルオには一緒になって笑う余裕はない。泳ぎ続ける視線が留まったのは、オズという無機質な機械。野晒しにされた内部が、痛々しいを通り越してしまっている。普通の、機械に見えてしまう。


「オズ……」


 ルオが思わず傍に落ちていた白い布に手を伸ばし、彼に再び被せた。その時だった。

 ――ガタン。


「!」「ゲッ」

「……手前さんたち」


 扉の方から物音がし、ルオとノイズは振り返る。そこには神妙な面持ちを携えたひよりが立っていた。

 ルオは彼の登場そのものに驚いているが、ノイズはまた別の理由でしどろもどろ。恐らくマスターキーを盗んだことに対する焦りであろう。


「これはノイズ君、手前さんの仕業だな」

「……今更言い逃れはしないですよぉ」

「…………」


 肩を落として頭を垂れるノイズを数秒睨んだ後、ひよりはルオを見た。今朝のこともあり、ルオには少々ばつが悪い。自然と視線が足元に落ちた。


「ルオ君」


 しかしひよりは遠慮なしに声を掛ける。対しルオは(何で話しかけるんだよ)と胸中でぼやいた。


「気は済んだか」


 それに上乗せするように、癪に障る一言。

 カチン、とあからさまな先制攻撃を喰らった気がした彼は、何か言い返してやろうとひよりを睨みつけた。その様子に、「あちゃあ」とノイズが顔を引きつらせる。

 が、ひよりの言葉には他の意味などなかったのだ。途端にしおらしい顔になったかと思うと、悲しそうに続ける。


「恐らくオズ君と〝おしゃべりができる〟のも、これで最後だ。手前さんの決断がどちらにしても、な」

「…………あ」


 決断がどちらにしても、とは――あの話だ。PLANTの命により、この施設より出るか。それとも留まるか。

 喧嘩を売っているわけではなかったのか。


「だから、今のうちに言うことがあるなら言っておけ。おじさんも立場上、見つけた以上は長居させることも出来ないからなあ」

「オズに言っておく、こと」


 ひよりに向けていた顔を逸らし、台に横たわるオズを見やる。相変わらず目を覚ました様子はない。


「……」


 最初同様に、ルオは彼の傍に寄り添い、手を取った。

 時間は限られている。その中で彼に伝えることとは何だろうか。

 冒頭に謝罪は伝えた、これ以上謝ったところで無様だろう。ならば、他には。他に伝えることとは。


『おまえたちが教えてくれた。もう一度世界を見る勇気をくれた』


 彼に、一体何が出来たのだろう。


『僕がいなくなっても、僕のこと、覚えていてくれるかな』


 そのようなことしか出来ないのだろうか。


『おまえはもっと、自分を大事にするんだ。僕はルオに、幸せになってほしいんだよ』


 ――それが、彼の願いだったと自惚れてもいいのだろうか。

 だとするなら、それに応えるためには。


「……オズ。俺は、PLANTを出るよ。相変わらず、都合の良い操り人形として」

「!」「!!」


 後ろで彼らの様子を見守っていたひよりが目を見開く。先ほど延期された通達の返答を、彼はこのような形でひよりに伝えたからだ。

 ルオはオズの姿を見ても尚、外に出ることを決意した。もしかすると彼を引き留める理由になってしまうのではと思っていたが、逆だった。

 彼は、彼なりの強さで――何かに抗おうと、進むことを決意したのだ。


「だから、オズ」


 そっと手が離される。


「ばいばい」


 ルオの左手がそっとオズの目蓋を撫でた後、立ち上がった。刹那のこと。


「!」


 ツゥ――とオズの頬に涙がつたう。

 よくある感動的なドラマのように、目を覚ますことはないものの。流れた涙に驚きを隠せないでいると、彼の真上からフワリと一枚の花弁が舞い落ちてきた。青い花弁だった。

 仄かな光を湛える花弁には、どこか既視感を覚える。


「オズ、あんた……」


 内側から込み上げてくる何か。それを必死に堪えて、ルオは花弁を強く握り締めた。

 涙で描き表現された想いを、ぎゅっと。彼の能力では具現に限りはあるが、きっとこの花弁が消えることはない。

 不思議とルオは、そう感じた。


「ありがと。オズ、行ってくる」


 彼の体に背中を向けて歩き出す。先刻までの彼とは違い、しっかりとした足取りであった。ひよりの眼前まで歩き寄ると、彼をじっと見つめる。


「もういいんだな」

「うん」


 ルオは頷いた。


「俺は、彼らの運命を見届けた」


 生気を宿した碧眼は、赤い瞳と対峙する。何物にも恐れない、果敢で――無謀な目だった。


『皮肉なものですよねぇー……これも運命ってやつぅ?』


 ノイズの言葉を引き摺っていたのかもしれない。理性に根付く〝運命〟という言葉が、どうも腹の中で気色悪い感触で居座っていた。

 入り口付近の壁際に立つノイズへ視線を向ければ、彼は黙って話を聞いている様子。……自らの発言が話の種と言うことに気付いているのだろうか。


「でも俺は、あいつらみたいに大人しく従ってやんない。何が運命だ、わけもわからない言葉なんかに自分の未来を制限なんかされてたまるか」


 無謀というよりも、バカなのかもしれない。しかし彼の目に、惑いの靄は掛かっていない。


「俺の未来は誰にも邪魔させない。運命なんて煩わしいもの、捻じ伏せてやる。傍観が大好きなカミサマだって俺に仇なすというならば、すべて抗ってやる」


 ひよりも彼に対し何も言えずにいた。彼の性格を把握しているひよりでさえも、彼が今何を考えているのかまったく想像がつかないのだ。


「もう決められたレールの上を歩かされるのは真っ平御免被るよ。何が操り人形だ、糸なんて幾らでも断ち切って逃げ出してやる」


 普段から……いいや、今までずっと。ただPLANTに従って踊っていただけの人形が、自らの意思で歩き出そうとしている。

 その背を自分は押すべきなのか、それとも止めるべきなのか。ひよりとしての自分と、PLANTスタッフとしての自分の狭間で心が揺れる。


「何が変えられないものもある、だよ。じゃあ変えてやるよ。歴史的著名人のような真実の隠蔽、改変とかいう狡賢い手法は取らない。過去を受け入れた上で、引き摺って背負い込んだ上で俺は進む」

「それは、つらいぞ。苦しい道だぞ」

「上等。そうでなきゃ張り合いないし」


 即答してルオは嘲笑した。

 彼が言いたいことはこうだ。例えPLANTに身を追われることになったとしても、彼は彼自身の生を生きぬくということ。

 その先に彼が何を目指しているかは分からない。もしかすると、PLANTに抗うことそのものが目的なのかもしれない。PLANTこそが彼の枷なのだから。

 ――ギギギ、と錆びついた歯車が動き始める音がする。


「さっき言ったように、俺はあんたのことを許すつもりはない。例えば俺がPLANTに壊される運命であるとしても」


 す、とルオの左手が持ち上がってひよりの首を指す。瞳は変わらず、ひよりと対峙したままだ。


「その時は、俺があんたを殺しに来るよ」


 この恨みが消えない限り。つまりエリとオズの存在を、この事件を忘れない理由として。

 意味は分かるというのに、彼の口ぶりにも瞳にも先刻のような憎悪はない。口約束というものの信憑性を思い知った。

 指を彼から背けて「それとあんた」と付け加える。


「本当に、不器用だよね」


 ルオは呆れたように笑った。彼の隣を過ぎ去ると、今しがた歩いてきた道を見据える。


「じゃ、これで最後。ばいばい、ひより」


 通達の返事よろしくね。と彼に言うと、ルオは振り返ることもなく自室へ戻るために歩き出した。ひよりは突然のことに結局何も伝えることが出来なかったが、「ああ~」とイラついたように頭をワシャワシャと掻くと、小さな背中に言い放つ。


「精々生き延びろよ、青少年!」

「だーから、そろそろ俺の呼び方統一しろってばおっさん!」

「おっさんじゃない、おじさんの真名は――」


 思わず口を突いて出た言葉。彼の声に振り返ったルオが、きょとんと見ている。


「本当の名は、カミールだ」


 カミール。その名にルオは見覚えがあった。確か、PLANT_B班の総司令官の名ではなかったか。今、その名をルオに告げたということは――困ったことがあれば、その名を使えということだ。

 ルオはポカンと彼の真剣な面持ちを見返して、べっと生意気に舌を出す。真名で呼ぶことを拒絶した証だ。

 先ずは驚くだろうと踏んでいたひよりは目を丸くする。対しルオは小さく微笑むと、きっぱりとひよりに言った。


「知ってたよ」


 あんたの真名くらい、ずっと前から。


 何度か疑心暗鬼に陥った際に調べた彼の正体。何冊もの本を捲っても、ひよりという人物は見つからなかった。それもそのはず、彼の名前は別にあったのだから。

 PLANT_B班、製造部のトップ。総司令官である男こそが、ひより。カミール・ロイド=ダーウィンだ。


(どうして偽名を使っているかまでは、流石に記されてはいなかったけど)


 目蓋を下ろすことで視線を遮断して、背中を再び向ける。

 結局口に出して伝えることは出来なかったが、ひよりの行為を理解した上で許せないということは伝わったはずだろう。ならばもう、交わす言葉は何もない。

 これからは、誰かに手綱を預けることはしない。誰かを巻き込むことも、信用もしない。

 今までの自分の生き様に、自分自身に、蹴りを付けるために。


「アレでいんですぅ? カミールさま」

「その呼び方はよせ、紫苑」

「…………あてつけですか、アンタこそ」


 もう見えなくなったというのに、ひよりは未だにルオの背を見送っている。その隣にノイズは並ぶと、やけに名を強調して彼へ問うた。そしてひよりもまた、ノイズの名前を呼ぶ。しかし聞き慣れたものではない。

 〝紫苑〟と呼ばれた途端、ノイズの表情は険しくなった。


「もとはと言えば、オズ君にトドメをさしたのは手前さんだろう。どうなんだ」

「!」


 ピクン。まさか気付かれていたとは思わなかったのか、ノイズの左目が見開かれた。だが、今更言い訳をするつもりもないのか、アッサリと白状する。


「すみませんとしか、返す言葉はないっすねぇ。オレは抑えたっつーのに、空気の野郎が」

「おやおやあ、おかしいなあー。ではどうして、オズ君の〝目〟は残っているんだろうなあ」

「…………それは」


 途端にノイズの歯切れが悪くなった。ニヤリ、とひよりの横顔は笑っている。


「死音が雑音に成り果てる時、その目を攫う。眼は現世の闇を見つめ続け、魂はあの世で囚われる。しかし彼の目は残っていた。……あの時、手前さんの理性は残っていたんじゃないのかあ? だからオズくんの目は残っていた。なあ、紫苑。――手前さんが、オズ君を守ってやったんだろ」

「紫苑、紫苑って何度も呼ばないでくれませんかねぇ。その名は、アイツにくれてやったんで」


 煩わしそうにノイズが目を逸らした。否定を口にすることはなく、ただ名前にだけやけに過敏。これではひよりの言葉が真だったのかも判断がつかない。

 だが、ひよりには十分だったようだ。ほう、と妙に納得したような声を漏らして――不可思議なものを見つける。それはノイズの目も同じで、ヒラリと視界に乱入してきた何かに気が付いた。


「……あんな、侘しさに我を忘れてしまうような奴、オレにはいらない。あの名は、オレよりアイツがぴったりなんですから」


 手を伸ばして、指先で器用にとらえる。……彼に捕まったのは、薄紅色の花びらだった。先ほどオズが具現化したものとは違う。――本物だ。


「オレの生き様を邪魔する者は、何人であろうと排除する。例えそれが――」


 ギュウ。ノイズの手が、容赦なく花びらを握りつぶす。


「わが身であろうとも」


 ひよりは何も言わず、その横顔を見つめた。眉間にしわが寄っている。


「そのために、手前さんはルオ君を食い物にするつもりか」

「…………」


 ノイズはギロリとひよりを睨み上げた。前髪の後ろの右目が、髪の隙間から得物を捕える。――ビクッ。ひよりの動きが止まった。まるで神経を引っこ抜かれたように、ピタリと。


「て、め、この……餓鬼……何を、」

「だからですねぇ、オレ、決めちゃったんですよねぇー」


 彼が視線を逸らした途端、ひよりは崩れ落ちた。膝を突き、ゼェゼェと肩で呼吸を繰り返す。疲弊しているのではなく、酷く騒がしい心臓を落ち着かせている様子だった。

 赤い眼は見開かれ、言葉の通り目を白黒とさせている。


「アイツの能力だから、あんまこの目は使いたくないんですけど。……でも、今はこれが手っ取り早いですし。それにこれで分かってもらえましたよねぇ、B班最高権力者であるカミールさま?」

「っ……」


 ひよりは奥歯を噛みしめ、ノイズを睨んだ。しかし少年はまったく気にした様子もない。それどころか、まるで今まで化けの皮でも被っていたのではないかとさえ疑うほどに――愉快な笑みを浮かべているではないか。


「それにしても、褒めてやりますよぉ。常人なら、オレの――アイツの〝右目〟を見た途端精神ぶっ壊れて発狂するのに。ククククッ」


 まぁ、発狂までしたら普段通り、即葬送でしたけどねぇ。などと茶化すように言うノイズの笑顔と言葉はまったくそぐわない。

 未だに跪くひよりの傍に歩み寄ると、彼はマスターキーをそっとひよりの胸ポケットへと押し込んだ。最中にノイズは口を耳元に寄せ、囁く。


「もし、このPLANTさんがルオ先輩に手を出そうとしたその時。オレは今度こそ、アンドロイドの〝クーデター〟ってのを起こしてやります。先日のあんなのは、ただの余興。覚えておいて損はないと思いますよぉ?」


 クスリと小さな笑いを零して、ノイズはひよりを見下ろした。そうして立ち去ろうと、踵を返そうとした時だ。蹲るひよりが、「手前さんは何がしたいんだ」と途切れ途切れに言葉を紡いだではないか。


「……」


 ノイズはキョトンとした顔で振り返り、ニタリと笑む。ひよりは自分から問い掛けたのにも関わらず、その不気味な笑みにゾワリとした。


「そんなの、決まってるじゃあないですかぁ!」


 クスクスクスクス。煩わしい笑みが張り付く顔面。


「――オレがオレになるためです」


 何故彼はあんなにも楽しそうなのか。あんなにも愉快そうなのか。――あんなにも苦しそうなのか、瞳の色が濁ってしまっているのか。その表情は、あの時……ケイやオズが指摘した〝苦し気な顔〟であった。一見自分のために周りを巻き込んでいるようにしか見えないというのに、何かが違う。

 ――――救いを、求めているのか。彼は足掻いているのか、もがいているのか。そうとしか。


「アイツとの縁を断ち切り、オレは〝雑音〟になる。その賭け、ですよ、ルオ先輩は。異端な存在であるあの人に、オレは賭けてみることにしたんです。今までこの世界に存在を示すことをしなかった〝殺された影響力〟に、……この世界に干渉することをしなかった先輩に、オレは賭けた」

「手前さんの自分勝手に、彼を、巻き込むな……!」

「…………ムリっすよ」


 ダラリ。腕を下ろして、途端の無気力を晒した。瞬間、ニヤリと彼の口角が元気を取り戻す。

 あげられた顔は、相変わらず痛々しく嘲笑っていた。


「だって。だって、オレのことを殺してくれる人は、あの人しかいねぇから! オレを、紫苑を! 葬ることが出来るのは、きっと未来のあの人ですから!! キャハ、キャハハハ!!」


 狂ったようにノイズは笑い出す。箍が外れてしまったのか、自暴自棄にも見えた。しかしそれを慰められるほど、ひよりと彼の距離は近くない。

 誰もいない廊下に彼の甲高い声が響いて――ピタリと止んだ。やけに真剣な眼差しをひよりに向け、言い放つ。


「この、止まった世界を動かしたのがあの人であるならば、終わらせることが出来るのもあの人だけです。アンタがどれだけ必死に食い止めようとしたところで、それは決して変わらない。現にアンタは止めることが出来なかった。この、世界の摂理は誰にも変えることは出来ない。――どれだけアンタが逃げ続け、隠し通したところで、あの人はいつか、知りますよ」

「ぐ……」


 ひよりはまだ体が麻痺しているようで、言葉が上手く紡ぐことが出来なかった。――それは単に麻痺しているからなのか、それとも、返す言葉が見つからなかったのか。定かでない。


「それでもまだ知られたくないなら、精々今まで通り本来の自分隠すことだけに必死になってろ。愚老」


 ――ヒラリ。握りつぶしていた花びらを解放する。呆気なく花びらは足元に落ちたというのに、彼らの周りには次から次へと新たな花が舞っていた。

 最後に、床へ伏したままのひより冷たい視線で見下ろして、ノイズは踵を返す。そうして去って行き、ピタリと足を止めた。


(あの人は、この〝サクラ〟に対してどんな幻想を抱いているのか知りませんけど)


 舞い落ちる花びらを見上げて、呟く。


「今度は、もぉっと綺麗なサクラを咲かせてやりたいですねぇー……クク。キャハハハハ!」

「…………しお、ん……」


 ひよりの右腕が、己の左肩を抱いた。去って行ったノイズの笑い声だけがやけに響く。まるでPLANTに走る、雑音のように。いつまでも、いつまでも……――――。


「――もし、オレが消えたその時、あの人は」

『――――俺、あいつらをどうしても助けたかったんだ。消えてほしくなかった』


 無意識に、口から零れた独り言。脳裏に蘇る、先刻の事。


(同じように、泣いてくれたりするんでしょうかね)


 ――――ばかばかしい。と、ノイズは首を振る。


(これだから未練が残る関係も思い出も、オレは嫌いなんですよ。――死ねなくなるじゃあないですか)


 そうしてまた、何事もなかったかのように歩みを再開させたのだった。

 ただ、花びらだけがPLANT施設で、誰にも見られぬ踊りを舞い続けていた。




 * * *




 ――ヒラリ、ヒラリ。ヒラリ。

 灰色の廊下を歩くルオの周りで踊る花びら。異様な光景に、彼は首を傾げる。


「――な、」


 そうして彼は思わず足を止め、通りかかった中庭の光景に目を奪われた。

 咽返るように甘い香りと、視界いっぱいに薄紅色の花びらがフワフワと待っている。視界の邪魔だ。左手で眼前を守り、様子を伺う。

 クーデターにより死亡したスタッフたちを留置でもしていたのか、芝生は黒と赤に染まっていた。何よりも、目を疑ったのは中央に立つ成り損ないのサクラだ。

 花びらを躍らせる指導者は当然、あのサクラだ。


(どうして)


 自然と中庭へ向かう足が、固まった血を踏みしめる。ガシュ、と思い切りの悪い音がした。

 今の今まで、一度も自ら花を咲かせたことのなかったサクラ。根元を真っ赤に染めているサクラ。美しく咲き誇る、眼前のサクラ。

 ――察した。


「てめぇ……」


 碧眼を細め、睨む。


「――――血吸い桜か」


 ザアア。途端、まるで彼の言葉に同意を示すように木々が揺れた。花弁が舞い踊り、むせ返る甘い香りに眩暈がする。それに交る死臭。最悪だ。

 これ以上この場にいては、嗚咽を漏らす可能性もある。早々に立ち去るべきなのであろうが、何故か足が動かない。

 眼前の異様な光景に、異様な雰囲気に呑まれてしまっていた。その時。


「――あっー! こんなところにいたんだね!」

「?」


 途端背後で明るい声が響いた。ルオが振りかえると、そこには幼い少年が立っている。

 ルオの訝しげな視線を受けて、彼はニコリと微笑した。青い頭髪が、サラリと揺れる。左耳に開けられたピアスがキラリと光った。その皮膚はまだ赤みを帯びている。


「会いたかったよ、ルオ兄!」

「…………え、誰」


 キョトン、と。ルオは眉間にしわを寄せて首を傾けた。サラサラの金髪が重力に従い流れ落ちる。そんな彼を、青髪の少年は相変わらずニコニコとした笑みで見つめていた。

 張り付けられたようなものでもなく、敵意を秘めたものでもなく。本当に純粋な笑顔だった。




 ――血吸い桜に誘われ、彼らは次なる発条を回す。まだ、この物語はやっと幕を開けたに過ぎない。


 これからルオは、彼に手解きをされPLANTの外へ向かうこととなる。洋服を着替えさせられ、主人となる人間を決めるためC班へと赴いて。


 しかしその物語は、徒花が再び蕾を芽吹く頃合いに――。





 <PLANT編終了>

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