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ガラクタのうた  作者: 花葉
PLANT編
17/19

 <Act.14>爪装飾の為体



 硬いベッドの上で、いつものように目を覚ます。昨日は一体いつ寝たんだっけと記憶を遡ってみるものの、よく分からない。体がだるい。

 寝返りを打ってもう一度眠ろうとして、ふと気が付いた。

 ベッドが広い。

 慌てて飛び起きて隣を見やった。エリの姿がない。部屋を見回しても誰の姿もなかった。時計に目を遣れば、既に昼を過ぎている。よっぽど疲労が蓄積していたのだろう、寝すぎた。


(早く探しに行かないと)


 嫌な予感がする。昨日の今日だ。PLANT側がどのような行動に出るのかも、安易に想像出来たのだ。彼は慌ててベッドから降りると、首輪を素早く棚の上から掻っ攫って装着する。

 そうしていざ部屋を出ようとした時、インターホンが鳴った。返事をする間も無く扉は静かに身を引く。

 そこに立っていたのはひよりだった。


「やあ少年。出掛けるところだったか?」

「ひより……エリが、いなくて」


 彼なら一緒に探してくれるかもしれない。そうだ、オズにも協力してもらおう。彼らならきっと分かってくれる。そうルオが思わず安心しかけたのも束の間。


「エリ君なら、スタッフと面談中だ。そろそろ終わるだろう」

「!」


 驚くべき台詞を彼は飄々と発言したではないか。ルオはすぐに顔を上げ、彼の表情を凝視する。極めて普段通りの佇まいだ。


「面談って、なんで……」

「手前さんなら分かっていると思ったが」


 体を逸らして呆れたように言う。当然、ルオには心当たりがあった。最悪の心当たりが、ちゃんと分かっていた。しかしその可能性を除外したいからこそ、こうして。

 キュッと握られたルオの手が、無意識に震え始める。


「俺……オズと一緒に探しに行く」

「駄目だ」

「は?」


 逸らしていた体をルオに向けて、出入口を塞ぐように彼は立った。ひよりの思わぬ行動に、ルオは思わず目を白黒とさせる。

 彼はルオに対して事実をオブラートに包むことなく伝えてきた。実際にこうして止めたりすることなど、滅多にないというのに。


「どうして」

「オズ君には会えない。探すなら手前さん一人で行くことだ」

「どうして!」


 疑問しか生まれてはこない。それも利害の一致しないものばかりだ。半ば吠えるようにルオがけしかければ、ひよりは顔を顰めた。

 沈黙が僅かに流れる。その僅かながらの沈黙も、ルオにとってはとても長く感じられた。それによって、ルオは察する。

 オズは元々D_ANDROID……ココロプログラム発芽を危険視されていた。療養の身であったのにも関わらず、突然のPLANT施設内への移動。昨日の彼の行動。良い方向に考えることも可能ではあったが、今の状況では、反対だ。

 最悪の方向しか、見当たらない。


「まさか、あいつも……」

「…………」


 ヨロリ。ルオは一歩後退した。脇にあった棚に腕をぶつけたが、気にすることはない。ただ唖然とひよりを見つめ、彼の言葉を待った。しかし彼は何も答えない。

 ルオから顔を逸らして、目を瞑っていた。何かを我慢するように。

 一目瞭然。明らかに態度がおかしい。

 ――察してしまった。ルオは深く俯いて、肩を震わせる。彼の内側で突き動かしてくるものは、感情の中でも一番楽なもの……怒りだ。


「あんたは、知ってたのか……」


 震える声。主語のいない台詞に、ひよりは何も答えない。

 ブチンと彼の中の何かが切れたように、それからルオは叫んだ。


「あんたはエリの異常やオズの処分のことを、知ってたのかっつってんだよ!!」 


 突然怒りを露わにした彼に対して、ひよりはあくまでも冷静な態度を取る。まるで最初から、こうなると予測していたような反応だった。

 そして彼は答える。ルオが本心では求めてなどいない答えを。


「――ああ、知っていた。最初から全て、知っていたさ」

「!!」


 最初から全て。それはエリの異常について把握していたということだ。オズについて、全て知っていたということだ。ルオの問いを全て認めるということだ。

 ルオが欲してなどいなかった、最悪の答えだ。

 彼の左手に、ギュッと力が籠められる。手のひらに爪が食い込み、プツリと皮が破れる。


「ココロプログラムは不安定。手前さんもよく知っていることだろう」


 カツン、カツン。跫然を間近で響かせ、ひよりはルオに近付く。今にも噛み付かんとするばかりの、少年の元へ。口からは宥めるどころか、煽り立てようとしているとしか感じらせない台詞を吐き続けている。

 一体彼は何がしたいのか、誰も分からなかった。


「だからこそ綿密な調査が必要だった。PLANT側にも、無意味に破壊を繰り返すにはコストが掛かるからなあ。何より、手前さんを使用する公開処分は特に」


 赤い眼差しがルオを伺い見る。相変わらず彼は怒りに打ち震えるだけだった。何も言わない。構わずひよりは話続ける。


「本当にOZ_NO.D-04はココロプログラムが発芽しているのか。ELLE_NO.G-49に報告通りの異常はあるのか」


 ここまでルオが反応をしないとなると、本当に聞いているのかさえも怪しい。しかしそれは、唐突に。

 ずっと肩を震わせ、ただただ俯き黙り込んでいた彼の体がピタリと止まった。そして何事もなかったかのように顔を上げると、腕を組んで棚に背を預ける。

 何の感情も見出すことのできない碧眼は、ひよりの言葉を促していた。


「で?」


 やっと出てきた言の葉も、鉛のように冷たく落花。相変わらずひよりは驚く素振りを見せなかった。これも想定の範囲内だったのか。


「ココロというものは、心と触れあうからこそ発芽する」


 彼はルオから離れ、彼の向かい側に放置されていた椅子に腰を下ろした。ポケットをガサゴソと漁っている。


「つまり心をもつ誰か――調べてくれる媒体が必要だった」

「……」


 ピクリ。ルオの表情に変化が訪れた。顔を微かに顰め、ひよりを尚も睨み付ける。彼は気付かぬふりをして、遠慮することもなく口を動かす。


「そもそもココロプログラムの所持が禁じられているのは、ココロによってアンドロイドの暴走を防ぐためだ。くだらない私情や思念で人間に手を出してみろ。PLANTは御仕舞いだからなあ」


 ポケットから取り出したのは煙草の箱。次いで同じように、いつかに見たマッチを慣れた手つきで取り出してくる。

 ここは禁煙だ、とルオは指摘するわけもなく。ただ、やっと一言述べた。


「何が言いたい」


 短い台詞だったが、煩わしそうでもあり、苛立ちを簸た隠したものでもあった。

 ひよりは逸らしていた目線を上げ彼を見る。――分かってるくせに。まるでそうとでも言いたげな瞳だった。

 分かっていようといなかろうと、今のルオにはそう言うしかない。彼自身の口から問い質すしかなかったのだ。

 数秒互いの腹を探るような視線の攻防が続き、やっとひよりは口を開く。


「つまり、ココロプログラムを唯一所持する実験用K型アンドロイドであるRUO_NO.K-57θと彼らを関わらせることによって、不良品であるか……処分するアンドロイドに値するかどうかの判別を行った」

「!」


 ルオの目が見開かれる。頭の中で台詞を整理する余裕も与えないまま、彼は問答無用で続けた。


「もし暴走して人間に危害を加えられてはならないからな。だからPLANTは手前さんを……造られた理由が分からないと嘆くルオ君を、有効に活用してやったわけだ。粋なことをしてくれただろう、PLANTも捨てたもんじゃあないだろう?」


 ひよりは嘲笑う。煙草とマッチを持ったまま、戯言を楽しむように。

 ルオからの反応がないことを確認すると、再び表情を失くして話の結末を告げる。まるで定期報告会でも開いているような口ぶりだった。


「結果は良好だった。暴走するよりも前に処分も決定した。もうルオ君が彼ら、D_ANDROID――不良品どもの危険に曝されることもない。よかったな」


 ニコリ。先ほどの嘲笑とは違い、ルオのことを思いやるかのような笑み。全て、ルオを思いやってのことだとでも言うような説明。

 ルオのためにと、責任を転嫁する話だった。当の彼は言葉を失ってしまっている。顔を引き攣らせて、驚愕の表情だ。唖然、呆然。

 ひよりは気にすることなくマッチを擦る。火が点き、煙草に引火させた。一筋の白い煙が立ち上る。あくまで彼は落ち着いていた。


「それ、本気で言ってんの…………?」


 そうしてやっとのことで声を発することが出来たルオは、再び俯きそうになっている。彼の瞳だけが、なんとかひよりの姿を捉えていた。縋るような面持ちだった。

 だが、ひよりはその期待を振り払う。何の感情も見せないまま、ただ冷徹に。


「当たり前だ。手前さんは――人に利用されるだけの操り人形に、変わりはない」

「……」


 もう、ルオは何の反応も示さなかった。全て諦めたように、力なく俯いている。ずるりと解かれた腕、手のひらには血が滲んでいた。

 エリやオズの件のショックだけではなく、彼のココロを圧迫していたのは何よりもひよりの言葉だった。彼は彼なりに、ひよりを信頼していた。だと言うのに、手酷く裏切られてしまった。

 有効に活用してやった。不良品ども。操り人形。

 信じたくなかった。彼の口からそのような言葉が吐き出されたことを、受け入れたくなどなかった。しかし受け入れる他なかった。

 オズが近々処分されることも。エリにもその刻が近付いていることも。それを知っていて、彼らと自分を接触させていたことも。自分が、ひよりにその程度としか思われていなかったことも。

 全て、事実であり現実であり――受け入れるしか。


「っ……」


 湧き上がってくる何かを堪えるように、ルオは目を瞑った。刹那、ビイイイイイと大きなサイレン音が鳴り始める。間髪入れず、部屋の天井に備え付けられたスプリンクラーが稼働した。ひよりの煙草に反応したようだ。

 別段濡れて困るようなものもないのか、それとも放心しているのか。ルオもひよりも慌てた様子もなく……ただ座り、ただ立ち尽くしていた。

 慌て始めるのは彼らではなく、周りである。


「おい! 火災警報が鳴って……」


 部屋の扉が開かれた。そこから数人のスタッフが駈け込むが、火の元がないことを確認してポカンとする。次いで誰かが、ひよりのもつ煙草に気が付いた。


「火気厳禁。PLANT施設内は禁煙です」

「ハッハッハー。いやあ、うっかり。すまねえなあ」


 頭から水を被りながら彼はカラカラと軽く笑った。ルオは微動だにしない。濡れた髪から水が滴り始めた。それでも動かない。

 集まったスタッフたちの隙間から、同じく音に反応してやって来たケイが思わず足を止める。遠方から、棒立ちのルオの姿をキョトンと見つめた。


「ルオ……?」


 ただならない様子に目を奪われる。びしょ濡れになっても尚、不自然な程に身動き一つせず俯く少年。彼の頬には水がつたっていた。

 生ぬるい、一筋の涙がポタリ。しかしそれに気が付ける人間はその場にはいなかった。


「…………」


 そのためケイは気付かない。フードを目深に被った背丈の低い少年が、そっと部屋の片隅に紙袋を置き去ったことに。彼は身動き一つしないルオを一瞥すると、人ごみに紛れて姿を晦ませた。

 そうして集まったスタッフたちはあっという間に帰って行く。濡れてしまった家具は使えないということで、暫く隣の部屋に移動することになった。因みに部屋の内装はほぼ同じである。

 移動する際、ルオはひよりに急かされながらヴァイオリンケースやエリの持ち物を無表情で運んでいく。いつの間にかひよりも姿を消していた。しかしルオは気にする余裕もないのか、ただ黙々と移動作業を行う。

 すると、ふと人の気配を感じた。何気なく目を遣れば、そこには見慣れた青年の姿。


「エリ……!」


 朝から姿を消していた彼が立っているではないか。ルオは持っていた木箱を落とし、すぐさま彼の元へと駆け寄る。エリはキョトンとしていた。


「よかった。このままあんたが帰って来ないんじゃないかって、俺、心配してたんだからな」


 胸を撫で下ろす。ひよりの口ぶりからして、もう二度とエリとは関われないのではないのかという不安があった。二度と会うことが叶わないのではないのか、と。彼に異常があるという事実を覆すことが不可能であっても、こうして共に過ごせるのならば……。


「あの」

「何?」


 何かを言いたげにエリは口を開く。落ち込んでいる様子も、無理をしている様子もない。ということは、もしかするとルオの杞憂だったのかもしれない。それでいい。

 彼が処分されるかもしれないという心配が、ただの杞憂であったのならばそれが一番いい。

 びしょ濡れのままルオが彼の手を掴むと、不思議そうに彼は首を傾げた。そして躊躇いなく口を割る。


「貴方は……」


 平然と、飄々と。


「貴方は、誰ですか?」

「――!!」


 何の悪びれもなく、さも当然のように問い掛けた。ルオは己の耳を、目を疑った。だが、目の前の青年はエリ本人で間違いなく、冗談を言っているようにも見えない。

 つまり、そういうことだ。エリの言っていたのは、こういうことだったのだ。


『僕はもしかすると、ルオさんのことさえも忘れてしまうかもしれないんですよ』


 今なら分かる。なんて皮肉なことか。実際に目の当たりにしてから現実味が帯びてくるなんて。大丈夫だと言ったはずなのに。

 全然大丈夫ではない。


「エリ……」

「僕の名前ご存じなんですね。よかったら貴方のことを教えていただけると嬉しいのですが」


 そう言って、エリはニコリと笑った。普段通りの顔で、普段通り笑った。記憶を失くしていても、やはり彼は彼のままであった。今更ながら、ルオは己の発言の意味を痛感する。

 ならば、自分が返す言葉はひとつだ。

 握った手をより強く握り締めて、彼に抱き着く。濡れている彼を嫌がる素振りもせず、エリは驚いたように瞬きを繰り返した。


「俺は、俺は……ルオ。あんたの、友達だよ。エリ」

「ルオさん、は、僕の友達?」

「そう、友達」


 ギュウ。ルオの腕の力が強まる。まるで親に縋る子どものような光景だった。エリの空の両手は、そっと彼の背中に回されようと上げられて……下ろされる。代わりに、彼は右手でルオの頭を撫でた。宥めるように、安心させるように優しく。彼らしい行動だった。


(初対面のように感じられないのは、なんででしょう)


 ルオにバレないよう、こっそりと。

 エリは胸の内で呟いた。水で濡れた金髪を撫でながら、不思議と安らいでしまう自分が分からない。彼と初対面であることは間違いないのに。


「取りあえずルオさん」


 ベリ。エリが突然ルオの体を引き剥した。キョトン顔のルオのことなど気にした素振りも見せず、彼はルオの洋服に手を掛ける。そして淡々と脱がし始めた。


「え?」


 ルオは目を白黒。記憶を失ってもエリはエリだと言ったが、これは本当にエリか。何をしているんだ。頭の中が混乱する。その間も、彼は手を進めていき上着を簡単に脱がしてしまった。

 洋服を奪われたルオの腹部には、白い包帯がグルグルに巻かれている。


「え、あ、何?」

「濡れたままでは体に悪いですよ。早く体を拭いて、新しい服を着るべきです」

「あ、そ、そういう」


 それならそうと言え。心の中でルオは全力でツッコんだ。どっかのピンク頭の所為で、よくわからない警戒心が備わってしまったらしい。構わずエリは棚から使えそうなタオルなどを拝借している。……やはりルオの知っているエリだった。

 トップレスのまま、先ほど落としてきた小箱を拾って隣の部屋へ移動する。黙々と部屋の移動作業を行っていると、ルオはエリに叱られた。


「ルオさん怪我してるじゃないですか! けが人は安静にしないといけませんよ!」

「だって寝てばっかだとヒマだし、体鈍るし。それにそろそろ治る頃合いだし」

「つべこべ言わないで貸して下さい、僕がやりますから」

「あ」


 ルオから箱を引っ手繰る。仕事を奪ったエリは、テキパキと働いた。本当に普段通り過ぎる彼だからこそ、記憶を失くしてしまったことを受け入れられない。

 仕方がなくベッドに腰を掛けるが、やはり暇だった。そして閃く。


「これくらいでいいんでしょうかね。ルオさん、ルオさん終わりましたよ。これで」


 水浸しの部屋から新たな部屋に戻ってきたエリは、思わず足を止める。部屋の中央で、ルオが何かを構えて立っていた。――ヴァイオリンだ。

 彼も今しがた構えたばかりだったのか、伏し目がちにそっと弓を引く。たおやかに伸びる弦の音が、エリの胸を叩いた。

 ――覚えがある気がする。


(この音色を、旋律を、感覚を、僕は……どこかで)


 覚えている。しかし思い出せない。デジャヴュというものか。いいや違う、それとはまた違う。何故だ、どうしてだ。

 どうして思い出せない。


「ぃた……」

「!」


 左腕を庇うように、ルオはピタリと動きを止めた。エリはハッと我に返る。右手の下には包帯に巻かれた腕。怪我が痛んだのだろう。


「ルオさん、洋服を見つけたので着てください」

「あ、うん。ありがと」


 エリから洋服の入った紙袋を受け取り、ヴァイオリンをケースの中に仕舞い始めた。最中、彼は世間話でも始めるように開口する。


「前、エリにヴァイオリンを聴いてもらったことがあったんだよね。どうだった?」

「……頭が痛かったです」

「えっ」


 彼は正直に答えた。ルオは思わず声をあげる。


「マジかよ……暫く弾かなかったからな。そんなに腕鈍ったか……」


 うーんうーんとルオが唸り始める。落ち込んでいるような、困っているようなよくわからない唸り声だ。しかしそれは早とちりだったらしく、エリは慌てて首を左右に振っている。


「いえ! 違うんです。とても上手でした。でも、僕は」


 そうしてばつが悪そうに目を逸らしてしまった。


「覚えていなくて、でも知っていて……複雑な感じでした」

「…………そっか」


 納得したように微笑むルオは、まるでそれで十分だとでも言いたげである。彼の異常がキオクデーターにあるのならば、記録はされているはずだと。もしかすると初期化されている可能性もあったが、ココロプログラムの発芽ならば……もしものこともあった。

 ココロプログラム自体に、記憶されているのではと。

 ヴァイオリンケースを閉じて、エリから受け取った紙袋を開ける。そうしてルオは、思わず目を見張った。中に入っていたのは、アンドロイドクラッシャーの衣類だったからだ。

 確かに普段から部屋へ置いていたのだから、彼が持って来てもおかしくはない。思わず左手が首輪に添えられる。これは条件反射か何かだろうか。けれど今回、驚いた理由は他にある。


(この服は、前回の公開処分日に控室に置いたままにしておいたはず)


 誰かが持って来たのか。先ほど集まったスタッフの誰かが置いたのか。そのような無意味なことをする人物がいるのか。

 険しい顔つきをして紙袋に手を入れる。カサリ、と洋服とは違った手触りがした。

 紙だ。

 何だろうと取り出して、二つ折りにされた二枚の紙を開ける。そして一枚目に目を通した瞬間、己の目を疑った。ドクリと臓器が一際強く跳ねる。


「なんだ……これ……」


 〝ELLE_NO.G-49(D_ANDROID)ココロプログラム発芽。及び、キオクデーターの異常確認。第三日曜日処分予定〟

 〝OZ_NO.D-04(D_ANDROID)ココロプログラム発芽危険視。レベル高。及び、セイカクデーターの異常確認。能力使用拙劣。第二日曜日処分確定。公開処分拒否〟


 殴り書きになっていたが、しっかりと読むことが出来たそれは……正しくエリとオズの診断書であった。それもルオの予測していたものとほぼ一致する。

 何よりも目を引いたのはオズの処分予定日だった。


「明日じゃねーかよ……」


 尚且つ〝公開処分拒否〟の文字。もしかするとオズは、自分に知られぬよう消えるつもりだったのかもしれない。一体いつから彼は、処分宣告を受けていたのかも分からない。

 突き付けられた現実に、目を疑うしかない。


「ルオさん、どうかしたんですか?」


 エリが心配そうにルオの顔色を伺う。大丈夫だよと取り繕った笑みを返し、そそくさとメモを服の中へ隠した。

 確かひよりが言っていた、オズには会えないと。それはつまり、こういうことだったからだ。だから会うことが出来なかったのだろう。処分日が明日ということは、今日明日辺りには処分アンドロイド用の研究室へ収容されるはずだ。勿論、警備は厳重。


「……」


 紙袋から洋服を取り出し、慣れた手つきで袖を通し始める。着替え終ると、次いで何の躊躇いもなく髪を解き始めた。うなじ付近で一本結びにすると、ヘアピンにも手を掛け交差させる。

 その姿は、アンドロイドクラッシャーのものだった。夜しか姿を現すことのない、ルオのもう一つのペルソナ。


「ねぇ、エリ。俺のお願い、聞いてくれる?」

「なんですか?」


 着替えの為に外した首輪を手に取って、ルオは告げる。

 ――彼はある決意を固めていた。エリへと顔を向けた彼の碧眼は、何か強い意志を宿す。


「俺のことを思い出してくれる必要はない。だから、どうか」


 エリへ歩み寄り、彼の手を握る。縋るように、ギュッと強く。ルオの手は震えていた。


「俺はあんたの友達だってことだけは、知っていて」

「……はい」


 ルオの言葉にエリは頷くと、ニッコリと笑顔を浮かべる。本当に何も覚えていない彼の笑みに、ルオは思わず泣きそうになるが、堪える。今は泣いている場合ではないのだ。

 閉じた瞳をそっと開き、キッと鋭く光らせる。静かに燃える碧色。


(必ずこいつらを助け出す。俺にはそれだけの力がある。俺はどうなっても構わないから、こいつらだけでも。俺はどうなっても、もう、もう……構わないから――)


 一切の迷いを振り払った目が、彼の意志の強さを物語っていた。何も知らないエリは、ただただ笑みをルオへ向ける。

 そうして彼は今宵、行動に出た。それは無謀、且無茶なもの。孤独なクーデターだった。

 暗闇の中で紙袋に入っていた紙を開ける。目を光らせる彼は、まるで野蛮な野良猫のようにも見えた。あるいは、獲物を捕えんと息を顰める狼か。

 目を通しているのは一枚目ではなく、二枚目。一枚目同様に殴り書きではあったが、中身は明らかに違った。文章ではなく、図。しかし分かりにくい。

 恐らくPLANT施設の見取り図だ。赤い丸の描かれている部分は推測する限り、出口。青丸はオズの部屋。EXITとOZという文字は読めたので間違いないだろう。

 ソース元は定かではないが、これ以外には頼る情報がない。危険な賭けには変わりないのだから、仕方がない。


(シュレーディンガーの猫が、黙って殺されると思うなよ)


 胸ポケットへ紙を押し込んで、彼は首輪を手に取った。そうしてベッドで寝息を立てるエリの体を揺する。


「エリ、エリ。起きて、エリ」

「ん、んー……えぇっと、あ、ルオさん……?」

「起きて」


 言われるがまま、訳が分からないといった顔をしているエリは、呆気なくベッドから引き摺り出された。彼の目が覚めたことを確認すると、ルオは部屋の扉を開ける。普段通り、静かに壁は消え去った。

 エリの手を今一度しっかりと握り締めて、彼は声を潜めて言う。


「走るよ」

「え、わっ!」


 言うや否や、彼は一目散に駆け出した。もう、後には引けない。そもそもやめるつもりは毛頭ない。

 ――まずはオズを救出しなければならない。


「ど、うしたんですかっ! ルオさん、ルオさん!?」

「いいから走れ、舌噛むぞ!!」


 コンクリートに囲まれた廊下を、ひたすらに走る。見覚えのない分かれ道では一旦足を止め、紙を確認するともう一度駆け出す。元々エリも足が速かったため、幸い彼が足手まといになるということはなかった。

 そうしてルオは気が付く。自分が走っているのは、鉄格子が並んだ棟だということに。屋上からの帰り道によく見かけた場所だ。表情を失ったアンドロイドたちが収容されていたのを覚えている。


(あいつらは、公開処分じゃなく別の方法で処分されるアンドロイドたちだったのか……)


 つまり、オズもこの中にいるということか。声を出したいが、それではスタッフたちに見つかってしまう。一つ一つ確認していては、見つかる確率がまた上がる。


(せめてもう少しこの地図が解りやすければ)


 しかし紙に文句を吐いてもどうにもならない。そんなことをしている暇があるのなら、牢屋を片端から調べていた方が利口だ。


「どこだ、オズ。オズ……」

「なんだあ? 夜遊びにでも誘うつもりかい、少年たち」

「!!」


 後ろから声が掛けられ、ルオはエリを後ろに隠して臨戦態勢を取る。闇の中から姿を現したのは、赤い目を持つひよりだった。

 カツン、カツンと彼の足音が異様に響く。


「ひより……」

「いいねえ、青春。青春の一ページ……――しかし、ここでは場違いだ」


 カツン。足が止まり、ひよりの顔からは笑みが消えていた。ルオは、ギリ、と奥歯を噛む。


「今ならまだ間に合う。部屋に戻れ、ルオ君」

「断る!」


 思わず彼は声を張った。しまったと口に手をやるが、もう遅い。だからと言って、他にスタッフたちが駆け付けるわけでもなく……杞憂だった。

 誰も来ないことを確認すると、冷静にひよりと対峙をする。


「止めてもムダ、俺は決めた。俺は、エリとオズをPLANTから逃がす」

「それこそ無駄だ、まず手前さんが無事にPLANTから出られるとは思わない。尚且つ、例え逃げることが出来てもPLANTは手前さんらを壊れても、スクラップとして見つけようとも、必ず回収に向かうだろう。諦めろ」


 ひよりの目は真剣だ。当然、見えるルオも既に覚悟を決めいている。


「はっ、上等。それに生憎、俺は命欲しさに恐れ戦くような性質でもない。第一、それが友達の為なら尚更躊躇う理由なんてない」

「……」


 彼の言葉を聞き、彼の迷いのない目を見てひよりは黙る。

 そうして沈黙を終えて出て来たのは、呆れたような溜息に交った台詞だった。


「そうかあ、だよなあ。この程度で引き返していたんじゃあ、おじさんの弟子としては失格だなあ」


 ウーンと腕を組んで唸り、白衣の中へと右手を突っ込む。出て来たのはカルビ――な、わけはない。

 白銀の刀身を持つ大剣。鞘から刃を抜き出して、鞘は後方へ放り投げた。カランと乾いた音が響くのと同時に、彼はルオへと踏み込んで来る。


「――!!」


 ドン! と、ルオが右手でエリの体を押した。当然彼は衝撃に耐えることも出来ず、後ろの方で豪快に尻餅をつく。キン、と甲高い音がした。

 ハッと目を向ければ、大剣に抗う細い刀剣が目に映る。それはPLANTの刀剣だった。


「ほーお! 詠唱無しで変化させたか、上出来だな!!」

「っち……!!」


 反射的に振りかぶった首輪は勢いのまま、普段から使用している刀剣の形を帯びる。それだけルオの精神が昂っていたということなのだろう。

 ひよりの進撃を真っ向から受け止めたことで、ルオの顔が苦痛に歪む。塞がりきっていない傷に響いているようだった。しかしそのような甘え事を言っている場合ではない。

 ガチ、ガチ、ガチと刃の触れ合う音がする。エリはどうすることも出来ず、その場に座り込んだまま唖然と彼らを見ていた。

 ひよりが後ろに跳び、間髪入れずにもう一度攻め込んでくると今度は激しい攻防戦となった。キン、キン! と何度も激しい音が破裂するように響いている。


「オラ、オラ! 防いでるだけじゃあ前とおんなじだろうがよお、少年!」

「くっ……」


 前と同じ――だが全然違う。以前の中庭でのアレはただの腕試しであり、今はそんなものではない。負けは許されない。

 喋ってると舌を噛むぞという嫌味をもう一度吐いてやろうとも思ったが、ルオは口を閉じた。そして別の台詞を彼に伝える。


「俺、はね……今まで自分が死なないために戦ってきた。命令に従って、戦ってきた」


 攻防戦を続ける最中に、ポツリポツリと言葉を零していく。ひよりにはしっかりと聞こえていた。だからと言って、攻撃の手を休めることはない。

 カン! PLANTの刀剣でひよりの体を微かに弾き飛ばす。


「でも、今はそんなんじゃねーんだよ……そんなその場凌ぎの、空っぽな理由なんかじゃねーんだよ……!」

「なッ」


 ゲシッ!

 ルオが至近距離にいたひよりの腹部に一蹴食らわせた。油断していたのか、それを諸に受けた彼はよろける。ルオは彼が隙を見せている間に刀剣の柄に両手を添え、左右へ割いた。瞬く間にPLANTの刀剣は双剣に姿を変える。


「諦めたりなんかしない。今まで生きることすら諦めてきたんだ、折角生きる希望を彼らに教えてもらったのに、それを簡単に諦めたり出来るもんか。俺は、俺の大事な友達を守るために戦う。それを邪魔しようとするなら、例えひよりであろうと容赦はしない!」


 腹部を押さえているひよりに、矛先を勢いよく向けた。彼の眼差しは真剣そのものだった。そのことに、ひよりは今更ながら気が付く。

 小僧のくせに生意気な、と口角が引き摺りあがった。


「じゃあ教えてやろうか。オズくんはこの階のどっかにいる。あとは手前さんが探すことだな」

「え……」

「ただし」


 スッ。ひよりもルオと同じように、大剣の矛先を彼に向けた。揺るぎない意志のように。


「おじさんを退けることが出来たらの話だ」

「……そうだろうと思ったよ」


 ダン!

 ルオは床を蹴り上げ、ひよりに切りかかる。彼はヒラリと身を翻して避けると、仕返しとでも言うようにルオの腹部を蹴った。傷口を的確に狙って来ていた。


「うぁっ」


 思わず悲鳴を上げそうになる。しかしなんとか耐え忍び、代わりに彼の足を引っ掴んだ。バランスを崩すひよりに向けて、ルオは刀剣の柄で彼の顔を手加減なしに殴った。

 互いに再び距離を置いて、体制を整える。


「は、傷を狙ってくるとか卑怯」

「まだもう少し酷いと思ったがなあ……流石治るのは早いな」

「そりゃどーも」


 口の中が切れたのだろうか、ひよりは口元を拭っていた。血が付着している。一方ルオの傷口からも血が再び滲んでいた。

 互いに一歩も引かない一騎打ちを続ける。それをただ眺めていたエリは、どうしても分からないことがあった。


(彼らは仲睦まじく見えるというのに、どうして、真剣で殺し合っているんですか……?)


 分からない。仲が良いなら戦う必要がないはずだ。それを二人は知らないのか。何故戦うのか。ルオが先ほど言っていた言葉に、何か理由が隠されているのか。


『俺は、俺の大事な友達を守るために戦う』


 友達を守るために。確か、彼と出会ったばかりの時に友達と呼ばれた。しかし会って数秒の人物に、どうしてそこまでするのだろう。

 会って数秒じゃない、ということだろうか。


(僕は、忘れている……?)


 薄々感じていたが、ここまで鮮明に考えたことはない。記憶を失っているなどあり得ない。第一自分のことも、私生活の過ごし方も道具の使用方法も分かる。ただ、彼らのことを知らないだけだ。


(本当に?)


 自問自答を繰り返す。だが誰も答える者はいない。当然自分の胸中にもいない。それなら自分は一体誰なのだ。エリであって、エリでない。分からない、分からない、分からない。

 益々分からない。


「――痛!」


 高い悲鳴に我に返る。顔を向けた先では、ルオが膝を付いていた。右手で必死に抑える腹部からは血が流れている。一方ひよりの方も、顔や腕に切り傷が幾つも出来上がっていた。しかし見るからにルオの方が重症である。


「怪我人はねんねの時間だ。諦めろ」

「っは、はぁ……ぐ」


 金髪の少年の、右手の平が赤く染まっている。恐らくひよりが弱点を突き続けていたのだろう。彼は矛先を向けて、一歩一歩ルオと距離を詰めていく。

 ――降参しないと、少年は殺される。エリでも安易に想像出来た。


「ルオさん……! もうやめましょう、やめて下さい! こんな無意味な戦い駄目ですよ!」

「!」


 だからこそエリは思わず声を上げる。瞬間、ルオはビクリと肩を震わせた。そしてゆっくりと振り返ると、……悲しそうに、微笑んだではないか。


「え……」

「大丈夫、だから」


 まるで赤子をあやすように、宥めるように。「心配しないで」と唇を動かして、再び彼はひよりを睨みつける。


「何が大丈夫だあ、殺されないとでも思ったか? 甘いなあ。言っておくが、手前さんに手を焼いてやっていたのは、旧友に頼まれたからであっておじさんの意思じゃあない。つまり」


 ひよりは大剣を振り上げる。


「死ね、ガラクタ」

「――!!」


 刹那。

 ――ガンッ!


「なッ!?」

「死ぬならてめーの方だろ、老害」


 ルオが横に跳び退いた。避けているだけでは勝てないことは、彼も重々把握している。しかし今まで通り攻め込んだところで自分に分が悪いのは分かり切っていた。

 幸いひよりの大剣が床にぶち当たっていることから、彼の巻き返しには数秒要する。ルオが素早く斬りかかれば、彼の白衣を引き裂いた。血が微量しぶく。――微かに刀剣が震えた。ひよりはよろけ、また先ほどのような攻防戦が繰り返されることとなる。

 しかし先刻とは違い、ルオは幾度か隙を見つけると蹴りを食らわせて始めた。右腕の刀剣で攻撃を受け流し、左腕の刀剣で身を裂く。ルオはひよりよりも小柄で、華奢。何より経験値はひよりの方が上である。彼との戦いにも慣れてきたのか、最初よりも動きは鈍るどころかむしろ良くなっていた。だが、決め手に欠ける。

 ――これ以上、時間をロスするわけにはいかない。


「はぁっ、はあ……」

「中々しぶとくなったなあ」


 ひよりが笑う。破けた衣服の隙間から、タトゥーのようなものが見えたが気にしてはいられない。


「でも、そろそろ終いにしようや」

「…………」


 ルオは彼を睨みつける。その時、声が聞こえた。


 〝――刀剣を、――〟


 耳から入ってくる声ではない。頭に響く奇妙なものだ。


 〝刀剣を、地へ突き立てろ〟


 意味を察した。けれども意味は分からない。

 一体誰が、一体どういう意味合いでルオへ諭しているのか……。彼からの誰何に対し、誰も答えることはない。

 それと同時に、ルオには迷っている暇もなかった。

 眼前に目を遣れば、ひよりが再び斬りかかってくる姿。ギリギリまで引き付け、バック転で回避した。ズザザッと床に手を突き着地をすると、ひよりを睨む。そして声の通り、PLANTの刀剣を振り上げた。双剣がひとつの刀身になり、今まで傷一つ付けることの出来なかった床に――突き刺さる。

 瞬間、刀剣に呼応するように、地面が反り上がった。

 物凄い速さでひよりまで迫りよると、彼の体を飲みこむ。悲鳴のようなものが聞こえた。

 シンと静けさが訪れて、ルオは臨戦態勢を緩める。ヒリヒリと肌をあぶるような殺意が消えた。反り上がっているコンクリートの上を跳ねて、ひよりの姿を探す。そうして、すぐに見つけた。

 間一髪直撃を逃れたようだったが、半身をやられたのか蹲っているひより。痛々しい姿に、ルオの胸は思わず痛んだが、振り払うように首を振った。

 彼の元まで歩み寄ると、首元に刀剣を突きつける。ひよりの呼吸は微かに荒かった。


「はぁ、何だあ……今の。それも、その、刀剣の力か……そうか。まさかそこまで手前さんが使いこなせるようになってるとは、予想外だなあ……。確か、前回の公開処分でも、その刀剣はどうも」

「いいか、俺の質問にだけ答えろ」


 ぐ、と矛先で彼の顎を上げる。無駄口はいいとでも言うように。

 碧眼と赤い目が、暫く睨みあった。ルオは近くに落ちていた大剣を一瞥して踏みつけると、問い掛ける。


「出口は何処だ」

「……」


 閉塞。早く言えとばかりにルオは刀剣を押し付けた。プツリ、と彼の皮膚が破けて血が垂れる。

 ひよりの視線が彼から外れ、自らの右手にいく。言うことをきかない半身。のどには刃。体中の痛みに感覚がマヒしており、破けた皮膚の痛みは感じない。しかし間違いなく、切り裂かれてしまえば死ぬ。


「負けた、なあ」


 観念したひよりは、右手をユルリと持ち上げて……一方を指した。暗い闇がある。

 ルオは指先を視線で追って、やがて納得したように刀剣を彼から離した。続いて足で踏みつけていた大剣を拾い、そして。

 ――ザグッ!


「グアアァッ……!!」

「ひよりのバカ」


 彼の太腿に突き刺した。ひよりが悲鳴を上げる最中に、ボソリとルオは何かを呟く。


「――うそつき」


 痛みによって、思わず閉じた目。薄く開けてみれば――そこには、今にも泣きそうなルオの碧眼があった。唯一心を許していた人間に裏切られた、憐れな人形がそこには在った。

 ……ともあれ、行く手を阻んでいたひよりの動きは、確実に止められた。それを今一度確認し、ルオは未だに座り込んでいるエリの手を掴む。立ち上がらせようと腕を引いたが、彼は中々腰を上げない。


「エリ?」

「あ、ご、ごめんなさい。腰が抜けたようで」

「…………」


 彼の言葉を聞いて、無理もないと納得する。なんとか彼を近くの牢屋に入れると、強く言って聞かせた。


「俺はオズっていう友達を見つけて来る。それまでここを動くなよ。……これをあんたに預けておく。もしも誰かが襲ってきたりしたら、これを使って」

「あ……」


 そう言ってエリに手渡したのはPLANTの刀剣だった。エリが受け取ったのを見届けると、ルオは素早く立ち上がる。牢を出て倒れ込んでいるひよりを蔑むように一瞥すると、暗闇の中を駆け出した。

 シンとした廊下。ただ、ひよりの荒い息遣いだけが反響している。最中、独り言のように男は呟いた。両腕を己の目の上にやって、視界を隠すように。――いや、表情を隠すように。


「馬鹿野郎……おじさんはPLANTのスタッフだぞ。大人にも大人の事情があんだ。スタッフの面目くらい、守らせろ……ルオ君」


 腕の隙間から透明の雫が一筋だけ零れ落ちる。破けた左の肩口から、歪なタトゥーが覗いていた。

 それから数分とも経たないうちに、施設内に赤いランプが灯る。

 ――ジリリリリリリリイ!!

 激しい警鐘を鳴らして、スタッフたちを叩き起こし始めた。しかし実際に起き上がってくる人数はとても少ない。何故なら、ここ最近とある人物の所為で何度も警鐘が鳴らされていたからであった。どうせまただろ、とスタッフの大半は布団の中で寝返りを打つだけである。

 ルオが鳴りだした警鐘に焦りを覚えて檻の中を見て回っていると、部屋中に張キャンバスや絵描き道具が散乱している部屋を見つけた。食い入るように中を見つめ、姿を確認する。


「オズ、オズ! 起きろ、オズ!!」

「……え、ルオ!?」


 警鐘によって、彼もまた眠りの淵から這い出ていたようだ。ルオの声を聞くと、慌てて飛び起きる。鉄格子越しに互いの姿を何度も確認した。


「どうしてここに」

「そんなことより、逃げるぞ!」

「え……?」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃。唖然としているオズを置いて、ルオはこの鉄格子を開ける策を練っていた。

 PLANTの刀剣をエリに預けたことで、今のルオは手持無沙汰だ。ピッキングなどという器用な芸当が出来るわけでもないため、他に何か牢を破けるような物を探す。当然そんなものはない。


「逃げるって、どういうことだよ」

「あんたが処分されることは知ってる。当然オズ自身も知ってたんだろ」

「!」


 目も合わせず片手間にルオが答えれば、オズは目を見張った。どうして知っているんだとでも言いたげだったが、一々答えていられるほどルオに時間は残されていない。

 焦る彼を余所に、オズはどこか苦しげに顔を歪ませた。視線を逸らすと、弱々しく呟く。


「僕なんかが行っても、おまえの足手まといになるだけだよ」

「今はそんなこと言ってる場合じゃないんだよ、いつもの卑下なら後でいくらでも聞いてやるから……!」

「これは卑下じゃない!!」


 ビクリ。オズの叫び声に、ルオは肩を震わせ後退した。怯えたように「オズ?」と彼の名前を口にする。

 彼の手はしっかりと鉄格子を掴み、震えていた。


「この警鐘、おまえに関係してるんだろ? おまえ、ヤバイことしてるんだろ? だからそんなに焦ってるんだろ? だったら尚更ダメだ、ルオはどうせ……自分はどうなっても構わないとか思ってんだろ」

「な……」

「アハハ、図星? だろうな。ルオはそういうやつだし、分かってるよ」


 彼の綺麗な双眼が、皮肉に歪む。ルオは何も言い返せず押し黙った。警鐘は尚も鳴り続け、赤いランプが廊下を染め上げている。

 クルクル、クルクル回って二人の影を浮き上がらせる。


「おまえだけでも逃げるんだ。おまえはもっと、自分を大事にするんだ。僕はルオに、幸せになってほしいんだよ」

「…………」


 ルオは深く俯いた。分かったと、小さな返事をオズは待った。しかし、ルオが吐き出したのはそんな弱々しいものではない。


「ふざけんな……」

「ふざけてなんかない。僕は真面目に言って」

「それじゃない!!」


 ガシャンッ!!

 叫んだと思うと、彼は鉄格子を一蹴した。大きな金属音が響く。思わずオズは檻から離れた。驚いたように瞬きを繰り返し「え? え?」となんとか状況を把握しようとしている。


「あんたは俺に友達を見捨てろって言うのかよ! それともあんたはまた、俺がそんなやつだと見下してんの!? 何それ、すげームカつく。あんた逃げる逃げない関係なくそっから出て来い、一発殴ってやる」

「え、ええええええ!!」


 どうしてそうなるんだ。ガタガタとオズは震えあがる。出て行くどころか、これでは尚更閉じこもってしまうような説得。まだ説得する気があるのかどうかも怪しい。


「俺にも、エリにも! ……オズの力が、必要、なんだよ」

「る……ルオ?」


 途端に彼は声のトーンを下げ、請うように鉄格子へ額をくっ付けた。カシャン、と金属音がまた鳴る。


「今だけじゃない、これからもきっと。エリもね、あんたと同じように処分されることが決まって……それで俺はPLANTから逃げ出すことを決めた」

「…………」


 オズは息を飲む。鉄格子を掴むルオの手が強まった。遠くの方で、スタッフの叫び声や数人の足音がバタバタと聞こえる。

 監視カメラがある以上、位置を特定されるのは時間の問題だ。


「お願いだから一緒に来て。他の誰でもない、オズの力がいるんだよ。エリを守るために、あんたを守るために……何より、自分を守るためにも。欠けちゃいけないんだよ。お願い」


 ルオが力なく頭を下げたことで、彼のつむじがオズの目に入る。そうして、思った。

 ――今まで、彼と出会ってから。彼がここまで人に物を頼んだことがあっただろうか。そもそも自分は、ここまで人に求められたことがあっただろうか。

 目の前の光景が受け入れられず、唖然と眺めてしまう。感情を映す彼の目には、ルオの感情も見えていた。――綺麗な色が、見えていた。

 この色が周りの汚れた色に犯されてしまうと考えれば、恐ろしかった。


「――ルオ、離れて」

「オズ……」

「怪我したくなかったら、離れて」

「え」


 オズは鉄格子から離れると、木箱から筆とスケッチブックを取り出す。左手で何かをサラサラと描くと、口を開いた。その言葉は桜の花を具現化した歳と同じものだった。


「出でよ、大理石をも両断せし無敵の刃――聖剣デュランダル!」

「!!」


 描かれた絵が眩く輝き、オズは何かを握りしめる。ずず、と紙から出てきたのは美しい刀身を持つ剣だった。

 ――ガシャン!!

 覚束無い足取りで彼は剣を振るうと、鉄格子の鍵を切断してしまう。ギイ、と扉が情けない音を立てて開いた。


「それで、僕は次に帆船でも具現化すればいいの?」

「……さっすが、我らの画家さん。ご察しの通り」


 PLANT_F班は孤島に存在する。つまり脱出するには船が必要になるということを、オズは分かっていた。見事にそれは的中。

 牢屋の中からオズが出るのを確認すると、ルオは手短に作戦を伝えた。


「ここを真っ直ぐ行くと、何か地面が凄いことなってる場所がある。ひよりが倒れてるけど無視しろ、いいな。エリが隠れてるから、一緒に……ここへ」

「ちょっと待って、色々とツッコみたいとこあったんだけど」

「行けば分かるから! いいからこれに描かれてる出口で集合!」


 腑に落ちないといった顔をしているオズに無理矢理紙を押し付ける。素早く去って行こうとするルオの背に待ったを掛けると、オズは今しがた自分が使用したデュランダルをルオに手渡した。


「手ぶらで敵陣に突っ込んで行くとかバカがすることだろ。見たところ、おまえの得物はないようだし……でもその剣はいずれ消える。覚えておいて。ほら早く」


 ――本当は引き留めたかった。


「うん、分かった。ありがと、オズ!」


 ギュッと柄を握り締めると、彼は一人で駆け出した。背中を黙って見送ると、オズも同じく指定された場所へ行くために走りだす。慣れない全力疾走だが、つべこべ言っていられない。と、言っても……オズの走るスピードはとても遅かった。

 走る最中に、地図を把握しておこうと渡されたメモに目を遣って、一声。


「何これ分かり難っ!?」


 当然の感想だった。

 ルオはこんなものを頼りに出口を探しに行ったのか、なんて無茶な。などと呆れて物も言えないが、今は自分の役目を果たすしかない。ただ走るしかない。

 幸いまだここまで人はやって来ておらず、暫く走り続けるとルオの言葉の意味を察する場所へやって来た。


「ほ、本当に地面がなんか凄いことになってる……」


 彼の言ったことが本当ならば、この近くにひよりがいるはずだ。無視しろと言われたが気になってしまい、オズは辺りをキョロリと見回す。しかし彼らしき姿は見当たらなかった。

 代わりに幾つもの血痕が目について、ひより探しをオズは早々と中断した。

 エリを探そう。と、意気込んだものの……彼はすぐ見つけることが出来た。鍵の開いた牢屋の奥に、息を潜めている青年が間違いなくエリだ。


「エリさん、よかった見つけた!」

「ヒッ!? だ、誰ですか……?」

「え……」


 オズの動きが止まる。ルオは焦っていたために、説明を欠いてしまったのだ。エリが記憶を失っているという情報について。

 しかしオズは「ああ、包帯を外してるから分からないのかな」と簡単に自己解決してしまう。


「オズだよ。分からないのも当然かもしれないけど……ルオに言われてエリさんを探しに来たんだ。早く行こう」

「オズさん……」


 エリは記憶の中を廻らす。確かにルオが去り際に彼の名前を言っていた。つまり仲間ということだ。ルオの、友達というもう一人のことだ。

 信用出来る。


「ですが、これが」

「え?」


 困ったようにエリが何かをオズへ差し出してくる。それは萎れた首輪だった。金色のドッグタグには〝RUO_NO.K-57θ〟と書かれている。

 前回の公開処分を見ていたオズにはすぐ分かった。ルオはエリにPLANTの刀剣を預け、そして刀剣は首輪の姿に戻ってしまったのだと。それをエリは困っているのだと。


「ごめんなさい。僕には刀剣にする方法が分からなくて……」

「そうですか……あれ?」


 ふと、彼は声を上げた。どうしたの、とオズは首を傾げる。エリはオズの後ろを見つめていた。何だろうと彼が振り返ろうとした、瞬間。

 ゴッ!


「うあっ!!」

「オズさん!?」


 後頭部に衝撃。いとも簡単に彼はエリの隣へ倒れ込んだ。鉄格子の周りを、いつの間にやらスタッフ数人が取り囲んでいる。


「言え、57θは何処だ」

「え……?」

「57θだ」


 エリには何のことだかさっぱり分からない。スタッフの中には彼が記憶障害を起こしていることを知っている人物もいたのか、視線を隣で倒れ込んでいるオズに向けられた。

 胸倉を掴み上げ、短く問う。


「答えろ、57θは何処にいる」

「……」


 薄らとオズは目を開けて、男を見る。――汚い。動きの鈍いチョウが舞う。彼らの回りには、黒々とした靄が掛かっていた。普段は何の色も出していない彼らが、感情を露わにしている。

 しかもオズやエリには目もくれず、ただ一身に57θ、57θと。


(ルオにしか興味がないのか?)


 それとも彼は、そこまで重要な人物なのか。ジンジンと痛む頭では何を考えても分からない。

 ゆっくりとオズは右手を上げると、男の腕を掴んだ。そして唇を割る。


「言うわけないだろ……。友達を、売るような真似出来るわけない」

「オズさん?」

「ハハ、アンドロイドの分際で友達、か」


 ドサッ。オズが落とされ尻餅をつく。エリが彼に駆け寄るよりも早く、スタッフたちは何かを手にした。

 均一性のない包丁や鉄パイプ、金属バッドに鉈や鍬。寄せ集めとしか思えない得物。それらが何を意味するのか、誰でも容易に察することは可能。


「もう一度問うぞ。57θの居場所は何処だ。アイツの存在は多少厄介だ……あまり大事にも出来ない。協力してくれると言うのであれば、おまえの処遇も考えてやろう」

「…………」


 チラリ。オズの眼はスタッフたちが握る得物を一瞥する。その視線で退路を探してみるものの、当然そんなものはない。あったとしても、自分だけ逃げるわけにもいかない。

 答えなければ壊される。どうせ壊される身ではあったが、もう少しマシな死に際だっただろうか。――そもそも、マシな死に際とはなんなのか。

 ――ゴッ!


「う……」

「早くしろ」

「……それ……が、人に物を頼むときの台詞かよ……」


 眼前に立つ男性の手には鉄パイプ。オズのこめかみを軽く小突いて、言葉の先を促す。それを睨みつけて口を割った。このような状況にも関わらず、いつもと変わらない強い口調だった。


「アイツを、捕まえたいなら……勝手に捕まえたらいい。僕には、関係ない。……でも」


 しかし躊躇はない。いつも必ず後を付いて歩いていた怯えや恐怖心はなかった。スタッフたちを己の目で睨み、くすんだ靄に眉を顰めて――ゆっくり、やけにハッキリと言い放つ。


「僕は、アイツと僕の関係以上におまえらと関係ない。だからおまえらの手助けなんてしてやらないし、おまえらのために生きながらえる未来もごめんだ。その中身のない頭でもっと頑張って居場所を勘ぐってみればいいよ――弱味噌野郎」

「!」「!」


 スタッフが目を見開く。同時に、何故かエリも目を見張った。オズの虚勢に驚いたから、というわけではない。……既視感があったのだ。

 聞き覚えがあるような台詞であったが、まったく同じではないのか思い出せない。頭を抱えるよりも早く、スタッフたちに動きがあった。

 オズに突き付けられていた鉄パイプが外れる。


「それが答えか……なるほど」


 ゾロゾロ。ゾロゾロとオズの周りをスタッフが取り囲む。そして無言で彼らは得物を掲げると――。


「それなりに、残念だ」

「――ッヒ!」


 エリは目を見張った。

 男の一言が合図だったように、彼らは皆一斉にソレを振り下ろしたのだ。途端にエリの頭の中は砂嵐が吹き荒れ、混乱し、瞳孔が暴れ出す。

 目の前で倒れるオズに、スタッフたちが、得物を。スタッフたちが。手に持った。得物。オズに、刺して。刺し。オズが、オズが。友達。目の前で倒れている。刺さっている。刺された。友達。友達、友達、友達。

 ――壊れた。


「ァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」


 壊れたのは、彼か。それともまた、別のものなのか。形容しがたい、別の、かけがえのないものが。


「煩いな、コイツも処分日は確定しているんだったな」

「仕方ない、壊しておくか」


 エリが発狂する中で、スタッフたちが興味もなさそうに言葉を交わす。

 彼らはオズの体を跨いでエリに近付いて行った。エリは己の耳を塞いで、頭の中を流れてくる走馬灯のようなものを凝視する。


『僕はもう直に死ぬし別にいいもん、別にいいもん!』

『そうやって永遠と駄々捏ねやがって、往生際が悪いんだよ!』


 頭の中で言い争いをしているのはルオとオズか。彼らは仲が悪かったのだろうか。


『ネコ、ネコぉぉおおお!!』

『本当に、猫が嫌いなんだなルオは……』


 ならばどうして、こんなに胸が温まる感覚がするのだろう。何だかとても、楽しかったような気がする。

 ――気がする?

 違う、違う。そうじゃない。楽しかったんだ。楽しかったんだ。


『やる前から諦めてどうするんですか!』

『僕たちはおまえの夢幻の可能性を信じているぞ、ルオ!!』

『今こそその真の力をこの大河に向かって解き放つのだ!』

『持ち上げるな盛り上げるなテンション上げるなああ!!』


 全て本当にあったこと。彼らと過ごした大事な時間。どうして忘れてしまっていたのだろう。目の前で倒れている彼も、先ほど身を挺して戦っていた彼も。彼らを止めようとしていたあの人も。


 みんな、大事な人だというのに。

 のに。


「アァ…………、……」

「ようやく黙ったか」


 発狂したため、開きっぱなしになった口。突如として彼の喚き声が止み、静寂が数秒続いた。――そして。


「――よくも」


 ユラリ。エリが立ち上がる。右手に握られた首輪が彼の感情に呼応するように、ドクリと姿を変え始めた。

 突然立ち上がったエリに、スタッフたちは動揺を隠せない。


「よくも、僕の大事な人たちを傷つけましたね」


 首輪は形を変えて、歪で狂気的な形を帯びて彼の両手に身を寄せる。エリの両手には、長く弧を描いた鉤爪が装備されていた。常闇で、赤いランプに照らされ気味悪く光る。


「何を言――」


 ザシュッ。一歩前に出ようとしたスタッフが、咽喉から血を噴き出しながらゆっくりと後ろへ倒れた。鉤爪には赤い液体が滴る。

 ドサリ。ピク、ピクと指先が痙攣を起こして、大人しくなった。切り裂かれた首から滞りなく液体が流れ続けている。次第にそれは大きな血溜まりに成長した。


「う、ウワアアアアアアアアアア!!」


 スタッフの誰かが叫ぶ。そこからは何が何だか分からず、ただただ血溜まりばかりが幾つも出来上がっていた。


「え、り……さ……」


 未だに意識を保っていたオズが、首を締め上げられる鳥のような声で彼の名を口にする。あまりにもか細い声はスタッフたちの断末魔によっていとも簡単に掻き消された。

 彼の眼に映る世界は真っ黒だった。その中心にいるのは、他の誰でもないエリの姿。信じられないと目を背けたくなるが、彼を止めなければという理性もある。しかしながら体が動かない。


「ダ、メ……だ。エリ、さ……やめて……や、め。その色に、染められ、ちゃ……戻れなく、な、蝕まれたら、負けてしま、――」


 ――プツン。オズを操る糸が途切れた。伸ばしていた左手は、傍から流れ出てきた血に浸食されてゆく。

 エリは彼の姿を目で一瞥すると、その場を去った。人の姿は幾つもあるというのに、既に誰も口を持たない。ヒトからモノへと変わり果てていた。

 そこへ、ベチャリと水音を立てながら近付いて来る影。


「ふあーぁ……。こんな夜中に一体何の騒ぎなんですぅ?」


 眠そうにゴシゴシと己の目を擦り、呑気に欠伸をした。特徴的な口調と、桃色の頭髪。ノイズだった。寝ぼけ眼のまま「んぁ?」と違和感を覚えた足元に目を遣って、硬直。

 精々スプリンクラーの水、又は機械から漏れ出した油か何かかと思っていたのか唖然としている。死の臭いを嗅ぎつけることが出来なかったのは、まだ大した時間が経過していないからか。

 辺りが暗いため、ノイズはオズの姿に気付くことはない。


「まさかこんな早くに……」


 途端、彼の口元にはニタリと不気味な笑みが浮かんだ。


(パクッたD_ANDROIDリストとPLANT施設見取り図のメモ、忍ばせといた甲斐ありましたか)


 そう。あのメモを書いた犯人は彼であり、洋服と共にルオたちの部屋へ置いたのも彼であったのだ。解読困難な地図を思い返せば納得出来る。


(あの人に無かったのは戦う意志。もしかするとクーデターかレボリューションくらい起こしてくれたりしないかなぁーなんて期待はしてましたけどぉ)


 チラリ。辺りに散乱した死体に目を遣って、感心するように呟く。


「まさかのジェノサイドですか」


 死屍累々。集団殺害。大量殺戮。ルオに何か期待を寄せれば、いつも彼は予想の遥か斜め上の返答を見せてくれる。

 もしかして、もしかすると。彼は自分が思っている以上に敵わない力を備えているのではないのかとか。並大抵では想像も出来ない秘密を孕んでいるのではないのかとか。

 想像するだけで楽しくなってきてしまう。

 彼が上機嫌に浸っていると、何処からか「オ、オイ」と声が聞こえた。自分が呼ばれたのだろうかとノイズは辺りを見回す。

 声の主は隅の方に縮こまっていた。陰に身を寄せており、腰を抜かしているように見える。


「オイ! 貴様16だな、NO.I-16だな!?」

「……うぃーっす」


 床を四つん這いで進み、ノイズの足に右手を添える。I-16というのは紛れもないノイズのシリアルナンバーだった。相手がスタッフということもあり、ノイズは素直に返事をする。


「助けろ、守れ。あの狂ったガラクタからおれを守れ!」

「はぁ」


 彼の足首を掴む手の力が増した。あくまで上から、必死に懇願する男をノイズは冷ややかな目で見下ろしている。そうして男の腕を掴むと、片手でいとも簡単に立ち上がらせてた。小さな体でも、ノイズにはそれなりの腕力があるようだ。

 男の白衣には、誰のものかも分からない血液が染み込んでいる。


「よし、よし、いいぞ。おれの傍から離れるんじゃないぞ」

「あぁー、何と言いますかぁ」

「どうした」


 かったるそうな間延びした口調でノイズは口を開いた。男は訝しげに先を促す。最中、ノイズは後ろ手に得物を握りしめていた。ソードブレイカーだ。凹凸の刃が目を引く。


(もう、いいや)


 ――そうして、彼は行動に出た。


 ブツリ、と何かが引き千切れる音が男の頭に響く。一体何が起こったのか理解するのには時間を要した。しかし結局彼が理解することはなく、ただただ突然襲いくる激痛に阿鼻叫喚するだけである。


「アッ、あああああぁぁあぁ、アアアアァァアアアアアアアアアアアアァァァァ!! 目、あ、アアァァ!」


 ノイズはあっさりと男の腕から手を離した。腕の支えを失った男は血溜まりの中に平伏しもがき続ける。彼の右目に深々と刺さっていたのは、殺傷能力の低いソードブレイカーだった。

 そんな彼にノイズが吐き捨てた台詞は


「アンタさぁ、バカじゃんねぇー?」


 ゲシ。男を軽く蹴る。その程度の打撃に構っている余裕はないのか、相変わらず男は発狂し続けていた。眼からボタボタと血液が流れ出している。


「何でオレがアンタなんかを守らないといけないわけぇ? マジ意味わっかんねぇ。冗談ほざくヒマあんならぁ、もっとオレを楽しませれるような悲鳴を上げてみろよぉ!」


 彼は腰を屈めると、男に突き刺したソードブレイカーの柄を掴んだ。グリグリとやけに勿体ぶりながら彼の眼窩から刃を引き摺り出す。滴る液体に眉を顰めて、男の側頭部を刃で殴りつけた。

 ゴン! と、跳ね飛ばされた男の頭がコンクリート壁にぶち当たってひしゃげる。

 獲物を振り払って血液を煩わしそうに跳ね飛ばした。ノイズには既に真新しい返り血が大量に付着している。

 一歩、一歩未だに意識を残している男に近付いて、己のピアスに右手を掛けた。真ん中に指をつっこみクルクルと回し、遠心力で飛ばす武具。先日の公開処分により初披露目をしたチャクラムだ。


「しかもすっげぇーつまんねぇーしぃー! ヒマつぶしにもなんないよぉーな劣悪種なんてさぁあ……!」


 ヒュン、ヒュン、ヒュンと空を切る音が鳴っている。ある程度男との距離を詰めると、彼は愉快そうに叫んだ。


「せめて嗤える醜態曝しながら、脳髄ブチ撒けてさっさと死ねばぁ!? 見届けてやんよぉ!!」


 手首のスナップを利かせて、チャクラムが放たれる。一直線に男の方へ跳んでゆき、そして――。

 ――カンッ!


「なッ」


 弾かれた。

 突然割って入って来た何者かが持っていた得物でノイズの進撃を防ぐと、そのまま後ろ手に男の頭を突き刺す。即死だった。

 バタリ、と体に血を染みこませながら男は倒れる。

 ノイズは目を見張って影の正体を睨みつけ、ガクリと深く首を垂れた。そうして、ゆっくりと顔を上げながら低い声音で彼に問う。前髪の隙間から、彼の両目がギラリと輝く。


「一体何のつもりなんです、ケイ先輩」

「……」


 赤いランプに照らされる彼の姿は、いつもの青ではなく紫にも見える。ケイは右手に持っていた大きな槌を床に突くと、ノイズから目を逸らした。


「彼に対する暗殺命令はあったのかな、ノイズくん」

「うっ」


 ケイの言葉に彼は言葉を失う。それを指摘されると弱かった。

 次いで目を逸らしてしまったのはノイズの方であり、ケイは呆れたように溜息を零す。


「黙って見てられなかったまでだよ。必要以上に苦しめて殺す必要もない。……あなたが、自暴自棄になることも」


 ピクン。ノイズの眉間が引きつった。自暴自棄という言葉に反応したのだ。しかしあえて己の墓穴を掘るようなマネはしない。


「…………何ですかぁ、オレのこと捕まえて処分でもしたいんすかぁ?」


 勝ち気に笑むと、ノイズは左手に持っていたソードブレイカーを右手に持ち直した。だが、そのような幼稚な挑発に乗るほどケイは単純ではない。

 ユルユルと首を左右に振って、彼に告げた。


「僕には、あなたの破壊行為に対する罰令はでていない。ノイズくんを壊す理由なんて今のところないよ」

「キャハハハ! さっすがケイせんぱぁーい。オレぇ、優しい上司を持って幸せですよぉ」


 途端にノイズはカラカラと笑い始める。右手にあった得物を鞘に収め、縮んだピアスを拾いに軽い足取りで歩く。ヒョイと指先だけで拾うと、簡単に血を拭っていた。

 打って変わり、ケイは神妙な面持ちで目を瞑っている。

 恐らく最初からノイズは分かっていたのだろう。彼が自分に対して得物を向けることはないと。横目で彼の表情を見て、クスリと笑みを零した。


「なぁに辛気臭い顔してんですぅ? 折角こんなに楽しいイベントが起きてるっつぅのにぃ、便乗しない理由なんかないっしょぉー!?」


 そしてノイズはケイの顔を覗き込みながら煽る。しかしケイは沈黙を決め込んだままだ。ノイズが機嫌を損ねることはなく、むしろまったく気にしていない様子。

 飽きたようにその場から離れると、彼はケイに笑顔を向けた。


「ってことでぇ、オレはルオ先輩のクーデターに一役買わせてもらって来まぁーす!」


 では!

 明るい声。まるでこれから祭りに参加する子どものようなはしゃぎっぷりで、彼は駆け出そうとした。その僅か数秒後。


「アサシンアンドロイドとして、裏側でコッソリですけどぉ。定期的に殺しまくんねぇーとねぇ……キャハハハハッ」


 ニタリ。狂気に身を任せ抱かれた面持ちで笑ってみせた。ケイの背筋にゾワリとした、恐怖にも似た何かが這いあがる。

 ――察した。ノイズはこの騒ぎに便乗して、あたかも真犯人が殺したように見せかけつつ自分が殺害する気なのだろう。己の欲望が満たされるまで、気の向くままに。

 確かに彼は、普段から仕事を与えれば好き放題殺していた。助けるつもりなんて毛頭ないくせに、わざと命乞いを煽らせることもしばしば。助かるという希望をチラつかせておいて、終わらせる。

 首をギリギリと絞めつけながら、中々出てこない言葉を必死に語らせる拷問。四肢の末端から切り落としていき、即死には至らせない。簡単に殺したりなどしない。じわじわと、散々絶望の淵を歩かせたところで始末する。

 遠方の外野に対してはチャクラムの牽制によって震え上がらせ掃討し、我を失い刃向ってくる相手の攻撃はソードブレイカーで受け流し圧し折る。逃げ出す隙も与えず、隠し持っていた微量の毒塗りダガーナイフで〝愉快な拷問タイム〟の始まり。

 彼の〝アソビ〟を終える際の台詞は決まってこうだった。――「飽きた」。つまらないと吐き捨て、今までの所業はなんだったのかとアッサリ終わらせる。まるで先刻までの彼が別人格だったのではと目を疑うほどに、何事もなかったように。

 それが彼、アサシンアンドロイドの中でも狂気の中の狂気。永劫の常闇より這い寄る雑音――ノイズだ。


(先日の公開処分では、ホワイトタイガーの力を防ぐだけで精一杯だったらしいけど)


 彼は猛獣使いでもハンターでもないのだから、当然と言えば当然かもしれない。暗殺とは表に知られることなく、暗躍飛躍にターゲットを世界から退場させることを役目としているのだ。スピーディーかつスマートに。アサシンとしては当たり前の言葉だというのに、ノイズにはまったく当てはまらない。むしろ違和感に笑いが込み上げそうなほどだ。

 PLANTでも彼の扱いには、密かに困る節がある。しかし仕事の成功率は誰よりも高いために生かしている。何より、定期的に彼へ仕事を与えなければ、関係のない者さえも手に掛けるのではという畏怖も存在していた。先刻のように。

 それだけ彼は危険なのだ。

 ケイは思わず頭を抱える。額に右手の指先を添えて、小さく息を吐き出した。ふと思い出したのは、ノイズの言った「ルオ先輩のクーデター」という台詞。

 何故彼は、この異常事態の犯人をルオだと知っているのか。


(いくつかの監視カメラは破壊されているというのに)


 犯人が故意で壊して回ったのだろう。壊れたカメラの元へ足を延ばせば、大概誰もいない。まるで錯乱させることが目的のように。

 当然ノイズの所業が漏れる可能性もないだろう。彼が獲物を逃がさない限りは。


「これは本当に、ルオが……?」


 辺りに転がる死体の量。血の臭いが鼻を突き始めた。血液と脂が混ざった臭いだ。


(彼がここまで無意味に他人を殺すなんて、考えられない)


 アンドロイドを破壊することさえも拒絶していたというのに、それだけスタッフを――人間を恨んでいたということなのか。

 どれだけ考えたところで、答えを口にする遺体は何処にもない。死人に口はない。兎に角、騒ぎの中枢を目にしない限りは判断も下せない。――彼を見つけなければ。

 ケイは意を決すると、その場を後にした。人気のなくなった廊下で、赤く染まった影が一つゆらりと立ち上がる。


「……はっ、はぁ……はあ」


 己の体に突き刺さった刃を引き抜いて放り投げた。カランカラン、と乾いた音がする。

 やっとの思いで影は二足でバランスを保つと、壁を頼りに歩き出した。コンクリート壁にベットリと多量の血液を塗りたくりながら、ゆっくりと。

 最中――身に覚えのない容疑を掛けられているとも、裏で幾多の人々が倒れていることさえも知らないルオは走り続けていた。

 どれもこれも、見覚えのある扉ばかり。灰色の景色に変化はまったく見られない。


「はぁっ、はぁ……」


 流石に体力も切れてきたのか、息は乱れていた。しかし足を止めることは決して許さない。

 エリのことはオズに任せているが、心配は拭えない。今更引き返すことも出来ず、今の彼は走ることしか出来なかった。

 彼らを、自分を信じるしか。

 刹那、己の荒い呼吸音しか聞こえなかった廊下に――誰かのか細い声がささやかれる。


「……ぁ、……ち」

「!?」


 ルオの耳はその小さな声を聞きもらすことはなく、すぐに忙しなく辺りを見回し始めた。もしかすると追手かもしれない、エリたちかもしれない。誰だ。


「で、ぐち」


 ――出口。ルオは耳を疑う。確かに小さな声がそう言った。何故自分が出口を探していることを知っているのか……そのようなことを気にしている暇はない。

 ただただ、彼は声のする場所を必死に勘繰って……ある一点に目を付けた。粗大ゴミが積み上げられている鉄格子がある。

 ここしか考えられない。

 赤いランプを頼りに粗大ゴミを一つずつ退けて行く。――すると。


「ひっ」


 腕が出てきた。

 ダラン、と力なく飛び出ている生腕が。開き切った手のひらが、ピクリと動く。そして、ある方向をゆっくりと指差した。暗い廊下が続いていた。


「でぐち、あっち……はや、く。くる……」

「待ってろ、今助けるから!」


 思わず彼はそう叫んで、素早く粗大ゴミを崩さないように移動させていく。最中にも、その腕は「あっち、はやく」とばかり呟いていた。

 数分とも経たぬうちに、ルオは見つける。彼女の変わり果てた姿を。


「……あ、んたは」


 よくわからない小型のスピーカーを両手で持って、彼は呆然と呟く。視線の先には、片目や腕を失くしたアンドロイドがいた。ルオには見覚えのあるアンドロイドだった。


「アセビ……?」

「あっち、あっち、あっち」


 ガシャン、とその場にスピーカーを落とし、恐る恐る彼女の顔に手を伸ばす。生首だった。首からよくわからないコードが何本も垂れている。

 次いでルオはやっと気が付いた。この中には、壊されて使い物にも移植にも使えない残骸が数多く捨てられているのだと。これらのゴミは、PLANTの所有する巨大な処分施設に搬送するとも本で読んだことがある。


「なんで――」


 それ以上彼の口から言葉は出てこなかった。「なんでそんな姿に」などと言えなかった。もとはと言えば、彼女を破壊してしまったのは自分ではないか。

 しかし、そのような自分にどうして彼女は助言しているのだろうか。嘘を吐いて、攪乱でもするつもりなのだろうか。恨みを彼女は身ごもっているのだろうか。

 こんな姿になってまでも、恨んでいるのだろうか。


「ごめ、」

「はや、く。やつらが、くる。でぐちは、あっち――」


 彼女の口が止まる。失われた右の眼窩と左の瞳が、じっとルオを見上げた。そして彼女は、ボロボロの顔で微笑む。


「なかないで」

「!」


 当然ルオは泣いてなどいなかった。ただ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。彼女はそれを察したのだ。

 ――それ以降、彼女は二度と口を開かなかった。

 信じて、とも。嘘じゃないとも、彼女は言わなかった。あっちだとか、はやくだとか、くるだとか。なかないで、だとかそんな事ばかり。

 ルオはそっとゴミの中に彼女の頭を戻す。潰れないよう、ゴミに押し潰されてしまわないようにと、無意味な配慮を配って。


「――分かった」


 小さく唇を動かすと、彼はまた立ち上がった。そして、彼女の腕が指示していた闇の廊下へと駆けだす。廊下には彼の足音だけが響いていた。

 その数分後、訪れたのは大量の足音。バタバタと忙しなく、鈍くさい音が不細工に鳴り響いて、多くのスタッフたちが辺りを忙しなく見回していた。


「この方向は、まさか」

「逃げる気なのかしら」

「急ぐぞ!」


 思い思いに口を開いて、誰からともなく再び駆け出す。ルオの去って行った廊下を、一心不乱に突き進んで行ったのだった。

 アセビの言っていることは正しかった。出口の方向も、急がなければいけないことも。やつらが来る、ということも。ただ、その言葉の意味にルオが気付くのは、まだ少し先のこととなる。

 彼は再び闇に飲まれそうになりながら必死に走っていた。痛む体のことも忘れて只管に。眼前に立ちはだかる扉を押し開ければ、そこは別世界。彼は見たことのない景色に包まれた。

 あのコンクリート壁は一体何処。外面とでも言えばいいのか、だだっ広い廊下にはよくわからない装飾や、絵画などが飾られている。一定間隔で置かれた台にはご丁寧に花瓶も添えられていた。見たところ、床は大理石だ。

 思わず足を止めて、辺りを訝しげに眺めてしまう。ゆっくりと足を進めていると、カツンカツンとコンクリートとはまた違った跫然がほどよく響いた。

 まるでまったく違う場所に迷い込んだみたいだ。本当にここはF班なのか疑ってしまう。

 今しがた自分が入って来た扉は上手く壁と一体化しており、果ての見えない廊下の先に期待を寄せる。反対を見やれば大きな階段が見えた。これではまるで、どこかの王宮だ。


(実際に見たことなんかないけど)


 見えない廊下を歩き続ける。異様な雰囲気に危機感が違う意味を成したものに変わってしまう。知らない場所に一人とは、こんなに心細く不安なものなのか。


「――!」


 刹那、ルオが何かを察知した。素早く塵一つ落ちていない大理石の床に伏せて、耳を当てる。バタバタと足音が聞こえた。恐らく追手だろう。

 身を起こして、腹部を劈くような痛みに耐える。ダン、と思わず膝を突いた。包帯が赤く染まっている。


(無理しすぎたかな)


 普段通り大人しく過ごしていれば、とっくに治っていたはずだ。と、過去を悔やんでも仕方がないことは分かっている。そもそも大人しくなど出来るわけもなかったのだから。

 ――急ごう。

 重たい体に鞭を打ち、ルオは再び走った。スピードは明らかに落ちていた。


「……」


 その様子を見つめていた人影がひとつ。モニター越しではあるが、ルオの姿を把握するのに問題はなかった。

 彼は血だらけの腕を振り上げて、何かを機材へ突き刺す。ダガーだった。バチバチと電流や火花を一瞬散らして、機械はやがて黙りこむ。ダガーの持ち主、影の正体はノイズだ。

 既にこの管理室にいた人間は全て掃討し終わったのか、とても静かだ。足元には血が流れている。

 ――バチャン。


「!」


 そこへ何者かの足音が乱入してきた。ノイズは体を揺らし、素早く振り返る。

 部屋の電気は弱く、必然的に廊下からの赤い光が強かった。そのため、出入口に立つ人物の顔が逆光で見えない。


「ハァ、ハア……」


 呼吸が荒い。顔は見えないが、様子からして満身創痍。警戒したところで、すぐに殺してしまえば問題はないだろう。――ノイズは一人で結論付けて、構えたダガーを下ろした。


「アンタ運ないんじゃないんですぅ? 自分から殺されにきちゃいましたぁ?」

「……おま、え」

「クスクス。見たところ死にぞこないって感じですしぃ……つらいですよねぇー、折角ですからその顔もっとよく見させてくれませぇん?」


 命からがら生き延び、こうして逃げてきたというのに――殺される。その顔をよく眺めてやろうと、ニタニタ笑いながらノイズは影に近付いて行った。出入口に立つ影が逃げ出す様子はない。そもそも逃げ出そうとしたところで、ノイズがすぐ息の根を止めてしまうだろう。

 ――それが幸いしたのか。


「おまえ、どうして……そんな顔をして、殺してるんだよ」

「!? その声、アンタ、まさか」


 バチャ!

 血だまりに足を踏み入れた瞬間、ノイズは動きを止めた。目を丸くして影を凝視する。

 衝撃的な一言だったようで、出入口付近の影が動き出してもノイズは何もすることが出来なかった。影はその場にしゃがみ込み、足元の血に指先を沈める。

 ぬる、ヌル――。ゆっくりと指を滑らせて、何か描いているようだった。


「平面上、の、トロンプルイユよ……今、世界の彩と、……して、羽ばたけ」


 ボウ、と床が淡く光る。


「出でよ、真実の……鏡」


 息絶え絶えに詠唱をしたのは、オズだった。影の正体は先ほど手酷く体中を串刺しにされたオズだったのだ。

 血だらけの床から、赤い鏡が浮き出てくる。それを手に取ると、彼は座り込んだまま……鏡をノイズに向けた。


「ノイズ、おまえは、自分がどんな表情をしてるのかも、分からなかったのかよ。人殺すために……自分、殺して……どうするんだよ。おまえは、何のために、今……人を殺してるんだよ」

「空気、テメ……やめ……!」


 鏡の中には、返り血に染まったノイズの姿。驚愕の表情の自分と目が合った瞬間、彼は顔を逸らした。

 途切れ途切れに紡がれた言葉に目を白黒とさせて、自分を落ち着かせている。しかし不可能だった。乱れた精神に、思わず彼は顔を歪める。


「ぐっ、うぁ……!!」

「!?」


 ガクン。刹那、ノイズがその場に膝から崩れ落ちたではないか。オズもそれには驚いたようで、一旦鏡を置く。「どうしたんだよ」と問うよりも早く、既にノイズは復活していた。


「っは……アハハ。アッハハハハハ!! あーあぁー。やっちゃったぁー、あーあぁぁ!」

「のい、ず……?」


 ――違う。オズの青い眼が目を疑う。


(色が変わった……!?)


 彼の目は、人の感情を映す。人が持つ魂の色が、一時の感情がチョウとして見える。それがあからさまに変化した。


「オレのことどんなに根絶拒絶しようとも、縁切るなんてことできっこねぇーのにさぁ。一丁前にオレのことを制御しようとか……ホンット、バッカみてぇー」


 ノイズが一体何を言っているのか、オズには理解が出来ない。頭が追いつかない。視覚を頭へ情報化し伝達するのに、ここまで苦労することがあったか。

 彼の水色がオズの姿を捕えると、彼はニタリと笑った。

 そうして己のピアスに指を添えると、唇を弧に描いたまま楽しげに告げる。


「お礼に、アンタのこと……オレが看取って看送ってやんよぉ」


 水色が笑った。前髪に隠れた右目は爛々と獲物を捕えて離さない。……が、その目は見開かれた。それはオズの発した言葉が原因だったからだ。


「おまえ、ノイズじゃないだろ」

「!?」


 ピアスに引っ掛けられていた右手が動きを止める。


「さっきまで、ノイズ、凄く苦しそうな色をしてたくせに。一変して、今はまるで別人だよ。おまえ、誰なんだよ」

「……キャハ。キャッハハハハハ!! 何、アンタ面白ぇ! 残念だけどオレはノイズだよぉ? プククッ、あぁーおっもしれぇー!!」


 オズの目の前にいる〝ノイズの姿をした何者〟かが、ケラケラと大爆笑している。彼の姿が赤に染まっていなければ、辺りに死体が転がっていなければ、もっと明るいものに見えたのか。分からない。


「でも」


 ピタッ。彼の笑い声は途切れて、ノイズの水色がオズを見た。彼からは見えないノイズの右目がニヤァと笑む。背後のモニターの砂嵐が、彼の笑顔を妖しく照らしていた。


「もしかするとぉ、その〝苦しそうな色〟をしたノイズが、ニセモノかもねぇ?」

「ど、どういう……っぐ、う」


 オズの体が力なく壁に張り付く。ずる、ずると支えきれずに体が落ちていった。それでも尚、彼の青い眼はノイズを睨み続ける。

 ――パチャ、パチャンと血だまりを踏む音が近付いてきた。そこへ、新しくパシャパシャッと軽快な音が割って入る。ちょこまかと二人の間で動いたのは小さな影。


「フゥゥウ……」

「か、カルビ!?」

「何、このネコ」


 白く綺麗な毛並みは、今しがたの疾走によって赤く汚れてしまっている。体毛を逆立たせて、ノイズを威嚇しているではないか。

 単にオズを守ろうとしているだけではない。カルビは、ノイズに対し「おまえはだれだ」と警戒しているのだ。――カルビの視力は、先日の事件から着実に悪くなってゆき……今では殆ど見えていない。故に、命の恩人であるはずのノイズに対し、これほどまで威嚇をしているのか。それともまた別のなにかを察しているのか。


「カルビ、おまえ、危ないから早く逃げ」

「ンニャアアアアアア!!」

「あーああぁ。うるせぇー、うるせぇー」


 ゲシッ!

 途端、ノイズはカルビを蹴飛ばした。彼は動物に対しても容赦なかったようで、小柄な獣はいとも簡単に壁際の方へ跳ね飛ばされる。壁に体が打ち付けられ、ボトリと呆気なく血だまりの中に落っこちた。体が赤く染まってゆく。


「…………」


 ピクリ。ノイズの体が揺れて、今まで見向きもしなかったカルビを見やる。パチクリと瞬きを繰り返すと、ニヤリと口角が引きつり上がった。オズの背筋に、悪寒が走る。


「か、カルビは、ただのネコだぞ。オイ、オイ! やめ、酷いことは!」

「はぁ? ただのネコなわけねぇーじゃん、アンタ気付いてねぇーのぉ?」


 制止の声にノイズは振り返った。刹那、肥大化した何者かの存在感。そこになかったはずの何かの存在が、彼らの背後で膨れ上がった。二人はゆっくりとカルビの方へ視線を戻す。


「グルルルル……」

「キャッハ! ほぉら、ビンゴ!」

「な…………?」


 ノイズは嬉しそうに、パンと両手を叩いた。オズはあんぐりと、そこにいる獣を見つめる。

 牙を剥き出しにし、異色の眼でノイズを威嚇する猛獣。その姿に見覚えのあるオズ。……先日、ひよりに連れられ観覧した公開処分の際に、ルオとノイズへ襲い掛かっていたホワイトタイガーがそこにいた。当然カルビの姿は見当たらない。


「あ、あー。オレ、アンタに見覚えあるわぁ。あああー、そう。そうそう、この前紫苑のやつがオレを使役しようかと瀬戸際に追い詰められてやがったのって……あー、へぇー。コレねぇ」

「グアアアアア!!」


 興味深そうにしげしげとホワイトタイガーを見るノイズ。まるで、初めて対面したような振る舞い。それを見て、オズは核心を得た。


(やっぱりコイツは、少なくとも僕らの知っているノイズじゃない!)


 鋭い牙と爪を剥きだして、獣がノイズへと襲い掛かる。瞬間、彼の唇がニタリと三日月のように弧を描いて歪んだ。

 スッ、とホワイトタイガーの進撃を往なすと、彼は軽い調子で言う。


「アンタさぁー、その尻尾に何入れられてんのぉ?」

「!」

「キャハッ。キャッハハハハハハハハハ!!」


 狂ったような甲高い笑い声が天井に向かって響き渡り、ノイズは見開いた眼で振り返ろうとするカルビを見た。水色の目玉がギョロリと姿を射抜く。


「その〝異物〟、オレが今取り除いてやんよぉ! イー!」


 叫ぶや否や、彼は両手を虚空に放る。手のひらの上に乗っかっているのは、金輪のピアス。


「アル!」


 続いてそれを、肘を軽く曲げながら躊躇いなしにギュウと握りつぶした。そして、


「さぁん!!」


 バッ! と、彼の両手から勢いよく広げられたのはチャクラム――ではなかった。そこにあるのは銀色の鉄扇。赤いライトと砂嵐を抱いたモニターの光を鈍く反射させていた。


「グルルル……グアアアッ!」


 再び猛獣がノイズに突進していく。彼は舞うように鉄扇を振るうと、素早く放った。それは正確にカルビの着地する左足の肉を抉る。


「キュウンッ」

「か、カルビ!」


 痛みに獣はよろけた。その時既にノイズの姿はなく、気付いた時には空中。パシ、と先刻の鉄扇をキャッチすると、続いてもう片方の鉄扇を振りかぶった。

 ――ザシュッ。ガシャン!


「グアアアアアアアアッ!! ニャ、ぅ……」


 尻尾を切り裂く鉄扇。横に切り落とせば済むものの、彼はあえて獣の尾を縦に卑しく割いた。血が飛び散り、何か無機物にぶち当たる音。

 猛獣は途端に萎れて、そのまま白い子猫の姿に戻った。尻尾と前足からはおびただしい量の出血。ハッとしたオズは、すぐさま眼前で倒れるカルビに手を伸ばした。息がある。


「やぁーっぱりこんなの仕込んでやがった」

「お、まえ……おまえ……なんてこと……」


 ノイズが右手に持っているのは、血だらけの黒い機械。今しがたカルビの尻尾から引き摺り出した異物だ。彼はそれを地面にボトリと落とすと、勢いよく右足で踏みつぶした。火花をバチバチと悲鳴のように飛び散らせて、静まる。


「!」


 途端、ノイズの動きが一瞬止まった。見れば、彼の手がビクビクと痙攣している。興味が無さそうに、気怠そうに片手を見やって……彼は息を吐き出した。「往生際が悪い」と微かに言葉を零して。

 何事もなかったかのように、ノイズはグルリとオズの方へ振り向いた。残りはお前だけだ、とでも言いたげな視線。オズは体を強張らせ、構えた。鏡の装飾部分を持つ手に力がこもる。

 その時――彼の目の前で何かがモゾモゾと動き出した。


「ゥ、ウ……」

「カルビ!? おまえ、もうやめろ!」


 立ちあがろうと必死に足掻く。しかし左足が思うように動かず、ネコは呆気なくその場に伏した。それでもその場から退く様子はない。オズを守っているのだ。


「カ、ルビ……」

「はぁー、死に損ないが。うっぜぇーんだよぉ。アンタにはもう飽きたってぇ」


 ノイズは彼らの前まで歩み寄ると、腰に片腕を当てて溜息をつく。鉄扇は姿を保たず、呆気なく元の金輪ピアスに戻った。それを気にする素振りも見せず、腰にぶら下がっていた二つの得物に手をやる。ソードブレイカーとダガーだ。


「融」


 二つを重ねるように両手で持ち合わせたと思うと、彼は呟く。瞬間、ドロリと刃が溶けた。まるで溶岩のようにドロドロと重力に従って刃が溶けてゆく。


「改」


 もう一声口にしたところで、溶けた刃は動きを止めた。光を纏い、失せたかと思えばそこには細長い形状の物体。剣のようなものが彼の両手に掴まれていた。矛先は、既に真っ直ぐとカルビへ向けられている。


「取りあえずぅー、オレのこと楽しませてくれた礼をしてやんよぉ」


 一瞬。本当に一瞬だけ、ノイズの体が強張った。まるで彼自身の行動、彼自身の台詞に怯えているかのように。他の誰でもない、彼自身の体が、だ。

 しかし止まることはなかった。


「二人まとめて、一瞬で、死ね」

「――!!」


 ガシャン。地面に落ちた鏡がいとも簡単に割れて散る。白と灰色の砂嵐が、彼らのシルエットを浮かせていた。

 ひとつはダラリとその場に倒れ、近くに在る小さな影も動かない。もうひとつは得物を片手に――もがき苦しんでいる。


「――――……! ……、――!!」


 そうしてその影までもが、音もなくその場に伏した。




***




 ルオは、重たい体に鞭を売って暫く同じ景色のなかを進み続ける。すると後方から「いたぞ!」という叫び声が掛かった。ハッと振り返れば、まだ小さいが人影が見えた。追いつかれたようだ。

 エリとオズの姿はない。もしや既に掴まってしまったのか。いいや、そんなこと考えてはいけない。最後の力を振り絞り走る。落ち着いた赤色のカーペットを走る。走る、走る。腹部がズキズキとする。咽喉が痛い。

 そしてとうとう行き止まりに差し掛かった。大きな両開きの門が待ち構えている。これが出口であるとしか考えられない。

 あとはこの扉をオズに託されたデュランダルで破壊し、彼らと共に逃げる。それまで何とか持ち堪えなければ。

 スタッフの足止めをする。ひよりの時と同じように、足に致命傷を負わせればなんとかなるだろうか。策を練りながら足を止めて振り返ろうとステップを踏んだ。

 が。

 ――ズルッ。


「!!」


 何とも間抜けなことだろうか。足が絡まって転倒してしまった。一度倒れ込んでしまえば、積りに積もった疲労が彼を襲う。立ち上がることが出来ない。嘘のように体が言うことをきかなかった。


「動けよ、動け。動けってば畜生……」


 右足が痙攣起こしている。捻挫していた部分が腫れ上がっていた。公開処分により受けた傷ばかりに気を取られていたが、捻挫も悪化の一途を辿っていたようだ。

 スタッフたちの影が迫ってくる。視界がぼやけてしまうのは疲労の賜物か。しかし眠ってしまってはいけない。まだ、眠るわけにはいかない。

 諦めるわけには、いかない。

 思わず手を離してしまった剣の柄に手を伸ばす。届かない。体を引き摺ってなんとか手に取った、瞬間。

 ギリッ! と、左手を何者かに踏み付けられた。


「っつ~!!」


 声にならない悲鳴。左手の上には足が乗っており、先を辿れば肩で息をするスタッフがいた。彼の後ろにも、ゾロゾロと何人ものスタッフが続いている。

 絶体絶命。四面楚歌、孤立無援。――背水の陣。


「手間を取らせやがって。操り人形の分際で」

「う……」


 グリ、グリ。足を置いている男がルオの左手を踏み躙る。そうしている間に、彼の周りをスタッフたちが取り囲んだ。


「貴様はただ、我々の命に従っていれば良いのだよ。所詮我らに生かされているだけの箱入り人形だ。生かされるも殺されるも我々次第だというのに、七面倒くさいことを起こしてただで済むと思っていないよなぁ。この――」


 男が足をゆっくりと上げ、ルオに向かって振り下ろそうとした。瞬間、


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

「!?」


 響き渡る断末魔。男は咄嗟に振り返り、見た。血を噴き出しながら倒れて行くスタッフの姿を。

 一人だけではない。次から次に倒れて行っている。面白いくらいにバタバタと。

 ルオも何事だろうと、閉じかけていた目を薄らと開く。そして彼と同じように見た。赤い景色が広がってゆく。装飾の施された美しい壁にビシャリと血痕が張り付く。

 その中心にいる人物の姿には見覚えがあった。両手にはこの世の物とは思えないほどに歪で、狂気的な爪が生えている。


「な、何なんだいった、イ」


 グサ。爪が男の咽喉に突き刺さった。臓器でも抉り出さんとするほど、深く。男はこれ以上声が出せない。ヒューヒューと空振りする呼吸音を鳴らして、崩れ落ちた。ドプリ、と生々しく血が溢れる。

 ルオがハッと辺りを見れば、もうスタッフの姿はなかった。突如として現れた殺人鬼は、続いて倒れ込んでいるルオに目を付ける。

 ――キン!!

 剣に腕を伸ばし、動くようになった体を回転させた。ゴロリと床を転がると、咄嗟に構えたデュランダルで相手の攻撃を防ぐ。甲高い音が鳴り響いた。


「エリ!!」

「――!」


 瞬間、影の正体は後方に跳び退く。返り血によって姿を真っ赤に染めたエリが、我を失ってルオを見つめていた。呼吸はどこか荒い。

 二人が見つめ合っていると、蜃気楼が擦れていくようにデュランダルがスゥッと消えた。驚いて己の左手にルオが視線を向ける。視線が外された途端、エリはゆっくりと彼の方へと近付いてきた。ばちゃ、バチャン。ビチャ、と出来上がったばかりの血溜まりの中を躊躇なく歩く。思わずルオは後退した。

 エリは目の前にいるというのにオズの姿はない。彼はエリの姿をしているというのに、明らかに様子がおかしい。何が起こっているのか、頭が理解することを拒絶している。

 ――みんな、殺された?


「どうしたんだよ、エリ」

「……」


 ピタ。彼の声にエリは足を止めた。ジッと狂気に満ちた眼がルオを見ている。

 ――ふと、脳裏に蘇ったのはひよりの言葉。


『ココロプログラムの所持が禁じられているのは、ココロによってアンドロイドの暴走を防ぐためだ。くだらない私情や思念で人間に手を出してみろ』

『暴走して人間に危害を加えられてはならないからな』


 こういうことだったのかと、ルオは身を持って知った。知ってしまった。ココロプログラムというものは、ここまで恐ろしいものだったのか。

 一歩間違えば、自分も、こうなってしまう。


(それだけ恐ろしいものを、俺は)


 ゾワリとした。そのような爆弾を自分は生まれながらに備えているのならば、不良品扱いをされて当然だったのだろうと。


(もう、無理だよ)


 ルオの碧眼から生気が抜け落ちる。エリは彼の眼前まで詰め寄ると、彼の肩を掴んだ。それほど力は加えられていないというのに、ルオの体は容易に押し倒される。そうして彼の上にエリはまたがると、右手をルオの首に宛がった。

 血に濡れた鉤爪を押し込めば、柔らかい彼の肌はプツリと破ける。微かに血が溢れてきた。

 最中、ルオの唇がゆっくりと動く。


「――ごめん」

「!」


 エリの目が見開かれた。金色の眼に映る少年は、涙を流していた。大きな瞳を潤ませて苦しそうに咽んでいる。

 エリには、意味が分からなかった。何故眼前の少年は泣いているのか。何故謝っているのか。命乞いでもしようとしているのか。

 昂り切ってしまっていた感情が、徐々に理性を取り戻す。


「ごめん、エリ。ごめん、ごめん……俺、あんたたちのこと……助けられなかった」

「…………」


 オズの姿がないというのは、つまり、そういうことなのだと。彼は既に察していた。ただ考えたくはなかった。けれども、このような姿でエリが現れたことが――何よりの証拠だった。

 日常はあっさりと滅茶苦茶に崩れ、築いていた関係さえも脆く壊れて。全てを擲ってまで彼らを救おうとしたのに、このザマだ。

 エリの感情は壊れて、ひよりには手を掛け、オズは姿を消した。

 なんだ、なんなんだ。一体何なのだろうか。――この、為体は。

 ダラリと下ろされた彼の手は、誰から流れ出たかも分からない血に染まる。爪に塗られた黒いマニキュアが、剥げて無様。


「る、お……さん……」

「!」


 ポツリ、ポツリとエリの唇が彼の名を紡ぐ。ハッと目線を上げれば、頬に冷たい液体が落ちてきた。ココは屋内だ、雨なんて降るはずがない。

 ――エリの目から、透明の涙が同じように溢れていた。重力に従って、ボタボタとルオの頬に落ちている。

 シュン。彼の両手に装着されていた鉤爪が刀剣の姿を象る。普段ルオが使用している刀剣とそっくりだった。

 彼は刀剣を右手にしっかりと持つと、左の手をルオの首に向け……握った。


「うっ、あ……っは、ぅ……え、り」

「…………」


 物凄い力だった。片手だけだというのに、意識を持って行かれそうになる。ルオの手は反射的に己の首を締め上げるエリの腕に掛けられるが、力はまったく入っていない。

 苦しい。視界がぼやける。けれども。


(エリに殺されるなら、俺は)


 ずっと独りだった。ずっと、心を封じ込めて生きてきた。その世界から連れ出してくれたのは、他でもない彼だった。

 エリに出会わなければひよりと再会することもなく、オズと出会うこともなかった。

 慌ただしく、面倒くさいことばかりの日々だった。けれども、凄く楽しかった。

 とっくに死んでいた自分に生気を宿してくれたのは彼だった。だから。


(俺は彼に、殺される)


 当然の報いだとも思っていた。結局何も救えず、無鉄砲に突き進んで――多くの犠牲を出した。大事な人さえも失ったかもしれない。


(ひよりのあの言葉だって、本当は、心にも思ってないことだって……分かってたのに)


 彼は自分のためを思って止めてくれたのだ。これから先も、PLANTで生き延びれるように。日常を壊さぬように。彼なりの優しさだったというのに。


「僕、は、思い出しました……気付きました、知り、ました」


 ズルズルとルオの手が落ちる。歪み切った視界の中で、エリが右手を振り上げている姿が見えた。PLANTの刀剣で貫かれてしまえば、当然結晶は消滅してしまうだろう。


(シータを使って俺を刺し殺すなら、もしかしたら)


 今の自分の想いは、彼に伝わるのだろうか。


「やっぱり貴方は、ココに、いるべき人間では、なかったんです」


 そっと目蓋を下ろす。頭の中が真っ暗になって、意識が遠退いてゆくのが分かった。やっと終わるのだと、理性の片隅で安堵する。ボソボソとエリの唇が何かを紡いでいるようにも見えたが、分からない。


「ごめん、なさ…………」


 分からない。もう何もかも、どうでもいい。


 ザグ――。


「――――ありがとう」


 気を失う間際、誰かの声が聞こえた。





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