<Act.13>黎明桜
アンドロイドクラッシャーは重症を負った。しかし修理を必要とはしなかった。人間で言うところの〝命に別状はない〟といった容態であったそうだ。ルオの華奢な体は見事に包帯やガーゼ、絆創膏の類だらけである。彼特有の治癒力に後は任せるということで話はまとめられ……ルオは翌日、怪我という拘束具により雁字搦めにされていた。
「……」
自室に今しがた運ばれた彼は、ふくれっ面で天井を睨みつけている。見るからに暇そうだ、無理もない。エリが昨日同様に姿を消しており退屈なのである。
折角この傷の言い訳をこしらえたというのに、肩透かしを食らった。などと胸中でボヤいてみては、尚更ほっぺを膨らます。
――あの後。ノイズに肩を借りる形で控室に戻った彼は、すぐ部屋には帰らなかった。確かに怪我が痛んだことで帰れる状態でもなかったが、帰れない理由も存在していた。それが今しがた、彼が不貞腐れた要因でもある。
(もしかして、俺を探してるとか?)
昼間に自室へ戻ることで、エリには「早朝の散歩中に怪我をした」と話すつもりだった。だが彼は留守。一人では動くこともままならない。
(明日には歩けるようになるだろうけど)
それでも大事を取って休むべきか。悶々と考えていると、インターホンが鳴った。扉付近のモニターに訪問者の顔が映る。天井に向けていた顔を傾け――吃驚した。そこには何やら、白い……いや黒いもの。ピントが合っていない。
一体何だと驚く彼の耳に入ってきたのは、訳の分からない映像とは対照的な聞き慣れた声であった。
『る、ルオ?』
「その声、オズ?」
ベッドに横たえていた体をゆっくりと起こす。腹部の傷に響いた。激痛に眩暈を起こしそうになるが、なんとか意識を引っ掴む。そして傍に置いてあった小型リモコンに手を伸ばし、スイッチを押した。ガチャリと扉から開錠の合図が鳴り、静かに出入り口を塞ぐ壁が消える。
オズは扉が自動ドアだとは思わなかったらしく、豆鉄砲を食らったような顔で暫くその場で硬直した。が、すぐ我に返り足を踏み出す。
「あ、あぁ、よかった。おまえの部屋がここだってひよりさんに聞いて来てみたんだけど……って、どうしたんだよその傷」
「え」
きた。ルオはずっと待っていた質問を、エリではなく彼から賜り、無意識に背筋を伸ばす。
無傷の右腕で布団を捲ると、何故か意気揚々と答えてしまった。しかし自覚はない。
「早朝エリより一足早くに目が覚めた俺はヒマを持て余して屋上へと足を延ばしてみたのですが、なんと戻る途中で階段の段差を思い切り踏み外してしまいそのまま落下しただけです」
「え、あ、うん分かった」
未だかつてない饒舌。長文。よく舌が回ったな。オズの率直な感想だった。
打って変わり、ルオは(噛まずに言えた!)と、彼とはまったく違う部分でガッツポーズ。
既に「どうして丁寧語なんだ」という疑問すら浮かんでこない。ルオも、布団を被り衣類を纏っているのにも関わらず……何故オズは自分の容態について気付けたのかと違和感を抱くこともない。
そもそもオズには視力がない。彼が日常生活に支障を来しているわけでもない所為か、たまに忘れてしまう設定である。現にルオは度忘れしている。
「ところで、何の用?」
「えっ」
自分の役目は果たしたとばかりに、唐突にルオは口火を切った。キョトンと首を傾げている。するとオズはモジモジとし始めた。見慣れた反応だ。
「おまえに頼みがあって」
「頼み?」
反対側に首をコテンと倒し、彼の言葉を彼の言った通りに復唱する。
「中庭に大木があるだろ。あれってサクラの木、なんだよな」
「あー、うん……そのはず、だけど」
「はず?」
ルオは視線を逸らして苦笑い。今度はオズの方が彼の言葉を復唱した。首を同じように傾げる。
「確かに品種的にはサクラなんだろうけど……俺、見たことないんだ。あれが咲いてるところ」
「そっか」
「綺麗なんだろうけどね」
「…………」
そう言って、彼はニコリと作った笑顔を浮かべた。オズは無言。
花鳥風月を好む彼のことだ、見たかったのだろうか。確かサクラは、この辺りでは珍しい品種のはず。
うーんとルオが唸る。すると彼よりも先に、オズがきりだした。
「僕と一緒に、そのサクラの木のところに行ってほしくて」
「中庭に?」
今の話を聞いても尚、行きたいと言い出す意味が彼には分からずポカン。単にサクラが見たいだけというわけではない、ということか。
サクラの木というだけで価値がある? あの場所そのものに興味がある? いくら勘ぐろうとも、オズの口から語られない限り全て想像のままだ。
「なんで?」
ルオが問うと、オズは一旦口を閉じてしまった。何かを悩むように、考えるように俯いて……ふいに顔を上げる。そして綴られた言葉は強い意志を纏い、ルオに向けられた。
「おまえに見せたいものがあるんだ。おまえに、見てもらわなきゃいけないものがあるんだ」
「俺に?」
コクリ。オズがしっかりと頷く。胸の前で組まれた両手は、ギュッと硬く結ばれた。まるで祈るような組み方だ。
思わずルオは自身の体を見やる。満身創痍。精々あれから経っても半日なのだから、流石の自分でもあまり動けない。しかし眼前の友人は、今までの頼みごと以上に……真剣に見られた。
応えてやりたい。
「行きたいのは山々なんだけど、情けないことに傷が痛くてすぐには」
「それなら平気!」
「え、ちょっ」
ゴンッ!
ルオの言葉を聞くや否や、オズが駆け出そうとした。振り返り、加速して、扉に顔面衝突。ルオにはわけが分からなかったが、すぐに「見えないんだった」と思い出した。
無言で痛みに悶絶するオズへ、躊躇いがちに声を掛ける。
「オズ……?」
「ハッ!」
ビクゥッ! オズの肩が跳ねた。そして焦ったように「何でもう閉まってるんだよ!」と文句を吐き出した。
だが我ながら苦し紛れだと気が付いたのか、そろりと振り返り苦笑い。ルオは呆れて溜息を吐いた。
「アハハ……怠った」
「怠るって、やっぱ何か確認したりして行動してたんだ」
「うん、そりゃあ」
一度扉に向けた足を、もう一度ルオへ戻す。ばつが悪そうにヘラリと笑いながら彼は口を開いた。
「空気の流れとか、音で進行方向の障害物や周りの状況判断をするんだ。歩く音一つでも、壁が近いことで返ってくる音も違うから」
「ふぅん……」
言葉としては興味が無さそうな反応だったが、ルオはとても興味深そうな面持ちである。今までそれとなく疑問だったことが、今になってやっと解けた。それと同時に、それは相当な技術を要するのだろうと憶測も勝手に立てる。
視覚を欠いている分、聴覚や触覚、味覚、嗅覚が冴えているということか。ある意味では恐ろしいのかもしれない。
「あと僕には、アンドロイド特殊技能もあるから」
「アンドロイド、特殊技能?」
彼の言葉をそのまま反芻。今回は聞き慣れない言葉だった。知識を漁れば類似するものはそれとなくある程度。
例えばノイズ。彼はアサシンアンドロイドである故、敏捷且つ姑息で器用。昨夜の公開処分でも目の当たりにしたが、チャクラムといいソードブレイカーといい、小型の武具を主に使用している。仕事柄の得物だ。何より着目すべき点は、それらの扱いづらい武器を最大限に活用出来る技術。対してアセビのようなアンドロイドは怪力ではあったが、ノイズとは違い動きは鈍かった。
以上のように彼らにはアンドロイドの特殊技能が付加されている。もしかすれば、今しがた上げたもの以外にも能力は存在するのかもしれない。
つまりオズにも存在するということだ。絵描きである彼にも、特殊技能が。
「それってどんなの?」
「……」
オズは沈黙を口にして顔を背ける。そうして遠慮がちに「それも、サクラの場所で話そうと思って」と答えた。
兎も角、話は中庭へ移動してからということらしい。ルオが反応に迷い口を閉ざしていると、オズはそそくさと部屋を出た。そして扉が閉まるよりも早く、ガッと扉に足蹴りを食らわす。
まさか彼がそのような行為に出るとは思っても見なかったルオは、目を丸くした。アグレッシブ。
「コレを借りてきたんだ」
「えぇー」
嫌でも目に入ったのは、オズの真ん前にある車輪の付いた椅子。所謂車椅子。書いて字の如く、どこからどう見ても車椅子。あからさまにルオは嫌そうな顔をした。
「面倒くさいとか格好悪いとかいう文句は却下だからな。はい、大人しく座って!」
「……あんた、色んな人の性格に影響され始めてないか」
先刻の足蹴りといい、この行動力といい。自分や、同室の誰かさんを投影してしまう。あえて口には出さず濁したこともあってか、オズには華麗にスルーされた。因みに気が付いていたはずである。故意でスルーをされた。
彼の手を借り、ルオは痛みに耐えて大人しく車椅子に座る。それなりに座り心地はいい。しかし、彼は腕もケガしていることで自分では操縦が出来なかった。当然オズが車椅子を押して歩くことになる。
行くぞと意気込む彼に待ったを掛けたのはルオ。
「ちょっと、エリに置手紙」
「あぁ……確かおまえたち同室なんだっけ。そういや姿が見えないな」
「最近よく出かけてるみたいだな、あいつ」
引き出しから適当な紙とペンを取り出し、右手に構える。彼は元々左利きなのか、文字は主軸がぶれていた。刀剣などを扱う分には支障はないらしいが、筆記などの細かい作業になると粗が出るらしい。
「PLANTの生活を満喫してるってことなら、俺は全然構わないんだけど……よし」
雑談を交わしつつ完成したメッセージ。入口からよく見える位置、ベッドの上に置いて彼らは今度こそ部屋を出た。
中庭に向かう途中、廊下で擦れ違うスタッフたちは物珍しそうにルオの姿を見やる。だが、また興味無さそうに去って行った。これでもF班のスタッフにしては反応がある方である。
一方、ルオは舟を漕ぎ始めていた。うつら、うつらと目蓋が何度も落ちそうになる。車椅子からの振動が彼の睡魔を煽っているようだった。無理もない、彼は公開処分が終了してから浅い眠りを数時間ほどしか取っていないのだから。
まず、痛みの所為で眠ることが出来なかった。これでも怪我は落ち着いてきた方なんだなと、彼は意識の片隅で呟く。
そして気付けば、中庭の前。ガラス扉を開けて中に入った。芝生の上では、車椅子の動きが鈍くなる。真上にある太陽の陽射しを、中央にそびえるサクラの木が一身に受けていた。葉が少ない。
「オズ、大丈夫。下りるから」
「え、へ、平気?」
オズが言い終らぬうちに、ルオが右腕を頼って立ち上がろうとした。脇腹を抉るようにできあがった傷はまだ癒えておらず、激痛が走る。思わず膝を折りそうになれば、続いて太腿にある二つの傷に電流のような痛みが襲った。
結果、彼はまるで倒れ込むように木の根元に伏す。しかし寸でのところでオズが助けに入ったため、直接地面に倒れることは回避した。
予測していた衝撃がこなかったことで、ルオは少々てんぱっていたものの、「無理するなよ」と心配そうに声を掛けるオズによって我に返る。しどろもどろになりながら伝えた「ありがとう」は、まるで普段のオズのような口ぶりになっていた。
ルオが怪我を負ったことで、いつもの立場が逆転しているように見える。
「そろそろイケると思ったんだけど」
「過信しすぎだろ。少しは自分を労われよ」
結局ルオは彼の力を借りて、幹に背を預けてその場に座る。ふぅ、と思わず息を吐き出した。そんな彼に、オズはボソリと呟く。
「一人で、立とうとするなよ……」
「え?」
「あ、ごめん。独り言」
ルオがまだ何も言っていないというのに、彼は素早く切り上げる。これ以上は言うなという意思が壁のように立ちはだかったように思えた。
けれど、今指摘したところで「後で」と回されることが目に見えたのか、ルオは深く追求しない。代わりに本題を持ち出した。
サラリ、と彼の髪が陽に透かされる。
「それで、そろそろ教えてもらえる? あんたが見せたかったもの」
「…………」
ピタリ。彼の肩に手を置いたまま、オズの動きが止まった。彼の顔はルオの間近にあるというのに、目元が見えない所為で感情を汲み取れない。
大木の頂が、サワサワと穏やかに揺れていた。木漏れ日がちらちらと足元を踊る。
「持って来る。ちょっと待ってて」
「……うん」
神妙な面持ち、と言えばいいのだろうか。突如無言になったオズからは、陽射しとは違って暖かいものは感じなかった。だからといって、冷たいものも感じない。
彼は何か決意を抱いているようだった。去って行く背中は小さいというのに、どこか凛々しくも見える。そんなことを、ルオはボウッと考えていた。
静かな中庭。無人の車椅子の取手に、白い小さな蝶々が止まる。種の名前を考えるほど暇ではあったが、今はとりあえず眠い。
車椅子の振動から解放された次は、陽射しの温もりが何より揺りかごのようであった。
昨晩の公開処分が嘘のよう。こうして屋上や、特にこの中庭で太陽の温もりを感じる時にそう思う。……いや、思それは最近の話だ。今では昔の自分がよく思い出せない。
彼の脱線していく思考を邪魔する者は、今、ここにはいない。ただ、車椅子が蜜を出さないと知った蝶々がヒラヒラと飛んでいるだけ。
――ずっと孤独だった。ずっと独りで過ごしてきた。ただ命令されれば従い、罵倒されれば甘んじて受けた。部屋に戻れば眠り、出歩けば陰口に耳をやり。書庫や娯楽室では読書にふけり、防音室では適当な楽器を弾いてみたり。本当に空っぽの日々を過ごしていた。
それが、どうしてこうなっているのだろう。昔が嘘のようだ。人と接すると、相手がどんな反応を返してくるのかも予想外で。それに対して自分が吐き出す言葉もまた予想外で……他人の考えていることを知ることも初めてで、それを口にしたり伝えたりすることで自分の考えもやっと明確になる。それで――。
彼は暖かな微睡に抱かれ、浅く意識を沈ませた。それから数分も経たないうちに、彼の元へと歩み寄ろうとする少年が一人。
「……寝てる?」
ルオが眠ってしまっていることを察すると、数メートル離れた場所で足を止めた。腕に抱いた張キャンバスとスケッチブックをギュッと抱き締める。
「僕はもう、恐れない。もう、逃げない。そう決めた」
少年――オズは呟いた。そして張キャンバスの裏で抱えていたスケッチブックを上へ持って来ると、同じく左手で握っていた筆で何かをサラサラと描き出す。迷いがなかった。
「平面上のトロンプルイユよ、今、世界の彩として羽ばたけ」
ぼう、と描かれた絵が淡い光を放つ。
「出でよ、桜の花――!」
刹那。
ブワッ! と、大きな風が巻き起こった。緩やかで、包むような優しい風。それはルオの身を預けているサクラの木へ導かれるように誘われ――咲いた。
今まで殺風景だったはずのサクラの木に、ピンク色の花が幾つも芽吹いていた。風は役目を終えたにも関わらず、何故かその場に居座って「凄いだろ」と言わんばかりにサクラの木を撫でている。あるはずもない花びらが舞っていた。
一部始終を呆然と眺めていたオズの肩の力が抜ける。口からゆっくりと空気を吐き出すと、ドクンドクンと忙しい胸を落ち着かせるように唇をキュッと結んだ。胸を抑えようにも、荷物があるため不可能。見ると、彼の脚はガクガクと震えていた。
「これが、僕の特殊技能――具現の力。所詮は欺瞞に過ぎなくて、何れ跡形もなく消えてしまうけど。これでも、おまえの嫌ったココロに残すものはあるはずだから」
ルオは眠っている。しかしオズは構わず話し続けた。
「カルビを救えず悔いたのは、僕は怖くてこの力を使えなかったから。やろうと思えば、橋を架けることも出来た。だけど僕は慄いた」
俯くと、ギリと奥歯を噛みしめる。それをいくら悔いたところで時が戻るわけでもないことを、彼は知っている。これ以上謝罪を続ける無意味さえもないことを、彼は重々承知している。
「昔。僕は世界を描こうとして……現実が自分の思っていた世界とは違ったことでショックを受けて……絵にそれを出してしまった。僕の力ではどうにも出来なくて、それは世界に溢れて出てきた」
彼の脳裏に蘇る、昔描いたキャンバス。真っ黒で何もよく分からない画面。黒い光を放ち、辺りは死んだ。数日で元の姿に戻ったが、自然や生き物は一度死んだ。絶望で絶望を描き、絶望に打ちひしがれた。彼は、キャンバスの中に閉じ込められた錯覚に陥った。
それから何度描こうとも、全てが黒くなる。目を遣る前に破いて捨てる、の繰り返し。
「だから怖くなった。世界を見ることも、絵を描くことも……僕は弱虫だからすぐに逃げ出した」
でも、と小さな声でオズが呟くのと同時に、バサリと足元にスケッチブックが落ちた。露わになるのは張キャンバス。何かが描かれているようだった。
しかしすぐ胸元へ伏せると、一歩一歩ルオの方へ歩みを進める。そして脇に置かれた車椅子に張キャンバスなどを置いた。積もっていたピンク色の花びらが、柔らかな風圧にフワリと舞う。
「おまえが、おまえたちが教えてくれた。もう一度世界を見る勇気をくれた。僕はまた、最期に絵を描くことが出来て……とても嬉しいんだ」
相変わらずルオは眠っている。オズの「最期に絵を」という台詞に誰も言及することは出来ず、話は進んで行ってしまった。
ヒラヒラと辺りを花びらが舞っている。それを見上げるように顔を上げ、彼は言った。
「僕がいなくなっても、ルオは僕の絵のこと……覚えていてくれるかな。僕のこと、覚えていてくれるかな……」
声が震えている。見上げることをやめて、オズはルオの方を向いた。そして、自らの後頭部に両手をやる。
――シュル、シュル。と、顔に巻かれた包帯が解けていった。ユルユルと、確実に。
当然、パサリと最後は落ちた。深く俯いた顔を上げれば、露わになる。青く澄んだ双眸が、包帯の下から現れた。
他の誰よりも美しい眼。陽光に照らされる海中のように、静かに佇む青。夜空の星のように、瞳の中で瞬く彩。異色のようで人を惑わす両目を、彼は隠し持っていた。
「これがもう一つの僕の能力、って言うのかは分からないけど。僕の目は見えすぎるんだ、なんでも。人の感情が見えるんだ」
だから目を抉ろうとしたんだ。だけど怖くて出来なかったんだ。そう言ってオズはニコリと苦笑いを浮かべた。
花びらが舞い落ちて、ルオの頬を撫でる。起きろ、早く起きろと急かしている。元々眠りが浅かったためか、ピクリと眉が動いた。
オズは自分が車椅子に置いた張キャンバスに手を伸ばしていたため気が付かない。
「初めて、だったんだよ。絵を見てもらいたいって思ったことも、僕の、友達になってくれた人も……初めてだったんだよ」
そして絵を見て彼は微笑った。描かれていたものは、カルビと戯れている笑顔のルオだった。暖かい絵だった。
「――なぁんだ……やっぱり目、あったんだ」
「!!」
突然声が聞こえたことで、オズは思わず張キャンバスを落としそうになり、すぐにキャッチ。眠っていたはずのルオへ目をやれば、彼は薄らと目を開けていた。まだ眠そうだった。
「る、お……」
彼が眠っていたからこそ、ここまで話せていたのか。途端に声を震わせて、オズは思わず顔を背ける。しかし傷を負っているルオの左腕がゆっくりと持ち上げられたことで、オズは彼に視線を戻した。
「綺麗な目……隠すなんて勿体無い。抉らなくて、絶対、正解だったな」
落ちそうになる彼の手を、オズが咄嗟に掴んだ。拍子に、彼の抱えていたキャンバスが下に落ちる。当然ルオの目は向けられた。
「……これが、オズの絵?」
「え、あ、え、と。僕の、だけ、ど、その」
先ほどまでの饒舌は一体何処へ。しどろもどろになりながら何を言おうか迷っていると、ルオがフッと笑った。
「ありがと」
「へっ?」
素っ頓狂な声を上げる。彼は目を丸め、パチクリと瞬きを繰り返した。ルオは「変な声」と言ってクスクス笑っている。
「絵、描いてくれて。あんたの絵、見れてよかった……あれ」
そこで彼はやっと気付く。辺りにピンクの花が舞っていることに。頭を持ち上げると辺りをゆっくり見回した。花吹雪という言葉が似合う光景だ。
「何、これ、すげ……」
「さ、桜の花……の、つもり、なんだけど」
「え。これ、あんたの仕業?」
彼の問いに、オズが必死にコクコクと頷く。いつの間にか正座になってルオに面と向かっていた。
オズの答えを聞くと、もう一度彼はサクラを見上げる。偽りの桜が満開になっているサクラの木。今の今まで一度も見たことのなかった、この木が花を散らしている姿。よく目を凝らして見れば、微かに消えかけている花びらもある。
「オズ」
「何!?」
サクラを見つめて黙り込んでいた彼が、やっと口を開いた。瞬間、オズは身を乗り出して食いつく。彼の感想が恐ろしい反面、どうしても気になるようだ。
「俺はずっとPLANTで生活してきたけど、サクラを見たことなかったんだ」
「え……」
「ずっと見てみたかった。あんた凄いね、ありがと。こんな綺麗な花を見せてくれて」
「!!」
オズの両目が見開かれる。未だに眠たそうな……しかし優しい笑みをずっと浮かべている彼を、信じられないとでも言いたげな目が凝視した。
そしてオズは、恐る恐る問い掛ける。まるで今にも泣き出しそうな声だった。
「覚えてて、くれるか……」
「え?」
「このサクラのこと、絵のこと……僕のこと……ルオは、覚えててくれる……?」
話題から突飛した質問に、ルオはキョトン。何度も何度も瞬きを繰り返し、表情の筋肉を引き攣らせたりしている目の前の少年を見て、相変わらずの調子で答えた。
「さあ」
「え!!」
ガタッ。今、オズが椅子に座っていたならば、間違いなくそのような効果音が付いた。それを見て、ルオはまた笑う。
「くすくす、冗談だよ。だってあんた、今にも泣きそうな顔してるから」
「な、泣きそう?」
指摘されたオズは、思わず自分の顔をペタペタと片手で確認。そんなことして何の意味があるのかルオには理解出来ず、小さく笑い続けていた。
そして一言。
「忘れるわけがないだろ」
「!」
告げた。答えたと言うには、強すぎるような彼の発言。自らが訴えかけるように、念を押すように。偽りなどないと勘ぐる必要性を殺すように、しっかりとした口調で彼は告げたのだ。
ザアアと中庭を旋回する風が、彼らの髪の毛を梳く。
「そういう訊き方するなって、俺は前にも言ったじゃん。そんな、当たり前のこと。大事な友達のことを忘れるわけがない。覚えてるに決まってる。そろそろオズも学――」
ゆっくりと、彼は残っていた右手も上げる。その手は掴まれることはなかった。が、オズは体を震わせながらルオに抱き着いたのだった。首元に顔を埋めて、しっかりと。
「……だから、何であんた泣きそうになってんの」
「泣いてない。僕はアンドロイドなんだから、泣けない」
「ああ、そう」
ルオがそっと目を閉じる。そして傷を負った左手は下ろし、右手をオズの背中にやった。ぽん、ぽんと申し訳程度に叩く。
視界を暗くしたことで、再び睡魔がやって来た。
「別に泣いていいのに」
「だから僕は泣けないんだって」
一層オズが強くルオを抱き締める。少し傷口が痛んだが、まぁいいかと彼は気にしない素振りをした。それよりもオズが身を摺り寄せてくる所為で、触れる髪の毛がくすぐったい。
「ルオ、寝惚けてる?」
「んー……」
曖昧な返事をもらい、オズは察した。コイツはまだ眠いんだな、と。しかしそれでも離れようとはしない。
ルオの体は暖かかったのだ。
「なぁ、ルオ……ごめんなさい。ごめんなさい。ありがとう……」
「……」
どちらの言葉も、言われる筋合いはない。
彼がそうやって反論を口にするためには、少し意識が欠落しすぎていた。夢に陥没し、彼の言葉の意味さえ伺えない。
ただ、首筋に落ちた水のような液体だけ。その感触だけを微かに、覚えていた。
欺瞞の桜の花びらが、彼らを包むように舞い続けていた。
暫く仮眠をして、肌寒さに目を覚ませば既に夕方。いつの間にかすっかり眠りこけていたらしく、オズもルオに寄りかかったまま爆睡。彼は一足先に飛び起きると、未だに眠りの中にいるルオの肩を揺すった。
しかしすぐ動きを止める。彼は思わず、ルオの寝顔を凝視してしまっていた。肉眼で、更に間近で彼の表情をじっくりと見たことがなかったからである。
アンドロイドとしては普通なのであろうが、ルオは本当に人形のような顔立ちをしていた。伏せられた長い睫が震えて、そっと碧眼が顔を出す。オズが起こそうとしたのだから当然なのであろうが、彼は今しがた考えなしにルオを起こそうとしてしまったことを悔いた。
ん、と軽く伸びをしてから彼はオズに「おはよう」と呑気なことを言う。戸惑いがちにオズも返した。彼の挨拶を受けると、ルオは辺りを見回す。桜の花は消えていた。いつも通りの成り損ないサクラだけが佇んでいる。
「消えたんだ」
「あ、ご、ごめん」
ずっと具現化することは出来ないんだ、とオズが肩を落として申し訳なさそうに言った。するとルオは「何を落ち込んでいるんだ」と微苦笑。
「ずっと咲いてるサクラもどうかと思うよ、気持ち悪い」
「き、気持ち悪いって……」
そこまで言うか。オズは表情を引き攣らした。反面、そのような発言がルオらしくも感じる。
「だってサクラってすぐ散るらしいし。消える方がよっぽど本物っぽいよ」
「……そうかな」
「うん」
だから落ち込むなと、彼はオズの頭を右手で撫でた。まるで彼を元気付けるような言動だった。もしかしたら自分を慰めるためになどとオズは思ったが、それを口に出すには億劫。
どちらともなく立ち上がって、今日はもう帰ろうという雰囲気が流れる。ヨタヨタと自力で車椅子に腰掛けるルオは、少しは傷が回復した様子。本来ならば全治二か月はいく傷だったのだから、やはり回復速度が早い。
「お、おい。無理したらダメだからな」
「大丈夫。脚の傷はもうあんまり痛まないし、ちょっと腹がまだ深いだけで」
だから車椅子よろしく。と笑う彼は調子がいいのか悪いのか。呆れた笑いを零したオズは、コッソリと思う。
自分の描いた笑顔の少年が目の前にいる。故意で具現の力を使った覚えはないが、もし叶うなら。
彼の笑顔がずっと失われませんように。例え、自分がいなくなっても絶えることなく、温もりを宿してくれますようにと。
そうしてまた、オズは微笑んだ。
中庭を出て、先ほどと同じ道を引き返す。自分の足で歩けないルオは、どこかひまそうに頬杖をついていた。病人にありがちな態度である。
帰路はオズに任せ、彼は面白みのない景色を今一度じっくりと眺めていた。そうして、何かを見つける。
数人の白衣に囲まれて、異種がいた。横顔しか見えないが綺麗な顔立ちをしている少女だ。
「ねぇ、オズ。あれなんだろう」
「アレ?」
彼の言葉にオズが足を止める。ルオの視線の先を目で追って、少女の姿を捉えた。上品な色合いのワンピースには、程よくレースやフリルがあしらわれている。何よりモデルとの相性も違和感がない。色素の薄い亜麻色の髪と肌、そして灰色の瞳が洋服の上品な印象を――いや、彼女自身の容貌を、洋服で崩すことなく着こなしていた。
(アンドロイドかな)
新たに入ってくる処分アンドロイドか、それともPLANTの僕か。定かではないが、アンドロイドならばPLANTでは大して珍しい存在でもない。
しかしやはり気になる。
ルオが彼女を食い入るように睨み付けていると、オズが彼の後方から楽しそうに言った。
「あれ、もしかしてルオってば彼女に一目惚、うぇっ!?」
ゴンッ。
ルオの右腕が素早く立ち上がり、手の甲でオズの顔面を潰す。特に鼻頭が痛かったらしく、彼は声も出せずに顔を両手で覆って震えていた。
またそうやってすぐ手を出す。胸中で何度も何度もルオを責め立てるが、声には出ない。言ったところで「足が出なかっただけ」と流されてしまうのが関の山だろう。
不服ではあるが、オズは黙る他なかった。
「いや、だってさ。ほらよく聞き耳立ててみろよ」
「っ~?」
涙ぐんだ瞳で、鼻を真っ赤にしているオズが彼の言う通り耳を傍立てる。そして数秒とも経たないうちに、ルオの察していた違和感に気付いた。
スタッフたちが彼女に敬語を使っていたのだ。
「アンドロイドにあいつらが敬語使う? おかしいだろ」
「じゃあ外部の人間なのかな。ご令嬢とか」
「令嬢ならこんなとこじゃなく、C班に赴くんじゃねーの」
C班とは、アンドロイドの売買を行う班のことである。世間で言う、言わばショッピングセンターのようなものだ。上級貴族や業界の責任者などが実際にアンドロイドを品定めし、競り落としていくツールを管理する場所。
ルオは実際に行ったことはないが、オズには覚えがある様子だ。
「あぁ、それもそうかも。何より、C班の方がF班よりも断然華やかでもあったし」
「ふぅん」
正直想像がつかないのが本音。ルオはPLANTという言葉を聞いただけで、灰色ばかりの収容所紛いな場所としか考えられない脳みそになっている。
「じゃあ、あとはPLANTの関係者ってことくらいしか」
と、ルオが投げやりに言葉を紡いでいる最中であった。少女が、ふと彼らの方を向いたのだ。
「!!」
思わずルオもオズも目を見張る。何がまずいというわけでもないが、噂話をしていたという後ろめたさでもあるのか。ただただ二人揃って驚愕していた。
横顔だけでも分かってはいたが、本当に端正な顔立ちをしている。アンドロイドでもないというのに、まるで精巧に造られた人形だ。
(やっぱアンドロイドなんじゃ)
先刻切り捨てた可能性を、思わず拾い上げて二度見。最中、彼女はスタッフに声を掛けられ、どこかの部屋へと入って行ってしまった。
途端、どっと疲れが肩に圧し掛かってくる。それはオズも同じだったらしい。
「ぅわぁ、ビックリした……」
「まさかこっち向くとか」
二人で思い思いの感想を口々に呟いて、止めていた足をオズは進め始めた。ルオは思わず、もう一度彼女のいた場所に目を向ける。
本当に可愛らしい少女だった。
(けど、それ以上に何か……何か、気になった)
彼女とは一言も言葉など交わしていないし、目が合ったのも僅か数秒。だというのに、自分は一体何が気になっているのかさえ分からない。
未だに神妙な面持ちでいる彼に、オズは言った。
「そんなに気になる? やっぱ惚れたん、ギャッ!!」
ガスッ。
再びルオの鉄拳が彼の顔面にクリティカルヒットしたのは言うまでもない。
部屋に戻ると、オズは車椅子を押して去る。ルオの動きはとても鈍かったが、車椅子がなくとも自分の足で部屋を歩いていた。ベッドの上のメモは、自分が置いたまま放置されている。エリは帰っていないということだ。
「……」
もしかしてまた屋上だろうか。という考えも浮かんだが、探しに行けるほど容態は良くない。流石にエレベーターを使っても、今の体ではつらいものがあるだろう。
溜息を零して、ベッドに腰を下ろした。そして沈黙した部屋で、ふと思い出す。
先刻見かけた美少女。――ではなく、ベッドとひよりの言葉だ。
『健全男児のベッドの下はシークレットだ』
普通ならば彼女のことを思い出し、思い思いに思惟に耽る場面であるだろうが、どうなっているのだろうかこの頭は。などと我ながら自分の脳構造を疑うが、気になってしまったものは仕方がない。所詮自分の頭は色恋よりも好奇心が強いのだ。
チラリと自分の腰掛けるベッドに目線を向けて、数秒考える。
(まさか、ね)
そっとベッドから降りると床に座り込んで、右腕を下へと忍ばせた。本当に冗談半分で、遊び心みたいなもので探った。が、
――コツン、と指先に何かが当たる。
(え)
思わず手を素早く引っ込める。まさか本当に何かがあるとは思っていなかったのだ。一人目を白黒とさせて頭を落ち着かせると、もう一度腕を伸ばす。
コツン。やはり何かがある。
ベッドの下の何かを掴んで、ズルズルと引き摺り出した。小箱が出てきた。以前、エリが使っていた工具やマニキュアの類とはまた違う箱。開けてみると、中には雑誌――ではなく大学ノート。
中身が分からなかったので、この時のルオにはまだ罪悪感というものはなかった。自然な動作でノートを手に取って、何気なくパラリと捲る。第一印象は日記だった。
〝PLANTという場所で今日から暮らすことになる。同室の金髪の少年はルオという名前。僕はルオさんと呼ぶことにしている〟
〝施設内を彼に案内してもらった。何でも好きに借りても良いということで、僕は工具やメイクポーチを借りることにした〟
〝娯楽室には本棚やマッサージチェアがある。向かいにはシャワールーム。食堂なんかも存在していた。中庭には咲かないサクラの木があり、その木はとても大きい。屋上にも好きに入れる。ルオさんはこの二か所が好きらしい〟
ルオはそこまで目を通して、引っかかった。確かに日記のようにも見えるが、何か違う。日記ではなく、これは、まるで。
「メモ……?」
場所を記しておくためのメモなのか。それならば、もっと位置情報を明確にしているべきだと思う。彼の性格だから、きっとそのような手間も惜しむことはないだろう。だが記述が無い。
そもそも自分に対するメモ書きが〝ルオさんと呼ぶことにしている〟とは、説明書のようだ。
同じ調子が続くノートを捲って、彼は思わずページを捲る手を止めた。ピタリと、まるで何かに引っかかったような止まり具合だった。
目を見張って、ノートを凝視する双眸。
「な、んだ……これ……」
内容はこうだった。
〝忘れるな。忘れちゃいけない。忘れちゃいけない。忘れちゃいけない。これだけは絶対に忘れてはいけない。忘れるんじゃない。忘れてはダメだ。忘れてはダメなんだ〟
〝金髪の少年はルオさん。僕の同室の少年。心配させてはいけない。暗くなる前には部屋へ戻ること〟
〝混乱してはいけない。忘れてはいけない。平常心を保つこと。部屋は一階に存在する〟
〝どうやら、僕は〟
――バサッ。
「あ……」
「!」
後方で何かが落ちる音がして、ルオは素早く振り返った。脇腹に痛みが走り、一瞬目を背けてしまう。が、出入口に立っていたのはエリで間違いなかった。
彼はもう一度、ゆっくりとエリに目をやる。呆然と、彼は立ち尽くしていた。
足元には、今自分が読んでいたものと同じようなノートが落ちている。
――どうやら、僕は。
「ルオさん、それを、読んで……」
僕は――。
「エリ、あんた、これ」
――――〝僕は、記憶を失くしてしまう〟。
そう、ノートにはしっかりと書き残されていた。エリは我に返ったのか、慌ててルオの手からノートを奪い取る。今まで見たことのない彼の焦りようだった。
ルオは何も出来ず、ただ茫然と彼を見ている。
「読んだんですね」
「ごめん。でも、エリ……それに書かれてたこと」
「…………」
無言。ルオも中々その先が言えない。エリの腕は、ギュッとノートを抱き締めていた。場都合が悪そうに、思わず顔を逸らしたのはルオである。
なんと声を掛けたら良いのか分からないのだ。
「貴方は、分かり、ますか」
「え?」
先に口火を切ったのはエリの方。背けていた顔を上げて、彼を見やる。立ち尽くしたまま、エリは深く俯いていた。肩が小刻みに震えている。
「貴方には分かりますか。段々と記憶が剥がれ落ちて行くこの感覚が……明日には自分のことすら覚えていないのではという恐怖が」
「……」
また目を逸らした。今のエリは、とても痛々しく見ていられなかったのだ。
彼の言葉に同意することは出来ない。しかし、代わりに胸中に抱かれたのは「彼はずっと苦しんでいたのか」という後悔にも似た同情。だからと言って、やはり彼の言葉に頷くことは出来ない。
気持ちは、分からない。それでも何か声を掛けなければならない。
「エリは、エリじゃん」
「ッ!」
グッとエリは奥歯を噛みしめた。そして顔を上げると、ルオに向かって叫ぶ。
「貴方には分からないんでしょう! 僕は、僕はもしかするとっ……ルオさんのことさえも忘れてしまうかもしれないんですよ!? それがどうして分からないんですか!!」
「――!!」
忘れられる。自分が。エリに。忘れられてしまう?
感情を露わにする彼を初めて目の当たりにしたという思いよりも、当然、そちらの衝撃の方が強かった。呆然と、ただただ感情を吐き散らすエリを眺める。
「分からないんでしょう。大事な人のことさえも関係なく忘れてしまう。現に、僕は以前のマスターの記憶さえない。最初はどうだか覚えてませんけど、今ではPLANTで過ごした日々を記憶しているだけで精一杯……僕は、不良品なんです」
「不良、品……?」
その言葉を聞いて、なんとなく分かった。彼がこのPLANTにやって来た理由は、きっと。その異常が見られたからなのだろう、と。
彼はキオクデーターの異常により、PLANTに連行された。
「僕にはどうすることも出来ない……昨日は、危うく貴方のことが分からなくなりそうでした。凄く、凄く怖かった」
エリが、自分を抱いて震える。笑いたいのか、泣きたいのか名状しがたい面持ちで。
――昨日。屋上で彼を見つけた際、確かに彼は少々おかしな反応をしていた。まるでルオだと確認をして自分に言い聞かせるような反応だった。
そう言うことだったのか。
「大丈夫だよ、エリ」
「一体何が大丈夫だというんですか」
極力優しく声を掛けるが、エリは冷たく突っぱねる。普段の温厚な彼とはまったく違う反応に、彼がどれだけ追い詰められていたのかが窺い知れる。
ルオはゆっくりと立ち上がると、エリに手を伸ばした。が、怪我の所為で少しバランスを崩しかける。それを見たエリは、反射的に彼へと腕を差し出した。
彼はハッとしたように目を見張り、ルオはしてやったりとニヤリ。
「やっぱりあんたは、優しいね」
「あ……えっと」
彼に腕を貸したまま、エリは顔を逸らした。ばつが悪そうだ。
ルオの腹部に巻かれた包帯には、薄らと血が滲んでいる。傷口が塞がり切っていない証拠だった。
「ルオ、さ、その傷……! どうしたんですか!!」
「ちょっと転んだだけ」
「そんなわけっ……!!」
エリは言葉を飲みこんだ。言いつけるように、ルオは尚も「転んだだけだから」の一点張り。強がりというわけでもなく、今はそんなことはどうでもいいんだとでも言いたげな面持ちだった。
ただ、話を聞いてくれとエリの瞳を碧眼が見つめる。
「エリはエリだよ。記憶を失くしても、姿が変わっても、それは変わらない」
「例え、そうでも……僕は」
忘れてしまうことへの畏怖。それがあまりにも大きく、飲みこまれてしまいそうなほどに、常闇。無意識に、ルオの腕を掴む手に力が入る。その手も小さく震えていた。
「あんたが例え全てを忘れても、俺は構わない。俺がずっと、覚えてるから安心して」
「!」
そして震える彼の手に、ルオはそっと右手を重ねる。宥めるように、優しく。
「もしもエリが俺のことが分からなくなっても、俺はあんたが分かる。俺の覚えてるエリも、記憶を失ったエリも……あんた自身であることに変わりはない」
荒ぶるっていた感情が落ち着きを取り戻し始め、エリは呼吸をゆっくりと行った。ルオの言葉を聞こうと、騒がしい胸の内を宥める。彼の言葉がしっかりと聞こえるように、しっかりと覚えていられるように。
「こんなことじゃあんたの恐怖なんて拭えるわけないだろうけど、それでも、知っていて。記憶を失くしても、俺のことが分からなくても、俺はあんたの友達だから。エリもそうだよ、俺の友達」
どうしてそんなに、あんたたちは不安になるのかな。そんなに俺、物覚え悪そうに見える? と、ルオが冗談っぽく笑う。まだエリには、笑顔を返す余裕はなかった。
ただ、ゆっくりと彼の頬を何かが伝う。ルオは思わずハッとした。
眼前の彼の眼には、――いっぱいの涙が溢れているではないか。
エリはその場に膝から崩れ落ちてしまう。慌ててルオも、同じようにしゃがみ込んだ。傷が痛むが、気にしていられない。そうしてエリは、胸の内の〝闇〟を嘔吐した。
「僕は、忘れたくない。忘れたくないんです。貴方のことも、みなさんのことも。思い出も、全部、全部覚えていたいんです。だけど忘れてしまうんです。僕は忘れたくない、どうしても忘れたくないのに……!!」
「エリ……」
吐き出された不安。慟哭。ずっと、ずっと彼が抱えていたものだったのだろう。アンドロイドが流すことなどないはずの涙が溢れ続けていた。
ルオは止めることもなく、ただただ彼の背を撫でる。だが、遅れて気が付いた。素早く顔を上げて見やるのは、部屋の片隅にある監視カメラ。
(しまった……!)
慌ててエリを監視カメラの死角に入るよう、自らの体をずらす。
涙をアンドロイドは決して流さない。しかし例外がある。ココロプログラムが発芽したアンドロイドは涙を流すのだ。それがプログラム発芽の有無を見分けるポイントでもあることを、ルオは知っている。
横目で監視カメラを睨みつける彼の姿を、確かに、PLANTのスタッフは見ていた。パネルの前に備え付けられている椅子に腰かける女性と、その後ろに立っている男性が、しっかりと。
女性は、自らの眼鏡にパネルの光を反射させながら振り返った。
「見ましたか、カミールさん」
「……ああ」
男性の返事を聞くと彼女は向き直り、素早く近くのパネルに何かを打ち込む。そこにはエリの写真と、プロフィールのようなものが記されていた。
新たに書き込まれた情報。それは
〝D_ANDROID〟
〝ココロプログラム発芽。キオクデーターに異常有り。処分確定。方法は要相談〟
カミールと呼ばれた男性は、それを一瞥すると顔を逸らした。エリの隣のパネルには、同じようにルオの写真もあった。彼にもD_ANDROIDの記述はあるが、処分の文字は見当たらない。
刹那、男性の顔が物悲しそうに歪められた。
「……すまん」
「はい、何でしょう」
声が聞こえたらしい女性は機械的に振り向く。しかしカミールは、後は頼むと台詞を残し、その場を去ろうと踵を返した。
自動の扉が開くと、暗い部屋とは違った光の元に出る。廊下の灯りもそう大して明るいわけでもないが、部屋と比べると明るく感じられた。
目を細めていると、隣から声が掛かる。
「今日はもうお休みですか?」
「ああ。先に失礼する」
薄汚れた白衣のポケットに手を突っ込んで、煙草を取り出した。PLANT内は禁煙だが、声を掛けた青髪の青年は指摘をしない。それだけ眼前の男性の身分が高いということだった。
去って行く背中に頭を下げ、彼は言う。
「お疲れ様でした。――ひよりさん」
「おう。ケイ君も働き過ぎでぶっ壊れないようにな」
ヒラリと煙草を持つ右手を上げて、カミール……通称、ひよりは返した。瞬間。
ビイイイイイ! というブザー音と共に、彼にはスプリンクラーの大雨が降る。音に驚いたケイは、肩を大きく跳ねさせた。そして頭から水を被りながら「施設内は禁煙だということを告げておくべきだった」と責任を感じたのだった。




