<Act.10>意無落花と情有流水
翌日のこと。ルオたちは、まだ露の滴る草むらの中を走り回っていた。
「おーい、カルビー!」
ひよりが声を張り上げる。反応はない。
「カルビ~! いたら返事をしてくださーい!」
「カルビー!!」
「……」
次いでエリとオズも声を上げた。やはり猫の声は返ってこない。
彼らの後ろを歩くルオは、どこか微妙な面持ちをしている。今にも止まりそうな足を無理に前進させながら、胸中の蟠りを吐露した。
「何をそんな躍起になって探してんだよ。ちょっと散歩してるだけかもしんないじゃん」
「少年、前にも言ったことがあるだろう」
彼の言葉にひよりが足を止め、真剣な顔つき振り返る。
「カルビはアルビノの猫だ。もしも日光のあたる場所で呑気に昼寝でもしてみろ……視力を失ってしまう」
「アルビノ……」
いつだったか、彼はチラリと口にしたことがあった気がする。頭の中を〝アルビノ〟という言葉で探してみれば、心当たりのある情報が幾つか転がっていた。恐らくPLANTの本か何かで得た知識なのだろう。
「メラニンとかの色素を欠いた個体、ってだけじゃねーの?」
「それもあるが、色素の異常で目の色が違うやつもいる。アルビノと一言で言ってもそれなりの種類があって、どれも機能障害の一つだ。大概のアルビノは何かしら障害を持っているケースが多い」
「ふぅん……」
ひよりの説明にルオは納得がいったようだが、エリとオズは首を傾げていた。互いに顔を見合わせ、「分かった?」「いまいちです」などという顔色の会話をしている。
それに気が付いてなのかどうなのかは分からないが、ひよりは二人に「つまり簡単に言うと、アルビノは虚弱体質だってことだ」と簡潔に説明をした。
「では、早くカルビを見つけないと」
「そういうことだ」
一層危機感を昂らせたエリは率先して行動に出る。辺りをキョリキョリと見回しては、声を上げていた。
それに付いて回るように、オズもカルビを探す。雰囲気に後押しされ、ルオも渋々口を開いた。が。
「おーい、ネコー」
「ルオさん、ちゃんと名前を呼んであげて下さい!」
途端にエリのダメ出し。「うっ」と、ルオが息を詰まらせた。そして嫌そうにもう一度名前を呼び直す。
「カルビさーん、ご主人様が心配してるぞー」
「やれやれ……」
猫嫌いのルオは、どうもカルビを探すことに気が乗らないらしい。エリに叱られたことで先ほどよりかは声を張るようになったが、まだ声色に嫌々感が居座っている。
ひよりは諦めているようだが、エリはまだ納得がいかないようだ。
「ルオさん! ちゃんと探してあげないと、カルビが可哀そうです!」
「……別に俺一人くらい探さなくたって、あんま大差ないと思うけど」
散々文句を言われた所為だろうか、ルオはとうとうへそを曲げてしまった。少し頬を膨らませてそっぽを向く。しかしそのようなことくらいでエリは諦めない。
「そんなことはありません。ほら、もっと声を張り上げて! さん、はい!」
「にゃろう……。か、カルビー!」
ルオが折れた。負けた。観念して叫んだ、刹那。
「ニャアアアア!!」
「ひいっ!」
「カルビだ!」
遠くから猫の声が聞こえてきたではないか。思わずルオが悲鳴を上げるが、それを気にしている場合ではないと皆が一斉に駆け出す。声の聞こえた場所を目指して。
しかしそれ以降、反応はなかった。皆、自然と足を止めていく。
「チッ……確かこっちの方だったんだがな……」
「ぼ、僕、も、もう……ゼェ、ゼェ」
辺りを忙しなく見回すひより。エリよりも数歩後ろの方では、息を乱すオズ。彼の心配をしようとエリが振り返って、気が付いた。
欠員若干名。
「あれ、ルオさんは?」
「え」
ひよりとオズが振り返る。誰もいない。強いて言うならば、樹木が立ち並んでいるだけで、人影は皆無。
オズは思わず「この短時間で逸れるなんて、どんだけアイツ団体行動が下手くそなの」と呆然と呟いた。実にその通りであった。
「こうして一人、また一人消えていくんですか……。これが、魔の森……!!」
「エリは一体どうしたんだ急に」
顔を青ざめるのはエリ。それを見たオズが、非常に冷静な声音で問うた。「こういうノリはお嫌いですか?」と、エリはキョトン。オズは言葉を失っていた。というよりも呆気。
そんな彼らを余所に、ひよりは目を見開いて硬直したままだった。
「――手前さんらは待ってろ。おじさんが探してくる」
「え? えっ、探すなら僕たちも、ってひよりさん!?」
やっと声を発したかと思うと、ひよりはそのまま元来た道の方へと駆け出した。エリたちが取りつく島もなく。残された二人はただただポカンとして、互いに顔を見合う。もう一度ひよりの方へ顔を戻した時、既に人影はなかった。
***
――ザッ。ガサッ、ガサ。
森に一人、ルオだけが黄昏を背負うように歩いていた。足取りにやる気を感じない。
「……」
弱音や文句を口から零すこともなく、ただ歩いている。彼は他の三人と逸れたことに気が付いているのかさえ危ういほど、冷静。勿論、彼は気が付いていた。
(……なんか)
ポン、と胸中に浮かんだ考えは彼の足取りを止めた。碧眼を伏せて、足元を無意識に見つめる。地面は少々ぬかるんでいた。
(ネコに、負けた気がする)
張りあうつもりだとか、妬んでいるとかではなく。ただ率直にそう思った。
猫の鳴き声を聞いた途端、駆け出した背中たち。理性では追い駆けなければならないと分かっていたが、足は重たかった。
――刹那、脳裏に過ったのは雑音。
『てっきり、ルオ先輩は誰かとつるんでないと行動出来ないタイプの人になったのかと思っていましたよぉー? 誰かと一緒にいないとぉー、落ち着かないんじゃないんですぅ?』
顔を歪め、思わず左手で頭を抱える。止まれ、と。しかし頭の中でリプレイされる雑音が途切れることはない。
『今はどうだか……気色悪い。死体のクセに、今更人間みたいに粋がっちゃってバッカみてぇ』
彼にとっては、冗談だったのかもしれない。本気だったのかもしれない。どっちつかず。今更信憑性を己に問い質したところで、正当が自分の中にあるはずもなく。
(何を、いまさら)
確かに今まで、自分は独りで生きてきた。誰かに支えてもらわないと生きられない、などというそういう意味合いではなく。心のつながりは全て断ち切って、独りで。
感情を封じ込めていたのは、一体何のために? 他ならない自分のために。自分がつらく、苦しまないために。
シータという偽名で仕事を行うのは、何のために。ルオである自分のために。自分が自分のままでいるために。
全て、自分という唯一の味方を擁護するために。それ以外は敵、または部外者。
静かな森には、風が吹き抜ける音だけが過ぎ去る。木々が犇めくさまは、まるで考え込むルオの噂話でも楽しんでいるかのよう。
話題の中心人物は先ほどから身動き一つしない。ただ頭を抱えて考え込む。〝付き添い〟を探す素振りはない。
(――怖い)
ギュ、と目蓋が強く閉じられた。長い睫が微かに震える。
――変わっている。自分の周りが、自分を含めて少しずつ。変わると言うことは恐ろしいことだ。今まで当たり前だったことが当たり前でなくなる。それはとても、恐ろしいことだ。
自分は、このままでいいのか。このまま、彼らの輪に滞在してもいいのか。
目蓋を持ち上げる。少し潤みを帯びた碧眼が現れて、辺りを見回した。
相変わらず誰もいない。鳥の鳴き声もしない。ただ、静かに森の声がするだけ。茂みの中には樹木に紛れるように、よくわからない青銅製の像があった。本当によくわからない。
(全部、分からない)
あまり気にしたことはなかったが、この辺りには点々とブロンズ像が放置されていた。鳥の姿を象ったものや、蛇が巨大化したようなものまで。
ルオが今更ながらに興味を示して、止めていた足を動かす。ガサガサと葉っぱたちの仲を割いていくように、躊躇なく足を進めて行く。その時。
――グイッ!!
「!」
圧し折るかのように、何者かがルオの華奢な腕を引っ掴んだ。何かよからぬものを感じて振り返るが、掴まれた後であり。
「この馬鹿野郎!!」
「ひより?」
瞬間、吹っかけられたのは叱咤。
何故怒鳴られているのか、何故ひよりがここにいるのか。分からないルオは、キョトンとした反応を返す。
見れば、ひよりの着ている白衣の裾が破れている。元々ボロボロではあったが、先刻はここまで酷くなかった。
つまり、ルオを追う過程で破けたということだ。
「何を、怒ってんの」
「手前さんが一人で行動するのは禁じられている! 忘れたのか!!」
「……あ」
そこで、やっと彼は自分の〝現実〟を思い出した。
あまりにも自然に、好きな行動をしていたがために忘れていた。自分は、本来外に出ることさえも出来ない人形であることを。
鬼気迫るような形相のひよりに圧され、ルオは口を噤む。
「ご、ごめん」
返事の代わりに、ひよりからは安堵の溜息が吐かれた。
そしてルオは、ふと。疑問に思ったことを口にする。俯いたまま、視線だけを持ち上げてひよりを見た。
「あのさ」
「どうした」
彼の左腕を掴んだまま、ひよりはルオの台詞を促した。
「エリやオズは、置いて来たわけ?」
「ああ。手前さんが逸れたのは問題だからな……この森はPLANT固有の島の大部分だ。被験体が放し飼いにもされている。ルオ君が一人になるのは危険だった」
「……」
疑問が膨らむ。
「どうしてあいつらは放っておいていいのに、俺はダメなんだよ」
もしかすると。と、まるで発端とでも言うように彼は思い返す。今まで、エリと二人で行動したことや、オズと二人で会話を交わしたことはあった。それは、彼らが自分の〝監視〟をしていたと考えても間違いではないのではないか。
彼らにその気がなかったとしても、ひよりはそう考えていた。そう捉えることが出来てもおかしくない。
「どうなんだよ、ひより」
「何を、寝惚けたことを言ってるんだ」
「?」
ルオが首を傾げた。自分が求めていた言葉を、ひよりが口にしなかったからだ。
口にはしないが、視線でもう一度「どういうことだ」と先を促すような視線を送る。
するとひよりは、一瞬だけ赤い瞳を揺らした。
動揺でもなく、慈しみでもなく。それは、愁いを帯びた眼差しだった。
「ルオ君。それは、手前さんが不良品だからだ」
「――!」
あの時。先日、ひよりと剣を交わした際の感情を。思い出した。
『ひよりはたまに、俺を突き放すような言動をする』
親のような振る舞いをして近付いて来るくせ、こちらが心を許そうとすれば途端に手のひらを反す。
彼が一体何をしたいのか。何を望んでいるのか。――何者なのかが、未だにルオには分からない。それは一時の疑心などではなく、スタッフのプロフィールを独自に調べたこともあった。
もう一度質問を口にしようと唇を割るも、彼に掴まれたままの腕に鈍い痛みが走り、口を閉じる。それ以上踏み込むなとでも言いたいような痛みであった。
「……分かった」
首を垂らして、ぽつりと呟く。次いで「痛いから腕を離して」とも請えば、ひよりはゆっくりと腕を解放した。
解放されたのは腕だというのに、別の何かも同時に離れた気がするのは何故だろう。互いに勘付いてはいたが、どちらの口も開かれない。
歩き出そうとするひよりの背中に、ルオは言った。
「じゃあさ」
「まだ何かあるのか」
鬱陶しそうに彼は振り返る。ルオは尚も真剣だった。怖気付くこともなく、碧眼と赤い瞳が見据えあう。
なだらかに吹いていた風が止み、辺りが静寂に包まれる中……少年の声だけが響いた。
「どうしてあんたたち人間は、俺みたいなアンドロイドを造ったりしたんだ」
「!!」
途端、ひよりが目を丸くする。思わず口を開いたものの、何も言葉は出なかった。その隙に、ルオはまるで嗾けるように続ける。
「不良品、不良品って。特に使い道もなく、ただただ施設に幽閉して。壊したいなら壊せばいいのに、どうして俺を生かす? どうして俺をヒトのように造った? どうしてココロを持たせた! なんでだよ、どうしてだよ!!」
「…………」
後半は既に、ひよりに情をぶつける形で彼は吐き出した。憎しみにも似たような思いを携えて、ひよりを睨みつけている。
――彼は何も答えなかった。ただ顔を背け、苦虫を噛み潰したように表情を歪める。
――サアァ。と、止んでいた風が微かに吹き抜ける。
「ほら、どうなんだよ。どうして答えないんだよ、いつもの威勢はどうしたの? ねぇ師匠、弟子が思い悩んでるんだよ? 助けてくれないの? ねぇ。ねぇ、ねぇってば。黙ってちゃ分かんねーだろ、何か言えよ」
今まで否定していた師弟の関係を卑しく持ち出し、自嘲気味に彼は笑う。苦し気だった。
離れた距離を取り戻すようにルオが一歩足を踏み出すが、縮まるのは物理的な距離のみである。
「はっきり答えればいいだろ、言えばいいだろ!! 俺の存在自体が失敗だって、壊す価値すら見誤ったって! どうせその程度なんだろ、どうせ最初からいなければよかった存在なんだろ!!」
「ギャーギャー罵詈雑言を吐き散らかすな餓鬼!!」
「な……っ!」
瞬間、ひよりの右腕がルオの胸倉に伸び、問答無用に衣服を引っ張り上げた。苦しそうにルオが顔を歪めたのは一瞬で、次の瞬間には既に目の前の赤色を睨みつけていた。身長差があるため、ルオの足は地面にやっと着く程度である。
「手前さんのようなやつが、一体何を知って人間様に口を聞いているんだ。何をぬかしているんだ、一体誰の犠牲があって手前さんはいると思っているんだ!」
「知るわけないだろ、そんないるかどうかも分からない偶像虚像!」
は、とまたルオが嘲笑う。
「何、一種の宗教でも俺に刷り込みたいの? 何してんのかも分からないカミサマに頭をヘコヘコ下げる信者みたいに、俺にもどこの誰かも分からない、ましてはお願いしても無い輩に感謝して生きろって? ふざけんじゃねーよ!!」
「手前さんは何も知らないだけだろう!」
「知らないもなにも教えないのは誰でもない、あんたら人間だろーが!!」
「っ……」
また、ひよりが言葉を飲みこむ。
――今まで、ひよりはルオの模索を抑制していた。突っぱね、元の位置へ戻るよう指示をしていた。しかし今のルオに食い下がるつもりはない。
彼にはもう後がなかった。
「手前さんは、手前さんは……!」
「――!?」
ひよりが再び口を割った、刹那。
――ピシャアァァンッ!!
空間を劈くように雷鳴が響く。同時に、ひよりの顔が引きつった。
二人は衝撃によりその場に倒れ込む。視界には立ち上る煙。状況は、取りあえず雷が近くに落ちた。……ようにも感じられた。
「何で、雷が……?」
どちらともなく声を漏らし、上空に目をやる。晴天。嵐の翌日には良く晴れるという言葉がそのまま反映された天候だ。雨雲などどこにも見当たらない。
続いて煙の立ち上る部分に視線を下ろせば、砕け散ったブロンズ像が目に入った。もしかしたら、雷などではなくアレが爆発したのかもしれない。
むしろ天候を見る限り、そちらの可能性の方が有力だ。爆発する際、眩い関光が飛び散っただけなのかもしれない。そのような爆薬もあるのかもしれない。そもそも爆弾が仕掛けられていたという可能性は低いが。
「ひよりさーん、ルオさーん!」
「な、何だよさっきの爆発音……って煙!?」
音に気付いてなのか、それとも元々向かって来ていたのかは定かではないが、二人の元へエリとオズが駆け寄ってきた。地面から立ち上る煙に気が付いたオズが口元を覆う。
「お、おまえたち爆発事故にでも巻き込まれたの」
「さあ……ここらへん良く分かんないの多いし、勝手に爆発したんじゃね。雷かと思ったけど」
「可能性としては無きにしも非ずだなあ」
ヨイショ、とひよりが立ちあがる。少し白衣が焦げていた。益々ボロボロである。
爆発物があると聞いたエリは「それは大変です! 一刻も早くカルビさんを見つけましょう!」と意気込んだ。皆で再び探しに行く雰囲気であったが、オズが腰を折るように「待って」と割り込む。
「ルオ、昨日足を挫いてるんだ。悪化したみたいだから、二人で探してよ」
「え、大丈夫なんですか?」
心配そうにエリがルオを見る。すると彼は小さく頷いた。
「放っておけ。オズ君、こいつが動かないようしっかり見ておいてくれよ」
「うん」
「…………」
対し、ひよりはどこか素っ気ない。少々エリは不思議そうであったが、黙ってひよりと共に去って行った。
倒れ込んだ体制のままルオは動かない。その脇に、ちょこんとオズがしゃがんだ。
暫く二人は何も言葉を交わさなかったが、ついにルオから沈黙を破く。
「ねぇ」
「なに?」
俯き、声音の低い彼とは対照的にオズはあっけらかんとしていた。
「あんた、どうしてあんな出鱈目言ったわけ」
「おまえなら分かると思うけど」
「……」
人とは、無意識に弱っている部分を隠そうとする。誤魔化そうとする。補おうとする。ルオにもそのような習性はあった。
爆風により思わずよろけたが、彼は彼なりに捻った右足を庇っていた。つまり悪化はしていない。だが、オズは悪化したと言ってエリとひよりをこの場から遠ざけた。
そもそもオズには視力がない。だと言うのに、どうやってルオの体調の変化に気付けるのか。まずそこからおかしかった。
そしてエリは兎も角、ひよりすら気が付けなかった。それは彼が、そのようなことを気にしていられる心境ではなかったためか。それとも、ルオと同じ場所に居られない理由があったのか。
「ルオ、ひよりと何かあったの? どうしてそんなに機嫌を損ねてるんだよ」
オズはルオの碧を覗き見るように首を傾げる。視線を向けられた彼は、じろりと気怠そうな視線を返してそっぽを向いた。
「疲れてるだけ。放っといて」
「違う。今のおまえは、嘆いてる」
思わずルオは顔を上げた。目の前のオズは真っ直ぐと自分に向いている。
彼の双眸は白い包帯で覆われているというのに、何故だろうか。ルオは、全てを見抜かれているような気がした。
「僕には分かる」
「分かるなら、普通は訊かないのが礼儀じゃねーのかよ」
ああもう、面倒くさい。半ば投げやりになったのか、ルオは目を瞑って吐き捨てた。どうやら否定することは諦めたらしい。
「おまえに礼儀云々説教されるとかホントないよ」
「怒るぞ」
ギロリ。瞼を持ち上げて、下から睨み付ける。だが、あの気弱なオズが怖気づくことはなかった。
突然地面を見回し始めて、何かを探すように左手を泳がす。そして手ごろな小枝を掴むと、土に何かを描き始めた。思わずルオも彼の手元を見る。
「……何描いてんの」
「ルオのココロ」
「俺?」
オズが絵を描きながらコクリと頷いた。
被写体について気にするよりも、現在のルオは(盲目の状態で、よく絵が描けるな)などとどうでもいい関心を抱いた。
ガリガリ。ガガッ。ガリ、ガリ。
枝が地面を抉っていく。自然のキャンバスに現れたのは、ハートマークと滴り落ちる雫だった。
「ルオって、最近凄く楽しそうだよ。最初に会った頃よりも、ずっと。まるで別人みたい。最初は、凄くこいつは冷たいやつだって思ってたから」
まあ今もそんなんだけど。と続けながら、オズが手を動かし続ける。陰を入れているようだ。
「おまえのココロは、凍ってるようだった」
「!」
オズの台詞に、既視感を覚えた。途端に記憶の中から、ある台詞が飛び出してくる。
『貴方の眼は、凍てついている』
いつか。エリと会ったばかりの時、彼に言われた台詞だ。ルオは思わず絵から顔を逸らし、ギリ……と唇を噛む。
「僕には、さっきおまえが何を見たのか、言われたのか、聞いたのか知らないけど。今まで凍ってたココロでは感じなかったこと、今なら、感じることが出来たんじゃないのかなって」
ガッ。
刹那、彼は地面のハートに木の枝を突き立てた。硬い地表に刺さることはなく、手を離せばポテンと倒れる。
「我慢することないと思う。僕は悲しかったら、それを絵に描く。ついこの間までは、体を切ってた」
そう言って、オズは自分の右腕に巻かれた包帯を撫でた。最近では、オズは自傷をしなくなったとひよりが言っていたな、とルオは思い出す。
「皆、それぞれに辛いことがあって、それを乗り越える術を持ってる。だけどおまえは、それを知らない。今まで感じることもなかったなら、無理もないだろうけどな」
一度だけオズが顔を上げた。だが、またすぐに下を向く。今しがた枝を突き刺したハートマークの一部分を、指の腹で撫でて消した。
(感じなかった)
確かにそうだ、今まで何も感じなかった。今まで、エリたちが自分の元に来るまで……自分はどうやって過ごしていたのか。今ではよく思い出せない。
自分は不良品だと罵られて生きてきた。不良品だからと、PLANTの命にも忠実に従ってきた。不良品であるから、いつ壊されてもおかしくはないと思っていた。
それがどうだ。
(俺が何をした)
好きで不良品でいるわけじゃないと。彼の内側で、何かが悲鳴を上げた。もしかすると、それがオズの指摘したものだったのかもしれない。気付いたところで、今のルオにはどうすることも出来ない。
自分の体内を蠢く怒りにも似た衝動の行き場はなく。彼は、ただただ――。
ガツッ!!
「!」
背中を預けていた幹に、左の拳を叩き付けた。音に驚いたのか、オズは体をビクつかせる。
ゆっくりと手を樹木の皮膚から距離を取って見れば、赤い液体がじわりと滲んでいる。こちらの皮膚が負けて掠れていた。
(これじゃあ、結果的にオズと一緒じゃないか)
自傷。確かに、気は紛れるかもしれない。しかし、これではダメだということをルオは知っている。
事実は変わらず、解決にもならない。――何よりも。
こんな自分を、世辞でも〝良品〟とは呼べない。
はぁ、と出来るだけそっと。ゆっくりと、息を吐き出した。己の昂っている感情を宥めようと必死で。
呼吸をゆっくりと行うだけで、心なしか楽になったようにも感じる。
自然と開いた口は、何かを探す。話題。安易にそれはすぐに見つかった。そうして、じっとオズを見つめる。
「……オズ、どうして俺が病んでるって気付いたんだよ」
ルオの問い掛けに、オズは一度口を開くもすぐに閉じた。何かを言おうとしてやめたのだ。
「僕には……見えるからな」
「見える?」
見えるも何も、感情や気持ちは見えるものではない。表情や仕草、声で伺うことは出来るかもしれないが、オズは両目を失っている。
どういうことなのか。
(視覚が無い分、そういうことに関しては敏感なのか)
不思議と納得が出来た。オズが直接述べたわけではないが、彼なりに一番理解出来る理由だ。
「そ、それより。気分は落ち着いたか?」
「え、あぁ。変に当たったりして悪かったな」
謝罪を述べると、ルオは左手に付着した汚れを払い落とす。昂る感情をどうにか落ち着かせて。
今更何を喚こうが、ひよりに当たろうが、どうにもならないのだ。そんなこと最初から分かっていたはずだというのに。
――この現実世界で呼吸をする限り、人々はとある境遇の中に生まれる。どうすることも出来ない、選択することも出来ない境遇に。
だというのに。自分で選んだ境遇だというわけでないというのに、人々はそれを差別する。他人を見下し己を過信する。畏怖する存在にはそれ相応のレッテルを貼り付け、時の権力者は歴史さえも隠蔽し改変して後に伝える。
(だから俺は、ココロが嫌いだ)
心の弱さがいけ好かない。何よりも、それに立ち向かおうともせず目を背けることばかりに徹していた自分にさえも。
――本当は分かっている。現状を変えたいのならば足掻く必要があった。変えることのできないものに対して自己満足で文句をぶつけ、結局は逃げ出した。
(ひよりは悪くないって、分かってるのに)
彼はどうすることも出来なかった自分を、出来る限り擁護してくれている。元来ならば、とっくに自分は廃棄処分されていただろう。しかし彼に与えられた刀剣を操ることが出来たことで、PLANTのスタッフたちは自分に役目を与えた。
アンドロイドクラッシャー。あの仕事が、あの破壊活動こそ自分が生き永らえている理由なのだ。
(……さっさと、壊してくれたらよかったのに)
モゾモゾと膝を折って三角座り。膝をぎゅっと抱いて、顔を埋めた。
環境が悪い、境遇が悪い。周りが悪い。ひよりが悪い。結局自分は、周りを責めることしか能のない子ども。自分を責めようにも、理由が分からない。
自分の非を教えてもらおうにも、誰も口を割ろうとしない。強いて言うならば性格が捻くれてしまっていることか。などと悶々と考えを巡らせては、自嘲気味に鼻で笑った。
「あ、帰ってきた」
オズが呟く。途端、二人分の足音が聞こえてきた。サクサクと若葉を踏みしめる音が近付いて来る。
伏せていた顔を上げて音の方向へ目を向ければ、当然のことながらエリとひよりがいた。ルオの視線に気が付くと、エリは駆け寄ってくる。
「ルオさん、足の調子はどうですか?」
「休んでたら回復したよ。ありがと」
答えると、ルオはゆっくりと立ち上がる。続いてオズも立つと、エリの後方で黙り込んだまま突っ立っているひよりに問いかけた。
「カルビはいた?」
「いいや」
ゆるゆると首を左右に振る。そっか、とオズは肩を落とした。同じようにエリも眉根を下げて申し訳なさそうに身を縮める。
普段明るいひよりの口数が少ない所為もあってか、既に諦めモード。今にも誰かしらが「帰ろうか」と言いだしそうな雰囲気の中、沈黙を破ったのは意外にもルオだった。
「ねぇ、何か聞こえない?」
「何かって」
「しっ」
エリが口を開くが、すぐルオが黙らせてしまう。口元に人差し指を当てて「静かに」の仕草。思わずエリは黙り込み、今度は故意で沈黙を守った。
――ザアアアァァァ……。
静けさの中で聞こえてきたのは喧噪。葉がざわついている音か、それとも。
「……水?」
オズが呟く。続いて、思い出したようにひよりが言った。
「ああ、この近くには川がある。そうたいしてデカくはないが」
「そうなんですか」
「あの川なら僕も知ってる。何の変哲もない普通の川。ルオ、分かっただろ」
納得しただろうとルオの顔色を伺うが、彼は相変わらず神妙な面持ちで息を潜めていた。オズの呼び掛けに反応もせず、だんまり。
不思議そうに、思わずオズとエリが顔を見合わせた。
「おい、ルオってば」
「違う」
ピシャリ。と、ルオがオズを突っぱねる。彼はムッとして「違うって何が」と食って掛かろうとしたが、ひよりによって止められてしまった。
彼もまた、ルオと同じように耳をそばだてている。何か聞こえたらしい。
「おっさんも聞こえた?」
「おっさんと呼ぶな、パパと呼べ」
「どうしてそうなった」
「えっと……」
二人は真剣な顔をしたまま、普段通りのやり取りを交わしている。その光景があまりにもシュールで、オズとエリは思わず言葉を失っていた。
しかしルオとひよりにとって今の会話は、和解にも似た意味を含んだもの。「おっさん」と彼が毎度嫌がる呼び名をルオが呼び、ひよりが普段と同じようにそれに乗る。
素直に謝罪も出来ない彼らの、彼らなりのかたちでの、仲直りだった。
その時。
「ニャアー!」
「!!」
川の音に交って、確かに聞こえたのは猫の鳴き声。しっかりと聞こえた動物の悲鳴に、全員顔を見合わせる。
「行くぞ!」
「はい!」
そしてひよりの声を合図に、彼らは一気に駆け出したのだった。
***
――ザァァァアア……。
突き進んで行けば行くほど、大きな雑音が響いてくる。間違いなく水の音だ。
「はぁ、はぁ。確か、こっちから鳴き声が聞こえ……あっ」
暫く走り続けると、水の濁り切った大きな川の辺に出てきたではないか。話で聞いていた限りでは、それほど大きくなかったはずの境目。流れはとても速く、見るからに増水している。
「ふ、ふだっ。普段はこの川っ、もっと流れが……緩やかだし、綺麗だよ。なのに、どうしてこんな」
「オズは無理して喋んな、こっちの息まで詰まりそうになる。……あらかた昨晩の雨で増水したんだろ。ああ、靴がぐっしょぐしょ」
エリとオズは全速力で走ったことにより、疲弊しきっている。膝に両手をついて呼吸を整えながら、言葉をポツリポツリと紡いでいった。エリには持久力があまりなく、オズに至っては瀕死状態。あるはずのない体力ゲージが、赤く見える。呼吸を何度も繰り返す音が、ヒューヒューと聞こえる。肺に穴でも開いてしまったのではないのかと心配になるほどだ。
打って変わり、飄々としているのは師弟コンビ。靴の泥を気にしているルオと、辺りを忙しく見回しているひよりだ。
一人観点のズレているルオに関しては誰も指摘することもなく、次の瞬間には赤い眼が白い生き物を見つけていた。
「いたぞ、あそこだ!」
「えっ!」
ひよりが声を張り上げ、指を差す。皆がその先を視線で追っていくと、川のど真ん中にたどり着いた。
轟々とした濁流のなかに、ポツンと飛び出た岩。その上にカルビはいた。
「カルビ!」
「ニャア……ニャー。ニャー!」
猫の元に飼い主が駆け寄る。カルビもこちらに気付いたようで、岩の淵にまで近付いて必死に鳴いていた。助けを求めている。
「今助けてやるからな!」
「助けるって、どうやって」
後を追って来たルオがひよりに問う。返事はなかった。
川の流れは速い。常人ならば、足を踏み入れた瞬間にひっくり返ってしまうだろう。想像に難くない。ならば、一体他にどんな方法が?
うんうんと唸る二人の元へ遅れてエリとオズも到着した。再び息を切らしてしまっている。彼らを気にする余裕もないらしく、ルオたちは救助方法を練り始めた。
「流石に泳いで助けるには、無理があるよね。流れが緩やかに戻るまで待ってみるとか」
「しかしそんなに待つ時間もないぞ。その前に、カルビがダウンしてしまう可能性だってある」
ひよりが空を仰ぐ。昨日とは違う青々とした晴天が、そこには広がっていた。嵐の翌日なのだから納得もいく。
――急がなければ。
「何か長いものでっ、ハァッ……カルビを、助ける、っというのは」
「そんなものが何処にある? 精々木の枝を折るくらいしかないだろう」
「あ……」
息絶え絶えにエリが提案するも、虚しく却下。会議は早々と行き詰ってしまう。
――川の流れる音が煩い。必死に助けを請うカルビの声も擦れてしまうほどに。
「やっぱり、誰かが泳ぐしかないんじゃねーの……?」
ボソリと、力なくルオが言う。最初に上げられ、最初に沈められた案である。
「それは自殺行為のようなものだと言っただろう」
「はあ、はあ……命綱をつけて、残った三人がそれを引っ張るっていうのは、どう?」
ルオの案に便乗したのは、呼吸を落ち着かせていたオズだ。皆が彼を見て、顔を見合わせる。それならイケるかもしれないという気持ちの表れであった。
「問題は、命綱だが」
「それでしたらたくさんありますよ! ほら、この辺りに垂れ下がってる蔦や蔓を使いましょう」
エリが近くに在った大木の元まで歩み寄り、枝に絡まっている蔦を剥ぎ始める。後に続き、オズが彼を手伝った。その様子を岩の上からカルビが心配そうに眺めている。
そうして各人、近場の樹木から丈夫そうな蔦や蔓を採取して持ち寄った。
「一本だけというのは心細いな。編んでみるか」
「そうですね、それがいいです」
ひよりの言葉で、次は三本の蔦をより丈夫にするために編み始めた。最中、ふと気づいたようにルオが口を開く。
「そう言えば、誰が泳ぐわけ?」
「……」「……」「……」
ピタッ。三人の手が止まった。手元に注いでいた視線をゆっくりと上げて、それぞれの顔を伺う。
「そりゃあ、当然ここはひよりさんでは?」
「馬鹿野郎。おじさんは駄目だ、高齢者は労われ」
「そんなこと言ってる場合?」
ブンブンと首を左右に振るひよりに、ルオが呆れたような視線を投げる。すると「それだけじゃあない!」と必死にひよりが声を荒げた。
「おじさんは何を隠そう、カナヅチなんだ。つまり、泳げない!」
「威張るな!!」
何故か威張った彼にルオが吠える。流石のひよりも、それ以上は何も言い返さなかった。不甲斐無さを感じたらしい。
はぁ、とため息を零して残りの二人にルオは視線を流す。
「エリ、あんたは?」
「うーん……泳いだことがないのでどうとも」
首を捻る。この前の鬼ごっこで、彼の運動神経はそれなりにあることを知っていたルオはそれなりに期待したようだ。
が、泳いだことがないというのは流石に不安である。
「危険な賭けってことか。オズは?」
「お、泳げる、けど……。体力が続く自信がない、かな」
「あんたが溺れたら元も子もないだろ」
想像に難くない。思わず、はぁーとルオがため息を吐いた。先ほどから走れば息切れをしているオズに、失礼ではあるが期待出来ない。そもそも彼には視力がないのだから、リスクも伴うだろう。
改めて、彼は周りの三人を見やった。カナヅチと水泳未経験者に、運動音痴。
「あああもう、てめーら本当に使えないやつばっかだな……!! 特にひより!」
「どうしておじさんだけなんだ!?」
ビシッ! と、ルオは勢いよくひよりを指差した。指を差された彼はすぐさま叫び声を上げるが、ルオの口が開く様子はない。ツン、とそっぽを向いていた。
「そう言うルオは?」
「はぁ、俺?」
オズが顔を背けているルオに問う。すると彼は腕を組んだまま、当然の如く答えた。
「そりゃ泳げるに決まって、……ん」
そして、はたと気づく。この流れは、まさか、と。
サァー。血の気が引いた。顔面を蒼白にして、組んでいた腕さえも解き、首と両手をブンブンと左右に振り始める。
「む、無理! 無理無理、絶対無理! 泳げるけど、それとこれとは話が違う! 泳げても俺は猫なんか助けられない! 無理だ!!」
「やる前から諦めてどうするんですか!」
「我らの希望! 超新星!」
「頑張れルオ、おまえなら出来るぞルオ! 僕たちはおまえの夢幻の可能性を信じているぞ、ルオ!!」
「さあ、我が弟子よ! 今こそその真の力をこの大河に向かって解き放つのだ!」
「持ち上げるな盛り上げるなテンション上げるなああ!! これはやる前から分かってる事実だろ、俺が猫嫌いなのはあんたらも知ってるだろ! 誰がどう言おうと俺は絶ッ対に無理!!」
ガルルルル……。ルオはこれでもかというほどに威嚇している。
カナヅチと水泳未経験者に、運動音痴。そして、猫嫌い。使えない人種が見事に揃っていた。むしろ奇跡のようにさえも感じる。そして何より、一番くだらない理由は最後の金髪だ。当然白羽の矢は彼に突き刺さる。
ルオは腕を再び組み直すと、隣にいるエリを横目で見た。口から吐き出されたのは、提案という名の擦り付け。
「それならまだ、エリが泳いだ方が俺は可能性があると思うね」
「ええっ、ダメですよ! 僕は泳ぎ方なんて知りませんし」
「そんなの犬かきで十分だって」
「無茶を言わないで下さい、台詞の途中で目を逸らさないで下さい!!」
話題の中心人物としてスポットライトが向けられる。しかしエリもまた首を横に振った。埒が明かない。
エリは慌てて周りを見回し、期待の眼差しである人物を見る。続いて矛先を向けられたのはひよりだった。
「でしたら僕は、ひよりさんの可能性に信じたいと思います。主とペットの絆を前にしては、こんな濁流屁でもありませんよ! ね!」
「ぬあ!?」
行き成り話を振られたことで、彼は間抜けな声を上げる。だが、当然彼もまた首を何度も左右に振った。
「いや、いやいやいや! エリ君、流石にそれは無謀だ。幾ら美しい絆とも言えど、流石にこればかりはだな?」
「その程度の絆なのかひよりー。飼い主の威厳を魅せてみろひよりー」
「そうだそうだー」
「手前さんらは黙ってろ!!」
必死にエリを宥めようと試みるも、そうはさせるかとばかりにルオが適当な声を上げる。便乗して、隣にいるオズも野次馬のように煽り立てた。煩いとばかりにひよりが怒鳴る。
すると突如、ルオが真剣な表情を魅せた。キッと鋭い視線でひよりを見つめると、しっかりとした口調で一言。
「犬かきでもいいから」
「台詞を使い回すな!!」
輪になって皆が皆、互いを睨み合う。そして役目を擦り付け合う。なんとも醜い光景だった。その様子を、カルビはとても不安そうに眺めている。
尻尾をダランと垂れ下げて、耳もぺたりと伏せられていた。鳴き声もどこか弱々しい。
その時だった。
「――みっ、みんな! あれ、何か来てない!?」
「あん!?」
三人のいがみ合いをオロオロと傍観していたオズが、突如声を上げる。バシャン、と一際大きな水しぶきを上げながら猛スピードで流れてくる何か。
大きな流木だった。途中、岩にぶち当たって軌道を変えると――真っ直ぐ、カルビのいる岩に向かって流れていく。
「そんな……。大変ですよ、時間がありません!!」
「クソ!! どうする!」
「っち……」
エリとひよりが顔を見合わせ、ルオが舌打ちをして俯いた。カルビは何が起こっているのか分かっていないようだ。オズも神妙な面持ちで、考え込むように顔を背けている。
瞬間、足元に落ちていた命綱を引っ掴んで、ルオが川に向かって駆け出した。
バシャン!
「ルオさん!?」「少年!!」「えっ、ルオ!?」
三人がほぼ同時に声を上げるが、ルオは既に川の中。何度も水を頭からかぶり、体を持って行かれそうになりながらも岩場へ。カルビが何度も、心配するように激しく鳴きだした。
「かはっ。ね、ネコ……! 早く、こっち……!」
「ニャー! ニャー、ニャー!!」
足場で何度も足踏みをしては、ルオの方へ跳ぶかどうか迷っているようである。どちらにせよ、濡れることを免れることは出来ないのではあるがカルビには分からないのだ。ただ、目の前の川が怖いらしい。
流木が迫ってくる。
「ルオ……どうして……」
食い入るようにルオたちを見るエリたちの隣で、ボソリとオズが呟いた。きつく握り締められた手が白くなる。刹那、カルビの足元がズルリと滑った。
「カルビ!」
「!!」
ひよりが思わず声を上げる。それと同時にルオが身を乗り出して、カルビを抱いた。が。
――ゴッ!
「ルオさん!!」
その体に、流木が激突した。反射的にカルビを庇ったことにより、打ち所が悪かったようにも見える。
悲鳴にも似た声でエリが名を叫んだが、視線の先には誰の姿もなかった。何もなかった風な顔をして、流木が過ぎ去っていく。
ザアアァァァー……。
相変わらず流れが速い。濁り切った水では、一体何処に流されたのかも分からない。呆気としているエリたちより一足早く我に返ったひよりが命綱を引っ張ったが、軽かった。誰もいない。
「そんな……」
ガクリ、とエリがその場で膝を付いた。轟々と流れる川の前では何も出来ない。彼らは己の不甲斐無さと、無力さを遅れて実感していたのだった。
***
川を暫く下り、比較的に穏やかな辺。水面に、ゆらゆらと揺れる人影があった。
「――っは!! はぁ、はぁっ……!」
浮上してきたのは青髪の青年。その腕には何かを抱えているようだ。
比較的に流れが緩やかとはいえど、それでも流れの激しい川の中を彼は必死に泳ぐ。そして岸に着くと、腕に抱いていた何か――金髪の少年を岸辺に上げた。気を失っているルオだった。
「はあ、はぁ……は……はぁ」
荒い呼吸を繰り返し、重たい体を無理に引き摺る。脱力しているルオの華奢な体をもう一度抱えると、川から距離を取るように木陰へ移動した。芝の上に彼を横たわらせて、自分も隣にドサリと座り込む。
「ルオ……目を覚まして。ルオ、ルオ……」
目を閉じている彼の体を揺すりながら名前を呼び続ける。しかし反応は無かった。
青年も必死だったのか、呼吸の確認も取らずただただ彼を起こそうとしている。頭が回っていないようだ。
そこへ、バシャリバシャリと水を含んだ足音が近付いて来る。ハッとして青年が顔を上げると同時に、ベシャンと近くに何かが投げ捨てられた。白い猫だった。
「ハァー……あぁー、死ぬかと思ったぁー」
「ノイズ……?」
「うぃっす」
青年がキョトンと見つめるのは、自分と同じように全身水浸しのノイズ。彼の足跡は、青年と同じように川から続いていた。
白い猫の正体はカルビ。どうやらノイズが川から救出して来たようだ。カルビもルオと同じく気絶している。
「あなたが、なんで」
「拾った」
耳抜きをしているのか、頭をトントンと右手で小突きながら彼は答えた。
そんなわけないだろ、と青年が指摘することはない。まるで心ここに非ず。
「ゴミみたいなんが流れてたからぁ、やっさしーいノイズくんが回収してやればオレびっくり! なんと死にかけたネコ!! ……ってだけですよぅ」
ビチャビチャと相変わらず重たい音を鳴らしながら青年の元へ。そして気絶したルオの傍に立つと、気怠そうに顎で「これ」と指した。
「息してないんじゃないんです? さっさと王子サマが人工呼吸した方がいいと思いますよぉ」
ノイズも木陰に腰を下ろす。ジロ、と左目で青年を睨むと一言付け加えた。
「ガチで死ぬよ、その人」
「あ…………」
その時やっと我に返ったようで、青年は目を見開いた。ハッとしてルオを見つめ、呼吸の確認を取り始める。やり方が分からなかったのではなく、本当に気付いていなかったのだ。
「アンタらしくもない。何パニクってんだかぁ」
ハァー、と息を吐き出して、ノイズは幹に凭れかかる。その隣で、青年はすぐに人工呼吸を始めていた。ノイズの言った通り呼吸がなかった。
「――っげほ! けほっ、けほっ……」
心臓マッサージと呼吸補助を行うことで、突然ルオが咳き込む。水を吐き出して、ゆっくりと呼吸を始めた。意識はまだ戻さない。
横目で彼が息を吹き返したのを確認すると、ノイズは言った。
「ケイ先輩」
「……何?」
未だに水を青い髪の毛から滴らせ、青年……ケイは返事をする。ゆるり、と視線がノイズに向けられた。見るからに疲弊し切っている。
「アンタ何してんすか。急に能力使って雷落としたと思ったら、今度は水ん中飛び込んでその人助けて……何があるんすか、その人」
「…………」
場都合が悪そうに、フイと彼は視線を逸らした。ノイズは気にした様子もなく、まるで独り言のように続ける。
投げた視線の先の空は青い。
「オレが前にその人殺したいつった時もですけどぉ、そんなに執着して何もないじゃ済まないと思うんすよねぇ。ルオ先輩に対して、何か負い目でもあるんですぅ?」
「負い目……」
半ば冗談でも言うように、ノイズが嘲笑を零した。だが、ケイは冗談として受け止めない。彼の言葉を反芻すると、神妙な面持ちでルオを見た。白い体にはいくつもの生傷が増えていた。
川の辺、木陰。穏やかな風が真上の木々の葉を揺らしていく。木漏れ日がキラキラと動いて、気を失っている彼の目元を悪戯に掠めた。ピクリと眉が動く。
そんな彼の顔を見つめながら、ケイが呟く。
「僕の罪は、この程度では拭えない。一生を掛けても償うことなんて出来やしない。そもそも僕は、彼に赦してもらうことなんて望んでない」
フルフルと首を小さく振る。ノイズが横目で覗き見るが、彼はまったく気にした様子もなく、もう一度ルオに視線を落としていた。
「僕は赦されるべきではない。僕の罪を彼に知られる必要もない。僕は僕自身の罪を受け止め、背負って生きる。ただ、ただ僕は……」
言葉が詰まる。そうして絞り出すように、呻くように言葉を綴った。
「僕は、彼に、これ以上……苦しんでほしくないだけなんだ」
「――…………意味分かんね」
ボソ。一瞬視線を外し、ノイズが吐き捨てるように呟く。そして再びケイを睨み付けると、まるでクレーマーのように彼の言葉に口火を切った。
「苦しんでほしくないとか何頑張ってキレーゴトっぽく言っちゃってんです? 現にその人苦しんでんじゃん、知らないわけじゃないくせに。本当に苦しめたくないとか言うならぁ、いっそ今殺しておきゃぁいいっしょ。それどころか助けやがった。アンタにはそれだけの能力だって地位だってある。オレには地獄で永遠と生かす方が、よーっぽど酷だと思いますけどぉ?」
そりゃ償えるわけねぇよ、とノイズが嘲る。ケイは何も言い返さず、ただ黙ってそれを聞きいれていた。視線はルオに注がれたままだ。
それが癪にでも触ったのか、ノイズは眉間にしわを寄せる。他人をおちょくり、反応を楽しむのが彼の趣向だ。反応を示さないケイにイラついたのだろう。
ツカツカとルオの傍らへ歩み寄ると、おもむろに腰からダガーを取り出し構えた。
「例えば、こうやって楽に――!」
「!」
ヴン。ノイズが得物をルオに向かって振り上げる。冗談などといった雰囲気はなく、彼は当然本気であった。それは、ケイもプロであるのだから察していた。
察していたから、こそ。
「――!!」
寸でのところで、ダガーがピタリと止まる。互いの力が相殺し合っているのか、プルプルと刃が小刻みに震えていた。
ケイの右手が、ガッチリとダガーの刃を捕えて離さない。人間ならば皮膚が破けて血が滴るところだろう。
彼がアンドロイドであることから血こそ流れないものの、ダメージは少なからずあったはずだ。ノイズの表情が歪む。
「こうして、楽にしてやるどころか助ける。毎度、毎度、いつも。いつも!」
「…………これを、仕舞ってくれないかな、ノイズくん。今電流を使えば、互いに濡れてることもあって、本当に壊れちゃうかもしれないしね」
「っ……」
また何か物申すように口を開くが、押し黙る。ギリ、と奥歯を噛みしめると、ノイズは手を引いた。背けた横顔は煩わしそうに歪んだままである。最中、ケイが「ノイズくんは」と発話した。
ゆっくりと彼はノイズに顔を向け、続ける。顔の輪郭をつたった雫がポタリと落ちた。
「ノイズくんは本当に、彼のことが気に入ってるんだね。あなたにとっての大事な人とか?」
「だ、……大事?」
思わぬ言葉に、彼は目を見張って顔を向ける。しかしケイからしてみれば、あまり大した言葉でもなかったらしい。
「なんにせよ、あなたに説教されるなんて思ってなかったな」
小さな笑みを浮かべてから、彼は立ち上がる。そして右手で濡れた前髪を掻き上げて、水を払うように腕を下ろした。
彼の冗談にノイズは言葉を失い、ワナワナと震えながらケイを凝視している。
「直に目が覚めそうだから、僕は戻るね。じゃ、後はよろしく」
「へ、は、え」
未だに言葉が紡げる状態でない彼は、無意味な言葉の破片ばかりを口にした。今しがた下ろされたばかりのケイの腕が、ゆっくりと上がる。
ノイズに発言の隙は与えないとばかりに、彼は最後に言った。
「その地獄に引き入れたことこそが、僕の罪なんだよ……ノイズくん」
「――!」
パチンと指が鳴る。瞬間、フッとケイの姿が消えた。
ザアァー……と、風が森の中を抜けていく。水を含んだノイズの髪は揺れることなく、視線もまたケイの立っていた位置から動かない。
暫く息を飲んでいた彼だったが、次第に我を取り戻すと落ち着いたようにルオへ視線を向けた。整った顔立ちが少し歪んで、長い睫が震える。
「――ん、ん……?」
目蓋が持ち上がり、澄んだエメラルドグリーンの瞳が露わになった。視点は定まっておらず、ぼぅっと宙を眺めている。
それを見ていたノイズの口元が、ニィと引き攣りあがった。
「面白いこと、聞いちゃいましたねぇ。思わぬ収穫、ってやつぅ?」
「……のい、ず? あれ、ここ、何処……俺……なんで。ぁ、ね、こは? ネコ、ねぇ、カルビは…………?」
彼の声に意識が覚醒し始めたのか、ルオはゆるりと首を傾けノイズを見た。自我を引きずり出そうと、彼はブツブツと自分に対する問答を始める。それを遮るようにノイズが右手をルオに差し出した。
「あー、いいんです。いいんですよぉ、目を覚ます必要なんてないんです。あのネコなら多分大丈夫ですから。だから安心してアンタは寝ていていい」
「……?」
彼の右手はルオの目元に覆い被さって、目蓋を下ろす。未だに微睡の中に横たわっていた彼は、抗うこともなくそれに従った。
再びズブズブと意識が暗闇に沈んでいく。ルオはそれを、何故か怖いと理性の片隅で思ってしまった。
「地獄に戻る必要なんてないんですよぉ、オレがアンタのこと地獄から助けてあげます。直に訪れる悲劇を境に、アンタは自由になる……ココロをぶっ壊されて見える世界って、一体何なんでしょうねぇ……ルオ先輩?」
ノイズの問い掛けは、風に攫われ独り言として終わる。彼の耳には規則正しい寝息が聞こえてきた。
そっとルオの顔から離れた手。下降して彼の首元に添えられるが、何もしないでまた離された。ジッとノイズの眼が寝顔を見つめて、飽きたように視線を空に投げる。
水色の瞳は、空の景色を映していた。まるで彼の左目自体が、空のように。
「オレの世界には、何もありませんよ。何も、何も……――」
ノイズの声は空の色に融ける。
そこに、ニャーとか細い猫の声が聞こえた。鳴き声の方へ彼が顔を向けると、そこには覚束無い足取りで歩いてくる白い猫の姿。
「起きましたかぁ、死に損ない」
「ニャー、ニャア……」
冷やかしの声をノイズは上げる。カルビはヨタヨタとバランスを崩しかけながらも、ルオの元へ近付いて行った。心配そうに尻尾を垂れさせて、寝顔を見つめている。
「ニャァ」
「死んでませんよぉー。気を失ってるだけですぅ」
「ニャアー」
「ムリムリ、オレにはどうも出来ませんってぇ。今は寝かせてやったほうがいいんじゃないですぅ? アンタ助けられたんっしょ、労わってやるべきじゃね」
「ニャ……」
何故かノイズはカルビを意思疎通が可能らしい。頭が動物レベルということか。
――ガサガサッ。
「!」
木々を掻きわける音がした。ノイズは小さな音に気付き、警戒態勢に入る。腰に付けたソードブレイカーに右手をやって、音のした方を睨んだ。
PLANT施設より離れた森には、何が出てくるか分からないのだ。野生動物も存在している。PLANTの技術により、手が加えられたキメラがいないとさえ言い切れない。
……が、そのような凶暴な気配はしなかった。次第にそれがノイズも分かったらしく、臨戦態勢を解く。
「ニャア?」
「よかったですねぇ。アンタら、助かりそうですよぉ」
キョトン、とカルビが首を傾げる。彼は立ちあがり、ルオたちに背を向けて距離を取ると、クルリと右足を軸にして振り返った。
「借りは返しましたからね、ルオ先輩」
先ほどのケイと同じように右手を振りあげると、パチンと指を鳴らす。フッ、と姿が消えた。
「――カルビ!! よかった、鳴き声が聞こえたから……」
「!」
立ち替わるように、茂みから顔を出したのはオズ。相変わらず鈍い動きで茂みを超えて、なんとかカルビとルオの元へ歩み寄った。
カルビは何度もその場で足踏みをして「ニャーニャー」と鳴く。ここにルオが倒れていることを知らせようとしているようだ。オズに視力がないことに勘付いているのだろうか。
「どうしたんだよ、カルビ」
「ニャアー!」
カルビがルオの頬をペロリと舐める。もう一度舐める。すると、「ん……」とルオがくぐもった声を漏らした。それにはオズも気が付いた。
「る、ルオ? ルオ! しっかりしろよ、ルオ!!」
「……ぉず……?」
彼がすぐに体を揺すれば、ルオの意識はいとも簡単に覚醒する。先刻すでに目を覚ましかけていたこともあり、今度はあっさりと目を開いた。気絶していたというよりも、眠っていたと言った方が正しそうでもある。
「よかった。本当に心配したんだからな!」
「ニャア!」
「ひっ!? い、ぐ……痛ぇ……」
オズが叫び、カルビが鳴いた。瞬間、ルオが飛び起きる。無理に体を動かしたことにより、頭が痛んだらしい。小さく呻いた。
「お、おい。あんまり動かない方がいいって。カルビ、あんまり刺激してやらないで」
「ニャ……」
ショボン。耳と尻尾を伏せて、力なくカルビが鳴いた。オズに肩を抱かれたルオは、それをじっと見つめる。そうして何かを考え込み始めた。
後頭部あたりに左手を添えて、俯いて。意を決したのか、両手をゆっくりとカルビの方へ差し出す。少し手が震えていた。
「大丈夫だから、おいで、カルビ」
「!」
ピン!
名を呼ばれた瞬間、カルビの耳と尻尾が勢いよく立ち上がる。そして迷うこともなく、彼の腕の中に飛び込んだ。
「わっ」
小さく声を上げるが、ルオはしっかりとカルビをキャッチする。嬉しそうにスリスリと彼の頬に身を摺り寄せては、ざらついた舌で舐めた。「くすぐったい」と文句を零すルオは、笑っていた。
「……ルオ」
心底驚いた声をオズが漏らす。眼前にはルオがいるというのに、まるで他人。悪い意味ではなく、信じられない光景だったのだ。
ルオが笑っていたのだ。本当に、楽しそうな笑顔で。キャッキャと楽しげな声をあげて、カルビと戯れている。
――オズのセカイに光が見えた。フワフワと、暖かい陽光にも似た光。思わず身を寄せてしまいたくなるほどに、心地良い光が。
(これだ。僕が描きたかったのは、これなんだ)
そして思い立った。ぐ、と無意識ながら左手に力がこもる。
そこへ、ガサガサと騒がしく茂みの掻き分けられる音が乱入してきた。木々の隙間から顔を出したのはひよりとエリだ。
「ルオ君、カルビ!」
「無事だったんですね、よかった……!!」
ひよりは素早く彼らの元に駆け寄って、ギュウと力強くルオを抱き締める。彼の、胸の中で「苦しい」とルオは呻いた。一歩引いた位置で、エリは心底安堵したように胸を撫で下ろす。
「心配させて、おじさんの寿命を縮めるつもりか!」
「あは、は……そうかもね。いててて、も、もうちょっと手加減してって」
「手前さんの毒もこんなに嬉しく感じる日が来るとはなあ!」
ルオが苦しいと何度も訴えるが、ひよりが止める様子はない。カルビと同じように顔を摺り寄せて、本当に嬉しそうだ。飼い主に似るというのは本当らしい。
「顔を摺り寄せんな、痛い! ヒゲが痛いんだっつの!!」
「これも愛情だあ!」
「そんな愛情いらねぇ!! っつぅ……」
普段通りの明るい会話が行き交う最中、突然ルオが顔を歪めた。流木が後頭部を掠ったようで、他にも体の至る所に打撲の痕がある。
ひよりとエリは我に返り、顔を見合わせた。
「まったく、あんな無茶をするからこうなるんだぞ」
「でもご無事で何よりです。本当に、よかった」
「ごめん、俺にも何が何やら」
少し俯いて、申し訳なさそうにルオが言う。呆れたように「まったく」と何度も言うひよりと、無事ならいいんですと頷き続けるエリ。割って入るように、ルオの膝上でカルビが鳴いた。
「ニャアー!」
「あれ、ルオさん……カルビと仲良くなったんですか」
エリが驚いたように目を丸くする。すると見せつけようとしているのか、カルビはここぞとばかりにルオにすり寄った。
「もう直に暗くなる。歩けるか、少年」
「強がるなよ?」
彼の体を気遣って、ひよりが彼の体を支えるように立ち上がる。ルオのことだから、とオズも口を開いた。するとルオは「参ったな」と微苦笑を浮かべる。
「じゃあ、ちょっと無理っぽいかな」
「おまえが素直って気持ち悪いな」
「てめ、」
バッサリ。普段の仕返しとばかりにオズが言った。反射的にルオは彼を睨んで、そして笑った。バカみたいだな、と。
ひよりの背に負われて帰路に付く。途端にまた眠くなったのか、ルオの目が段々トロンとしてきた。カルビも同じだったのか、エリの腕の中で眠っている。
「本当によく無事だったな、少年といいカルビといい」
「自力で這い上がったのか?」
「ん……よく覚えてない」
曖昧な答えを返すのは、きっと眠たいからだろう。と、ひよりとオズは解釈する。しかし彼にとっては真実だった。
覚えていない。カルビを助けようと必死に川の中を突き進み、流木から護ろうと抱き締めた。瞬間、頭に何かが当たった。痛い、と思うよりも先に既に意識は無かった。
――濁流の中で、何かを見た気がする。けれどそれが現実のことなのか、それとも夢でも見ていたのかは定かでない。目を覚ました気もするが、それもよく覚えてはいない。
総てが曖昧すぎて、彼らに述べるには自信が足りない。
記憶を辿る道中ではあるが、ルオは既に微睡みの中に迷い込む。抗う必要もない彼は、睡魔の手引きに従って目蓋をそっと下ろした。
ひよりの背中で眠りにつく。定期的に揺れる背はまるでゆりかご。
――次、ルオが目を覚ましたのは自室のベッドの上。他に誰の姿もない、ベッドの上だった。




