<Act.08>罅割れた泡沫
無言を保つ扉。その目の前で腕を組み、「うーん」と唸る人影が一つ。
綺麗な金髪は後頭部でハーフアップにされ、首元には首輪があった。ルオだ。
(どうしたものか)
昨日、オズに来て欲しいと言われていた彼。ひよりやエリと共に今日も向かおうと思ったものの、肝心の二人の姿が見えない。
「ったく。二人とも何処に行ったんだよ」
途中で逸れたわけではなく、最初からいないのだ。
いつも通りベッドで起床した彼の部屋には、既に誰もおらず。不審に思いながらも、ひよりが借りている部屋という場所に赴いても、もぬけの殻。
仕方がなく結局出入り口まで一人でやっては来たが。
(俺、一人じゃ外に出れねーし)
元々ルオはPLANT施設内からの外出は禁じられている。ひよりがいることで外に出られていたのだ。だが、今はいない。
ならどうするか。
(やっぱ、ひよりたちを探すのが妥当か)
ひよりは分からないが、エリは流石にPLANTの施設外にはいないだろう。そう踏んで、ルオは引き返すことを決めた。
振り返ろうと足を動かした、その時。
「何をしてんですかぁ?」
「げっ、出た」
看守室の窓から身を乗り出し、ルオを見ているピンクがいた。ノイズである。今日は渦巻の描かれたペロペロキャンディーを美味しそうに舐めながらの登場。
思わずルオは表情を引き攣らせて、一歩後退した。
「ゲッ、とは何ですかぁ、ゲッて。失礼な人ですねぇー」
よっと、窓から身軽に彼は部屋を出る。そして飴を舐めながら、ルオに近付いて行った。
「今日はオトモ、引き連れてないんですぅ?」
「オトモって……」
恐らくエリたちのことだろう。
眉間にシワを寄せて、彼は「あんたには関係ないだろ」と顔を背ける。
「あ、そうですかぁ。てっきり、ルオ先輩は誰かとつるんでないと行動出来ないタイプの人になったのかと思っていましたよぉー?」
「は?」
ペロペロ。相変わらずノイズの目の前には、大きなキャンディー。
それを片手間に、まるで関心の無さそうに彼は続ける。
「現に今だってそうじゃないですか。誰かと一緒にいないとぉー、落ち着かないんじゃないんですぅ? だから外にいるオトモダチに会いに行きたい……んでしょぉ? 違います?」
「……」
言い返す言葉が思い当たらないのか、ルオは口を噤んだ。
沈黙は肯定の意。だがしかし、今回はそうではない。彼はどうやら、ノイズに指摘されている意味が未だに分かっていないらしい。
言われて初めて、気が付いているようでもあった。
「どういう」
「意味か、とでも言いたいんですかぁ。そのまんまの意味だと思うんですけどねぇー」
まぁ、知りたいなら教えてやりますよ。と、飴を舐めながら相変わらずの調子で言う。ルオに視線は向けずに、特に定めることもなく泳がせていた。
本当に興味が無さそうである。
「俺の知っているアンタは」
少しだけ、彼は視線を外した。特に気になるものがあったわけでもなく、何気なく動かされたものだ。
ガリ、と犬歯で若干飴を砕いて
「――とっくに、死んでるから」
「!」
ノイズの水色の眼が、じっとルオを見つめた。まるで彼の反応を伺っているようにも見える。
ひんやりとしたPLANT施設内の空気が、一層、冷たく感じた。沈黙がやけに長く続く。
その間も、水色と碧色は互いに互いを見続ける。
刹那、ペロリとノイズの舌が動いた。飴に一度だけ這わせて、再び話始める。
「一匹狼とまでは言わないかもしれませんけどぉー、あんたはまるで、猫のようでした」
口を動かしながら、同時に彼は足も動かしだす。ウロウロとルオの周りを歩き出した。
「誰ともつるむこともなく、単独行動。俺の知ってるルオ先輩は、孤独だって知らないですしぃ」
「……」
「あと、絶対集団行動とか苦手なタイプでしょぉ? ま、オレもですけどぉー」
ケラケラと小さく笑うと、飴を噛む。ガリガリ。ガリリ。砕ける小さな音が聞こえた。
「それが、今はどうだか」
ガリッ。
力んだ。よって、ボトリと飴の欠片が彼の足元に落ちる。だがノイズが気にする様子はなかった。
今まで黙って聞いていたルオは、まるで彼を睨むように視線を尖らせる。
「何が言いたい?」
「気色悪い。死体のクセに、今更人間みたいに粋がっちゃってバッカみてぇ」
「なっ」
自分から煽ったものの。まさかの発言に、ルオはギョッと目を見張った。
しかし、すぐにノイズの眼が笑みを浮かべる。
「――と、でも言ってほしいですぅ? ハハハッ、一応冗談ですよーぅ」
キャハハハハッ!
ノイズの甲高い笑い声が廊下に響いた。鬱陶しそうに、ルオは眉間に皺を寄せる。
「オレはそういうの嫌いじゃないですし。尤も、アンタが柔らかぁくなったら楽しそうですしねぇー。色々と」
そう言うと、彼はルオとの距離を詰めた。すぐ近くまで寄ると、至近距離から彼の顔を見上げる。ルオの眉間の皺が濃くなった。
(甘ったる……)
ピクン。眉根が引きつる。
どうやらノイズの纏う、飴の香りが原因らしい。
「難すぎるアンタも好きですけどぉ、柔らかいアンタもきっと美味しいですし」
「っ!」
彼の右手がルオの頬に伸びた。瞬間、それを慌てて彼は左手でパンッと払う。
この反応はノイズにとって予想通りだったようだ。別段驚いた様子もなく、ケラケラと笑う。それに対し、ルオは相変わらず表情を顰めた。
ノイズの笑い声が下火になった刹那、
「でも、アンタにとってはどうだか」
「……え?」
「とーころでぇー!」
ボソリと彼の唇は、何かを紡いだ。聞き取ることの出来なかったルオが、言葉を促すがノイズは見事にスルー。新たな話題を持ち出す。
流石に無理矢理すぎる話題転換に、ルオも気付いてはいたが引き戻すことは出来なかった。
「アンタ、施設から出たいんですよねぇー?」
「あ、そうだった」
理由は、当初の目的を思い出したからである。
ハッとして、自然と視線を外への扉に向けた。扉は黙り込んでいる。
「言っておきますけどぉ」
「はぁ、わざわざ言わなくても分かってる。俺一人じゃ出さないって言いたいんだろ」
「出してやってもいいッスよ」
「えっ」
慌ててルオはノイズを見た。
ピンク頭の少年は、モゴモゴと口を動かして扉を横目で見つめている。飴を舐めることをやめて、何故か噛み砕いていた。味にでも飽きたのだろうか。
訝し気な白い目が、ノイズに注がれている。
「いー方法があるんですよねぇー? 知りたい? 知りたいですぅ?」
「勿体ぶってないで言えよ」
ニタニタと笑いながら、彼はルオを見る。だが、構わずルオは「早く」とばかりに急かした。
そんなことでは機嫌を損なわない屈強な精神の持ち主、ノイズ。突然威張るように仁王立ちをした。
「そうですねぇー。ルオ先輩がぁー、〝お願いしますノイズさま、一人ではどうすることも出来ない憐れなわたくしめに、どうか御慈悲を!〟とか」
「じゃ、俺ちょっとみんな探してくる。ばいばいノイズ、お大事に。頭」
「ああぁ、待って構って!! せめて最後まで聞いて! ルオ先輩ってばノリ悪い!」
「誰がノリ悪いだ! のれるわけねーだろ!!」
「ぶぅー」
飴の棒を片手に、ノイズは頬を膨らませて唇を尖らせる。
一度はその場を去る動作を見せたルオではあったが、本気で戻るつもりはなかったようだ。やれやれと肩を竦める仕草をして、再びノイズと向き合う。
彼の言う、〝良い方法〟というものを聞くつもりらしい。グリーンエメラルドの双眸が「早く言え」とノイズを促す。
「しょうがないですねぇー」
「あ、言っておくけど。あくまでPLANTの規則は遵守する方向で頼むかんね」
「ちょっとぉ。オレがそんな掟を犯すようなこと言いだすと思いますぅー?」
「思う」
「キャハッ。ですよね」
クスクスクスクス。疑われているのにも拘らず、ノイズは楽しそうだ。ルオから注がれているのは、疑心の眼差し。
そのような視線など物ともせずに、ノイズは彼の腕を掴んで扉に向かって歩き出した。
驚きの声を上げる間もなく、ルオは彼に連れられて出入り口へと近付いて行く。
「オレがルオ先輩にぃ、くっ付いて行ってやります」
「っは?」
「さすれば、外に出られる。合理的且安全。文句ないでしょぉー?」
振り返り、ニィッと口角を引きずりあげて微笑った。う、とルオは思わず言葉を失う。
場都合が悪そうに視線をうろつかせて、俯いた。
ノイズはPLANTの僕である。つまり雇われアンドロイドのため、スタッフほどではなくともそれなりの地位にいるのだ。少なくとも、ルオは彼らよりも下に位置している。
そんな彼がわざわざ、〝下の地位の者〟の私用に付き合う。ノイズらしいと言えばそれまでではあるが、らしいようならしくないような微妙な行いだ。
ルオの葛藤などには気付かず、前方を歩くピンク頭は今にも鼻歌でも歌いだしそうなほどに気分が高揚している。その背に、小さな声が掛けられた。
「――ありがと」
「!」
ぐるん。余程驚いたのだろう。ノイズが勢い良くルオを見返した。水色の隻眼を瞬かせて、我が耳を疑っている。
その視線を受けて、ルオはジロリと目を向けた。
「……何だよ」
「へ、いや」
前へ向き直ると、首を傾げる。そうして彼は、素早く自分たちの関係性について整理した。
ルオはノイズを毛嫌いしている。理由は簡単である。まともに言葉を交わした際、ノイズ自身が起こした行動が原因だ。
あれを除いたとしても、元々馬が合う仲というわけでもなかった。
だというのに、ルオはノイズに礼を述べた。彼にはそれが意外でならない。
(この人、性格がいいのか悪いのか訳わかんないですよね)
――面白い。
ルオの見えない死角の中で、また、ニタリと彼は不敵に笑む。
面白い。面白い。面白い、面白い、面白い、面白い、面白い。面白い。楽しい。
自分には理解が出来ないからこそ。自分にはない考えを口にするからこそ、だからこそ。
(オレは、この人のことが大好きなんだ!)
グッと彼の手に力が籠り、ルオの腕を握りしめる。彼が「どうかしたのか」と疑問を抱くよりも早く、ノイズは眼前の壁を開け放った。
開けた視界の中の彩は、鈍色。見上げた空は薄暗い。
「これはひと雨来そうですねぇー。さっさと行きましょ」
「あぁ、そだね」
同じように、ノイズも目を細めて空を眺めた。誰がどう見ても曇り空には変わりない。
このようなことでしか意見の一致しない二人は、早足で歩き始めた。ぐしゃぐしゃと芝を踏み付けて森を突き進む。
時たまノイズがルオに「コッチであってますぅ?」と確認をして、道を取捨選択しつつ先を歩いていた。特に文句を口にすることもなく、ルオも大人しくその後ろを付いて行く。
曇天の所為だろうか。肌寒い。思わず、ルオは自由な右手で左腕を抱いた。
『おまえが素直にお礼を言うなんて、明日は雨かな』
ふと脳裏をよぎったのは、オズの台詞。昨日言われたものだ。
頭の中で再生された彼の言葉と、今にも落ちてきそうな鈍色の空。……当たった。
(俺は礼を言うべきじゃないのか。まさか本当に降るとか)
などと、論理的でないことを思うルオは暇なのだろう。ぼうっと空を眺めながら、ノイズに腕を引かれて歩き続ける。
その時。前を歩くノイズが足を止めた。
「ゲ」
「わ。急に止まるなよ、どうした?」
危うく彼の背に衝突しそうになりつつ、ルオが文句を零す。憤りを向けられているノイズはというと、何故か不快そうに顔を顰めていた。
「湿気が……。これ、もう直ぐにでも降ってきますよ。あれですねぇー、こういう天気はマジでキモいっすよねぇー」
ルオの腕を掴んだまま振り返り、ハァと息を盛大に吐き出す。ガックリと肩を落としている様は、本当に気怠そうだ。
「じゃあ急いだ方がいいんじゃねーの」
「急いでもこれは無理ですってぇ。雨宿りできる場所探した方が利口」
「……あんた、そういうのに敏感なわけ?」
先刻からのノイズの発言は、確信を得ている。何故そこまでの自信があるのか。自信というよりも、気象情報を見ているかのような物言いだ。
こてん、と首を傾げてルオが問うと「あぁー」とノイズが言葉を探すように開口した。やはり怠そうだ。
「こう、天気が悪いとかったるいというかぁー? 仕事の成功率というかぁー、手際の良さみたいな? そんなんがガクーンと下がるんですよぉ」
「猫みたいなこと言うんだな……」
猫が顔を洗うと、雨が降る。そのような慣用句があるが、あれは的を射ている。
雨の湿気により、ヒゲの張りが無くなると狩りの成功率が低くなるのだ。よって、猫は執拗に顔を洗いヒゲを整える。
実際にノイズは〝狩り〟とも言えるような仕事を専門に行うアンドロイド。似ていても納得は出来るのかもしれない。
「俺は、雨は嫌いじゃないけど」
「えぇー。なんでですぅー」
肩を落とすというレベルじゃない。ノイズは猫背になって、下からルオを見た。若干唇を尖らせている。
ルオは彼に視線を向けず、景色を眺めながら答えた。
「世界が変わるから」
「へぃ?」
答えた。が、ノイズにはよく分からなかったらしい。眉間に皺を寄せ、「分かりやすく説明しろ」というオーラを放つ。
「俺はPLANTの施設から外へ出たことがなかったからさ。景色の変わり映えなんかしないんだよ。でも、雨が降ればまたもうひとつ、景色が増える。だから嫌いじゃないってだけ」
「……へぇ」
煩わしそうに顔を顰めたルオが、横目で彼を睨みながらもう一度答えた。すると、今度は意味が分かったのか。ノイズは目を丸くして、曖昧な反応を返した。
「じゃぁオレも、雨が好きな理由とかありますよぉー」
「嫌いじゃなかったのかよ」
「中途半端な雨は嫌いっつーことですよぉ。嵐とかは大歓迎ですねぇー、テンション上がるしぃ」
意見をコロリと変えたことで、ルオが訝し気な顔を向ける。するとノイズはニヤニヤとした表情を浮かべた。何かを企んでいるのか、それともルオの反応を伺っているのか。
右手の人差し指をピンと立てて、相変わらずの調子で言う。
「雷雨。ああいう騒がしい日ってぇ……暴れても周りにはぜーんぜんバレないんすよ。豪快に悲鳴上げさせたりしても、ねぇ?」
ニタリ。ノイズの口角が引き摺りあがる。
「……趣味悪」
「キャハハ!」
ルオは心底、聞くんじゃなかったとでも言いたげに視線を投げ捨てた。ノイズは「ジョーク、ジョーク!」と笑い飛ばしてはいるが、信憑性はない。
そうこうしているうちに。
――ぽつ、ポツ。ポツ。
「あ」
――ザアアアアアアー!!
「うっわ、土砂降り!」
降り出した。それも大粒の雨が一気に。
思わずルオが空を見上げて叫ぶ。合せて、ノイズも叫び声を上げた。彼の場合はルオに対してである。
「ホォラ言ったじゃないですかぁ、オレ言いましたからね! 降るってちゃんと言いましたからね!?」
「責任転嫁してる場合か! 走るぞ!」
「イヤイヤイヤ、何を有耶無耶にしようとしてんですか! 今回ばかりはオレ悪くないっすよ! 責任転嫁じゃなく、事実を」
「早く走れ!」
「あああぁもぅ、分かりましたよぉー!!」
彩度を落としていく地面を蹴飛ばして、彼らは駆け出す。一先ずは、雨宿りの出来そうな大木を探すようだ。
それなりに広く、歴史も長い森だ。希望に沿える樹木が見つかるのに、そう時間は掛からなかった。
「止むまで身動き取れねーな、これじゃ」
「通り雨だといいんですけどねぇー」
衣服を軽く叩いて、雫を払う。ルオは木々の隙間から空を見上げて、うんざりとしながらぼやいた。
彼の鼓膜を震わせるのは、大音量の雨音。このバックグラウンドミュージックがなければ、今、二人を包んでいたのは静寂だったろう。そもそも雨さえ降っていなければ、このように雨宿りすることもなかったのだが。
「……」
チラリ。碧眼が、左手で棒立ちしているノイズを覗き見た。濡れた桃色の髪が、少し肌に張り付いている。長い前髪が邪魔をしている所為で、瞳とは目が合わなかった。
『つまんないじゃないですかぁ、そんなんじゃあ! 殺し甲斐がない!!』
脳裏に浮かんだのは、いつだったかシータを挟んで視た映像。ノイズの記憶。
――今、自分の隣にいるのは人殺し。暗殺を専門とする、アサシンアンドロイド。
雨音が煩い。そろそろ水溜りも出来上がってきたのか、ボチャンボチャンと水面に雨が墜落する音も混じってきた。
「……ノイズ?」
「んっ、んぁ? なんですかぁ?」
声を掛けられたことに驚いたのか、彼は素っ頓狂な声を上げて振り向く。どこか間抜けな表情をしていた。
ルオは口を開いて無言を語り、もう一度口を開きなおす。
「ノイズは、その。仕事、楽しい?」
「……へぃ?」
キョトン。正にその表現が正しい反応をノイズはしていた。ルオの言っている言葉の意味を、飲みこめていないらしい。
ルオの視線を暫く受けながら数秒の間を置いて。彼は「あぁ」と、声を漏らした。
「どうしたんですぅ? オレについてぇ、興味でも沸いちゃいましたぁ?」
「別にそういうわけじゃない」
「アリャ」
ノイズの言葉を聞くや否や、ルオはぷいっとそっぽを向く。自分から聞いておいて、などという感想をノイズが口に出すことはない。彼も彼なりに、ルオの性格は理解してきたようだ。
互いのことをなんとなく知り合っているくせ、互いのことを好きあえない微妙な間柄である。主にルオが拒絶しているようにも見えるのだが。
彼の視線から外れたノイズが「う~ん」と唸り声をあげて、会話を再開させる。
「そーですねぇー。正直、考えたことはなかったっすね」
「え」
「何です」
先ほどのノイズのように、キョトンとした反応をルオが返した。大きな瞳をぱちくりとして、隻眼の少年を凝視する。
まさか。とでも言いたげな表情であった。ルオは、ノイズならきっと即答で「楽しい」と答えるに決まっていると思っていたのだ。あやふやな返答に、対応しきれないでいる。
「ハハァーン? さては、意外だとか思ったんっしょぉー?」
「う」
「キャハハッ! まぁ、自分でも分からんです」
ノイズはペタペタと背後の幹を触り、濡れていないことを確認すると背中を預けた。そうして体制が落ち着いたところで、話を続ける。
「たまーに、憂鬱な依頼とかもありますしぃ。楽しいことばっかじゃぁないんですよねぇー」
ハァ、とため息を吐いて、彼は肩を落とした。ルオは黙って聞いている。
「それにオレ、こう見えてもPLANTからの信望がうっすいんです。だから、いーっつも監視されてましてぇ、やりにくいったらありゃぁしない」
「こう見えても……」
ルオの目線が鋭くなる。ジト目で見つめて、彼の信憑性を計るが。
(……信憑性なんて、全然なさそうだけどな)
彼の中では、そのような結論に至った。
だがしかし、一応理由を訊いてやろうとルオの良心が働く。
「どうして信用されてないわけ? あんた、PLANTの僕じゃねーの?」
「あぁーんー、なんつーかぁー? 実はオレぇ、立場的にはアンタと一緒なんすよねぇー」
「え?」
再びキョトン。疑問を投げる度に疑問が増えてしまう、謎の輪廻。
また問い掛ければ、きっと疑問がさらに膨らむかもしれない。しかし、生憎の雨のためこの場からは動けない。時間を持て余している。
ならば。
「……どういうこと?」
行けるところまで、訊いてしまおう。眉を顰めて、ルオが慎重に問うた。
が。
「ナイショでぇーす」
「えっ」
パチンとノイズがウインクをする。だが、片目が前髪の所為で見えないために両目を瞑ったようにしか見えない。
ここまで話しておいて、という文句を口にしようとするが、それを遮ったのはノイズの言葉である。
「何でもかんでも教えるなんてつまんないじゃぁないですかぁー。男は、幾つかは秘密を持っておくものなんですよぉ?」
「何が男だよ……マセガキ」
「おぉっとぉ! クソガキからマセガキに進化しましたかオレの印象!」
「クソマセガキ」
「ぅわぁ、悪化した」
チッと舌打ちを添付してルオが毒吐いた。対し、相変わらずノイズはケタケタと笑っている。
彼はルオに悪印象を持たれれば持たれるほど愉快らしい。
けれども、ルオはノイズにそれ以上は問い質すことはしなかった。曇天を見上げて、一言。
「少し雨が弱まったな」
ノイズも空を見やる。心なしか、地面を叩く雨粒が優しくなっているような気がした。けれど、止む気配はない。
「……走るか」
「へぃ?」
雨音に紛れることなく、ルオの呟きがノイズの耳に届いた。何を言ってんだとでも言いたそうな眼は、丸くなっている。
「オレは嫌ですよ、びしょ濡れになるのはゴメンですしぃ」
「はぁ? でもこれ以上酷くなったら、身動き取れねーぞ」
「その時は野宿でもすりゃいいでしょう」
「何を寝惚けたこと言ってんだか。行くぞ!」
「ぬわっ、ちょおぉっ!? イヤだぁぁぁぁあああ!!」
ルオがガッシリとノイズの腕を掴んだ。年相応に細い。ギョッと目を見開くノイズだったが、そのまま彼の勢いに圧されて樹木の下から駆けだした。正確には、ルオに引っ張り出された。
ノイズは踏ん張るつもりであったのだろう。彼の足を土が食い止めようと、轍のような跡を体に刻んでいた。しかし雨によって泥濘、抵抗は無意味に終わる。
木の屋根の恩恵から手を離されてしまえば、あとはただ走るだけ。ノイズもそれ以上は文句を言わず、ルオの後を走った。
バシャバシャと泥水が跳ねる。気にしている暇もないまま、彼らは足を動かし続ける。
雨が先ほどよりかは和らいだ、と言っても。酷い有様であった。二人の前髪は、既に水を滴らせるほどに濡れている。
「っ……」
ノイズが顔を顰めた。少し顔を下げて、俯くように走り出す。傍から見ると何も分からなかったが、彼は前髪に隠れた右目を閉じて走っていた。髪が濡れている所為か、分かりやすい。
その時である。
――ずるっ!
「ぅわッ……!」
「なっ、ノイズ!」
泥濘に足を取られ、ノイズがバランスを崩す。すぐに気付いたルオが振り返るが、ノイズはバランスを整えることを怠った。
(チクショウ、油断したッ……!!)
驚愕の表情で自分を見下ろすルオに気付いて、慌てて視線を下げる。崖、というまでではないが、そこは急斜面になっていた。
――落ちる。
流石の彼にも、もう体制を変えることは不可能だったらしく、諦めて両目を閉じた。刹那、グイッと再び腕を引っ張られる感覚。目を開けた。
「――ぁっ、アンタ一体何しっ」
「っつ!」
ズシャッ。ズザザザザザッ――……。
地面に叩き付けられ、ゴロゴロと何の抵抗も出来ないままに斜面を滑り落ちる。一番下までずり落ちたところで、動きは止まった。
「う、……痛ぇ」
「ぁ、ぐ……酷い目に遭った……」
ゴロリと転がる二つの影。何故かそこにはルオの姿もあった。
先刻反射的にノイズの腕を引っ張り、彼を抱え込んで庇うように落下したのはルオ。幸いにも雑草が生い茂っていたため、あまり泥にまみれることはなかった。
「の、ぃず……だいじょ、ぶ」
「……た、」
「?」
身を転がして、ルオが泥の付着した顔で、隣に仰向けで寝そべっているノイズに問う。すると、か細い声が返って来た。何て言ったと聞き返すよりも早く、むくりとノイズが起き上がる。
そして、ガッと乱暴にルオの肩を掴んだ。
「っ」
水を含んだ地面に背中を押しつけて、上に乗りかかる。その際、バシャンと水が跳ねた。あれほど嫌がっていた水だというのに、今のノイズは気にする素振りが無い。
素振りも何も、彼の表情はまったく伺えなかった。
ヒュッ――グサッ。
「!」
「ハッ、ハァ……」
刹那、ルオの頬を何かが掠めて地面に突き刺さる。それはソードブレイカーだった。ノイズが腰から取り出し、地面へと突き立てたのだ。
「の、ノイズ……?」
「アンタ、バカじゃ、ねぇーの」
「え……っぅ……!」
ぐっ。ルオの肩を鷲掴んでいるノイズの右手に、力が籠る。思わずルオは表情を引き攣らせた。相変わらずノイズの顔は見えない。雨天であっても、一応は昼間である。逆光の所為か、彼の顔には深い陰が落ちていたのだ。
だが、次の瞬間には顔を上げ、目を見開いて声を荒げた。
「アンタッ、バッカじゃねぇーの!? こんな雨の中走り出して! 挙句、この状況分かってます!? オレのこと嫌いなんじゃねぇーのかよ、庇うなよ! マジでうっぜぇ、そういうの!!」
「ご、ごめ……」
一気に捲し立てた所為か、ハァハァとノイズは肩で呼吸を繰り返している。水色の眼が冷静さを失っていた。
普段から茶目っ気を帯びた口調で、からかうような言動ばかりを繰り返していたノイズ。だが今、ルオの上に乗りかかっている少年は〝素〟であった。
しかし分からない。何故彼はここまで激情しているのか。逆上しているのか。今までの彼を見てきた限り、「自分のために危険なことをするな」などと貫かす性質でもないだろう。
ならば、何故。
(そんなに雨が嫌いだったのか?)
いいや、それなら。それならば、駆け出した時点で無理にでも腕を振り払っていただろう。ここまで感情を露わにするほどだ。どうしてあの時にしなかったのか。
雨が、酷い。
「……別に、――……」
「ハイィ? 声がちっさいんですけどぉ、雨なんで聞こえませんねぇ! もっと声、上げてくれませんかぁ!?」
ボソリと小さく口を動かしたルオに対して、ノイズが顔を近づけながら煽った。すると、ルオは碧眼を鋭く光らせて、彼を睨みつける。
「っ、俺は! 別にあんたのことを嫌いとは言ってない!!」
「……へっ?」
ポカーン。狐に抓まれたノイズ。何度も瞬きを繰り返して、軽く息を乱すルオを見下ろした。呆気に取られている。
何言ってんだコイツ。とでも言いたそうな目だ。
「……苦手ではあるけどな」
ルオが付け足すように呟く。その声にノイズはやっと我に返った。目を逸らした彼を見つめて、無言のままにソードブレイカーの柄を握る。
「あ、っそう」
ズボ、と得物を地面から引き抜いて、腰に下げた鞘へ慣れた手つきで仕舞い込んだ。一度逸らされた目線が再びルオへ向けられた時、それは酷く冷たい温度を湛えていた。
「じゃぁ」
ガッ。彼の右手が、ルオの顎を捉える。無理に上を向けさせて、固定された視界に自分の姿を映した。
「ぁっ……!?」
「〝前の続き〟でもヤッちゃってぇー……今度こそ、嫌いになってもらいましょうかぁ?」
「つ、ぅ……?」
ルオは上手く言葉が紡げない。ユルユルと左腕を伸ばしてノイズの腕を掴むが、力は籠められていなかった。
前の続き。その言葉の指し示す時系列は、アセビというアンドロイドを消去した日のことだ。あの日、待合室でノイズはルオに〝ちょっかい〟を出した。スタッフがやって来たことで事は終わった。はずだったのだが。
(どうして)
身動きを封じられている彼の脳裏に、ある疑問が浮上した。
目の前の少年は、相手の反応を煽ることが好きな趣向である。それが、今は一体どうだ。滅茶苦茶だ。反応を煽るようなものではなく、まるで。
(別に何か、理由があるように見える)
それは一体何なのか。何が彼を、此処まで追い詰めているのか。追い遣っているのか。――彼は一体、何を抱え込んでいるのか。
「のい、ず――っいぅ!」
「? ちょっとぉ。オレ、まだ何もしてな――。……まさか」
彼の名前を呼ぼうと口を開き、体を捩った。瞬間、ルオは目を見開いて言葉を飲みこむ。不思議に思ったノイズが茶々を入れようとするが、彼もまた何かに気付いたように振り向いた。
視線の先は、ルオの右足である。
「アンタ、怪我して」
「ぅ……ん、捻った、かな」
焦燥に駆られていたノイズの眼に、落ち着きが戻る。場都合が悪そうに一瞬目を逸らして、ゆっくりとした動きでルオの上から退いた。
訝しげに思い、ルオは表情を痛みに歪めながら彼の姿を視線で追う。
「オレなんかと一緒に落ちたりするからっすよ。放っておけば良かったのに」
「……思わず」
「バッカみてぇ、ホント」
足元でしゃがみ込んで、己の膝の上で頬杖を突く。ケッと吐き出す言葉は、へそを曲げた子どものようだった。
水色の眼が、青く腫れている足首を見つめる。そっと右手を伸ばして、優しい手つきで触れた。ノイズだとは思えないような仕草であった。
「骨に異常はないとは思いますけど、一応ちゃんと診た方が良さそうですねぇ。ただの捻挫だといいんすけどぉ」
「そっか……折れてないなら、いいや」
「イヤイヤ、良くないっしょ」
ハァ、とため息を零して空を見上げる。曇天。先ほどからまったく変わらない景色だ。
ノイズはふと、先刻のルオの台詞を思い出した。外に出ることを許されていなかった彼の言った、変わらない景色。
今はたまたま雨ではあるが、彼にとってはこれが普段はPLANTの灰色をした壁。それを思うと、確かにつまらない。
「これに懲りたら、もう無理に動くことはやめることですねぇー。止むまで、暫くここで雨宿りでもしましょ」
「……無理だと思う」
「へぃ?」
不幸中の幸いか。彼らが転げ落ちた場所には、大木が居座っていた。雨宿りをするには絶好のスポットではあるが、ルオが微妙な面持ちをしている。
目を瞬かせて彼の言葉の続きを待つノイズに気が付いたのか、彼は口を割った。視線の先には、先ほど転げ落ちてきた斜面。
「苔が生えてる。それに、あそこ一帯の草は全部湿地帯に群生する種類のものだよ。つまり、ここ辺りは常に雨が降ってるって考えた方が妥当」
「え……マジかよ」
彼の言葉を聞いて、ノイズがゆるりと首を動かした。雨粒を弾き返す葉は瑞々しい。と、そこでノイズは「ん?」とある違和感に気付いた。
急いで顔をルオに戻すと「ちょっと待った」と声を掛ける。
「ルオ先輩は知り合いのアンドロイドのところに行きたかったんですよねぇ? 道を知ってたのは先輩ですよねぇ? この道中の雨のことをどうして知らないんすか」
「………………え?」
繁々と彼の顔を見るノイズ。眉間には皺を寄せて、訝しげに。
思わずルオは少し身を引いた後、言葉を聞いて素っ頓狂な声を上げた。彼の言葉の意味に気付いたからだ。
「まさか、アンタ」
「……はは」
ルオが顔を背けて、苦笑いを零す。その反応こそが、ノイズの疑念の意を正解だと認めるようなものであった。瞬間、ノイズは叫喚する。
「この女顔! 道を間違えやがりましたねぇ!?」
「女顔は関係ねーだろ!!」
まるで彼の声に触発でもされたように、ルオもまた声をあげた。彼の場合はノイズの言葉に対してであるが。
「関係あってもなくても、アンタには関係あるでしょぉ!! あぁー、マジねぇ。マジねぇっすわ、道間違えて湿地帯とかマジでない」
「うっさいなあ! いつも他に人がいるんだよ。あんたみたいな頼りないガキじゃなくて、ちゃーんとしっかりした人材が!」
ノイズの小言が発端となり、二人の水掛け合戦が開始された。
――ガサ、ガサ。パシャン。
最中、大きな水音が彼らに近付く。
「はぁん!? アンタそれ、もしかしなくとも喧嘩売ってたりしますぅ? だったらちょぉーどオレはヒマしてるんでぇ。っつぅか、誰かさんの所為で虫の居所が悪いんでぇ、買いますけどぉ!?」
「あ、あのー」
「んだよ、このクソガキ!」
「何ですか、この女顔!」
お互い上々に饒舌。周りの物などまったく目に入ってはいなかった。ピョコピョコとアホ毛を動かして、必死に話しかけようとする人物にすら、まったく。
至近距離で罵り、いがみ合い続けて。その様子はまるで、野良猫同士の痴話喧嘩であった。
そこに割って入ろうなどとは、無骨な行為に他ならない。身の程知らずにも他ならない。
「あのーっ!」
「うっせぇ、外野は黙ってろ!」「うっせぇ、外野は黙っててくれますかねぇ!」
「ピィッ!!」
バシャン!
先刻の、水音の正体は人影。影の持ち主は必死にルオとノイズに話し掛けるが、華麗に無視をされてしまった。もう一度勇気を振り絞って声を掛ける。すると今度は、怒鳴り声を二人重ねて跳ね返したではないか。息はぴったりであった。
彼らの剣幕に怖気付いた影は、勢い良くその場に尻餅をついてすっ転ぶ。そして自らの頭を抱えて、何故か必死に謝罪の言葉を連呼し始めた。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「あーもー、喧しい。今こっちは立て込んで、て。……あれ」
「うわ、なんすかコイツ。壊れたスピーカー? きっも」
刹那、我に返ったルオがその姿を目にしてキョトン。
必死に謝り続けているのは少年。良く見知った姿をした少年。ルオが今、会いに行こうとした少年――オズだった。
(何でオズがここに?)
言葉を失って、呆然とルオは未だに謝罪を続けるオズを見つめる。その間、ノイズはしゃがみ込んでオズを指先で突っついていた。遊んでいる。
「ぅおーい。アンタ何者ぉ?」
「ごごごごめんなさい! 許して下さい、ごめんなさい、ごめんなさいぃ!」
「え、と。オズ……?」
「!! る、ルオ!」
やっとルオが彼の名前を口にしたところで、オズは勢いよく顔を上げた。声を聞いて、何処に誰がいるのかを把握出来たようだ。
「へ? コレ、ルオ先輩の知り合いですぅ?」
「こ、コレって言うな! あとおまえ、僕のことを突っつくな!」
「あ。粋がりだした」
シッシッとオズは両腕を振り回す。あっち行け、あっち行けと必死だった。当然、ノイズはその腕の障壁をヒョイとかわす。
オズには彼との距離感覚がイマイチ分かっていないのか、相変わらず両腕を振り回し続けていた。ノイズは一定距離を保って指差したまま、コイツ何なの? と、ルオに視線で訴えている。
視線に応えなければならなくなった彼は、頬を指先で掻きながら適当な言葉を選んで口にした。
「えぇ~と、ソレはオズ」
「る、ルオまで! ソレって言うなぁあ!」
だがしかし、ルオの説明に不満があったらしくオズがすぐに吠えた。瞬間、ノイズが煩わしそうに眉間に皺を寄せて身を引く。
「ウワー、うるさ。ねぇ先輩、コイツ殺してもいいっすか。何か面倒くさいし」
「ヒィ!? おっ、おまっ、おまえ! 何を物騒なことサラッと言ってんだよ! しかも凄く面倒くさそうに!」
ブンブンブン。オズはノイズに対して吠えている。またそれを「うぜーなー」などと思いつつあえて口に出さない彼には、オズをこれ以上傷つけないようにという良心があったのか。それともただ単に面倒くさいだけなのか。恐らく後者である。
そして彼らのやりとりを遠目から眺めていたルオも一言。
「オズ……あんたって、自傷はするくせに中々殺されるのには弱いのな」
「じ、自傷と殺しは違うんだよ! 自傷は別に死ぬためにするものではないし! た、確かに死にたい時っていうのも。そりゃあ、その」
「ふぅーん」「へぇー」
「お! おまえら、訊いといてその反応はどうなんだよ!! どういう教育受けてるんだよ!」
「……自傷癖に言われても」
「ねぇ?」
つい先ほどまで喧嘩をしていた者たちとは思えないような意気の合いようだ。ルオとノイズは互いに顔を見合わせて、申し合わせたかのように同時に首を傾げる。
散々彼らにいじられたオズは「あーもうぅ~!」と声を上げて、立ち上がった。ご立腹の様子である。
「何かあったのかと思って、心配して来てみて損した! 元気だし、おまえら全然仲良いじゃないか!」
「あ、そうだ忘れてた」
「どうしたんですぅ?」
「って、話聞けえ!!」
ポン。と、ルオが思い出したように手を打った。再びオズの言い分は無視するようだ。彼は思わず地団駄を踏んでいるが、二人が気にする様子はない。
「俺が行こうとしてたのは、コイツの家」
「へぇ、そうなんすかぁー。あ、じゃあコイツに案内させれば家に行けるってことですねぇ?」
「そういうこと。ってことだから、オズー」
喧嘩の理由はいつの間にか時に流れ、話はまとまったらしい。ルオがオズに目を向ければ、何故か彼は視界の隅の方に寄っていた。体育座りで影を担い、彼らに背を向けてしまっている。そして発せられたのは鼻声の台詞。
「……僕、おまえら嫌いだ。ぐすっ」
「え、あ。ごめん」
いじけてしまったようだ。だが、ルオが謝罪を口にすると顔だけで振り返る。
「おまえ、昨日の約束覚えてくれてたんだな」
「え? そりゃあ、まぁ」
「……いいよ、それで許してやる」
よいしょ。と、オズは立ち上がって彼らの元に再び歩み寄って来た。洋服に付着した泥を片手で軽く払落し、空を仰ぐ。釣られてノイズも空を見上げ、気が付いた。
「あぁ! 雨が止んでる!」
思わず声を上げる。すると呆れ気味にオズが呟いた。
「おまえらが喧嘩してる時ぐらいには止んでたよ。僕の声にも耳を傾けてくれないんだから、雨にも気付かなくて当然だよね」
はぁ、とため息を吐き出す。彼の悪態には深く突っ込むこともなく、「今のうちに行きましょう」とノイズが言った。促されるようにルオが立ちあがろうとして、声にならない悲鳴を上げる。
ノイズが振りかえれば、彼が苦痛の表情で右足を庇う姿。
「ルオ、怪我してるのか。そうだとは思ったけど」
「うん、ごめん。爆弾抱えたままじゃ、多分俺は足手まといになると思う」
怪我についてオズはすぐさま気が付いたらしい。ルオは微苦笑を浮かべて、なんとか右足に負荷を掛けないよう立ち上がるが――酷く時間を要した。
これではまた雨が降ってくるかもしれない。肩を貸したところで、間に合うのか。
「……はぁー」
声にならない不安が立ち込めた刹那、それを振り払うようにノイズが息を吐き出した。ツカツカとルオの眼前まで歩みを戻すと、背中を向けてしゃがみ込む。
「ん」
「…………え」
伴い、ルオは酷く間の抜けた声を漏らした。無理もない。ノイズが謎の行動を目の前で取っているのだから。
「乗れっつってんの。あと靴は邪魔臭いんで脱いでくださぁい。そこのミイラの、えっとぉー」
「み、ミイラってなんだよ。僕の名前はオズ!」
「あぁーそれです、それです。ってことでぇ、ミイラ。どーせ一人で乗れねぇーし、この人をオレの背中に乗っけて、靴持って前歩いてくださいよぉ」
「わ、分かったみたいに頷いておいて、結局名前を呼ばないってどういうことだよおまえ!」
「え、え、え? あ、ちょ、ノイズ?」
言われるがまま、文句を零しつつもオズがルオの腕を掴む。体を支えて歩かせようとする最中に、ルオは混乱気味に口を開いた。しかし無意味な文字しか唇からは漏れない。
するとノイズが振り返り、じっと彼の碧眼を見つめてきた。水色の隻眼とバッチリと目が合う。
「なんすか。何か文句でも?」
「あ、いや……」
思わずルオが先に目を逸らす。オズの援護を受けて、彼はノイズに負われた。そして彼は何の苦もなく立ち上がり、オズに「道案内よろしくお願いしまぁーす」と軽々しく言う。
年下。背丈も自分よりも若干小さいノイズに背負われて、ルオは複雑な心境であると同時に疑問を抱く。
(どうしてノイズが)
普段の彼なら。自分の知っている彼なら、想像も出来ない行動。思わず「本当に彼はノイズなのか」と疑ってしまうほどだ。
ちらりと彼の顔色を伺おうにも、背中からでは無理がある。
「なぁ、ノイズ」
「んー? 何ですぅー?」
オズの後ろを歩きながら、振り向きもせずノイズが応えた。声を掛けてはみたものの、中々言葉が出てこない。開いた口は、結局本当に言いたいことも紡げないまま閉じられた。代わりに出て来たのは埋め合わせの話題。
「えっと。重くない? って、訊こうと思って」
「アンタは女子か」
「うっ。じゃ、じゃあ。変なところは触るなよ!」
「だからアンタは女子か!」
「うぅっ……」
ですよね。と、ルオが顔を背けた。(俺は一体何を言ってるんだ)と、酷い自己嫌悪に頭を痛ませている様子だ。
「……」
すると、一瞬だけノイズの水色が肩に掛けられたルオの手を見る。黒色のマニキュアの塗られた左手。少しだけ、所々が剥がれかけていた。
(オレ、何やってんでしょぉーかねぇ)
前へ向き直る。戻した目線の先には自分という〝人形〟の姿。
水溜りを踏む音がリズミカルに地面へ沈み込み、歩みを続ける。
(いつものオレなら、この人の右足でも突っついてケラケラ笑ってんでしょーに。いや、それは後でやりますけどぉ)
うーん。どうも何かが我ながらおかしい。と、彼は頭を捻った。
(しかし、まぁ)
数秒足を止めて、背負い直す。軽い。落ちないようにと無意識にルオの腕の力が強まり、ノイズの洋服を掴む。
それを経て、改めて彼は実感をした。
(この人、あったかいんですよねぇ)
まるで〝人間〟。アンドロイドはもしかすると、本能的に〝人間〟を求めるように出来ているのかもしれないと思うほどに、この温もりには惹かれる何かがあった。
それに加えて予想外な言動。先刻の彼の台詞にも、肝を潰された。
『俺は別にあんたのことを嫌いとは言ってない!!』
思わず思い返してしまったことに、我ながら嫌悪。これではまるで、嬉しかったみたいではないか。
違う、違う。そういうことではない。違う。嬉しかったとか、そういうものではない。
ノイズは首を小さく左右に振って、再び前を見つめる。オズの背中があった。気付けば湿地帯は抜けたようで、もう足に纏わりついて来る泥濘もない。
「ノイズ」
「今度は何ですぅー?」
その時、あれから黙り込んでいたルオが発話した。今度は先ほどとは違い、どこか意を決したような感じがする。
「あんた、どうして俺のこと背負ってくれたんだよ」
きた。と、ノイズは胸中で呟いた。彼自身も少なからず、そのうち指摘されるだろうとは予想していたようだ。
だがあえて、気付かない素振りで返す。
「なんですぅー? いかにもオレらしくないとでも言いたそうな質問ですねぇー?」
「だってそうだろ」
「確かにオレも同感ですけどぉー」
サク、サク。乾いた葉っぱを踏みしめる音。鳥の囀りや、遠くからは川のせせらぎも聞こえてくる。長閑な森だ。
「ま、気分っすかね」
「……出来ることならノイズには、ずっとそんな気分でいてほしいね」
「キャハハ。アンタ、振り落しますよ」
「わ、わわっ」
「ぐえ」
ルオの言葉に、ノイズが彼の足を抱える腕を解いた。必然的にルオの体がよろけて、彼は慌ててノイズの首に腕を巻きつけた。彼の咽喉からはまるで蛙のような声が出る。
苦しかったのか、それとも最初から落とす気などなかったのか。ノイズは直ぐにルオの足を抱えると、また歩き出した。
「ちょっとぉ、オレのこと絞殺さないでくれますかね」
「あっ、あんたが急に手離したりするからだろ! あー、驚いた」
「キャハハハハッ」
ダラリとノイズの体に凭れかかって、ルオは溜息を吐く。ノイズの甲高い笑い声がまた癪に障り、だが自分は身動きも取れず。彼の背中で大人しく(やっぱり普段のノイズだ)と痛感をした。
「取りあえずぅー、あんたに恩売っておいて後々何かしらの形で返してもらおうかなーなんていう下心があったりしますねぇー」
「げ……」
「怪我人に集るとか最悪だな、おまえ」
「うっせーよミイラ」
「ミイラ言うな!」
「空気」
「悪化してる!」
「くすっ」
今まで黙っていたオズが顔を向けて、野次を飛ばす。対してノイズは一言で蹴りをつけた。彼はオズに対しては辛辣のようだ。
刹那、後方からの笑い声。思わずオズとノイズは足を止めて声のする方を見た。
ルオが、笑っていた。
「くくくっ、あははっ! く、空気ってノイズ、無駄に頭捻りすぎ……」
「だってコイツの、ほら。首輪。ドッグタグ見てみてくださいよぉー。Ozってこれ完全に空気の元素記号じゃん」
指を差すことが出来ないため、ノイズは顎でオズの首元を見ろと示す。確かにドッグタグがあり、名前が刻まれていた。彼の名前の綴り、Oz。そして酸素の元素記号であるO2。似ている。
「じゃあ、その前のミイラは?」
「両目を包帯で巻いてるしぃー、腕とか脚もそこらへん包帯やらガーゼやら貼ってあるしぃー。気色悪いから」
「ぶっ!」
ズバッ。ノイズがハッキリと言い放った。あまりにもストレートに答えたため、思わずルオが再び噴き出す。
流石に笑うのは悪いとでも思ったのか、それ以降は声を押し殺して笑っていた。酷く肩が震えている。
「き、気色悪い!? お、おまえ! もう少しはオブラートに包むってこと覚えろよ!」
「包帯だけに……」
「ぶはっ! ちょ、今の反則っすよルオ先輩! ひい……!」
先ほどの発言は黙っていられないと、オズが反論した。すると、瀕死状態であったはずのルオが涙目でボソリと呟く。ノイズの耳元での発言だったからか、それとも単に彼のツボに入ったのか。途端にノイズも笑い出した。二人して笑い出したがために、オズは一人ギョッとしている。
「な、なんでおまえら笑ってんだよ! 僕は全然面白くないんだけど!?」
「あははは!」
「なんだよー!」
雨上がりの広い森の中で、少年たちの笑い声が滞りなく響いたのだった。




