Reject::00/ハロー、ハロウ。
――ジャラッ、ジャラン!
『はっ、はぁっ、はあっ……』
暗い、暗い闇の中。人の目が暗闇に慣れ、やっと人影が確認できる程度の灯りの中で無機質な音が暴れていた。それに入り混じるのは齢十に満たないと推測される、子どもの気息奄々たる外呼吸音。
此れはとある少年の、記憶の残像。
壁から伸びた鎖は少年の細い手足を拘束し、それらから逃れたい一心で彼はただただ腕を乱暴に動かした。拘束具はその度に彼の肌を傷つけ、赤く皮膚を腫れ上がらせる。少年は表情を苦痛に歪ませていた。
『いった……!』
『静かにしろ』
近くに立っていた数人の影の中から、男性が感情のない声でピシャリと少年に言い放つ。
しかしその叱咤程度で、少年が鎖から逃れることを諦める様子はない。
むしろ男が自分に対してやっと興味を示したことを知ることが出来、助けを求めるために唇を割った。
『ごめんなさい、ごめんなさい! お願いです、許して下さい、ごめんなさいっ……!!』
必死に思いつく限りの謝罪文を口から吐き出した。けれどもそれに耳を傾ける者などここには存在しない。
男らは再び少年に目を向けることもなく黙々と何かの準備を行っていた。
そんな状況を目の前にしていても、今の少年にはただ許しを請うしか術はない。何故自分が謝っているかも分からないまま、ただただ壊れた機械人形かのように叫び続けていた。
その顔はよく見ると赤く染まり、目をどこか潤んでいる。灯りによって表情が赤らんでいるわけではないようだ。
少年は顔を上に向けて、自分の腕を宙ぶらりんに吊り上げている鎖を見つめる。右も左もまったく同じ景色だ。暗闇から伸びている冷たい鎖が彼の自由を縛っているだけである。
『んっ、ぅ、うっ……』
その手枷から逃れるためにもう一度腕を何度も何度も下へ引っ張るが、まるで電流のようにビリビリと腕の神経を走った激痛により、少年の動きは小さくなった。碧眼の瞳には涙がジワジワと溢れてきている。
『そろそろ薬が回ってきたようだな。……始めるか』
『はっ、はぁ……くす、り……?』
聞こえた男性の声に、少年は顔を男たちの方へ向けた。荒い呼吸を間に挟みながら、確認するかのようにその言葉を反芻する。
その刹那、突然少年に伸びてきた手が彼の首元をガッと乱暴に掴んだ。
『ぐぁっ』
咽喉で詰まった空気が抜け、少年が表情を歪める。
細い首を掴む手の持ち主は、相変わらず無表情のまま言った。
『安心しろ、我々も鬼ではない。貴様が簡単にくたばることのないように配慮はした』
四肢だけでなく首までも拘束されてしまっている少年には、もう何もアクションを起こすことはできない。
男の言葉の意味を必死にくみ取り、自分を殺すつもりではないということだけは感じ取った。
しかしそこで台詞は終わらず、男は続ける。
『まぁ、貴様が肉体的精神的苦痛を与えられることで悦ぶような被虐性欲者の場合だが』
『っげほ! げほっ、ごほっ……』
男性の腕が離れ、少年は肺に入って来る酸素に咽て咳き込んだ。
(被虐性欲者……?)
何度も咳き込み、視界が完全に涙によって揺らぐ最中、先ほどの言葉の意味を勘ぐる。
フワフワと何故か熱い脳みそで必死に考えてみるが、答えは己の知識の中にはなかった。
そんな時、彼の視界に赤く発光する物体が現れる。
『ひっ――』
ジャラッ!
それを見た途端、少年はこれから自分の身に何が起きるのか。何をされるのか察した。
目を見開いてそれを凝視するが、見間違いではない。それは十分に熱せられた鉄だった。
『やっ、ヤダ! やめてください! 何でも命令ならききます、従います!! だからっ……』
フルフルと何度首を振っても、涙をボタボタとどれだけ流して落としても、ジリジリと絶望は迫ってくる。逃れようにも、両手両足は鎖でつながれて身動きは制限されてしまっていた。
無情な鎖から逃れようと暴れれば暴れるほど、それは自らの肌を傷つけるだけ。
ハッとして己の胸元へ顔を向けると、そこのボタンは引きちぎられ、無造作に糸が飛び出ていた。そこへゆっくりと近付いてくるのは、呪縛。
ドクン、ドクンと、騒ぐ彼の心の臓器。印から逃れたい一心で最後の力を振り絞って暴れ続けた。しかしこの鉛の拘束からは逃れることは出来ない。先ほどまで苦痛に感じていた手首の腫れの痛みは、この際まったく気にはならなかった。
天井に近い壁から伸びた鎖に繋がれた手枷によって、相変わらずだらしなく宙ぶらりんになっている両腕。足につけられたのは重たい足枷。双方、少年を逃がすまいと余裕そうに己の仕事を全うしていた。
(――嗚呼、もうダメだ)
それを見た少年の心の奥底で諦めの感情が芽生える。
どうすることも出来ず、ただただ視線を外そうと彼は顔を背けた。
それが、唯一の防衛手段だった。
ジュウウゥウッ――!!
『ひぐっ、うぅっ……!!』
刹那、胸元に何かが刺さるような感覚。
熱い。というよりも、それはもう激痛以外の何ものでもなかった。
叫びたい悲鳴を必死に押し殺し、奥歯を噛みしめて堪える。体がビクン、ビクンと痙攣し、心臓はバクバクと忙しなく暴れまわった。
痛い。熱い。冷たい。痛い。痛い。熱い。熱い。痛い。痛い。痛い。痛い。
焼き鏝が肌から離れたのはその数秒後。少年の視線はうつろで、目からは涙を流し、開きっぱなしの口からは、ぱたりとだらしなく涎が落ちた。
ゆっくりと視線を自らの胸元に向け、涙によってにじみ、歪んだ視界で彼は見た。
心臓の真上。痛みが襲う箇所。そこにあったのは、
〝57θ〟
焦げた肌と、そこに焼き付けられた呪縛。
あまりの激痛から痛覚が麻痺しているのか、酷く右目が熱い。頭も割れるように痛い気がするのは何故だろう。
遠のきかける意識の中で、少年は男の声を聞いた。
『さぁ完成だ。名は、ルオ……〝RUO_NO,K-57θ〟』
それは彼の名前。自分の名前だと認識が追いつかないまま、その名は頭の中に冷たく響いたのだった――。




