婚約者に崖から落とされましたが、海女の少女に命を拾われました ~可愛げがないと捨てられた侯爵令嬢は、海に生きる少女の小さな手に救われ、奪われかけた青い海を守ると誓います~
婚約破棄・断罪要素ありの短編です。
海へ突き落とされた侯爵令嬢と、彼女を救った海女の少女の絆を中心にしたお話です。
一部、殺人未遂・海中での苦しさなどの描写があります。
序文
潮風が吹き抜ける、美しき海辺の領地で起きた、ある夜明け前のお話でございます。
「可愛げがない」と疎まれ、冷たい海へと突き落とされた理知的な侯爵令嬢。
重い絹のドレスに引きずられ、暗い波の底へと沈みゆく彼女の腕を力強く掴んだのは、泥と塩にまみれた、一人の海潜りの少女の小さな手でした。
決して交わるはずのなかった二人の運命が重なった時、大貴族の傲慢な陰謀は、波に洗われる砂の城のように崩れ去っていきます。
絶望の淵から引き上げられた不器用な令嬢が、自分を救ってくれた少女の「愛する海」を守り抜くまでの、優しくも痛快な絆の記録。
記すのは、わたくし、ラトゥナ・ケートでございます。
◇◇◇
「マライア・バース侯爵令嬢! 君との婚約を破棄する!」
耳をつんざくような波の砕ける音を切り裂いて、婚約者の声が響いた。
足元から這い上がる海風が、結い上げた淡い金髪を容赦なく乱す。
灰色の空の下、切り立った断崖の先で、婚約者であるウォーラス・ベアーズ侯爵令息は、忌々しいものでも見るかのように私を睨みつけていた。
「……そんなことを言うために、わざわざ人気のないこんなところへ、私を連れてきたのですか?」
乱れた髪を指先で押さえながら、極めて平坦な声で返す。
婚約破棄。
その言葉自体には、さして驚きはない。
彼が最近、男爵家の令嬢を熱心にエスコートしているという噂は、私の耳にも届いていた。
だが、違和感がある。
なぜ、それを侯爵家の応接室ではなく、領地外れのこの荒涼とした崖の上で告げるのか。
そもそも今日、私は婚約破棄を告げられるためにここへ来たわけではなかった。
数日前、ウォーラス様から届いた手紙には、こう書かれていた。
――君が気にしている港湾整備の件について、誤解を解きたい。
現地を見れば、私が何も後ろ暗いことをしていないと分かるはずだ。
だから私は、侍女と護衛を連れてこの海辺まで来た。
だが、崖へ続く細い道の手前で、ウォーラス様の従者たちが彼らを止めた。
「この先は足場が悪うございます。すぐに戻りますので、皆様はこちらでお待ちください」
婚約者である彼が隣にいる。
それに、私自身も港の件を確かめたかった。
だから私は、違和感を覚えながらも、その言葉に従ってしまったのだ。
◇
「君が彼女をいじめた証拠は上がっている! 私の愛する人を傷つけるような冷酷な女を、妻に迎えるわけにはいかない!」
「証拠、でございますか」
私は静かに問い返した。
「では、どなたが、いつ、どこで、私がその方を傷つけるところを見たのでしょう」
「そ、それは……彼女が泣きながら、君にひどいことを言われたと」
痛いところを突かれ、ウォーラスの視線が不自然に泳いだ。
「つまり、証言者はその方ご本人だけなのですね?」
「彼女は嘘をつくような女性ではない!」
彼の上ずった声が、灰色の空に虚しく響く。
「では、私が嘘をつく女だとおっしゃるのですか?」
「そうは言っていない!」
「ですが、そういう意味になりますわ」
私は一歩も動かず、彼を見つめた。
「それに、私はその方と二人きりになった覚えがありません。夜会でご挨拶を交わしたことはありますが、常に周囲には他の方々がおりました。私が何を申し上げたのか、具体的な言葉をお示しいただけますか?」
「君は、彼女に冷たい目を向けた!」
眼下の岩肌に波が打ち据える重い音が、私たちの間に落ちた。
「目つきで婚約破棄が成立するなら、社交界の婚約は毎晩半分ほど消えてしまいますわね」
「マライア!」
極めて平坦な私の返しに、彼はついに顔を赤黒く染め上げた。
「それから、婚約は家同士の話です。ここでお一人で決められることではありません。まして、正式な抗議も調査もなく、私を罪人のように扱うことは、バース侯爵家への侮辱にもなります」
「そうやって、すぐに家だの規則だのを持ち出す!」
ウォーラスの顔が、怒りで赤黒く染まる。
「マライア! 君はいつもそうだ。その灰青色の目で、いつも私を裁くように見る!」
「私はただ、間違っていることを間違っていると申し上げているだけですわ」
「それだ! その言い方だ! 君は私を、一度だって婚約者として立てようとしなかった!」
顔を赤黒く染めて喚く彼を見て、私は合点がいった。
彼は、私に反論されたことではなく、私が泣き崩れなかったことに腹を立てているのだ。
私に見下されていると、勝手に劣等感を抱いている。
「そういうところだ、マライア。君には可愛げがない!」
可愛げがない。
彼から何度となくぶつけられた言葉だ。
彼が求めるのは、自分の言葉にひたすら頷き、涙を浮かべてすがりつく、都合の良い庇護対象なのだろう。
「彼女は君とは違う。いつも私を癒し、私を立ててくれる……君がいなくなれば、すべて丸く収まるんだ」
波の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
ウォーラスが一歩、私との距離を詰める。
彼の瞳の奥に、狂気に似た濁った色が渦巻いているのを見て、背筋にぞわりと冷たいものが走った。
「君さえ死ねば、私は彼女と一緒になれる。それに、あの港の件も……すべて波に呑まれて消える!」
港の件。
その言葉が出た瞬間、足が竦んだ。
婚約破棄はただの建前。
彼は私を口封じしようとしているのだ。
ベアーズ侯爵家がこの海辺の村で進めている、不審な金と権利の動き。
私が彼の手元の関係書類を見て違和感を抱いていたことに、彼は気づいていた。
「ウォーラス様、正気です――」
「さようなら、マライア」
伸ばされた彼の手が、私の肩を力任せに突いた。
バランスが崩れる。
足元の脆い土が崩れ落ちる感覚。
空と海が、視界の中でぐるりと反転した。
体が宙に浮く。
落ちていく。
耳元で風が轟音を立ててすれ違い――次の瞬間、全身を氷のような衝撃が打ち据えた。
◇
暗い、冷たい海の中。
息ができない。
肺が焼け付くように痛む。
海面から差し込む微かな光が、ゆらゆらと遠ざかっていく。
(死にたくない)
薄れゆく意識の中で、強烈な執念が首をもたげた。
父と母に、私はまだ何も言えていない。
幼馴染のドワイト様に、また「君は無茶をする」と呆れられることもできない。
それに――あの理不尽な港の件を、波に呑ませて終わらせるわけにはいかない!
しかし、ドレスの重い絹生地がひたすらに水を吸い、瞬く間に私を海の底へと引きずり込んでいく。
もがき抗う力さえ奪われ、意識がゆっくりと黒く塗りつぶされそうになった、その時。
ぐんっ、と。
水泡の向こうから現れた小さな手が、私の腕を力強く掴んだ。
◇
熱い。
喉が渇いて、息をするたびに肺の奥でひゅうひゅうと嫌な音が鳴る。
「ん……」
「あっ、よかった。息、楽になってきましたか?」
額に乗せられていた冷たい布が取り替えられる。
ひどく荒れた、けれど驚くほど優しい手つきだった。
重い瞼をこじ開けると、暗い天井の梁が見えた。
すぐ横の小さな暖炉の火明かりを背にして、一人の少女が顔を覗き込んでいる。
日焼けした肌に、潮風で少し褪せた茶色の髪。
海のように青い大きな瞳が、安堵に細められていた。
「ここは……」
「私の家です。あの岩場は、潮が引いた時だけ海藻がよく採れるんです。だから、いつもなら誰かしら村の者がいるんですけど……今日は私だけでした。いきなり空から降ってくるからびっくりしましたよ」
海に落ちた直後、私は極度の冷えと海水を飲んだことで高熱を出し、三日三晩、生死の境を彷徨っていたらしい。
時折意識が浮上するたび、この少女は私の傍らにいた。
ひび割れた木の器で少しずつ白湯を飲ませ、汗を拭い、波の音に混じってどこか懐かしい舟唄を口ずさんでくれていたのを、熱の奥でぼんやりと覚えている。
「服……着替えさせて、くれたのね」
「ごめんなさい、勝手に。濡れたままだと本当に死んじゃうから。でもお嬢様、海に落ちるには服が重すぎますよ。引き上げる時、私も一緒に沈むかと思いました」
少女はあっけらかんと笑い、丸めた古着で私の背中を支え起こしてくれた。
視線を巡らせる。
隙間風の吹き込む土壁。
傾いた小さな机。
私が寝かされているのは、藁を詰めただけの薄い寝台だ。
部屋の隅の木箱には、私が身にまとっていた重い絹のドレスが、泥と塩を落とされて丁寧に畳まれていた。
今私が着ているのは、洗いざらした麻の貫頭衣。
見ず知らずの、しかも身元の分からない人間を助けるなど、面倒事に巻き込まれるだけだ。
警戒心からつい身を固くする私を気にする様子もなく、彼女は火のそばに座り直した。
「……私は、マライア・バース。バース侯爵家の娘です」
探るように身分を明かしてみた。
もし彼女が悪意のある者なら、侯爵家の名を出せば態度を変えるはずだ。
少女は目を丸くして、それから「へええ」と感心したように息を吐いた。
「侯爵令嬢様って、もっと遠くの雲みたいな人かと思ってました」
「……」
「でも、海から上げた時は、普通に重かったです。あと、熱にうなされてる時は、普通の女の子と同じ顔してました」
その飾り気のない率直な言葉に、毒気を抜かれてしまった。
自分でも驚くことに、私の唇からふっと小さな笑みがこぼれていた。
「ふふ……そうね。水を含んだドレスは、石よりも重かったでしょう。本当にありがとう。私はあなたに命を救われたのね」
私は、自分の指にはめられていたサファイアの指輪を外し、彼女に向けて差し出した。
「これは少ないけれど、私を助けてくれたお礼よ」
だが、少女はそれを受け取ろうとはしなかった。
明るかった表情がすっと消え、少しだけ後ずさる。
「……命の値段みたいで、ちょっと嫌です」
「え?」
思いもよらない拒絶に、私は悪気なく驚いてしまった。
「そんなつもりでは……」
「分かってます。でも、私はお嬢様を、売り物みたいに助けたわけじゃないです」
真っ直ぐな、誇り高い瞳だった。
その目に見つめられ、私はハッと息を呑んだ。
彼女は命懸けで私を助けてくれた。
だというのに、私は無意識のうちに『貴族のやり方』で、金品でその善意を精算しようとしていたのだ。
彼女の心を踏みにじったのは、他の誰でもない私だった。
「……ごめんなさい。私が、間違っていたわ」
私は指輪を引き下げ、深く頭を下げた。
「心から感謝します。あなたのその尊い勇気に、私は救われました」
「……はい」
少女は照れくさそうに笑い、自分の胸をぽんと叩いた。
「私はナタリーです。海に潜るのが得意なんです。ここでは、みんなそれで食べてますから」
ナタリーは白い歯を見せて笑った。
後になって知ったことだが、彼女にはもう、両親も身寄りもいないらしい。
それでもその笑顔は、帝都の夜会で見てきたどの貴族の令嬢たちよりも、眩しく、まっすぐだった。
◇
熱が下がり、少し歩けるようになった翌日。
私はナタリーが用意してくれた薄い麦粥をすすりながら、開け放たれた窓の外、海辺の村の景色を初めてじっくりと見渡した。
潮の匂いと、腐りかけた木材の匂いが混じっている。
浜辺では、腰の曲がった老人が、黙々と破れた網を繕っていた。
その手は流木のようにひび割れ、震えている。
少し離れた波打ち際では、一人の男が、荷車に括り付けられて運ばれていく自分の小舟を、ただ虚ろな目で見送っていた。
それだけではない。
視線を遠くへ向けると、本来なら美しい白砂の広がるはずの入江に、巨大で無骨な木の杭が何本も、何本も、風景を犯すように打ち込まれているのが見えた。
「ナタリー……この村の暮らしは、いつもこんなに厳しいの?」
私の問いに、薪をくべていたナタリーの背中が、ぴくりと揺れた。
「海がありますから。潜れば、今日食べるものくらいは見つかります。でも……」
彼女は窓の外、あの忌まわしい木の杭の群れを見つめた。
「最近、領主様が変わってから、漁場に出るための税金がすごく高くなったんです。舟を手放す人も増えて……。あそこに新しい大きな港を作るからって、立ち退きを迫られている家もあって」
「新しい港……?」
「ええ。村の船は使えない、高い壁に囲まれた港です。夜になると、紋章のない黒い船が出入りしてるって、漁師の男の人たちが言ってました」
手元の木匙が、カタンと音を立てて止まった。
頭の中で、バラバラだったパズルの欠片が恐ろしい音を立てて組み上がっていく。
ウォーラスの書斎で見た、不自然な資金の動き。
ベアーズ侯爵家が進める港湾整備。
彼らはこの漁村を潰し、関税を誤魔化すための私設の密輸港を築こうとしているのだ。
それに気づきかけた私を、ウォーラスは口封じに海へ沈めた。
「……私は海が好きです」
ナタリーが、ぽつりと呟いた。
あの眩しい笑顔は消え、その横顔には年齢に似合わない諦めが滲んでいた。
「でも最近は、海に出るたびに、ここもいつか全部取られちゃうのかなって思うんです」
胸の奥で、冷たい怒りの炎が燃え上がった。
一人で海を見下ろすナタリーの背中が、ひどく小さく見えた。
この子は、私を海から引き上げてくれた。
ひび割れた手で看病し、乏しい食料を分け与え、見ず知らずの私を生かしてくれた。
そのナタリーが愛する海を、ウォーラスとベアーズ侯爵家は奪おうとしている。
私が殺されかけたのは、私一人の不幸ではなかった。
私の口を封じた先で、彼らはこの村を、この海を、静かに食い潰すつもりだったのだ。
そう思った瞬間、逃げ帰りたいという弱い願いが、喉の奥で凍りついた。
本当は、今すぐ父の力強い声を聞きたかった。
母の柔らかい腕の中に飛び込んで、思い切り泣き崩れてしまいたかった。
けれど、それはまだできない。
私が生きているとウォーラスが知ればどうなるか。
証拠隠滅のために、彼らは私を助けたナタリーを、この村ごと焼き払うかもしれない。
私はただ、運良く生き延びたわけではない。
ナタリーが、私を生かしてくれたのだ。
ならば私は、この命を使って、彼女の海を守らなければならない。
ただ家へ逃げ帰るのではなく、確実に彼らの罪を暴き、二度とこの村に手を出せない形で戻らなければならない。
「ナタリー。お願いがあるの」
私は、首に隠し持っていた銀のペンダントを外し、彼女の荒れた手を握って、その掌に押し付けた。
「これを、帝都のライノス侯爵家に届けてほしいの。一番信頼できる行商人に頼んで」
宛先はドワイト・ライノス。
唯一、私の「可愛げのない」理屈を昔から理解してくれていた、幼馴染の男だ。
ナタリーに手伝ってもらいながら、私は震える手で、短い手紙を書いた。
『私は生きています。ウォーラス様に崖から突き落とされました。ベアーズ侯爵家の港湾事業を調べてください』
後にドワイトから聞いたところによれば、極秘裏に手紙を受け取った彼は、その文面を一読するなり、しばらく何も言わなかったという。
ただ、その場にいた者は皆、執務室の空気が一瞬で冷えきったように感じたらしい。
「ウォーラス・ベアーズ……絶対に逃がさない」
そう呟いたドワイトは、すぐにライノス家の調査役たちを動かし、ベアーズ侯爵家の港湾事業に関わる金の流れと裏帳簿を洗い出してくれた。
◇
手紙を託してから数日後の夜明け前。
潮騒だけが響く漁村の入り口に、紋章を塗り潰した一台の質素な馬車が滑り込んできた。
御者席から降りてきたのは、見覚えのあるライノス家の密偵だ。
私とナタリーは誰の目にも触れぬよう素早く馬車に乗り込み、帝都近郊の森にひっそりと佇むライノス家の別邸へと向かった。
朝露に濡れる別邸の裏口。重厚な扉が開かれた、その瞬間だった。
「マライア……!」
絹の衣擦れの音と共に、母が弾かれたように駆け寄り、私を強く抱きしめた。
「ああ……生きて、生きていてくれたのね……っ!」
私の肩口に顔を埋める母から、懐かしい薔薇の香りと、とめどなく溢れる熱い涙が伝わってくる。
「お母様……ご心配をおかけしました」
「馬鹿者……っ」
絞り出すような低い声。
見上げると、父が立っていた。
その両拳は骨の節が白く浮き出るほど固く握りしめられ、全身が怒りに小刻みに震えている。
だが、私の肩にそっと触れたその手のひらは、どこまでも温かく、震えていた。
「よく、生きて戻った……」
その背後から、ドワイトが静かに歩み寄ってくる。
極度の緊張を強いていたはずの彼の瞳には、私を見た瞬間に深い安堵が広がり、そして、かすかな呆れの色が混じった。
「君は昔から、助けを求めるのが下手だ」
「ドワイト様……いいえ、今回は迷わずあなたを頼りましたわ」
「手紙一枚とペンダントだけを送りつけて、数日間も私を生殺しにするのが『頼る』ということならね」
ドワイトの静かな溜め息に、張り詰めていた空気がふっと緩む。
そこで、三人の視線が私の背後に隠れるように立っていた少女へと向いた。
「この子が、私を暗い海の底から引き上げてくれました。命の恩人の、ナタリーです」
次の瞬間。侯爵である父と母、そして次期当主のドワイトまでもが、一介の平民の少女に向かって深々と頭を下げた。
「娘の命を繋ぎ止めてくれたこと、いくら感謝してもしきれん。本当に、ありがとう」
「ライノス家からも、最大の礼を約束しよう」
その光景に、ナタリーは目を白黒させ、追い詰められた子猫のように慌てふためいた。
「ええっ!? い、いえっ、侯爵様!? 頭を上げてくださいっ! わたし、ただ岩場で海藻を採ってただけで、たまたま上からお嬢様が降ってきて! ほ、放っておけなくて……っ!」
ぶんぶんと両手を振り回し、顔を真っ赤にして後ずさるその姿に、父の厳格な顔がわずかに崩れ、母が涙まじりにふふっと吹き出した。
冷え切っていた別邸の空気に、確かに温かい火が灯った瞬間だった。
◇
その後、別邸の一室で、私たちは数日後に迫ったベアーズ侯爵邸での夜会に照準を合わせた。
ドワイトは既に完璧な証拠を押さえている。
「ウォーラスの逃げ道を塞ぐ準備はできている。あとは、君が生きているという最大の事実を突きつけるだけだ」
私は頷く。
そして、不安げに同席していたナタリーへ向き直った。
「ナタリー。あなたは危険だから、ここに残っていて。この別邸なら絶対に安全よ」
大貴族の恐ろしさは、この数日で痛いほど思い知ったはずだ。
実際、彼女の膝の上で握りしめられた手は、小刻みに震えている。
だが、ナタリーは首を横に振った。
「いいえ……行きます」
震える手で私のドレスの袖をぎゅっと握りしめ、ナタリーは大きな瞳を真っ直ぐに私へ向けた。
「私が助けたんです。私が見たんです。お嬢様が落ちてくる前、崖の上にあの人が立っていたのを」
その声は、決して大きくはなかった。
けれど、私にはどんな誓いの言葉よりも強く響いた。
ナタリーは怖がっている。
その手は震えているし、顔色だって青い。
きっと、帝都の大貴族の夜会など、彼女にとっては海の嵐よりも恐ろしい場所だろう。
それでも彼女は、逃げなかった。
私を海から引き上げた時と同じように、今度もまた、私のために手を伸ばそうとしてくれている。
胸の奥が、熱く痛んだ。
「……ありがとう、ナタリー」
私は彼女の手に、自分の手を重ねた。
「でも、約束して。少しでも怖くなったら、私の後ろに隠れて。あなたを傷つけるために、あの場所へ連れていくわけではないの」
ナタリーは小さく頷いた。
父が静かに息を吐く。
怒りを押し殺したその横顔には、先ほどまでとは違う、深い敬意が浮かんでいた。
「バース侯爵家の名にかけて、君を守ろう」
ドワイトもまた、穏やかに、けれど揺るぎない声で続けた。
「ライノス家も同じだ。君は証人である前に、マライアの命の恩人だ。誰にも侮らせはしない」
その言葉を聞いたナタリーは、泣きそうな顔で、それでも懸命に笑った。
私はその笑顔を見て、ようやく心を決めた。
もう、怯えて隠れているだけではいられない。
私を崖から落とした男を裁くためだけではない。
ナタリーが愛する海を。
この子が帰る場所を。
あの欲深い者たちから守るために、私はもう一度、侯爵令嬢として帝都へ戻る。
その夜、私たちはベアーズ侯爵邸の夜会へ向かう手筈を整えた。
ウォーラスは、私が冷たい海の底に沈んだと信じている。
だからこそ、私が生きて彼の前に立つことが、何よりの刃になるはずだった。
◇
数日後。
帝都のベアーズ侯爵邸は、華やかな夜会の喧騒に包まれていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き抜かれた大理石の床を煌びやかに照らし出している。
広間の中心には、喪服を思わせる黒の礼服に身を包んだウォーラスが立っていた。
その隣には、彼が『真実の愛』と呼んだ男爵令嬢が、これ見よがしにレースのハンカチで目元を押さえて寄り添っている。
「愛するマライアを、不慮の海難事故で失い……私の心は千々に引き裂かれました」
ウォーラスの芝居がかった悲痛な声に、周囲の貴族たちが同情の嘆息を漏らす。
「ですが、領民のためにも私は立ち止まるわけにはいかない。私の傷ついた心を支えてくれた彼女と、新たな婚約を結ぶことを、ここでご報告いたします」
まばらな拍手が湧き起ころうとした、その瞬間だった。
重厚なオーク材の両開き扉が、蝶番を悲鳴のように軋ませて開け放たれた。
止めに入ろうとした衛兵たちは、ドワイトの放つ絶対零度の視線に射すくめられ、一歩も動けないまま立ち尽くしている。
「――海難事故、ですって?」
広間の空気が、文字通り凍りついた。
楽団の演奏が不自然な音を立てて止む。
私は、バース侯爵家が用意してくれた深海のように青いドレスを身に纏い、真っ直ぐにウォーラスを見据えて絨毯を踏みしめた。
私の右隣には、冷徹な眼光で場を圧する幼馴染のドワイト。
左隣には、静かに怒りを燃やす私の父と母。
そして私のすぐ背後には、身を縮めながらも、私のドレスの襞をしっかりと握りしめるナタリーが立っている。
「な、なぜ……」
ウォーラスの喉がひきつった。
手から滑り落ちたクリスタルグラスが、大理石の床で硬質な破砕音を響かせる。
だが、誰も拾おうとはしない。
会場を支配していた華やかな楽団の調べは霧散し、ただ『死んだはずの令嬢』がそこに立っているという、あまりに重い沈黙だけが、床から天井までを塗りつぶしていた。
彼は後ずさりし、幽鬼でも見たかのように震える指で私を指差した。
「なぜ、生きている……!」
その不用意な一言が、すべてを物語っていた。
「波の音が大きくて、よく聞こえませんでしたわ。もう一度おっしゃっていただけますか?」
私は歩みを止めず、砕けたガラスを踏み越えて彼の目の前まで進み出た。
「足を滑らせたのではありません。私は、あなたにあの崖から突き落とされました」
「ち、違う! 君は狂っている!」
「そして、こちらのナタリーに命を救われましたわ」
私は少しだけ身を引き、背後に隠れていたナタリーを促した。
ナタリーの荒れた指先が、私のドレスの襞を白くなるほど強く握りしめている。
その握りこぶしの震えは、まるで崖から海を見下ろした時の恐怖が、そのまま手先に乗り移ったかのようだ。
金糸や宝石で着飾った者たちの視線が、潮風に焼かれた彼女の肌を値踏みするように突き刺さる。
それでも彼女は、ドレスを掴む指の力を決して緩めなかった。
私はそっと、私のドレスを握りしめる彼女の荒れた手を覆った。
「無理に証言しなくていいわ。あなたがここに立ってくれているだけで、十分よ」
小声で囁く。
だが、ナタリーは首を横に振った。
彼女の瞳が、一瞬だけ揺れた。
きっとその目には、理不尽に網を奪われ、舟を引かれていった村の男たちの姿が浮かんでいたのだと思う。
彼女は私の手をぎゅっと握り返し、一歩前へ出た。
「私、見ました」
震えながらも、その声は広間の静寂を真っ直ぐに切り裂いた。
「お嬢様が海に落ちてくる前……崖の上に、この人が立っていたのを!」
「卑しい平民の戯言など信じられるか!」
ウォーラスが顔を真っ赤にして絶叫する。
だが、その声を叩き潰すように、ドワイトが手にした分厚い書類の束を、近くのテーブルへ乱暴に投げ出した。
ドサッ、という重い音が響く。
「平民の言葉が信じられないなら、君自身の署名ならどうだ、ウォーラス」
ドワイトの低い声が、広間に浸透していく。
「入江の私設港建設計画、裏帳簿、そして漁村への不当な圧力。見栄だけは一流だが、内実は傾いていたベアーズ家。その負債と、君自身の虚栄を埋めるための密輸計画……君がマライアの口を封じたかった本当の理由は、すべて裏が取れている」
「なっ……」
「その日、マライアは一人で崖へ向かったわけではない」
ドワイトが静かに続けた。
「侍女と護衛を伴っていた。だが、崖へ続く道の手前で、君の従者たちに足止めされている。『すぐに戻る』『ベアーズ家の護衛がいる』と告げられてね」
ウォーラスの唇が、ひくりと引きつった。
「そして君だけが戻った。マライアは足を滑らせた、そう説明して」
ドワイトは、卓上の書類へ指を置いた。
「その証言も、すでに取ってある」
「婚約破棄ならば、家同士の話で済んだものを」
私の父、バース侯爵が静かに前へ出た。
地を這うような静かな怒気に、周囲の貴族たちがさっと道を開ける。
「我が娘を殺そうとした罪、そして領地を私物化し法を犯した罪。言い逃れができると思うな、ベアーズ侯爵家」
ウォーラスの膝が、力なく絨毯に崩れ落ちた。
彼が「真実の愛」と呼んだ男爵令嬢は、青ざめた顔で彼から身を引き、ドレスの裾を握りしめて後ずさっていく。
それを見下ろしながら、私の胸には微かな哀れみすら湧かなかった。
私を沈めようとした彼自身の浅薄な欲が、彼自身を暗い海の底へと引きずり込んだのだ。
◇
数日後。
潮風の吹き抜ける漁村の小さな小屋で、私はナタリーと向かい合って座っていた。
表向きの処分は、驚くほど早く進んだ。
ベアーズ侯爵家への厳しい取り調べの末、ウォーラスは廃嫡されて暗い獄へと送られ、侯爵家にも領地召し上げの厳罰が下された。
窓の外を見れば、入江を塞いでいた忌まわしい木の杭はすでに波打ち際から姿を消している。
密輸港の影は払拭され、正当な漁場を取り戻した海には、再び穏やかな波の音が響いていた。
「ナタリー。私の妹にならない?」
私は、淹れてもらった白湯の入った木杯を置き、彼女の手を取った。
「バース侯爵家の養女として迎えたいの。あなたには、安全で豊かな暮らしをする権利があるわ」
天涯孤独の彼女に、ふかふかの寝台と、温かい食事、そして何にも怯えなくていい未来をあげたかった。
この荒れた手に、もう二度と傷を作ってほしくなかった。
それが、命を救ってくれた彼女に対する、私なりの最大の誠意だと思っていた。
だが、ナタリーは少しだけ困ったように眉を下げて、私の手を優しく握り返した。
「ありがとうございます……でも、私は海が好きなんです」
「ナタリー……」
「この村も好きです。ここには、私が海から上がった時に『おかえり』って言ってくれるおばちゃんたちがいて、泥まみれになっても一緒に笑ってくれる人たちがいます」
彼女は窓の外を見た。
日の光を反射してきらきらと輝く、どこまでも青い海を。
「もし私が侯爵家に行ったら、あの海に潜る人が一人減っちゃうでしょう?」
真っ直ぐな瞳だった。
ああ、そうか。
私はその時、ようやく気づいた。
あの時、私はサファイアの指輪で、ナタリーの善意に報いようとした。
けれど彼女は、それを「命の値段みたいで嫌です」と言って受け取らなかった。
私はまた、同じことをしかけていたのだ。
今度は指輪ではなく、侯爵家の名と、柔らかな寝台と、温かな食事を差し出して。
それを救いだと信じて、彼女の居場所ごと、自分の側へ引き寄せようとしていた。
侯爵令嬢として、貴族の特権で彼女を引き上げることだけが救いではない。
彼女には彼女の、譲れない誇りと、愛する居場所がある。
それを「安全だから」という理由だけで奪い取る権利は、いくら恩を返したいからといって私にはない。
胸の奥が、熱くじんわりと解けていく。
「……分かったわ。では、私はあなたを妹にはしません」
私は彼女の手を強く握り返した。
「その代わり、あなたがこの海のそばで、ずっと笑って暮らせるように……この海は、私が守り抜きます」
ナタリーの目がぱあっと輝いた。
「それなら、お願いします。マライア様!」
「様はいらないわ。命の恩人にそんなふうに呼ばれるのは、少し落ち着かないもの」
「えっ、でも……じゃあ、マライアさん?」
「ええ、それでいいわ」
潮騒の音が響く小屋の中で、私たちは顔を見合わせて笑い合った。
◇
帝都のバース侯爵邸へ正式に戻った日。
母はもう、別邸で再会した時のように声を上げて泣きはしなかった。
ただ、玄関の扉をくぐった私の手を、長い間、離そうとしなかった。
父は私の頭を力強く撫で、すぐに漁村を正式に侯爵家の直轄保護下に置く手続きを進めてくれた。
あの村が二度と、理不尽な貴族の欲に脅かされないように。
「君は昔から、誰かの大切なものを理不尽に奪われるのが嫌いだったね」
数日後、中庭のテラスで紅茶を飲みながら、ドワイトが穏やかな声で言った。
「そうでしょうか。私はただ、可愛げがないだけですわ」
「君のそれは可愛げがないんじゃない。折れないだけだ」
「……え?」
「ああ。だからこそ、私は君のその真っ直ぐさを、誰よりも信じられるんだ」
テーブルに置かれた私の手に、彼の手がそっと重ねられる。
その温もりを感じながら、私は自分の居場所がここにあることを、静かに噛み締めていた。
◇
季節が巡り、海風が少し暖かさを増した頃。
私は再び、あの海辺の村を訪れていた。
波打ち際の向こう、海面から水しぶきを上げて、一人の少女が顔を出す。
「マライアさーん!」
大きく手を振るナタリーの姿に、私は貴族令嬢のドレスの裾を軽く押さえながら、砂浜をゆっくりと歩き出す。
かつて、私を冷たい底へ引きずり込もうとした海。
けれど今は違う。
潮騒の音が、どんな音楽よりも優しく耳を打つ。
私はあの日、崖から落とされた。
けれど、海の底へ沈んだのではない。
海に生きる少女の温かく力強い手が、私をもう一度、この眩しい世界へと引き上げてくれたのだ。
だから私は、あの子を貴族にはしなかった。
その代わり、あの子が海の少女のまま笑っていられる場所を、私が守り抜く。
潮騒が、耳の奥で優しく歌っている。
かつて私を暗い底へ沈めようとした海が、今はどこまでも眩しい。
深く吸い込んだ肺の奥に、かつてないほど濃い潮風の香りが満ちていく。
私はドレスの裾を翻し、波打ち際で太陽を背に笑う彼女のもとへ、迷いのない足取りで踏み出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
助けてくれた相手を自分の世界へ連れていくことだけが、恩返しではない。
その人が大切にしている場所を守ることもまた、一つの答えなのだと思います。
マライアとナタリーの物語を見届けていただき、ありがとうございました。
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