インスタントジェラシー
西東京の裏路地通りにひっそりと佇む「マルボロ」と言う喫茶店の四人席で二人の男女が静かにテーブルを囲んでいた。テーブルにはカフェラテとブラックコーヒーのマグカップが置かれており、うっすらと湯気が立ち上っている。
男の名は田淵正弘。女の名は氷川鈴奈と言った。
男女は二年前まで恋人同士だった。田淵は引っ越し業者のドライバー兼作業員、氷川は主にペット用のサプリメントを作る製薬会社の事務職をしていた。どちらの会社も中小企業であり、なおかつ二人とも中途入社であったので給料は少なく、ドラマに出てくるような大型タワーマンションなどにはとてもではないけれど住めず、高円寺にある月家賃三万円の安アパートで暮らしていた。その生活には慎ましくも確かな幸福があった。
二人が出会ったのは十年前、渋谷の小さな不動産屋だった。当時、住んでいた物件が駅近ではあるけれども少々家賃が高すぎることに二人とも頭を悩ませていた。東京都内でどこか安価で比較的好条件の物件はないものかと不動産屋に訪れるタイミングが偶然にも同時だった。求める条件が同じであったため、わざわざ分けて説明することを面倒に思ったアドバイザーによって二人は同時に物件の説明を聞くことになった。
その中で出てきた高円寺の「ドッグハウスⅡ」と言う幼児向けアニメーション映画のような名前のアパートの家賃の安さに惹かれ、当時の職場(偶然にも二人は原宿にある会社で働いていた)からも近いと言うこともあり、二人は即決で移り住むことを決めた。
この場面で運命が小賢しい悪戯をするのであればアパートには一部屋しか空きがないので醜い争奪戦が始まったと言う展開になりかねないが、幸運にも空き部屋は二つあった。しかも隣同士。まるで運命が二人の男女を歓迎しているかのように。
かくして「ドッグハウスⅡ」に移住した二人は前述した奇妙な偶然も手伝って、急速に仲を深めていき、互いが互いの家に頻繁に来訪するようになり、やがて恋人同士の関係になった際に、田淵の部屋で二人は同棲を始めた。
寡黙で穏やかな男の性格と明るくてお喋り好きな女の性格が陰陽のようにぱっちりと重なり合い、抜群の相性だった。
それは性格だけの問題に留まらず肉体的な相性も、まるで神が直接デザインを監修した特別製の番いのように思えるほど完璧で、田淵は創世記のアダムとイブを想起した。
田淵は氷川と交際を始めるまで女性経験は皆無だったので氷川と初めて交わる時には酷く緊張し、初めて銃を握った発展途上国の子供のように体を震わせていた。氷川はそんな田淵の内情の混乱を密かに察知し、田淵が男としての自信を喪失してしまわぬように優しく手解きをするつもりだった。しかし、緊張を御しきれぬままの精神状態で田淵が行ったぎこちない愛撫に氷川は快楽を覚え、あろうことに果ててしまった。甘い嬌声を上げて下半身を震わせた氷川もそれを引き起こした張本人である田淵も、鳩が豆鉄砲を食らったようなとても信じがたい出来事が起きた時のようなきょとんとした表情を浮かべて固まった。
氷川は当初、我武者羅な初心者が偶然上手く引き当てただけのビギナーズラック的なものであると思っていた。しかし、性交を続けていく内にすぐにそれは違うことが分かった。
田淵の暗中模索の試みが悉く氷川の快楽へと還元されたのだ。どんなに凄腕のテクニシャンでも全ての試行が相手の身体的愉悦に繋がるとは限らない。十回アプローチをすれば少なくとも一回は不発に終わるのが道理だろう。しかし、田淵の愛撫は氷川の性感帯に必ず刺さった。まるで機能不全と化したパチンコ台のように快は連鎖し重なって巨大なエクスタシーを形成した。
だが決して田淵のテクニックが優れているからではなく、むしろ下手な部類だと言うことは氷川も感じていた。荷物の運びこみで鍛えた太くごつごつした指先での力任せの愛撫、中に入った後の勢い任せで自己中心的なピストン運動。一つ一つの動作は初心者らしくどれも拙劣だった。だがそれを全て無関係にするほど二人の肉体的相性は神懸かり的に良かった。
結局、疲れ切って性交を終えるまでの三時間で氷川は十度絶頂を迎え、田淵は四度の射精をした。田淵が男としての自信を失ってしまいかねないと言う氷川の心配は杞憂に終わり、恋人との初めての夜が無事成功に終わったことで反対に田淵の自信は飛躍的に向上した。
それから二人は仕事がある日は夜から仕事がない日には朝からと言う具合で、狭苦しい六畳一間に敷いた若干黴臭い羽毛布団の上で殆ど毎日抱き合った。消灯し、カーテンを薄っすらと開けながらする性交は、布の隙間から射す月明かりに照らされる度に互いの身体が夏虫色に染まるのが美しかった。二人はまるで自分たちが静かな月夜に身を寄せ合って眠る河原の寂しい石ころになったような思いがした。
夏の夜には扇風機が回っている音と密着した肉と肉が重なる音だけが空間に響いた。冬の夜にはそれが暖房の音に変わり、秋の夜には肉の音だけになり、春の夜には敷地内に植えられた桜の木の枝が風に揺れる音になった。二人は主に性行為を通して四季の移り変わりを感じていた。
そんな生活が一年余り続いたある時、田淵の浮気が発覚した。相手は二か月前に田淵が荷物の運び込みを手伝った顧客の女であり、一人暮らしで恋人も居ないその女はあらゆる手練手管を用いて田淵を誘惑した。性行為の快楽を覚え自信がついたことで、氷川の身体に少し飽き始め他の女性の身体も知ってみたいと思うようになっていた田淵は、易々と誘惑に乗りすぐにその女と肉体関係を結んだ。
しかし田淵のフィジカル任せの性技はどれも女には通用しない上に身体の相性も余り良くなく、何度か行った性交だったが全て快楽には結びつかず失敗に終わった。それにより若干の気まずさも生まれ、田淵が薄々別れを切り出そうとしていた折に性交の回数が以前よりも減ったことを怪しんだ氷川が、入浴中に田淵の携帯の中を覗いたことで秘密の罪は暴かれてしまった。田淵のことを代わりの利かぬ運命の番だと信じていた氷川はこの裏切りに対して当然激しく怒り、泣き喚き、二人で買った記念品を始めとする部屋を彩るアイテムを次々に破壊した。
田淵はそんな氷川を宥めながらも内心では性交をしたいと考えていたために、氷川が落ち着いた後に穏やかな調子で交渉をすると、身体しか求められていないと感じた彼女はさらに怒り、「最低」と言い捨てた後、早急に荷物を纏めて田淵の部屋を出て行った。
それから二人は暫くの間、別離の日々を過ごしていたのだが、ある夜に田淵がたまたま訪れた池袋の「レヴィアン」と言う寂れたバーで奇しくも再会を果たした。田淵が来店した時には氷川は既に出来上がっており、頬は紅潮し足取りはふらつき呂律は殆ど回っていなかった。
別れ際は酷い修羅場ではあったもののかつてはこの上なく相性の良かった恋人同士であったために田淵は氷川のそんな様子を酷く不憫に思い、泥酔している彼女に付き添うことにした。
田淵が合流したことで氷川はそれから更に酒を呷るようになり、合間に水を渡してはいたのだがそれでも酔いの回りを止めることが出来ず、とうとう完全に酔いつぶれて眠ってしまった。
自らが犯した一時の過ちのせいで一人の女性の心をこれほどまでに激しく傷つけてしまったことへの罪悪感から、田淵はせめて氷川を現在の住居まで送り届けてやろうと思い、席から立ちあがった。するとその時、微睡みに意識を委ねている氷川の口からこんな寝言が囁かれた。
「せめてもう一度だけ抱いてほしい」
その密やかな声が聞こえた時、田淵の心の中で懺悔と微かな情欲が急速に駆り立てられ、会計を済ませて店を出た後、居ても立っても居られず氷川を連れて付近のホテルにチェックインした。狭い部屋の中で不自然なほど大きなダブルベッドに氷川を寝かせ、水と酒に濡れた唇に田淵が優しく口づけをすると、その瞬間にまるで御伽噺のように氷川が目を覚ました。見開いた瞳を上下左右にゆっくりと動かして、状況を把握した後、瞳を閉じて静かに身を委ねた。
それから灯りが消され、暗い部屋のダブルベッドで行われた破局済みのカップルによる一度だけの交わりは、図らずともこれまでのどんな性交よりも上質なものだった。零時過ぎに始まったそれは一度たりとも勢いを落とすことなく夜明けまで続き、窓の外で数匹の雀が鳴いた頃、息を切らし汗と様々な体液を垂れ流しながら大の字で横たわる二人は、互いの肉体に貯まる深い満足と激しい疲労を覚えていた。
その後、二人は再び会うようになった。ただし、恋人と言う不可侵で神聖な関係性ではなく、ただ互いの肉欲を満たすことのみを目的とするふしだらで爛れた性友とでも称すべき歪んだ関係性である。
性友共はかつて恋人だった時のように殆ど毎晩、身体を重ねた。場所はその時々によって変わり、田淵の部屋であることも氷川の新しい住まいであることも適当なホテルの一室であることもあった。一見すればこのような奔放な性生活は恋人だった頃となんら変わりがないようにも思えるが、ただ一点だけ決定的な違和があった。それは行為に愛情が欠落している点である。肉体的な快楽を得るためにただ肌と肌を動物的に擦りあって声を上げるだけの性交からは確かに愉悦と温もりは受容できるが、寂寞は誤魔化すことしか出来なかった。
皮肉なことに身体の相性はこの上なく良かったために互いが互いの身体を求めて止まず、加えて以前と比べて関係性になんの制約もないために惰性が介入しやすかった。こうしてほんの一刹那寂しさを紛らわすだけのインスタントな日々は気づけば二年が経過しようとしていた。
この頃になって二十代後半でもうすぐ三十に突入しようとしている氷川が、もうかれこれ二年間も恋人を作っていないことを危惧した両親が半ば強引に見合いの約束を取り決めた。そしてその相手の男と氷川の相性が良く、自然と結婚を前提とした交際を始めるようになった。そうすると相手の男を裏切ることへの罪悪感と、薄々感じていた淫らで退廃的な日々への厭悪の念で徐々に会う回数が週に三回、二回、一回と減っていき、やがて週に一度も会わなくなった。それから三月ほどが経ち、互いの生活から互いの存在が完全に消失したある日。
氷川からのメールで二人は喫茶店「マルボロ」にて落ちあうこととなった。「マルボロ」は二人にとって良く通っていた思い出の場所だった。そこでするのは勿論、復縁の話では断じてなく、別れ話だった。氷川と相手の男との結婚が正式に決定したのだ。
もう二度と私の人生に現れないでくれ。そんな警句を氷川は田淵に告げるつもりだった。田淵も朝、メールに目を通した際に文章が発する寂しい気配をうっすらと感じ取っていた。いわば二人は予め、それぞれの覚悟を胸に抱いた状態で喫茶店へと足を運んだのである。その日の空はまるで曇りなき決意のように良く晴れていた。
時折マグカップを持ち上げるカタンと言う音とスピーカーから流れる控えめなジャズピアノの音だけが響く店内においても、二人が座るテーブルは一層静かだった。沈黙はもう少しで五分を超える。湯気の立つブラックコーヒーを僅かに口に流し、ゆっくりとマグカップを皿の上に戻した後、最初に口を開いたのは田淵だった。
「結婚するんだってね。おめでとう」
「ありがとう」
氷川は静かに言ってマグカップで口元に運んだ。
「素敵な人?」
「まあ、あんたよりは数段」
カフェラテを少し啜った後、氷川は不愛想に答えた。田淵は僅かに苦笑しながら、
「それはよかったね」
「まあね」
再び沈黙が訪れる。だが最初よりも重く、まるで罪業のような沈黙が十数秒続いた。田淵が固唾を飲みながら口を開く。
「もうこれっきり会わないんだろ?」
「二度と会わない」
氷川はここまでの曖昧な返事とは異なり、はっきりとそう言い切った。大陸のような揺るぎない不動の意志が感じられる物言いで、心変わりなどするはずがないと思わせた。
「そうか……。でもなんでだ?」
「何が?」
心底不思議でならないと言う調子で田淵は言葉を続ける。
「俺達、あんなに相性がよかったはずだろ?」
氷川が目線を下に向け、浅いため息を漏らす。そして冷たい眼差しで田淵を見つめ、言った。
「あのね、相性は確かに良かったわ。精神的にも肉体的にも。けどね、あんたとの生活には目新しさがないことに気づいたの。ただ楽しくて気持ちいいだけ。同じ量の物質を受容するだけの食事みたいな日々だわ。本質的にはとても退屈で死んでいるのと変わらない日々よ」
「相性が最高の相手とこれ以上ないくらい楽しくて気持ちいい日々を送れたら例え死んでいるのと同じでも構わないじゃないか」
「私はそうは思わない。例え相性がこの上なく悪くても毎日新しい発見が出来る相手と日々を過ごしたい。なぜなら新発見が生きていることの本質だと思うから。会えばすることはセックスだけで代り映えのしないあんたとの灰色の日々は今日で終わりにしたいの」
「そうかよ」
「話はそれだけ。じゃあ私帰るから。今までありがとう。あんたとの三年間はきっと今後も忘れたくても忘れない。けどなるべく忘れるようにするから、今後どこかで私のことを見かけても絶対に声を掛けないでね。私も同じように声を掛けないから」
「わかった」
「じゃあね」
テーブルの上に自分が頼んだカフェラテの六百五十円を置いて氷川は立ち上がり、出口へと歩き出そうとする。田淵はけんもほろろな氷川の態度に口惜しさと名残惜しさを覚え、せめて捨て台詞だけでも吐いてやるつもりで白Tシャツを纏う背中に声を投げかけた。
「待てよ」
「何?」
振り返った氷川の顔は酷く不機嫌そうに見えた。早く用件を言えと目が主張している。
「生きているのも死んでいるのも変わらないと思うぜ。なんなら生きているものはいずれ死にゆく宿命にあるから、最初から死んでいる方を選んだほうが失望しなくて良いと思うけど」
田淵は一矢報いることが出来たと確信した。これで氷川の心が揺れ、こちらに戻ってこさせることができたならば上出来だと早くも喜悦の笑みを浮かべた。戻ってきた氷川に施すお仕置きの数々に想像を巡らせた。しかし、氷川はそんな田淵の心を読み取ったかのように侮蔑の表情を浮かべ、冷徹に言い捨てた。
「それでも私は一時でも生きる道を選ぶわ。残念だったわね。こんどこそさよなら」
言い終わるや否や氷川は足早に店を出て行った。扉に付属している鈴のカランコロンカランと言う音と店員のありがとうございましたと言う声の残響が空気に呑まれて消え去るまでの間、田淵は口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしていた。そしてようやく周回遅れの理解が追いつき、氷川を完全に失ってしまったことを悟った彼は悲哀と寂寞が混じった表情を浮かべながらゆっくりと腰を下ろし、静かに俯いた。




