幸田露伴「艶魔伝」現代語勝手訳 七
第十六は『気を奪う』であります。
これは、金をたっぷり持っていたり、背伸びして通人振っている男に用いると、本当に可笑しいものがあります。
少し前、ある芸者が神奈川付近の、さる大金持ちと馴染みとなり、衣類や持ち物等、美を尽くした数多くの物を贈られたのですが、それだけではなく、身請けして正妻にした上、二十いくつもある蔵の鍵まで与えようとの内談がありました。近々、同業者の誰彼へ祝儀に配る赤飯のことまで用意できているのです。
しかしそんなことは知らず、某銀行の支配人とかが、その女に半月ほど前から大層な贔屓で、女は何か魂胆あってのことだとは分かっていましたが、こちらの方も取らないでは損だと、これにも例の影を与え、楔を入れるなどしての仕業をしたところ、支配人はますます喜び、金銀を投げ打って真心を尽くすようになります。
さて、遂にいよいよある待合の場所に連れ込ます。そこは、三味線の爪弾き一つあるような場所ではなく、床を共にしようかという小座敷であります。塵一つ動かない、風も入らない部屋で、しんみりとした酒盛りが始まり、小声でひっそり話す言葉にも真面目さがあって、お互いに本当の気持ちを伝える台詞は真剣すぎて可笑しいくらい。天晴れ、山東京伝の書いた洒落本にも出て来そうもない玄人の真実、すなわち、これこそ色道の第一根本である『嘘から出た誠』で、『ありがたい所は当にここじゃ』と男はほとんどとろけ掛かって、大満足し、大喜びをする。女は男がうとうとする振りを見て取り、
「お感冒など召しませんように」と、揺り起こし、
「こちらへいらっしゃいませ」と、柔らかな手に引き立てて、粋な燈火のついた座敷へと誘う。この時、時計がチンチンと十時を鳴らすのを二人で聞いて、共に蒲団に入ろうとしますが、その途端、慌ただしく下女がやって来て「姐さん、姐さん、電報が……」というのを受け取り、女は眉を寄せながら、心配そうに、見れば封筒に<至急>の朱の文字。ドキドキしながら開いて見て、女は涙をおろおろと落としながら、電報を丸めて投げ、
「エエ……どうしましょう」と、胸が閊えて苦しげな様子を、男は驚き、惑いながらも、とにかく女を介抱し、どうしたのかと訳を問えば、指さす電報。
それを取って見ると、横浜からの発信で、
『チゝビヨウキムヅカシスグコイ』とあり、女は溜息をつきながら、
「ああ、何という辛い浮き世。こんな良い時に魔がさして……。でも、今夜は絶対どこにも行くことなどできやしません」と、ぴったり男に寄りそうと、男は女を撞き退け、
「私への情けでそう言うのかも知れないが、親の死に目に会わせないでいて、自分は面白いことなどない。行ってこい、ソレ今ならまだ十一時の急行列車に間に合う。これは少ないけれど見舞いの足しにしてくれ」と、女に大札四、五枚を手渡します。女は何も言わず涙だけ見せて、男を伏し拝んで、車を急がせますが、もちろん、横浜などには行かないのであります。
これは、一つには男自ら粋な計らいをしたと思って、失敗するいわゆる<粋嵌まり>、すなわち、粋な計らいを気取って失敗するというものですが、もう一つは、策略として男の気を奪い、身体を汚すことなく影を与えて実を取る巧妙な仕掛けというものであります。
大体におきまして、肌を許して男を誑かすというのは拙く、心を許すと見せかけて迷わせるべく、肌を許さなければならない状況となった場合は、甘く男の気を奪って、肉欲の出所を失わせるように仕掛けるのでございます。
気を奪うには、その境遇、状況をがらりと変えることであります。自分の病気を口にしたり、親の命日を言い立てたりする類いは、余程鈍感な男には通用しますが、平常の男には通用しません。大体は前もって仕組んでおき、いざその時という所で、丁度その事態が持ち上がるように段取りをするのがよろしいのであります。但し、下手な段取りをすると、男に見透かされて、恥をかくことになりますので、ご留意いただきたく存じます。
第十七は『我を捨てる』ということであります。
自分の思うことを主張して変えることがない、すなわち、我が立っている者を愛するというのは、大人君子の極めて度量が広い者でなければできないことであり、世間の男どもは何によらず、自分は我を立てるくせに、他人が我を立てるのには、いい顔をしないものでございます。真に正しく我を尊む者であれば、他人が我を立てるのも愛し見る訳でありまして、お釈迦様などがそれで、真に正しく我を尊まれるお方でございます。
だからこそ、釈迦を殺そうとして地獄に落ち、悪逆非道の代表格として有名な提婆達多の我を露ほどにもお憎みにならず、海のような広い御胸に受け容れられたのであります。
しかし、大抵の男は自分の我を尊みはするけれども、人の我は憎み、人に対してはその我を捨てさせ、自分の我に組み入れてしまおうと考える戯けでありますので、こちらが我を立てている時には、なかなかこちらを愛することはできず、嫌うものであります。
それ故、そんな愚人に愛されようとするならば、我を捨てなければなりません。逆に言うなら、我を捨てて人に近寄ってくる者は、その心に険悪なものを持っている奴で、昔から奸雄すなわち、悪知恵にたけた指導者と言われる人物であります。彼らは一生、我を捨てる工夫ばかりに腐心したに違いなく、そうでありますから、究極の卑しい者と言うのは我を捨てる奴であると言えます。
もともと『良い我』なら捨てる必要はなく、『悪い我』だから捨てるとなれば、我を捨てる者、すなわち悪い人間ということになります。我を捨てるということ自体、その人間の我になりますから、つまりこっそり我を捨てる者は恐ろしい大悪人であることは言うまでもないのでございます。
しかし、もっと深く考えれば、真に正しく我を捨てることができるなら、その人は大聖人であることは疑いなく、また、真に正しく我を立てることができたなら、それも大聖人であることは間違いないのであります。これらが表裏一体であることは分かりきったことではありますが、前にも言いました通り、凡人は我を立てることもできず、きちんとした形で我を捨てることもできない宙ぶらりんなのが、凡人の人生というところでありますので、その凡人を相手にする色道の秘密は、痩せ我慢をして我を捨てるということになるのでございます。
しかし、ここに、不思議というか自然の仕組みの妙と言いますか、それに気がついてゾッとすることがございます。第八の『語気』の条でも書きました通り、色道の裏の手の浅ましさも、煎じて、煎じて、煎じ詰めていくと、裏ではなく表の正しい所に帰らねばならないように、我を捨て、男の心を蕩かせるこの条も、また本当に不思議なものと言わなければなりません。すなわち、大体、色道の裏の手は皆、恋と見せて男を誑かすのですが、いよいよ男を誑かそうと秘かに深く考えれば、その考え出す悪事の手段の数々の中に、電光が閃いて眼を射るように、すなわち、裏が表になる如く、驚かされることだけがあるのでございます。
さて、元来、男にせよ女にせよ、真実惚れたという時には、強いて我を立てることはありません。自然と、男は女の我を上手く立て、女はまた自然と男の我を立てますので、自分の我を捨てる訳ではないものの、自分の恋人の我を尊び、知らず知らず、男の我に、女は従い、女の我を男は愛し、いつの間にか我を捨てるようになって行って、人の我を嫌っていた昔の小さな心が押し広められて、お互いの心が春の空のように和らぎ、長閑に楽しくなるものでございます。恋とは、神聖とは、こういうことを言うのであります。ああ、そうであるなら、正真正銘の恋なら、悠然と満足しながら人の我を愛し、自分の我を捨てることになって行くのですけれど、似非の恋である裏の手として、無理に痩せ我慢をして我を捨てるその苦しさ、それはなかなかでき難く、これはもうどうしようもない道理で、言葉で言い表せないものであります。
これに基づいて考えますと、無我のように見えるお釈迦様などという大聖人は、生きとし生けるもの、禽獣にまで惚れて、自分の我欲が自然に廃って行くのさえも意識せず、そのままの大きな恋が大きな人を作ったのでありまして、たかが知れた人間のヘボ思想が聖人と肩を並べるとは到底思えないのであります。
我を捨てるとどのつまりは、身を捨て、命も惜しまないということになりますが、そこまでは踏み込むには及びません。まず、一切の行動を男の性格に合うように仕掛け、すべて男の自惚れている部分に同意して、下らないことにまで我意を抑えて忍耐することであります。たとえば、
「あなたのためなら、この命、何を惜しみましょう、ましてや、あなたの仰ることには、生き血を絞られ、片腕を抜かれようとも厭とは申しません。世間の評判、親類や目上の人の思惑で、自分を禽獣のように見做して、爪弾きにされようとも、この身一つ、あなたに任せた私、少しも構いません」というような意気込みを見せ、男が酒を嫌うなら今まで日に一升の大酒を呑んでいても、盃を石灯籠に叩きつけて、金比羅様に禁酒を誓い、男が学問好きなら、男には知られずに内々で、伊勢物語、竹取物語、徒然草の二くだり、三くだりを聞き習い、男が法華の宗ならば、門戸を廃め、男が猫嫌いであるなら、泣きの涙を振るって、鰹節を添えて『タマ』を余所に遣るくらいは当たり前、もう少し奮発して、
「殺すも活かすもどうせ貴郎に任せたこの身体、この身はもう、自分のものでもなく、父母のものでもございません」と、男の懐に自分の魂を投げ込むのであります。
しかし、余りにも強く我を捨ててしまうと、後々、別離の時に困ったことにもなり兼ねますので、その辺はよくよくご注意いただきたいと存じます。
つづく。
後、三回で終了予定です。