幸田露伴「艶魔伝」現代語勝手訳 四
第九には『語形』でございます。美人が使うべきではない言葉を紅く小さい唇から漏らすほど、愛想が尽きるものはございません。
「おさんや、タマにご飯をやっておくれ」という語の形は美しい。
(おさん…下女 タマ…猫)
「おさんや、タマにご飯をおやり」と言えば、まあ、その次の語で、
「タマにめしを食わせろ」と言いつけるようなのは、浅ましくて女ではありません。
「あなた、浮気をするとききませんよ」の使い方は『上』のランクで、
「おまえ、浮気をしちゃあいやだよ」は『中』のランク。
「浮気をして見やがれ、唯では置かねえぞ」ときては、『下の下』もいいところ。これは昔、吉原の羅生門の河岸沿いにあった最下級の『けころ見世女郎』の品格であります。すべて気持ちは同じでも男の心には違った感じを抱かせるもので、例えば男が浮気をしても、『上』の言葉を思い出した時は、その言葉に自分の自惚れを添えて想像し、
「アア、今頃は俺の写真に針でも刺して、恨み泣いてはしないか」と憐れみも起こって、可愛くもなり、逢いたくなって遂に逢いに行くことになります。『中』の言葉を思い出した時は、
「あれは、ブツブツ口小言を言いながら、火鉢の灰をくるくると掻き回したりなどして、エエ、どうせ怒っているだろうナ、行ってやろうか、よそうか」と胸に手を当てて迷う所でありますが、『下』の言葉を思い出した時は、
「あいつめ、大方やけ酒を煽って、俺のことを散々悪く言っているだろう。今行くのは危険だぞ』とまぁ、こんな風になるのでありましょう。
第十は『機転』でございます。
機転を上手く利かすことができないうちは、その他のことがどんなに上手くできたとしても、皆水泡に帰するのであります。機転が利くようになろうとしても、これはなかなか難しいことではありますが、逆に機転が利かないというのは、察しの悪さから生じるものであり、察しが悪いとは、察しないことから起こるものだとお覚悟くださいませ。せいぜい思いやりということを絶えず心に留めておかれれば、察しも良くなって、段々と機転が利くようになるだろうと考える次第であります。
以上五つは手練手管の器械に当たりますので、この器械をきちんと研ぎ上げていなければ、進むこともままなりません。十分器械を整えられたのであれば、次にそれをどのように使うかでありますが、それは次に書き記したいと思います。
男を釣るのは、魚を釣るのと少しも変わりなく、甘い餌で鉤が見えないようにすっかり隠し、釣糸を丈夫なものにして、振り切り逃げられないようにしておく仕掛けが必要です。鉤を鋭くしっかりと鰓に刺さるようにしておき、錘でもって沈め、水底にいる魚の鼻の頭へ餌を見せびらかせば、直に釣れるものでございます。姿形を飾り、<柳清香>という伽羅の髪油とか、<花の露>とかいう化粧水とか、好い香りのするものを身につけておくのが餌となります。
『釣綸』は神に誓って離れませんという契を交わす言葉と考えます。『錘』は遊女なら番頭新造、芸妓なら置屋か茶屋の女将というところでありましょうか。お前様のご身分は特段定まりませんが、『錘』とは、つまりは介添え者、世話役とお考えください。
さて、そうやって支度がすべて調っていれば、痩せぎすの男も、だぼ鯊面の男も、鱵のような華奢な男も、鮪のような無骨な男も、鮒も鯰も、はたまた鯛のような色男も、出世の見込める撥尾魚…鯔の幼魚…のような若い美男も、あるいは、雑魚も泥鰌も、先を争って食いついて鉤にかかるものでございます。しかしながら、釣魚にしても、魚の種類によっては道具を変え、香餌を変えなければならないように、男によっては、こっちの仕掛けを変えなければ上手く釣れません。
となれば、まず男を見ることが肝心なことになって参ります。しかしこれまた、人を見ることの難しさは昔から色々と議論があるほどで、韓非子の『説難編』や鬼谷子の『忤合編』などにも『人を観ることが上手くできるなら、この書を読む必要はないくらい重要なこと』と書いているくらいで、一朝一夕にはご伝授することは難しいのでございます。
人を見分けるのに、職業でするのは容易いことで、どんなに衣服を変えたとしても、言葉付きが滑らかで腰が低いのは商人、言葉、態度が粗く大きくなるのは船乗り、手の中に豆などできているなら大工か左官の類い。身体つきが綺麗で、肉付きが柔らかなものの中で、言葉が丁寧でないのは書生、横柄に威張るのは役人、知ったかぶりをする軽い男は銀行員である、などとありますが、こんな風に一々その職業を当てるのは、花見の時分に向島の茶店に半日も腰を掛けていれば簡単に分かるので、これはあまり役には立たないとお考えになるべきだと思われます。
さて、第十一は、これまでのような次第でありますから、『金の有る無しを見る』ことでございます。男の懐に金があるか、または融通のよく利く男か、それとも体裁ばかりの見かけ倒しか、裕福な家のぼんぼんで、金はあるものの自由にできないのでは、などと、きちんと見分けずにおりますと、質素な木綿の服を着た大金持ちを見逃し、羽二重の犢鼻褌を締めた素寒貧に引っかかるような馬鹿を見るのでございます。
まず、十分言いたい所を七分に抑えて口を控え、人を立てて我を張らず、言葉も刺々しくなく、自分のことをあからさまにせず、衣服とか持ち物に際立った好みを見せず、眉の間も険しい所がなく、ゆったりとしている若い男は、社会的に身分のいい良家の息子で、すなわち、金を持っていなくても、金持ちの雰囲気を醸し出しているものであります。実際の金持ちの人は衣服は立派だが、どこかに少し間の抜けた所、気が利かない所があります。これは、金持ちという者は自然に人が作った衣服を着、持ち物を持ち、一々自分で作るということをしないからで、例えば、
「これは非常に渋くて、よろしゅうございますよ」と勧められて、高級な繻珍の帯を買って、
「ほら、この渋さだから、帯は特別博多のものでなくてもいいだろう」と、その帯の渋さを自分の中途半端な知識で、物知り顔に満足し、それでいて、それに釣り合う衣服を注文しようともせず、最高級品の織物の、いやにニヤケた柄の服を着るようなことをいたします。確かにそれぞれ一つ一つを見れば、結構なお品ではありますが、全体のバランスを見ると、どこか可笑しい所があるように感じてしまうのであります。床の間には水墨画の名手『啓書記』の『山水天下』の珍品を掛けて、その下に巴里製の花瓶を置くという感覚も、すべて人に任せきりにしているからでございます。
このような金持ちは言葉も所作も大様で、座敷一杯にどっかと坐り、遠慮をすることを知りません。そんなことですから、少しネバッコク甘えた態度を見せれば、簡単にフニャフニャになるので、こういった人たちのことを、活きた金の使い方を知らない『死に金持ち』と言うのでございます。
一方、言葉巧みに人を笑わせ、しかも内輪でも横柄でなく、身姿もおかしな所もなく整えて、個性のある帽子も新しく、しかも世間の状況もしっかり把握しており、事情の飲み込みも早く、頭の回転も速い。そして、無暗に奢りもしないというのは、金の融通のよく利く男で、懐に大金はなくても、こんな男を誑し込むことができれば、相当の金を引き出せるというものでございます。
相場に手を出しているような男は、たとえ金がなくても、生金持でありますから、金を引き出せるまでには、相当時間がかかります。
通ぶった衣服をし、言葉だけ上手い男は、大抵、銭無しで、金がないため、自分の心意気を見てくれと言わんばかりの調子で、男自身は金を使わず、他に身を飾ることができない弱みがあるので、自然と歌舞伎の音羽屋、成田屋の仮声を使って、新内端唄とか、あるいは寝言を言っているような河東節、または季語もない駄発句、『てにをは』を間違った和歌などを唸るものだとお知りいただきたく存じます。
生意気なのはまず、裕福ではないことから生ずる見栄だと思って、まず間違いはございません。時として、金のある人の生意気なこととして、女に向かって格好を付けるということもありますが、金がある人の生意気はまるっきし芸にも洒落にもならず、反対に、金のない奴の生意気は芸になりかかり、洒落になりかかるようなものがありますので、『なっていない」と『なりかかり』の区別をよくよくお考えいただければ見誤ることはないと存じます。
普段、金のない人が急に金を持った時は、一番わかりやすいのでございます。人の性格によっては多少の違いはありますが、大抵は急に勢いがよくなるか、急に人が変わったように寛容になるかの二つでございます。このような時には、こちらとしても、急に巻き上げる算段を考え、急に道理も何もなく相手を昂奮させて、怒らせて金を吐き出させるか、急に待遇を好くしてねだり取ってしまうか、いずれにしても素早く行動すれば、残らず取り上げてしまうことができるのでございます。
つづく




