幸田露伴「艶魔伝」現代語勝手訳 三
柔道の極意は、相敵の力でもって敵手を倒す事でありますが、色道裏の手の極意も、詰まるところ、男の心でもって、男の心を誑かすのでございます。だいたいにおいて、男というものは大馬鹿の<あんぽんたん>で、自惚れより外は何も知らぬものですから、その自惚れをこちらの手掛かり、足掛かりにし、そこに色々の魔法を振りかければ、好き放題に操ることができる訳であります。本当の気持ちで女に惚れる男は千人に一人で、大抵の男は女に惚れるのではなく、自分の自惚れに惚れて迷って騒ぐものなのでございます。
さて、第六には『眼』でございます。眼の使い用は三十六通りもございますが、最初は『振掛目』であると言えましょう。昔の人が『情目遣い』と言っておりましたのがこれであります。これはちょっと男の頭へ軽くこちらの眼の光りを振りかけてやるだけでよろしいのでありまして、そういう風にいたしますと、根性の定まらない男はちょっと女に見られただけなのに、早くも内心、「アア、今朝出る時に髭を剃ってくれば良かった」などと下らない見栄を、その場限りの気持ちではありますが、考えるものなのでございます。三、四度振りかけてやれば、鈍感な男でも敏感な男でもそれに気づいて、外に出る時には白足袋の汚れを嫌い、帽子の塵を払うようになります。この時はほんの見栄だけでありますが、殊更に見栄を張る男の心中は可笑しいくらいに<あんぽんたん>になっているのでございます。また、そうではなく、平常通りに澄ましている男もありますが、その男の眼がちょっとでもこっちへ向けられたなら、それはやはり気持ちがふらついている証拠で、その男は見栄を張らないということを内々、見栄にしている奴なのでございます。
次は『たぐり目』ともでも言うべきか、こっちの方から男を見れば、男は見られたので、こちらを見返しますが、その途端に他所の方向を向いて、男に遠慮なく自分を見せるようにさせ、男が他所を向いた時は、今度はこっちの眼で追いかけ、男を見るようにすることでございます。即ち、眼のやり取りにおけるエモーショナルな機微でもって、男の気持ちをたぐり寄せるという訳であります。
酔いがまだ廻らないうちでの宴会の席や芝居の隣の升、温泉宿で知り合いとなった時や遊芸の稽古場、その他、堅い座敷でも、この目遣いは男を動かす力を持っております。但し、醜男へはこの眼は使わないこと。
また、こっちから眼を送った時に、向こうからいやらしい眼つきを返すものもおりますが、それらの男は大の助平か馬鹿か銭なしの自惚れ屋で、その中でも蔑むようにこっちを見るのは贋豪傑であって、少しねっとりと応接ば、直ぐに手もなく融ける氷の仁王様のような奴でございます。
睨むようにしっかりと見返すのは心剛く頼もしい見込みのある男でありますが、それに対しては、他方を向く代わりに自分の膝を見ていればよろしく、何にせよ、見返す男はこっちのものになったということでございます。
この他、喜びを表す『細目』、拗ねてみせる『下眼』、怒ってみせる『怖い眼』(この時、黒眼を正しく据えて怒っては色気を失いますので、筋斜にして額で睨むような心持ちで)、酔ったつもりでチラチラ見る『ちらちら眼』、心配を装う『空眼』(何処を見るともなく眼に力なく見やる)、いよいよ男を手に入れることが出来そうな時のじっと見る『殺し眼』(こっちを見る男の眼にぴったり見合わして離れないようにすれば、男は堪えられず、間抜けな笑い顔をするか、言葉に出すか、手を出すもので、こんな時には、最早義理も欲も忘れているものです)、手に入れた後は、口喧嘩の種を作るための『癇癪眼』、一夜を過ごして、朝を迎えた時に未練を引かせる、睡そうな『あどけない眼』(そんな別れの朝には、はっきりと眼を明けるのはすべて悪いと心得るべし)、など色々の眼付きはご自身でよくよく御工夫なさっていただきますよう。
手管の極意は心の謀計であり、口のきき様ではありません。ものを言わない眼の働きにあることをご理解いただければと存じます。
第七は『振り』であります。閨の中の振りまで含めると七十二の振りがあると言われますが、実際は際限なくございます。姿とは違い、振りは大事でございます。
男は女を口説くのに言葉を用いますが、女が男を口説くのに口を使うという拙いことをしては、浄瑠璃でのお姫様の色事と同じで、玄人業ではございません。かといって、男を口説かないでは生け捕りは難しく、そこで女は『振り』をもって、口説くのが肝要になって来るのでございます。しかし、尻をにじり寄せるようないやらしいやり方では、蔑まれる原因ともなりますので、なかなか難しいものでございます。
一般的に、同い年くらいまでの男であれば、犬猫を愛するような感じで、自分よりも年上の男には、十一、二歳の女の児が兄に物をねだるように甘ったれた風に、気性がはっきりしている気高い生まれの男には優しく罪のない振りをするのがよろしいのであります。
鼻紙を丸めて放ったり、ハンカチを咥えてじれた振りをしたり、簪で頭を掻いたり、袖袂で口を掩ったりするような、恥ずかしそうにする『振り』は、もう古くさいので、その時々に新しく工夫されますように。
ただ、古くさいやり方であっても、男を手に入れた後、身体をもたせかけ、又は、前髪を男の膝に擦りつけ、又は男の小指をつかまえて咥え、脇をくすぐり、二の腕を捻って背中を叩き、ぶつ真似をしたり、実際に叩いたり、誘ったり逃げ隠れしたり、後ろを向いたり、揺さぶったりする乱れた『振り』は、人をでれでれさせる働きがあります。
男の手のひらを見ながら、
「おや、あなたの手は私のより柔らかで憎らしいよ」と言って、ピッシャリポンと拍けば、そのまま男は打った手を抑えて、
「それでも力はこれくらいあるよ」と握りしめるなどして、何でもない状況でも、忽ち乱れるもので、これなど、何でもない『振り』で男の心を掻き毟る口説き方であります。
どんなに女振りがよくても、あるいは歌、踊りが上手くても、十の中の七まで、男が迷う訳は、それによるものではなく、この『振り』の巧さによるものだとお考えいただきたいのでございます。
昔から『貞女』、『賢女』などが横恋慕されるのも、多分この『振り』に知らず知らず色っぽさが表れているためであります。それに触発されて、男は心を動かされることになりますので、結果、思わぬ迷惑を掛けられることになると考えられるのでありますが、すべて『振り』をしっかりと、そして正しく行っておれば、余程の馬鹿でない限り、道ならぬ恋を仕掛けてくることはないのでございます。
さて、『振り』の秘伝は意味のない、訳の分からない『振り』をすることであります。これは男に自分勝手に想像させて、自分で理屈を付けさせるのであります。たいていの野郎は自惚れが強いので、いい加減に意味づけをして、勝手に腹の中で深く味わい、喜ぶものであります。もしも、悪く取られたとしても、元々訳の分からない『振り』なので、こっちの説明次第で、さんざん口喧嘩した挙げ句、
「うん、そうか、俺が悪かった」などと鼻毛を伸ばして終わりとなるもので、『振り』は本当に大事であります。決してお忘れになりませんように。
第八は『語気』でございます。これはなかなか手紙では書き難く、口頭で伝えるものではありますが、あらましを言えば、烈しい言葉遣い、相手に迫るような言葉遣い、押し伏せるような物言い、突っかかるような口調、軽薄な言葉選びなどに気をつけ、なるべく長閑に、優しく、しなやかにすれば良いのであって、例えば、『仮名手本忠臣蔵』の『お軽』の言葉で、
「風に吹かれていたわいなぁ」と言うと、何だか優しく聞こえますが、
「風に吹かれていたんでー」と烈しい言葉で言っては、相手に食いつきそうな感じになります。
「風に吹かれていたんだ」と迫ったのでは艶がなく、
「風に吹かれていたのサ」と言うと軽薄で素っ気がありません。また、
「風に吹かせていたわいな」と言えば、せの字とれの字の僅か一音の差だけですが、本当に人を圧し伏せる強い女のように聞こえてしまいます。
「風に吹かれて」いると言えば、青々とした美しい春の柳が長閑に立っているかのように、大変美しい女が、なよなよと着物の重さにも堪えかねるような様子を思い起こさせるのであります。しかし、
「風に吹かせて」と言えば、節くれ立った老木の松が虚空に唐突に聳え立っているようで、何となく女らしくなく、筋骨逞しい男が兜を脱ぎ捨てて、突っ立ったようなイメージがあって、女にしても、亭主を尻に敷く類いかと怖がられる可能性があります。
「風に吹かれていたのがどうした」と突っかかるようでは、これはもう、凄まじい『嬶左衛門』とでも言うべき様相を呈します。
このように色々と申しましても、これは言葉の違いというもので、語気というものではありません。語気は言葉の勢いで、手紙では表現しにいのでございます。けれども、今ここに書きました言葉を実際口に出してお試しいただければ、自然と語気が色々異なっていることに気がつかれることでありましょう。
さて、優しい語気を用いるように心がけていると、自然と優しい言葉も出てくるようになるもので、言葉を美しく優しくなさろうとするよりも、まず、語気を美しくしようとすることが肝心で、語気を優しく美しくしようとするならば、まず、怒ること、慌てること、妬むこと、下品なことなどのはしたないことを心の中で慎み深く抑えることが大事でございます。百の言葉を治すよりは一つの語気を治し改める方が、千にも万にも効果があるというものでございます。
『伊勢音頭恋寐劒』に登場する油屋『おこん』のあの浄瑠璃をよくお聞きになれば、浄瑠璃の語りの声の中に、『おこん』は『おこん』の語気、『まん』は『まん』の語気というものがあって、その語気によって『おこん』の美しい容態、『まん』の憎らしい顔つきまでありありと目に浮かぶようになるのでございます。それによって、だいたいのことをご理解いただきたいと思います。
ある盲目の好色家は、不思議にも美人を鑑定できるとのことで、どのようにして美人かどうか分かるのかと訊ねた所、第一は声色、第二は足音、第三には語気と申したのでございます。声の色は、金切り声、野太い声など、生まれつきのため、しょうがないものですが、足音や語気は、気をつけさえすれば、治るのでございます。(このように申しますならば、つまり、真の美人は真の善女ということになり、真の善女には優れてやさしい語気が備わっているはずで、色道の裏の手の修行も煎じ詰めて論じれば、善女になるしかないということになるのであります。盗賊の住処を百年そのままにしておけば、そのうちに必ず法律ができ、礼儀が生じ、音楽ができます。宗教もできて、千年も経てば、今日の我々のような社会になるのと同じ理屈。不思議な天の定めと言うか、恐ろしくも霊妙な理と言うか、色道の裏の手に嘘の多いのも、結局虚言から出る誠という自然の成り行きで、妄想をし尽くした果てに、妄想を脱して悟りを開いてしまうことになってしまうのであります。しかしながら、又、悟ってしまっては手練手管の詐欺計略は駄目になるのでありますけれども)
この語気を上手く自在に使いこなし、甘ったるい語気で男を撫でつけ、ぴんしゃんした語気で男を焦れさせ、泣きそうな語気で男を深入りさせ、すました語気で男を思い迷わせ、色っぽいくねくね語気で男をもどかしがらせ、軽い語気で男を面白がらせて浮かし立て、力を入れたしっかりした語気で男の魂を取って抑えて、逃げ出さないように自分の巾着の中に押し込み、沈んだ語気、心配そうな語気でもって、逢瀬の後の別れの場面で、男の後ろ髪を引っとらえるようにするなど、臨機応変の鍛錬を積まれれば、天晴れ凄まじいまでに見事な男殺しになるのでございます。
つづく