幸田露伴「艶魔伝」現代語勝手訳 十
第三十二は『鎹を抜く』こと。これは本当に大事なことであります。男とこちらの間をしっかりと離れないようにするために使う色んな鎹釘、すなわち、昔時なら、神仏の名が書かれた起請誓紙の類いを反故にするとか、男女二人の家紋を組み合わせた紋所である比翼紋が入った羽織を着ている者などは、羽織ぐるみで男を捨てるとかであります。(これらの野暮をする者は今時いないけれど)。このように、一つ一つ、二人の中の鎹釘になっているものを抜き去り、何時でも無理なく離れられるようにしておくべきであります。
第三十三は『案山子を置くこと』でございます。
これは、男を誑らかすために、是非とも最初から準備しておくべきことであります。自分の田舎には頑固な親父、又は意地の悪い継母、あるいは行方不明となっている放蕩の兄がいると、前々から男に吹き込んでおくのであります。昔時から遊女などが、馬鹿な大金持ちの金を貪る時にも、この案山子に急き立てさせて、財布を搾り取るということがありました。これらの案山子は実際に居なくても、名前だけでも調整ておけば、いよいよ男と切れ難い状況となった時、一芝居打って、とどのつまり、
「不本意ながら親、兄などの気持ちに背き難くて、辛いのは山々だけれどもお別離れいたします」という風に涙仕掛けで身を引くべきであります。大抵の男はどうしようもないと諦めてしまい、恨みは案山子に向かい、自分はよく思われる者となり、もし、将来、その男が出世をした時は、再び容易に関係を戻せるのであります。
第三十四は『器量ごかし』という手で、これはなかなか名手であります。
たとえば、段々と落ちぶれ果てて、二人行き詰まった状況になり、地獄の青鬼が、そろそろあの世で『二ヶ月以内に情死があるだろう』と準備でもしそうな時、男と添い寝した時の譫言又は夢話、あるいは男の居ない所での独り言などで、例の第二十でお話しした『幻術』を用いて、
「家の人は今はこんなに窮した状態だけれど、行く末は必ず立身出世なさるに違いない。人並み以上に優れたものをお持ちのお方だから、昨晩の夢にも、昔に返り、立派におなりになって、まざまざと私の前にお立ちになったのを見た』というようなことを男の耳に入れておけば、男は気が強く、大きくなって、内心、例の自惚れを起こし、
「しばらくの間、どこへ行ってでも、どんなことをしてでも、再び錦を飾って帰ってくるぞ」と、考え浮かべるもので、その相談をしにやって来るのでありますが、その時は、別離は厭だとか、男の心は移りやすいから心配だなど、愚痴っぽいことを口にしながら、しかし、思い切った風に、
「私の頭の簪まで売って旅費を作りますので」と、沖縄とか北海道とかなるべく遠い所へ出すように仕向け、
「お帰りになるまでは柱に齧り付いてでも辛抱いたしますので、精々(せいぜい)頑張って成功を収めて無事な顔を見せてください」と、泣きの涙で見送り別れれば、男はギリリと歯ぎしりを噛んで、
「アア有り難い貞女の志、百年も忘れないぞ」と、身を粉に砕いても一生懸命できるだけのことをして、
「昔時にも勝る幸せをこの可愛い女にさせなければ。南無観世音、我は男として生まれた甲斐がない」と、誓いを立て、男泣きして遠国へも行くのであります。
このような手管は極めて罪深いものではありますが、罪滅ぼしの一面も道理としてはあって、案外嘘から実が出て、男を出世させることもあるのでございます。
ただし、金目のものは、二月、三月前から、家の外に出して蔵しておくことをお忘れになりませんように。
第三十五は『小便』と言って、これは昔時町家の娘などで、ちょっとした器量良しを飾り立て、お大名の目に止まるように仕掛け、支度金を沢山取ってお妾奉公をさせるのですが、殿様との添い寝の後に、したたかに寝小便をすれば、どれ程色好みの大名も驚いて、親元へ送り返すことになります。しかし、そうかと言って、支度金を返せとは言われることもなく、又そんな噂を立てられるのも恥だと思えば、何のややこしい問題もなく別離ることができるのであります。当時の売り買いの言葉で、買い手の契約不履行を<小便する>と言うのがありますが、そのいわれはここから出たとのことであります。
これは、自分には罪はなく、男を悪者にまつり立てて、直ちに身を引くという企みで、一番酷い手で、夫とつるんでの相対密夫や美人局と変わらない悪事でございますが、まさかこのご時世に『小便』は拙いものであります。
最近、ある美しい女、ある金の無い貧乏男と深い仲となったが、何某の華族様がこの女を見て、是非とも妾にと望み、申し込むと、女の父母、これを喜び、その華族の家を管理している三大夫も一緒になって懸命に娘を説き伏せれば、女は仕方なく、深い仲であった貧乏男には済まないと思いつつも、しばらく住まねばならないと、『月の雫』とか『花の露』とか言う化粧品で顔を作り、髪を整え、いつもよりも百倍も美しくなって参上いたします。殿様は大層お喜びになり、日に日に馴れ睦み合うようになられましたが、ある冬の夜、酒宴で殿様からのお流れの酒を頂戴した時、その女の手の指の有り様が気味悪く曲がっているのをお見つけになり、
「その指はどうしたのか」とお尋ねになった所、顔を赤くして
「生まれつきでございます」と言うので、
「今まで気がつかなかっただけで、特段醜いという程もない。いくら美人であっても、人間どこかに少しくらいは美しいとは言えないものがあるものだ、この世の中に完全な人間などいないと、この間話に聞いたが、本当にそうじゃ。ナニ少しも恥ずかしがることはない」と仰られて、その女を愛することは少しも変わることはありませんでした。
しかし、その後又、共寝の閨の中、行燈の幽かな明かりに、
「アアむづ痒い」と、女は自分で媚めかしい眉の辺りを掻き撫でた時、白い指の腹に眉毛が四、五本抜け付いているのを、殿は素早く目にされて、その時は何も仰られなかったが、後になって、これについて、家来に明らかにするように指示すると、三太夫が調べて、色をなして帰ってきました。
「少しずつ素性を調べて参りますと、三代前に怪しい病気の筋があるのが分かりました」と報告すると、終にその女はお暇となり、お手当を丸々儲けて、女は元の男と所帯を持ったのであります。
その訳を聞きますと、黒い筆の毛を少し鋏で切り取って、眉の間に植えるようにしておき、前々からの仕掛けで癩病…「ハンセン病」…と疑わせ、直ちに身を退かせる手管であったとのこと。
こんな風に色々工夫をすれば、新しい妙手はいくらでも作れるのでございます。
以上、二十七カ条のあらましを書かせていただきました。
すべての心得は初めにも書き記しました通り、ただ男の自惚を種子にすることにあります。そして、その自惚がどの方向に向いて行くのか、その行方をお考えいただければ手管はいくらでもご自身でご発明できると存じます。
ただし、お前様ご自身に若干自惚れの萌しが見受けられますので、そうであるなら手管は一つも役に立たないとお考えいただかなくてはなりません。
くれぐれもこの伝授の内容は他人にはお話にならないようにしていただき、これらの手管により、当世のインテリぶった軟弱な青二才を手玉にとって、自由自在に操り、馬鹿にされるのがよろしいかと存じます。
めで度かしく
丹波太郎右衛門
蘆野花子さま
今回で「艶魔伝」の現代語勝手訳は終了しました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。読み返してみると、読み返すだけ、手を入れたくなる箇所が見つかって、際限がありません。まだまだ至らない所がたくさんありますが、少しでも読みやすいものになるようにしていきたいと考えています。
※ この作品に限らず、露伴の小説(あるいは、この時代の小説)には、現在の人権意識からして、容認できない、身体障がい、精神障がい、社会的身分、男女、職業等の差別的な用語が出てきます。訳に当たってはできるだけ配慮しているつもりではありますが、至らない部分もあるかも知れません。現代語訳の課題だと認識しています。
ハンセン病に関しても同様で、事実誤認や差別意識を持った形で記述されていますが、ご存じのように、ハンセン病は治療可能な病気で、もちろん遺伝などしないことが分かっています。




