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おうちに帰ろう

作者: 小泉ゆり

「佐与子ちゃん、お母さんから電話きた? さすがにお盆休みは帰らなあかんなぁ。考えなあかんやろ、これからのこと」

七月初めのお昼過ぎ。電話を掛けてきたのは姉の和佳子だった。

毎度のことながら、電話の向こうから子どもが暴れまわる声が聞こえている。

「……うん、うん。わかった。やっぱり行かなあかんよなぁ……うん」

 電話を切ってすぐ、お腹が緩くなりトイレへ駆け込んだ。お腹の調子が悪いのは、百貨店のクーラーが効きすぎていたから、だけではないだろう。

「あかんなぁ、あかんなぁ。イヤやなぁイヤやなぁ」

 トイレの中で小さくうずくまりながら、ウォシュレットの温かさにしがみついていた。

 実家に帰るのが、嫌だ。はっきりいって昔からあまり自分の家が好きではない。三十二歳になった今でも、昔のことを思い出す度、小さな子どものように癇癪を起こして泣きたくなる。親に対する、ぶつけようのない怒りが沸々と心の奥底から溢れだしてくるのだ。だが、そんなわたしを助けてくれる人は残念ながらいない。

 誰かに怒ったようにドアをノックされて、観念してトイレを出た。


 久し振りとなる道を通って実家に帰る。前にこの道を歩いたのは、大学を卒業した次の日だった。少なくともあと十年は帰ってくるものか、とこの道を踏みしめて歩いた。中学の頃に買い食いしたパン屋も、高校の頃に通った本屋も今はもう、ない。見知らぬ大きなスーパーに、綺麗に舗装された道路。本当に十年経って、まったく様子の変わったこの街を歩くのは少し恐かった。

「ただいまぁ」

「佐与子ちゃん、おかえりぃ」

 出迎えてくれたのは妹の梨花子ちゃんだった。あわただしく荷物を運んでいるが、よく見るとその荷物は、私の部屋にあったはずのボックスケースだった。

「えっと、何してるん?」

 遠慮がちに聞いた私の声は誰かに届いただろうかーー。隣の部屋から顔だけ出したお母さんが怒る。

「ちょっと遅いやないの。梨花子ちゃんはもう朝の早くから来て手伝ってくれてるのに。さっさと手伝ってよ」

 言うだけ言って、顔を引っ込めた。久し振りに合った娘への挨拶がそれ? つい、眉をひそめる。……いけない、もうわたしは大人になったのだから。

「今、何をしてるの?」

「部屋を広くするために物を運んでるねん。佐与子ちゃんの部屋も空けるみたいやから、必要な物があったら、捨てられる前に取っておいた方がいいよ」

 えぇ、聞いてない。というか、ひとの物なのになんで勝手にできるの? また、喉まで文句が出かかった。でも、文句はナシだ。そう、遅れて来るほうが悪いのだから。お母さんも、大変なんだし、気が立っているんだ。

 梨花子ちゃんに顔を近づけて声をひそめた。

「……お父さんは?」

「寝てるわ」

「栄介おじさんは?」

「少なくともわたしたちがここに居る間は、どこかに泊まっているんやって」

「そう。ありがとう。わたし、自分の分は自分でするから。梨花子ちゃんは他のところやっといてもらえる」

 ミシミシ音が鳴る階段を登り、かつての自分の部屋にお邪魔する。中途半端に片付けられた後はあるものの、物でいっぱいだ。窓から射した日が、舞う埃をきらきらと浮かび上がらせている。さっさと片付けなければ。ぐだぐだ考えてる暇はない。

 梨花子ちゃんに勝手に触られたくなくて、自分でやると言ったものの。十年も放っておいたものに、今さらいるものなんてない。用具として使えるもの以外は全部捨てていいような気がする。卒業アルバムも見たくない。もう会わなくなった友だちと撮ったプリクラもわざわざ残すこともない。段ボールやゴミ袋にどんどん突っ込んでいった。

 この家を出たとき、持ち出した荷物は高校の時に初めて買ったミシンと、お気に入りの布だけだったことを思い出す。

 一通り運び終えて、和佳子ちゃんに電話をする。

『和佳子ちゃんの部屋の物も片付けるんやって。だから、早く来たほうがいいよ』

『いいよ、全部捨てて。家出るとき、もう二度と帰ってこないだろうと思って、要るもの全部持って来たから。……あ、待って。クマのフォンキーのぬいぐるみってまだ部屋のどこかにあるかな? もしあったらそれだけ絶対捨てないで。今、めっちゃプレミア価格らしくて子どもにあげようと思うねん。で、他は捨てていいわ』

 確かに、和佳子ちゃんの部屋は誰も手を着けていないのにスッカラカンだった。中身のない机と、もう着られないような若い服と鞄だけだった。例のクマのぬいぐるみもない。忘れているだけで、持って帰っているのだろうか。なにせ、お姉ちゃんが小さい頃のお気に入りで、抱いて寝ていたのを覚えている。お母さんに

行方を聞くのも面倒だ。ぐるっと部屋を一周して、探すのをやめた。


 和佳子ちゃんが来たのは夕方の頃だった。和佳子ちゃんは、東京の大学に進学してそのまま結婚し、今では小学生の息子が二人いるお母さんだ。

「子どもたちはうるさいからな、お義母さんとこに預けてきた。いい子にしてたら、いいもの食べさせてもらえるしお小遣いもらえるし」

 わたしは内心、ほっとしていた。甥っ子に『おばちゃん』と呼ばれる度、心がささくれだっていたからだ。親戚や地元の友だちに会うと、小さなことがいちいち気になってしまう。普段、一人だと気にしていなかったことに、いちいち目を向けさせられてしまう。あなたはこのままじゃダメなのよ、と繰り返し教えられてしまうのだ。

 ご飯の支度中、和佳子ちゃんはよくしゃべった。梨花子ちゃんもお母さんも笑っていた。なんとなく輪の中に入りそびれた私は静かにテレビを見ていた。

和佳子ちゃんは、すごい。さっきまで、わたしと同じように実家に帰りたくないと言っていた人とは思えない。……わたしの、こういう要領の悪さが結婚できない理由なんだ。

「そういえばさぁ、佐代子ちゃん。この間いい感じの人できたかもって言うてたやん」

突然、和佳子ちゃんに声を掛けられて、つい挙動不審になる。

「あぁ、うん。それは、もういいねん」

「えぇ。アンタはもう、何が『それはももいいねん』よ。早くせんと九つも年下やのに、梨花子の方が先に結婚してまうで」

 なぁ? と口を挟んできたお母さんが梨花子ちゃんと目を合わせる。満更でもなさそうに梨花子ちゃんが笑う。

「へぇぇ、そうなんやぁ。よかったねぇ」

 無理やり作った笑顔、白々しい台詞は、冷たい重しとなって私の体の奥底へ沈んでいった。

「さぁ、食べようか。久しぶりに娘たちが揃ってのご飯やで」

「じゃあ、お父さん呼んでこようか」

 和佳子ちゃんの言葉に応えるように遠くの方から、ガタゴトと動く音がする。

「建川さんちゃうの。起きたんやわ。和佳子、手伝って」


 お母さんと和佳子ちゃんが、よぼよぼのおじいさんと腕を組んで戻ってきた。二十年ぶりに見た父の姿に、わたしは一人、息をのんだ。

「建川さん、ちゃんと座って」

「どうも、親切にすみません。ご丁寧にありがとうございます」

 お母さんが『建川さん』とお父さんを呼ぶのを聞いて、昔、自分が建川という名字だったことを思い出す。

 ーーヨソの女の人とウワキして、リコンして出ていったヒドイお父さん。

 出ていった日を境に、『わたしの優しいお父さん』からそう変わってしまった人。

 ただ、目の前の老人にその恨みをぶつけるのは酷な気がした。ましてやお父さんは認知症。わたしたちのことを誰だか分かっていない。

 みんな、その現実を真正面から受け止めるのは重すぎるのだろう。二十年ぶりの家族そろっての食事は、まるで毎日行われていることの続きのように、平然と流された。テレビに出ているタレントのどうでもいい噂を喋って、時々思い出したかのように『ほら、こぼしてる』とかいがいしくお父さんの食事を手伝ったりした。二十年前のことを蒸し返すのは、今さらのことだと思いたかったのかもしれない。今さらどうしようもないことに、うろたえてしまったら負けのような気がした。


「そしたら、また明日ね。家でちょっと荷物とってからまた来るね。明日、ちょっと建川のお父さんにすごい物持ってくるから楽しみにしててね」

 夜の9時頃、梨花子ちゃんは意味ありげにそう言って帰っていった。

「あたしも今日はなんか疲れたから寝るわ」

 お母さんはそう言い残すと、お父さんは一階で寝ているというのに、いつもそこで寝ているという二階の寝室へと消えた。

「お父さんに何かあったらあかんし、わたしらは一階で寝ようか」

 昔、お父さんとお母さんが布団を並べていた寝室で、姉と二人で寝ることにした。ベランダから取り込んできた布団を抱き締める。

「昼間、布団が埃っぽいから慌てて洗濯したけど乾いてよかった。フカフカや」

「ありがとう」

 二人のアラサー娘が布団に滑り込むように寝転んだ。だが、特に話すこともなく、スマートフォンでくだらないニュースを眺め続ける。

「ごめん、ちょっと電話するわ」

 居直った和佳子ちゃんが電話を掛けた。電話に向かってしきりに二人の息子のことを心配しては、ニコニコしている。居場所があるのって、ええなぁ。

 電話を終えた和佳子ちゃんが、わたしからの羨望の眼差しに気づく。

「もう。お義父さんとお義母さんのとこ、楽しいんだって」

 わたしよりほんの少し年上なだけのお母さんが、ちょっと困ったように笑う。

「ちゃんとお母さんしてるんやね。すごいねぇ」

「ありがとう。でも、佐代子ちゃんだって一人でハンドメイドで服とか作って売って、がんばってるんやろ? 」

「そんなことないよ。そりゃ、がんばってはいるけど、この歳にもなってギリギリの生活してるし。梨花子ちゃんに比べたら……」

「梨花子ちゃんと比べちゃいけないでしょー。いい大学出て去年から大企業に就職して。わたしなんか、大学決まったとき、おまえは失敗作やなって栄介おじさんに言われたのに」

「わたしの方がずっと言われ続けてたよ。やけど梨花子ちゃんだけは、ようできる子で。誰に似たんか、顔も綺麗やし。よう可愛がられとったわ」

 布団にぐるりと掴まって、和佳子ちゃんから背を向けた。昔からわたしだけがフワフワ、地に足が着いてないねん。

 拗ねるわたしに、姉からの心配そうな視線を背中から感じた。

「佐代子ちゃんは、家に居づらい?」

「居づらいというか……わたしは、梨花子ちゃんみたいに愛される子でもなかったのに、ずるずるとこの家に居すぎちゃったように思う。和佳子ちゃんみたいに自立できる自信もなかったから」

「うーん。佐代子ちゃんにも安心できる家族ができたらいいなぁ」

「そうやねん、結局はその話に落ち着くねん。最近、友だちと喋っててもだいたいオチはそれになるわ」

 顔を見合わせてアハハ、と笑った。こういう時間は昔から変わらない。和佳子ちゃんと話すのが一番落ち着く。

和佳子ちゃんが、ふと何かを思い出してクスリと笑った。

「お父さんさぁ、久しぶりに見たけど変わらへんかったな」

「そう? 老けたなーって思ったけど」

「いや、そりゃ老けたけどさ。基本的な顔はお父さんやん。まったくの別の人の顔ではなくてお父さんが老けた顔やん。人間って、整形でもせん限り、一生自分の顔で生きていくねんなって」

「たしかに。それはちょっと怖いなぁ。悪いことはできひんなぁ」

「まぁ、そんなお父さんのことを、お母さんは一目惚れやったらしいけど!」

「ヒー、見る目ない!」

 なんて冗談を言った後で、すぐに思い直した。お母さんの見る目は正しかったのだ。お父さんは仕事ができて優しくて、いい旦那さんだったと思う。ただ、見る目がなかったのはお父さんのほうなのだ。見る目がない優しいお父さんは、他のいろんな女の人にまで優しくして、晩年その人たちに捨てられてしまったのだ。

「お父さん、お母さんと離婚した原因になった、最初の女の人が特にアカン人やったって聞いてんけど」

「知らん。その辺のことは佐代子ちゃんの方が知ってるんちゃうん。大体、どこまで流されていったかは知らんけど、お父さんは結局ここに帰ってきちゃってるやないの。お母さんはずっと、栄介おじさん一人やのに」

「それでも栄介おじさんよりかは、お父さんの方がまだ好きやったけどな」

 圧し殺していた小さなワガママ虫が顔を出す。和佳子ちゃんはこういうの、どう処理しているんだろうか。

「……それでも、栄介おじさんはお母さんとは上手くいってるみたいやし、ええやん」

「和佳子ちゃん。お父さんとお母さん、ほんまはどっちが先に浮気したんやろな?」

「もう! いらんこと言いな。それが分かったからってどないなんねん。そんなに言いたいことあんねやったら、お母さんにはっきり言うたらええやん」

 起き上がった和佳子ちゃんにきっと睨まれて、下唇を噛み締めた。でも、わたしの軽口を疑問に思うのでもなく、たちどころに怒るということは、きっと幾度となくわたしと同じことを考えたことがあるのだろう。

 顔を歪めた和佳子ちゃんが何かを言いかけて、口を閉じた。

「ごめんなさい。おやすみ」

言えない和佳子ちゃんの代わりに、わたしが返事をした。

明日、またこの家で過ごさねばならないのだから。考えるほどに億劫で、わたしは再びスマートフォンのブルーライトに照らされながら、くだらないニュースで頭をぼんやりさせていた。


 所々に穴の空いた襖越しに、耳障りな掃除機の鳴り響く音で目が覚めた。スマートフォンで時間を確認すると、まだ午前七時半。普段、一人で気ままなクリエイター生活をしていると、まず起きない時間だ。隣で寝ていた和佳子ちゃんはもういない。さすがお母さんや。感心していると、襖がガラッと開いた。

「早く起きなさい、だらしがない!」

 けたたましく怒ったのは、わたしのお母さん。

 不快な目覚めを引きずりながら、朝食を食べに食卓へ向かった。お母さんに促されて、用意された席へ座る。にこにこしながら、お父さんはご飯を食べている。美味しいですねぇ、と穏やかに微笑んだのでありがとう、と和佳子ちゃんがにっこり笑い返した。その様子を見て、お母さんがフンと鼻をならす。

「しかし、この人も可哀想やわぁ。どんな若い娘が側におったか知らんけど、急速に病状が進んだとはいえ、ここまで放っておかれてたなんて。もう介護度、三くらいはあるやろうに。ほんまに、建川さんが入れる施設が見つかるまで大変やわ」

 そう言ってお母さんが苦笑いする。お母さんの口からはお父さんの悪口しか出ないけれど、その目は悔しそうだった。お母さんは、お父さんが完全に嫌いになったわけではないのだろうか。

「じゃあ、これから時間あるときはなるべく帰ってくるようにするね」

 わたしの一言に、一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔でお母さんがわたしを見た。

「そう」

 もう一度、やり直せたらいいのにと、心の中ではずっと思っていた。お父さんが反省して戻ってきたら、今までよりずっと幸せな、好きだと思える家族になれるのに。でも、もうそれは無理な話になった。こんな話をしている今でさえ、お父さんは素知らぬ顔でゆっくりとご飯を食べている。

「帰ってくるんだったら、ちゃんと働いてな! 建川さんの世話もできるようになるんやで」

 お母さんは昨日よりうるさくなった。だけど、あれこれ指図されても昨日ほど腹は立たなかった。

 夕方の五時頃、梨花子ちゃんがやってきた。乗ってきた白いミニバンから、気泡緩衝材で大事に包まれた大きな荷物を下ろし、台車で運んでいる。うっすら頭の禿げた作業着姿のおじさんも同じミニバンから降りてきた。

「ちょっとみんな、集まってー!」

 梨花子ちゃんにいい人がいる、なんていう昨日の話を思い出して和佳子ちゃんと目を見合わせた。


 梨花子ちゃんと一緒に来たおじさんは田村さんという名前で、梨花子ちゃんの勤める会社の人だった。田村さんがご丁寧に一枚一枚、わたしたち家族に名刺を配る。名刺を見てもよくは分からないが、肩書きが厳めしい。たぶん、偉い人なんだろう。

 何が始まるのか、と不審がるわたしたちをよそに、畳の部屋でさっそく梨花子ちゃんは大きな荷物を包みからほどき始める。とりあえず、静かに横一列に正座してその様子を見守った。だが、その大きな荷物の正体は、ベールを脱いでもなお、わたしたちにはなんだかさっぱり分からなかった。

「な、ナンデスカ? ソレ」

 線やらボタンやらがついたソレにあっけにとられながら、和佳子ちゃんが聞いた。

「これはですね、当社が開発いたしました『DT-ent』という、まぁ、簡単にいえば認知症の方の手足などに刺激を与えて脳を活性化させ、一時的ですが記憶を回復することができるという、まぁ、なんとも画期的な機械です。詳しい説明に関しましては、まぁ、こちらの説明書をお読みになってください」

 田村さんが分厚い説明書をお母さんに手渡す。ポカンとしたままのお母さんが、説明書を一、二ページ捲る。アルツハイマー型認知症……NGF……コリン作動性神経……。わたしはすぐに目を離し、お母さんはすぐに説明書を閉じた。

「これはな、まだ試作段階やけど特別に使わせてもらえることになってん。もし、この先売り出したとしても、建川のお父さんが生きてる間はなかなか高くて買えんと思う。だから使えるのはもう、今日しかないと思う。……お母さんは、建川のお父さんに伝えたいこと、ない?」

 お母さんの前にしゃがみこんで、梨花子ちゃんが優しく聞いた。

「あ、あるよ……いっぱい、文句なら」

 へへ、と口の端でお母さんか笑って答えた。

「うん。わたしもあるねん」

 梨花子ちゃんが寂しそうに微笑み返す。

「同意書は梨花子さんからいただいております。お母様、お嬢さんたち、よろしいですね? では、始めさせていただきます」

 お父さんを他の部屋から運んで来たリクライニングチェアに座らせ、梨花子ちゃんは手際よく頭や手や足に機械を取り付け始めた。田村さんは数値を確認して調整したりしている。

「和佳子ちゃん、わたしが昨日渡した薬はちゃんとした時間にお父さんに飲ませてくれたよね?」

「う、うん。一応」

「オッケー、ありがとう」

アレ、このための薬やったんや……。和佳子ちゃんがポツリと呟く。何がオッケーなのか分からないが、わたしたちは再びその様子を信じて見ているしかなかった。

 何もわからずに寝っころがったお父さんに付けられたたくさんの線。スイッチが押されると、機械からバウンッと大きな音が間隔を空けて何度も鳴り響いた。見ているわたしたちはヒヤヒヤしたが、体によく分からない機械を付けられた当の本人はその音に驚くこともなく、静かに目を閉じていた。どれくらい経っただろう。ピーッと音が鳴り、機械は止まった。田村さんがお父さんに付けられた機械を外した。

「お疲れ様です。終了しました。さぁ、皆さんどうぞ。ですが、なるべく今まで通り穏やかに接していただいて、あまり患者さんを刺激されるようなことをおっしゃられないようにお願いします」

 そう言うと、田村さんは外へ出ていった。何かあったらわたしが田村さんにすぐ電話するから、と梨花子ちゃん。

 すぐさまお父さんの側へ駆け寄る。お父さんは、リクライニングチェアに身体を預けたままうすぼんやりと目を細く開けていた。

「お父さん、わかる?」

 わたしが聞くと、目を少しだけ動かした。声の主を探しているようだった。わたしたち三人を見つめ続けたお父さんの目が、みるみるしっかりしてくる。お母さんは、説明を受けたときのまま、わたしたちの後ろで座り込んでいた。

「な、なんでおまえらがおるんや……?」

 口がぱくぱくと開き、半分聞き取れないしわがれた声でのお父さんの一言に、わっと歓声が上がる。

「ね、年功序列で和佳子ちゃんから、どうぞ」

 目にいっぱい涙を溜めた和佳子ちゃんが大きく頷いた。

「お父さん、和佳子やで。わかる? 結婚して、子どもも二人おんねん」

 うん。かすれたままの声でお父さんが返事をした。

「わたしな、ずっとお父さんのこと恨みながら、気づいたらお父さんみたいな人ばっかり追いかけててん。でもな、結局お父さんとは真逆の、誠実な人と結婚してん。だから今、幸せやで!」

 お父さんは頷きながらうれしそうに目を細めた。和佳子ちゃんがわたしを見る。わたしは、お父さんのほうへ一歩前に出た。

「お父さん、わたし佐代子やけど」

 カーッと目の奥が熱くなった。お父さんに言いたいことはいっぱいある。

 お母さんが悲しんだのはお父さんのせい。お母さんが、わたしを好いてくれない男の人と一緒に暮らし始めたのはお父さんのせい。家に帰るのが嫌になったのはお父さんのせい。今でも男の人との交際をためらってしまうのははお父さんのせい。自分に自信が持てなくなったのはお父さんのせいーー。

 今までの人生、お父さんのことを忘れた日は一日もなかった。

「お父さんは、佐代子のこと、好き、やった?」

「……あたりまえや」

 ゆっくりと、噛み締めるようにお父さんが答えた。二十年ぶりにお父さんと目を合わせる。ずいぶん大きなったなぁ、老けたんちゃうかと、お父さんが頬をゆるめる。

「わたしのこと、かわいい?」

「かわいい、かわいい。いつまでたっても俺の娘や」

「お父さん」

「なんや」

「……なんでもない」

「ごめんな、こんなお父ちゃんで」

 順番にお父さんはわたしたち姉妹を見た。わたしは泣きながら首を横に振った。

 和佳子ちゃんが涙を拭いながら梨花子ちゃんをお父さんのほうへ促す。

 お父さんが、梨花子ちゃんの顔をよく見ようとしてか、大きく目を見開いた。

「もしかして、梨花子か。大きいなったなぁ」

「うん。わたしな、建川のお父さんに聞きたいことがあるねん」

 お父さんに向き合った梨花子ちゃんの目は、少し興ざめするほどカラッとしていて、ちっとも泣いていなかった。

 そんな梨花子ちゃんの様子を見て、それもそうだろうと思った。お父さんが家を出たのは梨花子ちゃんが三歳のときだったからだ。それに梨花子ちゃんは、栄介おじさんに愛されて育ってきた。

「わたしって、本当にお父さんの子?」

 思わぬ一言だった。

「あ、あたりまえやろ」

「嘘や、 姉妹でわたしだけ似てへん。わたしがいるから出ていったんやろ。和佳子ちゃんも佐代子ちゃんも家から離れていったんやろ。わたしが、わたしがいるから……」

 だんだんとべそをかきながら、梨花子ちゃんは怒った。

 ちらりとお母さんの様子を伺うが、あぐらをかいてだらりと顔を下に向けたままでよく分からなかった。

 取り乱す梨花子ちゃんを、お父さんは柔らかく見つめた。

「あのなぁ梨花子。小さい頃あげた、あの熊のぬいぐるみ覚えてるか」

「……持ってるよ。唯一、記憶に残ってるお父さんからのプレゼントやもん」

「あれはな、和佳子のや。別に新しいの買ってもよかったんやけどな。梨花子は上の二人と年も離れてて寂しいやろうと思って渡したんや。三人姉妹仲良く、繋がりや温もりを感じてほしかったから」

 お父さんが手を伸ばし、肘掛けに固く握りしめた梨花子ちゃんの手を優しく撫でる。

「寂しい思いさせてすまんかったなぁ。辛かったなぁ、辛かったなぁ。……俺もや」

 そう言うと、ウッと苦しそうに頭をおさえた。荒く息を吐き目の焦点が合っていない。梨花子ちゃんがすぐさま田村さんに電話をかける。

「お母さん、もう話せなくなるよ。早く!」

 お母さんは、悠然と立ち上がりお父さんと対面した。蛍光灯に青白く照らされた老人が苦しそうにもがく。それを覆い隠すように、お父さんの両肩付近に手をかけた。

「お父さん、お父さん。聞こえますか、芳子です」

 返事の代わりに、ううぅと嗚咽のようなうめき声を漏らした。負けじと、お母さんが伝わるようにはっきりと大きな声を出す。

「あなたがこんな状態になって、わたしはいろいろと後悔してばかりいます! わたしもあなたも、間違いばかりの人生でしたね! 唯一よかったことといえば! 今日、こうしてまた、あなたに会うことができたことです! もう後悔せんように! わたしは最期まで側にいますので、安心してください!」

 涙を滲ませながら、お父さんは頷いた。ありがとう、と口が動いた。意識が遠のいていくお父さんが静かに目を閉じるの見て、緊張が切れたわたしたちは、全身から空気が抜けたようにその場にへたへたと座り込んだ。


 夏の夕暮れどきの生ぬるい湿った風は、クーラーで冷えた身体を優しく滑らかに包みこむ。

「ほな、また来るからね」

和佳子ちゃん、梨花子ちゃん、お母さん、お父さん、わたし。みんな、今あるべき生活に帰ってゆく。

「ダラダラしてたらあかんねんで」

 お母さんからお土産に持たされた大量のお惣菜を入れたカートを引っぱる。平らに舗装された道はタイヤが回りやすい。足取りが軽い理由は、それだけだろうか。

 わたしは明日からまた、一人だ。でも、一人だけど、孤独じゃない。忘れていても、空っぽじゃない。そう思うと、前より強く生きていける気がした。

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