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供血抄

「この街においで」

 虫が鳴きやみ、潮風しおかぜが海の胎動たいどうを運んできた。浜辺に打ち付ける波は、こわばった心を撫で洗うようだった。生唾なまつばを飲む音すら聞こえるほどに静かだ。静寂な幕は抽出ちゅうしゅつされる珈琲コーヒーの音で破られた。腐った精神の匂いを消すように、深くて良い香りが漂った。

「ここは良い街ですが、電車で通うには遠いです」

「ここに住めば良いのよ。遠慮しなくて良いのよ」

 夢のような申し出だった。面と向かっていないなら頬をつねって夢か現実か確かめた。感動と衝動を押さえつけて心を落ち着かせた。

「逃げても良いのよ。それが始まるためなら、誰にも止める権利は無いわ」

 千尋は飴色あめいろ椅子いすから立ち上がり、窓を開けた。香りを押し退けるように潮の匂いが暖かな空気に包まれて入ってきた。

「人間だって、たまには換気が必要よ」

 それが去年の秋だ。

 遠い親戚の友利千尋ともりちひろの言葉は心の底に落ちて、満ちた。からっぽだった器に千尋の優しさが注ぎこまれ、底でかすになっていた感情が溶けて、溢れでた。

 負の感情で汚れきった器は、流水にさらされたように綺麗になった。

 当初は街中の高校に受験するつもりだったけど、進学先を考え直して、海辺の町で受験することにした。義理の両親は反対せず、千尋に俺を任せることにして、家から出ることを許してくれた。縁が切れることはないけど、嘘で塗り固められた家から出ることができたのは幸いだった。

 海辺の高校は最初に目指していた所より偏差値が高かったので、必死に勉強した。

 合格発表の日、電車で海辺の学校へ行き、一人で合格発表を噛み締めた。その足で千尋の店に行き、合格を告げると涙が眼から落ちてきた。年甲斐もなく泣いたのは恥ずかしかったけど、千尋は何も言わずに黙って微笑んでいた。


 三月の春、卒業式が終わり、三日後に引越しだった。

 三番目の義理の親は悲しい表情をしながら、内心ほくそ笑んでいた。

 嬉しい感情を仮面で隠している。

 こういう時、血についてよく考えてしまう。

 血は重いのだろうか。

 やはり重いのだろう。

 だから、愛の無い、血の繋がりだけの親族に引き取られた。

 俺が軽いと何度も唱えても、「重い」と断言する人がいれば、どんなものでも重くなるのだろう。

 この世界はいくらでも好きなように解釈して良い、だから俺の意見も正しく、他の人の意見も正しいことになる。

 その結果、俺の思考回路は両者が正しいという逃げ道へと向かう。

 常に。

 だから、何も答えがでない。

 ほぐれない糸玉のように役に立たない思考は、出口の無い迷宮のように、常に入口に戻ることを強いられた。



 俺は自らの境遇に悲観して自殺未遂をした少年Aだそうだ。

 だそうだ――というのには理由がある。俺には自殺未遂した記憶が無い。だけど十階建ての市営住宅の屋上から落ちたのは、事実だ。

 地方新聞に記事として載ったから間違いない。

 少年Aは義理の両親と暮らして生活環境が悪く、突然の自殺未遂は学校とは関係ない……などと書かれていた。動画サイトで調べてみると、学校の先生が「いじめの認識は無かった」と語っていた。

 それが正しければ良いと想う。

 記憶が無いから、正誤の区別がつかない。

 記憶があってもつかないだろうけど。

 ……しかし、記憶が無いというのは、とても不気味だ。脳をさじでえぐられたようにぽっかりと記憶が無く、自殺へと至った因子いんしすら分からなかった。

 絶望的な境遇に、千尋は自分を重ねたのかもしれなかった。彼女も両親がいない。彼女の親切は境遇に裏打ちされた生地きじのように力強かった。

「男の子の一人ぐらい増えたって平気よ」

「でも、何か手伝いを」

「当然でしょ」

 コツンと頭に、優しく叩かれた。

「頼りにしているんだから」

 充足感のある言葉に頬が緩み、笑みを隠すように車の外を眺めた。流れる海辺の景色が空に溶けるようにみえた。

「私たちって血で考えると……」

 千尋は赤信号の時に考えていたけど、

「分からない。かなり遠いね」

「辿ってはいけるけど」

 イトコとかハトコのように言葉があるのかすら不明な関係だった。

「ほとんど他人ね。結婚できるわね」

「まだ、結婚できる年齢じゃないよ」

「そういえばそうね」

 というくらい、血縁的に問題ないくらいに離れていた。

 千尋は雰囲気が良い、どんな場の空気にも混じりあうような印象があり、珈琲コーヒーにすんなりと溶けるミルクを思わせる柔和にゅうわさがあった。

 そして強さも感じさせる。

 遠い親戚の不幸な子どもを預かるのに、親族たちを必死に説得して俺を奪ったそうだ。

 そこまでしなくてもいいのに。

 きっと彼女の善良な部分は天国ではなく、地獄によって育てられたのだろう。痛みを知る者は、この世界では案外少ない、地獄の波打ち際で彼女は俺を捕まえてくれた。


「えーと」

 運転には慣れているはずだけど、狭い駐車場にいれるのは下手なようで、扉を開けて確認していた。

「はい、つきました。どうぞ、我が家へ」

 何度も来ているけど、今回は雰囲気が変わっている。他人の家ではなく、自宅だからだろう。以前住んでいた家に数年ぶりに戻ったとき、他人の家だと痛感したことがあって、心が寂しさで満ちた。

 今回は逆だ。

 この家は受け入れてくれる。

 扉を開けると、鈴の音が響いた。

「えっ、嘘」

 千尋は中学生の妹と暮らしていて、一人で妹を育てている。そのため高校も大学も通わず、仕事をして生活費を稼ぎ、俺にも救いの手を差し伸べてくれた。

「あっ、忘れていた」

 友利愛ともりあい色紙いろがみを輪にして壁から壁へ飾り付けをしていた。小学校の頃にしてもらった転校生歓迎会を思い出した。

「なんで忘れるのよー」

 愛は小さな黒板を手渡してくれた。チョークで名称不明な花が描かれていて、「ようこそ」という文字が立体に見えるように書かれている。

「驚かせるって言っていたでしょ」

「だってー、疲れていたし」

 年の離れた姉妹は口喧嘩をしているが、それは猫のじゃれあいに似ていて、内側には相手を信頼している優しさがあった。

神夏磯かみがいそ君」愛は俺を見つめた。見つめ返すのが辛いほどに綺麗な女の子だ。千尋も同じように美人だけど、子供から大人へと変貌する時期だからか、平均台を渡るような美しさで危うさがあった。

「今日からヨロシクね」

 伸ばされた手を握り締めると、少し汗ばんでいた。

 愛も緊張しているようだった。

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