バレンタイン特別短編:こんな日ぐらいは桃子だって頑張るよ!!
もうすぐ高校卒業を控えた冬のある日。
近所のグラウンドで仲間たちとサッカーをしていた健太郎の元に、一通のメールが届いていた。
健太郎がそのメールを開いたのは、メールを受信してしばらくたってからのこと。運動後のポカリを賭けて二チームに分かれて勝負し、ちょうど得点が三対三の同点になって一旦休憩に入ったところであった。
走り回っていい感じに汗をかき、冬の空気で身体が冷える前にウィンドブレーカーを着込もうとした健太郎は、ポケットに入れておいたスマホのランプが点滅していることに気付くと、慌ててスマホを取り出して画面を点灯させる。
それからこっそりと周囲を見回して、友人たちに画面を覗き込まれる危険がないことを確かめてから、素早くメールを開く。
このメールの送り主が誰であるか。メールを開かなくても健太郎には見当が付いているため、万が一にも画面を見られる訳にはいかないのだ。
「えっと……」
メールの受信BOXの中には、題名のないメールが一通入っていた。差出人は予想通り。
というかいまだにスマホのメール機能を使っている人間など、健太郎の知る中ではひとりしかいない。
開いた本文についても、絵文字や顔文字の類は一切入っていなかった。
ただ単純に一文だけ。用件のみが打ち込まれていた。
“夕方、いつもの公園へ来てくれ”
たったこれだけ。
あまりにも素っ気ない内容である。
健太郎の通う高校の、まもなく定年になる国語の教師だってもう少し気の利いた文章にするだろう。
「お、おお……っ!」
しかし、健太郎にとってはそんなの些細なことである。
メールを読んだ健太郎の心は、これ以上ないぐらいにときめいた。
なにせこのメール、差出人は健太郎の憧れの人。
心から尊敬してやまない、とてもカッコ良い人からのメールなのだ。
それはもう、ドキドキが止まらなくても仕方がないくらいの相手である。ドッキドキのドッキドキなのだ。
「と、とりあえず返信しないと」
健太郎の指は若干震えていた。これは、だいたいいつものことである。
返事を打って送信する前に三回ぐらい見直しておかないと、たまにわけの分からない文章になっていたりする。今もなっていた。
ちゃんと打ち直して、改めて確認して、それから送信する。
送信完了の文字を見て、ほっと一息。
「ふぅ……」
「おい、ケンタロー」
「うわあああっ!?」
「うおっ!?」
そろそろ続きやろうぜと呼びに来た友人は、健太郎のあまりの驚きように一緒になって驚いた。
「なんだよ、驚き過ぎだろ……?」
「あ、ごめん、つい……」
健太郎の心臓は、先程までとは違う意味でドキドキしている。
慌ててスマホをポケットに突っ込んだ健太郎は、友人から何か言われる前に上着を脱いでグラウンドに戻った。
「よし、やるぞっ!」
頬をパンパンと叩いて気合いを入れ直す。
ひとまず今は、目の前の勝負に集中しなくては。
ちなみに、先程健太郎が送ったメールの内容はこんな感じだ。
“分かりました! 絶対に行きます!! 今友達とサッカーしてますけど、終わり次第必ず!! なんなら早めに終わらせて、先に行って桃子さんが来るまでずっと待ってますので!!”
もし友達に見られていたら、色々と突っ込まれそうなこと請け合いであった。
そして健太郎は後半戦、ひとりで四ゴール叩き込んで自チームを勝利に導いた。前半戦とは段違いのフットワークだったという。
◇◇◇
サッカー終了後、ファミレスに行こうぜという友人たちの誘いを断り、健太郎は約束の公園にやって来ていた。
「まさかお前……!」という友人たちの厳しい追及を必死で躱し、最後は逃げるようにして走ってここまで来ているので、ちょっと息が上がっている。
「まだ、来てないよね、……よし!」
待ち合わせの相手――桃子がまだ来ていないことを知ると、健太郎はウキウキしながらベンチに座る。
桃子は社会人であるからして、仮に定時で仕事が終わるとしてもまだ一時間以上時間があるのだが、そんなことは健太郎には関係ない。
敬愛する桃子を待たせてしまうなど健太郎にはできないし、待たせてしまうくらいなら自分が待つほうがいい。
桃子を待つのは全然苦にならないし、むしろ待っている間のドキドキ感を楽しんですらいる。
「桃子さん、今日はどんな格好してるかなー。やっぱりピシッとスーツかな。それともたまにはラフな感じかな」
歌うように独りごちる。浮かれていると言っても差し支えない様子だ。
とはいえそれも仕方がない。
今日はちょっと特別な日なのだ。
こんな日に呼び出されて、期待しないほうがどうかしていた。
「用事ってやっぱりあれだよね。他に考えようがないもんね。くれちゃうのかな。手作りかな」
そうだったら嬉しいな、と健太郎は満面の笑みを浮かべた。もし本当にそうだったら、嬉しさのあまり泣いてしまうかもしれない。
「桃子さんの手作りチョコ、是非とも貰ってみたいです!」
だって今日はバレンタインデーなのだ。
憧れの人からチョコを貰えるかもしれないとなれば、落ち着いてなどいられない。
ワクワクドキドキ、ウキウキソワソワ、健太郎の心は羽が生えたみたいに軽かった。
そりゃまぁ、チョコを貰うあてがなかったり家族やマネージャーから義理チョコを貰うのが精々の、こんな晴々しい日に何の予定も入っていない哀しき男連中と集まってサッカーしたりファミレスで愚痴り合ったりカラオケ行ったりするよりは、よほどこちらのほうが楽しいだろうが。
「あー、桃子さん早く来ないかなー」
そしてたっぷり二時間ほど。
わりと厳しい寒さの中でベンチに座って待っていた健太郎のところに、ついに待ち人がやってきた。
「すまない健太郎、遅くなってしまった」
そう言って公園に入ってきたのは、目元の凛々しい妙齢の女性であった。
パンツスーツ姿の上に淡い色のコートを着て、カラフルなマフラーを首に巻いている。
長めの黒い髪は、今日はシュシュでひとつに纏めていた。
この女性こそ健太郎の憧れの人、桃子である。
健太郎は勢いよく立ち上がると、全身で歓迎の意を表した。
「桃子さん! いえ、全然遅くないです!」
健太郎は、本心でこのように言っている。
二時間以上待っていたことなどまるで意に介していない。
桃子は健太郎の傍まで来ると、疑わしそうな瞳で健太郎を見上げた。
「本当か? どうせまた、ずいぶん早く来て待っていたんじゃないのか?」
そんなに早く来なくてもいいと言っているのに、と桃子は溜め息混じりに白い息を吐いた。
「大丈夫です! 僕、こうやって桃子さんのこと待ってるの楽しいですから!」
「……健太郎が大丈夫でも、だ」
「えっ?」
おもむろに桃子は、健太郎の鼻をキュッと摘まんだ。
桃子の指先にヒンヤリとした感触が伝わってくる。
「ふゎ、も、桃子さん……!」
「私が心配する。……こんなに冷たいじゃないか。風邪でもひいたらどうするんだ」
桃子は呆れた様子で鼻から手を離した。
そしてするりと健太郎の座っていたベンチに腰を下ろす。
「……次からはもう少し暖かい場所で待ち合わせにしようか。どうせ君は、言っても聞かないだろうからな」
「は、はい……」
健太郎は鼻の頭を押さえてドキドキしていた。
ふいにこういうことをされると、健太郎にはまだ刺激が強い。
「ほら、いつまで立っているんだ。健太郎も座れ。いつまでも見上げていたら首が痛い」
「はい!」
桃子が鞄の口を開けているのを見て、健太郎は慌てて座り直す。待て、と言われている犬のような雰囲気であった。
果たして鞄の中から取り出されたものは。
「それでは、これをやろう」
可愛らしい包装紙で包まれ、丁寧にリボンを巻かれた小箱であった。
健太郎は、恐る恐るそれを受け取った。
そして思う。予想以上に包みが可愛らしい……!
「お、おお……! これは……!!」
「今日は世間様ではバレンタインだからな。中身はチョコだよ」
「手作りですかっ!?」
「ん? ああ、一応そうだよ」
「うわあああああああああああっ!? ありがとうございますーーっ!!」
健太郎はいきなり立ち上がると喜びの雄叫びをあげた。
天に感謝するように、高々とチョコを捧げ持つ。
さすがの桃子もちょっと引いている。
「な、なんだ、そのテンションの高さは……? 手作りといってもあれだぞ。市販の物を溶かして固め直しただけだからな。包みは余っていたのを分けてもらったものだし」
桃子の言葉に、健太郎はぶんぶんと首を振った。
「全っ然構いません! すごい! 本当に手作りだった!! やったぁ!!」
「まぁ、喜んでもらえたようでなによりなんだが」
「一生飾って大切にします!」
「……いや、そこは食べてくれないか。せっかく作ったのだから」
健太郎は真剣そのものの表情を浮かべて本気で悩む。
「食べる……食べたい……けど、もったいなさすぎる……でも食べたい……でも……!!」
激しい葛藤を繰り広げる健太郎を見て、桃子は面倒臭そうに白い息を吐いた。
「……まあいい。その、チョコを食べた感想は次に会ったときに聞くとして」
「ああ、そんなぁ!?」
「こちらも渡しておこう」
「……これは?」
桃子が健太郎に手渡したのは、これまた可愛らしいリボンの結ばれたビニール製の袋で、中には小さめのクッキーが何枚か入っていた。
「ふうちゃんからだ」
「ふうちゃんって、桃子さんの後輩の華音さんですよね。え、僕に?」
「義理だとさ。会社の男連中にたくさん配っていたから、その余りだろうな。健太郎からのお返しは要らない、と言っていたぞ」
その分会社の人たちからはたくさん貰いますー、と言っていたのは、健太郎には内緒だ。
「あ、ありがとうございます……?」
健太郎は袋の中身をまじまじと見る。
普通に美味しそうだった。見た目も綺麗である。
「あの人、お菓子作れるんですねー」
「もちろんだ。私よりよほど上手だろう。そもそも、そのチョコだってふうちゃんに教えてもらいながら作ったんだからな」
「へぇー……」
健太郎は、複雑そうな表情を浮かべた。
「あんなふわふわした顔して素手でコンクリート砕けるのに……」
「あのニコニコした顔のまま瓶切りも出来るからな。本人の前で言うと怒られてしまうが」
健太郎が件のふうちゃんに初めて会ったのは、桃子と初めて遊びに行ったときのことである。健太郎はその時、生まれて初めて人が宙を舞う光景を目にした。今でも軽いトラウマである。
「ちなみに私はこのマフラーをもらった。なかなか暖かいぞ」
「……手編みですか?」
「おそらくそうだろう。先月末ぐらいから、たびたび昼休みに編んでいる姿を見かけた」
「はぁー……」
健太郎は、「あの人、見掛けどおり女子力も高いんだなー」と感心をしてしまった。
そしてマフラーに顔を埋めて暖かそうにしている桃子を見て、「華音さんグッジョブ!」とかも思った。
「なんだその、緩んだ顔は?」
「あ、いえいえ。気にしないでください」
「そうか? まぁ、マフラーをくれた代わりにクッキーはくれなかったがな」
「あ、これ貰ってないんですか? だったら……」
健太郎は、袋のリボンを解いた。
「桃子さんも一緒に食べましょうよ」
「む、いいのか?」
「はい、もちろんです」
健太郎はクッキーをひとつ摘まむと、ヒョイと口の中に放り込む。サクサクとした食感に、ほのかな苦味とともに口の中に広がる柔らかい甘さ。
桃子もひとつ口に入れると、美味しそうに頬を緩めた。
「うん、美味しい」
「はい。甘さ控えめで良いですね」
ふたりはベンチに並んで腰掛けたまま、クッキーを分け合って食べる。
食べている間の話題は、主にお互いの近況などだ。
桃子のほうは、最近になって異動の話が出ているらしく、来年度から部署が変わるかもしれないという話であった。
なんでも、入社当時から今の上司との間には色々あったらしいのだが、昨年末にその上司が神経性胃炎で入院したことで、流石にそのまま置いておくのはマズイだろう、ということになったそうだ。
桃子にしてみれば、それとこれとは関係ないだろう、という気持ちなのだが、まぁ、どうなるか分からない。異動したらしたで、やることは変わらない。
健太郎のほうは、来月の頭に高校の卒業式だ。
春からは新社会人になる。
大学には行かない。親にはずいぶん迷惑を掛けたから、働いて少しずつ返したいのだそうだ。
「そういえば、結局健太郎はどこで働くんだ?」
「え? ええっと、……内緒です」
健太郎は、恥ずかしそうに顔を背けた。
桃子は不思議そうに首を傾げているが、言うわけにはいかなかった。
たぶん驚かれるし、きっと呆れられるからだ。
それに、どのみち四月になれば嫌でもばれそうではあるし、それまでは秘密にしておきたかった。
「ん、これが最後の一枚か」
そんなことを話していたら、クッキーが残り一枚になっていた。
桃子と健太郎は、お互いに譲り合う。
「どうぞ、桃子さんが食べてください」
「いや、元は健太郎がもらったものだろうに」
「僕は自分で食べるより、食べてる桃子さんの顔を見ているほうが楽しいです!」
「……それはそれで、なにかおかしい気もするが」
では、と桃子はクッキーを摘まんだ。
そして少し考えて、それを半分に割った。
「健太郎、口を開けろ」
「? はい」
「ほら」
「!?」
桃子は、片方を自分の口に、もう片方を健太郎の口に入れた。
いきなりのことに健太郎は、目を白黒させて驚いた。
「半分こだ。いいな?」
「ふぁ、ふぁい……!」
コクコクと頷く健太郎に満足したのか、桃子はベンチから立ち上がった。
「それなら私は帰るよ。健太郎も遅くならないうちに帰るように。あと、あげたチョコはちゃんと食べるんだぞ? 生チョコだから3日ぐらいしか保たん」
それだけ言い残すと、手をヒラヒラ振って公園から出ていった。
残された健太郎は、しばらくぼーっとしていたが。
「……あぁ、今日はとても良い日だったな……」
ポツリと呟いて、それからフラフラと家路についた。憧れの人からチョコを貰って、クッキーまで食べさせてもらって。
健太郎が今まで生きてきた中で、間違いなく、最高のバレンタインだったそうな。
◇◇◇
翌日。
半日にわたる長い葛藤の末、桃子から貰ったチョコを一口食べた健太郎は。
「…………うぁ、鼻血が……」
極度の緊張と興奮と感動により鼻血が出てしまい、それはもう、両親に驚かれた。