第二話
2
神社への道すがら、自転車を押しながら巧は語った。
何百年も前、この地域を苦しめる悪霊がいたこと。それを鎮めたのが当時の月読神社の神主だったこと。悪霊は丁重に祠に祀られたが、戦後のどさくさでその場所がどこかわからなくなっていたこと。最近になって、ようやく昔の地図が発見されたこと。ただし、祠のあった場所にはすでに建物が建ってしまっていたこと。
「それが、俺らの高校の新校舎なんだよね」
「……その話が、あたしに、どう関係があるの」
慣れ慣れしく話してくる巧に対し、君佳は引き気味に距離を保っていた。
「揺れたり物が動いたりっていうのは、典型的な霊現象ひとつだから。気象庁のサイト見ても、最近地震が起きたっていうデータ載ってないし。さっきの揺れ、大きさの割に剥製が落ちるのもおかしいと思ったし。もしかしたら、なんかに反応してる可能性があると思うんだよね。えーと」
自転車を押す手を止めて、巧は君佳の顔を直視した。
「ごめん、名前、なんだっけ?」
気を抜いていたので、正面から目が合ってしまった。前髪を揺らして、さっと目をそらす。
「渡部、君佳」
名を名乗るだけなのに、語尾が小さくなってしまった。
「そう、渡部が霊と世界の媒介になってる? っていうか」
ごく自然に、巧は君佳の名字を口にした。
「あ、俺のことも呼び捨てでいいよ」
君佳が顔をあげたときにはすでに、巧は鼻歌まじりに自転車を押していた。
月読神社につき、社務所に連れて行かれると、紫色の差袴を着た神主が待っていた。
「父さん、さっきLINEした件。隣のクラスの渡部」
「ああ、こりゃこりゃ」
興味深そうに、君佳の全身を見まわす。
「確かに、悪い気の存在を感じるねぇ」
内容の割に、剥げ頭の神主はのんびりと笑った。
「まあとりあえず座って。お茶でもどうぞ」
君佳が立ちつくしていると、巧の母親だろうか、巫女ではなく普通の格好をした女性がお茶とどら焼きを持ってきた。香ばしい焼き色の皮がしっとりと光るどら焼きは美味しそうだったが、さすがに手を伸ばす気分にはなれない。
「どういうことですか。いきなり連れてこられて、そんなこと言われても、困ります」
狼狽しているのを悟られないように、できるだけ声のトーンを落として君佳は言った。
「そんなに心配しなくて大丈夫。たまにあることだから」
「すげーんだよ。ガタガタ揺れたかと思ったら、剥製がいきなり落ちてさ。やっぱあれかな、渡部がその悪霊の子孫とかのパターン?」
どら焼きを齧りながら巧が言った。悪霊の子孫という言葉に、君佳の舌が乾く。
「……両親は他県出身なんですけど」
神主は「こら、変なこと言うんじゃない」と息子をたしなめた。
「祟られるようなことをしたわけじゃなくても、霊っていうのは、都合のいい相手を媒介にすることがあるんだ。たまたま波長の合う何かを、あなたが持っていたのかもしれない。長い間持ち続けている古いものとか、ないかな? たとえば、鏡とか、宝石とか」
少し考えて、君佳は首を横に振った。君佳の家は、普通のサラリーマンの核家族だ。霊が気に入るような、由緒正しいものがあるとは思えない。
「高校にお祓いに行きたいんだけど、こないだのPTA会で校長先生に伝えたら、学期中は騒ぎになると困るから、夏休みにしてくれって言われているんだよ」
しかもこれ、と言って巧の父親は、腰の部分を指差して苦笑した。
「一昨日から、ぎっくり腰をやってしまって」
「だっせー。夜中に痛い痛いって急にわめき始めて、救急車呼んだんだぜこの人」
「神主は腰を使うんだよ。お前も将来こうなるんだからな!」
現実感の持てないまま、軽口を叩き合う父子を見ていると、信じられない言葉が君佳の耳に飛び込んできた。
「だから巧、校内ではしばらく渡部さんと一緒に行動するように」
「へいへーい」
わかってますと言わんばかりに、巧は髪の毛をポリポリとかいた。君佳の背中はゴムで弾かれたように前のめりになった。
「は!?」
「明日までに護符を準備しておくから。たぶん、これと一緒にいたら、霊もあんまり暴れないはずだから」
「その護符を、私がもらうんじゃだめなんですか」
巧が横から説明する。
「渡部はすでに霊に気に入られてるから、護符を渡したくらいじゃどうにもならんのよ。でも、近くに護符を持ってる俺がいることで、牽制になるっていうか」
合ってる? という目つきで、巧は父親を見た。父親が頷く。
「お祓いしてもらえないんですか」
正直なところ君佳はほとんど泣きそうになっていたが、分厚い前髪のおかげか、ふたりには気づかれてない。
「原因を特定してからじゃないと、あまり意味がないからね。その霊についても調べないといけないし。どっちにしても、この腰の状態じゃ今はどうしようもない」
「俺も一応、月読神社の跡取りだからさ! 大丈夫だって」
そうではない。そういう話ではない。全然ない。朗らかに笑う父子に向かって大声で叫びたかったが、今日一日でいろんなことが起こりすぎて、君佳の脳内はキャパオーバーだった。
3
4限終了のチャイムが鳴った。教室が昼休みのざわめきに包まれ始める。君佳も弁当を手に取り、立ち上がる。
昨日あんなことを言われて朝から気を張っていたが、今日1日、巧は君佳の目の前に現れていない。2限後のあいだの休憩時間に、トイレに行くついでに隣のクラスを覗き見したときも、彼の姿は見当たらなかった。口先ばっかりの適当な奴め――。やっぱりな、と思うのと同時に、どこかで安心していた。
教室後ろから廊下に出ようとしたそのとき、君佳の目の前でガラッと扉が開いた。
「渡部! メシ食おうよ」
教室が一瞬、海の底のように静まり返った。君佳はあわてて小声で文句を言う。
「やめてよ」
「昨日言ったじゃん、一緒にいようって」
教室中が聞き耳を立てるなか、巧だけが平然として、コンビニの袋を振りまわしている。
「ちょっと、こっち!」
力づくで巧を廊下に押し出す。自らも教室を出る瞬間、好奇の視線を跳ね返すように、背中の髪の毛を大きく揺らした。
息を切らしながら屋上に辿りつく。屋上のドアを閉めると、膝に手をついて大きく息を吐いた。髪の毛がばさりと落ちて、地面につきそうだ。
「へー、いっつも屋上で食べてるんだ」
巧は適当な段をみつけて座った。仕方なく君佳も少し離れた場所に腰掛ける。
「雨のときはどうしてんの?」
「……そこの、階段のとこ」
「ひとりで?」
「女同士でチンタラつるむの、嫌いなの」
ぶっきらぼうに君佳が答えると、ぽかんとしたあと、巧はピューッと口笛を吹いた。
「ハードボイルドだね、渡部」
その言葉の甘美な響きに、髪の陰で思わず口元がゆるんだ。ハードボイルド、それは君佳がずっと言われたかった言葉だ。入学して2か月間、クールな一匹狼として振舞ってきた甲斐があったというものである。案外いい奴かもしれない……。君佳は心の中で、巧の評価を少しだけあげた。
「護符って」
ついでに気になっていたことを訊いてみる。
「ああ、これ」
巧はズボンのポケットから護符を引っ張り出し、片手で君佳に手渡した。ティッシュくらいの大きさに折られているそれは、広げると何やら墨で漢字が書かれたうえに、朱色の印がついている。難しい漢字だらけだったが、「月讀命」という文字は君佳にも判別できた。
「すごい」
君佳は目を輝かせた。
「こういうの興味あるの?」
「うん」
君佳は珍しく素直に頷いた。
「へー」
だが巧はそれだけ言うと、「次どっちにしようかな~」と、ビニール袋のパンの物色を始めてしまった。せっかく神社の話ができるかという期待を裏切られた君佳は拍子抜けし、続いて怒りが湧いてきた。しかも巧の口調からするに、「巫女になりたいなら髪を切れ」という暴言を吐いたことすら憶えてなさそうではないか。くそっ、と胸のうちで毒づいた。やっぱりこんな奴に心を許してはダメだ。君佳は自分の弁当を食べることに集中した。今日のメニューはアスパラガスの豚肉巻き、にんじんとえのきのきんぴら、ハム入りオムレツ、水菜のおひたし、りんごだった。
食べ終わると、巧から顔が見えないように身体の角度を変えて『堤中納言物語』の続きを開いた。
「何読んでんのー?」
君佳は読む手を止めず答える。
「別に」
「あ、もしかしてBL?」
「違うわよ!」
思わず振り返ると、巧は「じょーだんだって」と笑った。君佳は無視して横を向き、ページに目を落とす。巧は教室に戻るかと思ったが、ストローを加えたまま携帯電話をいじり始めた。昼休みが終わるまで動く気はないようだ。
ようやく昼休みの終わりを告げるチャイムが響き、君佳はほっとした気持ちで立ち上がった。荷物をまとめ、一応巧に声をかける。
「明日は教室まで来ないで。ここにいるから勝手に来て。じゃあ」
一匹狼らしく、君佳はクールに言い放った。返事も聞かず屋上を出ようとする。
「りょうかーい。あ、一緒に降りようよ」
だからそういうのがイヤだという話なのに。嫌味のひとつでも言ってやろうとしたら、にこやかな笑みに妨げられた。
「ていうか、次の合同授業も一緒じゃん?」
その翌日、4限が終わった瞬間に君佳は立ち上がった。クラスメイトの誰とも目が合わない斜め45度の角度で顔を固定し、足早に、だが走らずに教室を横切る。視線という視線が砂鉄のように後ろ髪にまとわりついたが、競歩の日本記録を出す勢いで振り切った。教卓でゆっくり帰り支度をしていた老眼の日本史教師だけが、教室の異変に気づいていない。
誰もいない廊下に出た瞬間、弁当片手に君佳はダッシュした。新校舎東棟2階を、一陣の黒い風が吹き抜けた。
昨日、5限の書道の授業でも、巧が隣の席に座ってきた。さらに、放課後は学校の敷地を出るところまで見送られた。本来なら、バス通学の君佳は正門、自転車通学の巧は南門と、使う校門の方向も違うのに、だ。
今朝は、登校した瞬間から視線が痛かった。喋ったこともない同級生たちが、まじまじと見てくるのがわかった。
「ブキミカと2組の月読、付き合ってるらしいよ」
「うっそ、月読モテるっしょ、ブキミカとか有り得ないっしょ」
「マジでマジで。昨日帰りも一緒だったって」
「マジかよ。月読、シュミ悪すぎだろ!」
そんな噂話が、絶えず耳に流れ込んでくる。
クールな存在として一目置かれるのはともかく、動物園のパンダになった覚えはない。だが寄せられる視線は明らかに、好奇とゴシップに満ちたものだ。君佳は、好きな芸人の「ブレイクするっていうのは、バカに見つかるということ」という言葉を思い出す。だが、君佳が気にしていることを気づかれてはならないと思い、授業中はアンニュイをよそおって、ひたすら頬杖をつき続けた。
そんな苦労を屋上で反芻していると、口笛を吹きながら巧がやって来た。
「無理、あたし、降りるから」
「なになに、いきなり」
立ちふさがった君佳に、巧は半笑いで対応した。
「晒しものになるくらいなら、悪霊のほうがマシだって言ってんの」
「あは、渡部も訊かれた? 『お前ら付き合ってるのか』って」
全身の毛が逆立った。いったいどうしてこの男は、そんなことを軽々しく口にできるのだろう。
「否定したでしょうね」
「『ご想像にお任せします♡』って返しといた」
「なんでよ!!」
フライパンで側頭部を殴られたら、こんな衝撃を感じるのだろうか。信じらんない、信じらんないと、君佳はうわ言のように呟く。
「だって、ホントのこと言うわけにもいかないし、でもウソもやだし」
「だからって」
「いいじゃん、減るもんでもなし。どうせ黙ってても噂されるんだからさ。面白いほうがよくね? この状況、楽しんだほうがいーよ」
軽く流そうとする巧に、思わず叫ぶ。
「適当なことばっか言わないで! あんたがそんなふうに思えるのは、自分がリア充だからよ。でも、世の中にはもっと繊細な人間もいるの。チャラチャラしていい気になんないで。あたしを一緒にしないで」
巧の目が見開かれた。続いて、笑いをこらえるように三日月型になった。
「リアルに『リア充』って呼ばれたのはじめて」
「茶化さないでよ!」
君佳の怒りはヒートアップするばかりだ。やはり、こいつには一度ハッキリ言ってやらないといけないのだ。君佳はスカートのポケットに手をつっこんでライターを握ると、きっと巧を睨んだ。
「みんな、なんでもかんでも恋愛と結びつけて、バカみたい。ほかにやることないわけ? ていうか前から思ってたんだけど、なんなのよその髪。ツクヨミノミコトが聞いてあきれるわ。日本人なら黒髪貫きなさいよ! ていうか今の日本、男も女も髪の毛いじりすぎなのよ。染めたりワックスつけたり巻いたりしたって、所詮日本人なんだからまず前提に無理があるし、さらには髪の毛を傷めるなんてまさに愚の骨頂」
息を挟むヒマもなく、口から言葉が流れ出た。言いながら、だんだん口角があがっていく。意識していた以上に、鬱憤がたまっていたらしい。
学校なんて、バカバカバカバカバカばっかり。
ダメージを与えること間違いなしの、とっておきの、会心の一撃を喰らわせてやる。カッと目を見開き、君佳は思いきり黒髪をひるがえした。
「あんたたちなんか、どうせすぐにハゲるんだから!」
あーっはっはっはっは! という高笑いが、屋上の空に吸い込まれていく。
巧はきょとんとしていた。さあ、怒って取り乱せばいい。スカした男が自分の言葉に憤る姿を、君佳は見たかった。だが、またしても巧は期待を裏切った。
「なんで、そんな激おこなの……」
巧はしゃがみこんで床に手をつき、ひっ、ひっ、という変な笑い声をあげながら、肩を震わせた。あー、やべえ、今の白目やべえ、と繰り返す巧に、君佳はうろたえた。
「な、何がおかしいのよ。あたしが言ったこと、わかったの!?」
「渡部がレペゼン黒髪なのは、めっちゃ伝わったよ」
目尻に涙をにじませながら、巧は君佳を見上げた。
「高笑いする人もリアルではじめて見た。いやー面白いわ。天才だわ」
「そ、そう?」
天才と言われて、不覚にも少し気がゆるんだ。ポケットの中で、ライターから手が離れる。
「とりあえずメシ食おうよ。昼休みなくなっちゃう」
うながされるままに、君佳は座った。巧はビニール袋から焼きそばパンを取り出しながら、思い出したようにまた笑った。
「めっちゃ怒ってる人見ると、俺、笑っちゃうんだよね~。知ってる? 竹中直人の『笑いながら怒る人』っていうネタ。あの人、昔はお笑いやってたんだって。俺、ニコ動で見てさあ……」
へらへらと笑う巧を見ていると、怒鳴ったのがバカらしくなってきた。
巧のペースに乗せられているのは本意ではなかったが、確かに、食べるほうが先だと思った。とんでもなく腹が空いていた。君佳は髪を耳にかけて、弁当箱の包みを開いた。