第一話
1
「黒髪町」という地名が、熊本県熊本市にある。人口は約9000人、郵便番号は全域共通で860-0862。行ったことはないが、渡部君佳はそらで言うことができる。なぜなら、ウィキペディアのページを何度も何度も読んでいるからだ。
黒髪町、なんてしびれる響き。それに比べれば、自分が住んでいる市は平凡な地名ばかりだと君佳は思う。しかも黒髪という地名の由来は、かつて黒髪山と呼ばれた立田山のふもとにあるからで、この山は孤立的火山らしい。この情報をウィキペディアで知ったとき、君佳は興奮のあまり叫びそうになった。ホームルーム中だったので仕方なく下を向いて抑えたが、笑い声が漏れるのは止められなかった。最高だ、と思った。偶然にしてはできすぎている。黒髪で、孤立的で、火山――これ以上あたしにふさわしい山が、地球上にあるだろうか?
「……ませ……」
見える。はるか遠い昔、九州の地にそびえ立つ黒髪山が。きっと美しい濃い緑の山だったに違いない。光の加減で艶々した黒髪に見えるような……。そんな孤高の姿の奥には、真っ赤なマグマが煮え立っている。人間どもに汚すことのできない、厳かで烈しい究極の自然美。想像するだけで勇気づけられるようで、君佳はうっとりしてしまう。
「すみません」
ハッと我に返った。気づけば大自然のなかではなく、高校の教室に君佳はおり、自分の席に座っていた。4限の英語の授業がいつのまにか終わっていた。
「あの、プリント、取ってもらえませんか……」
前の席の男子が、怯えたような目で君佳を見ていた。足元に目をやると、上履きの真横にプリントが落ちていた。君佳は無言でそれを拾うと、机の上でスライドさせる。しかしなかなか受け取ろうとしないので、ガタッと椅子を後ろに引き、垂直に立ち上がった。我ながら直角二等辺三角形を描くような、隙のない完璧な動きだ、と君佳は心のうちで満足した。驚いた顔の男子を残し、机の横にかけておいた弁当を掴んで歩きだす。長い黒髪が大きく揺れて、ついてくる。
「今の動き何!? 呪いの日本人形かよ」
「髪の毛のあいだから、ニヤッとした口元が見えるときが、マジでヤバい」
「しかも念力あるらしいよ。近くの机が勝手に動いたのを、小林が見たって」
「『ブキミカ』、怖ぇえー!」
どっと喋り出した男子のほうは振り返らず、君佳はパリコレを歩くショーモデルのような気持ちで、廊下へまっすぐ歩いていく。実は前髪が重たくて視界が悪いことがよくあるのだが、同級生たちは君佳をよけていくので不便はない。廊下の奥を曲がり、屋上に続く階段を上る。
屋上のドアを開くと、強い風が吹いて、髪の毛が広がった――まるで背中に、大きな黒塗りの扇子が開いたよう。実際には見えていないが、君佳にはそう見えていた。自然と口角が上がった。狭い教室には、この黒髪はもったいない。こうやって、外の空気に遊ばせるのが一番いい。太ももまで届く自慢の長い長い黒髪は、6歳から伸ばし続けて、今年で10年目になる。
定位置の柵にもたれかかって座ると、黒髪は彼女を守るように、放射線状に広がった。まるで意思を持っているように。しかもこの長い髪は、屋上に吹く強風から身を守ってくれるという利点もある。弁当箱のフタを開くと、今日は君佳の好きなサバの竜田揚げが入っていた。それに、ひじき入り卵焼きと、ほうれんそうの胡麻和えと、ミニトマト。別のタッパーには小粒のぶどうがいくつか入っていた。母親はよく「お友達とわけられるように」と一口サイズの果物を入れてくれるが、すべて君佳の胃の中におさまっていることは知らない。
中学時代、君佳が「貞子」と呼ばれていたことを偶然知った母親は、ひどくショックを受けていたものだ。お願いだから切ってくれ、普通の髪型にしてくれと懇願されたが、君佳は断固として聞かなかった。
「普通って何? 何も悪いことしてないのに髪を切るのが普通なことなの? だいたい、貞子だって悪いことしてないのに殺されちゃったから呪いの存在になったんだよ。あたしがここで髪を切ったら、それこそ本当の貞子になるから!!」
気が弱く大人しい母親は、娘の剣幕に負けて、それ以来口出ししなくなった。それでも、遠まわしには交友関係を確認してきていた。最近、貞子と呼ばれていないことを君佳がぶっきらぼうに認めると、「そうよね。もう高校生だものね」と、わかりやすく胸をなでおろしていた。
でも、母親は何もわかっていない。正直なところ、君佳は貞子というあだ名を結構気に入っていた。誰もが知る、日本ホラー映画界最強のスターだ。孤高の存在である自分にふさわしいあだ名だと思っていた、それなのに、『君に届け』という少女マンガの主人公(実は美少女)が貞子というあだ名だったせいで、貞子=実は可愛い、という妙なイメージが同級生たちに浸透してしまった。つまり、君佳にはもったいないあだ名になってしまったのだ。90年代前後の白泉社作品こそ至高と考えているマンガ好きの君佳にとって、これは屈辱だった。
そんなわけで、高校に入学してからは、「ブキミカ」と呼ばれている。名字の渡部と、名前の君佳をくっつけた芸のないあだ名だ。最初はこっそり呼ばれていたようだが、今では近くにいても平気で呼ばれている。君佳の顔がいつも髪の毛で隠れていて、目を合わせることがないのも一因かもしれない。
あいつらなんか、目を合わせる価値もないけど。
弁当を食べ終わった君佳は、古典文学の『堤中納言物語』の文庫本を読み始めた。『源氏物語』は光源氏にまったく共感できなかったし、『枕草子』は途中で飽きてしまったが、この本は気に入っていて、もう3回目の読書になる。短編が集められた本だが、やはり中でも「虫愛づる姫君」がいい。「人間、変につくろわないほうがいいのよ」と言って眉も整えずお歯黒も塗らず、ペットの虫を可愛がる変わり者のお姫様の話だ。侍女や、遊び半分で近づいてくる男に気味悪がられても、クールな姫君が最高に格好いい。君佳は彼女の生きざまを参考にしている。
黒髪の世界に想いを馳せていると、突然屋上に止まっていたカラスが、グェエー! と耳障りに鳴いた。
次の瞬間、ガタッと大きく床が揺れる。驚いて、思わず文庫本が手から落ちる。揺れは10秒ほど続いたのち、おさまった。君佳は息を吐いて床に手をつく。
貞子にシンパシーを感じているといいつつも、君佳は小心者だった。最近、妙に地震が多い気がする。しかもそのたびに動物や鳥が変な鳴き声をあげるので、心臓に悪い。君佳は座りなおして深呼吸すると、スカートのポケットからライターを取り出し、火を点けた。
「綺麗……」
ゆらゆらと揺れる炎を見ていると、気持ちが落ち着いてきた。君佳は常にライターを持ち歩いているが、煙草を吸うわけではない。というより、そんな勇気はない。ただ火を見るだけで満足だった。
「やっぱ、火は落ち着く」
うっとりと君佳はつぶやいた。学校でライターをいじっているという背徳感と、ちょっとした優越感、そして火の美しさそのものが混ざり合って、なんともいえない幸福な気持ちになるのだった。
6限後、帰り支度をしてから、君佳はレポートを提出するために生物準備室へ向かっていた。本当は昨日、係りの子がクラスの分をまとめて提出したらしいのだが、君佳は声をかけられた記憶はない。割とよくあることだ。渡り廊下を歩き、生物準備室のある旧校舎に入る。天井の低い旧校舎は、日が長いはずの初夏の夕方でも少し暗く、人気がない。
誰もいないと思ってドアを開けたら、人影があった。
「あ」
逆光で目を細めた君佳より先に、先客が君佳に反応した。少し遅れて相手が隣のクラスの月読巧だと気づいた君佳は、心の中で舌打ちした。
彼の月読という珍しい名字は、実家が神社ということに由来する。高校から自転車で10分ほどの場所にある月読神社は、ツクヨミノミコトを祀っている由緒正しい神社らしい。
高校入学当時、隣のクラスに月読神社の息子がいると知って、君佳の胸は高鳴ったものだ。ようやく、神話や古典の話ができる相手に巡り合えるかもしれない。しかも月読巧という名前の響きは、文句なしに素晴らしかった。黒髪で、色白で、メガネの美少年……そんな期待に胸を躍らせながら、昼休み、隣のクラスに足を踏み入れた。だが彼女の目に飛び込んできたのは、制服のネクタイをルーズに首に引っかけた、茶髪の少年だった。
「なんか用?」
チョコチップメロンパンをかじりながら振り返った巧に、予想を裏切られた君佳は固まってしまった。前髪ごしに巧の友だちの興味津々な視線が見える。入学したばかりなのに、もうグループができていることにも驚いた。やっとの思いで、君佳は口にした。
「えっと、月読、神社の……」
「あ、巫女さんのバイト志望?」
こともなげに巧は言うと、抹茶オレの紙パックに刺さったストローをずずずと吸った。
「いつも年末に募集してるから、そのときまた声かけてよ。あ、つっても神社も接客業だから、あんまり長い髪はちょっと。前髪、切ったほうがいいよ」
返事もせずに君佳は踵を返した。男子たちの笑い声が聴こえる。自分の教室に戻りながら、顔が真っ赤になっているのがわかった。怒りと恥ずかもかしさで死にそうだった。
人の大事な髪の毛を、いったいなんだと思っているんだ。
実は、昔から巫女のバイトにはかなり興味があった。自分以上に、その仕事にふさわしい女子高生はいないと思っていた。自慢の黒髪と古典の知識で、神社の人たちから一目おかれる夢すら描いていた。それなのに神主の息子というだけで、あんなチャラチャラした男に、軽々しく髪を切れなどと言われるなんて!
なにが月読神社だ。あいつは神様を冒涜している。裏切られたような気持ちで、絶対に許さないと君佳は誓った。
その月読巧が、生物準備室の奥にあるレポート提出ボックスの傍に立っていた。今日もネクタイがゆるく垂れ、白シャツの隙間から青いTシャツがちらりと覗いている。茶色の髪が、夕陽に透けていた。神社の跡取りのくせに、ふざけた格好しやがって――。腹が立つのと同時に、何故か少し緊張してしまう。君佳は下を向いたままレポートを提出ボックスに入れると、真横にいる巧の存在を無視して振り返った。よし、あたしに隙はない。元来た道を戻ろうとしたとき、また地面がガタガタと揺れた。
「うわっ!」
君佳の目の前に、横の棚から鳥の剥製が降って来た。思わず後ずさりして、机に手をつく。剥製が壊れていたらどうしようと思ったが、重しの部分から床に着地して、君佳のほうを向いていた。落ちた衝動で小刻みに揺れている、うつろな鳥の目が気持ち悪い。
「だいじょぶ?」
雑然とした部屋のあいだを縫って、巧が近づいてきた。君佳はあわてて背筋を伸ばす。剥製にビビるなんて、格好悪いところを見せてしまった。
黙っていると、巧が手を伸ばして剥製を拾った。
「久しぶりに揺れたね~」
笑う巧に、思わず君佳は言い返す。
「昼間も揺れたじゃない」
「え? いつ?」
「……昼休み」
「マジ? 気付かなかった」
結構長い間揺れていたのに、なに呑気なことを言っているのだろう。せっかく剥製を棚に戻してくれたにもかかわらず、君佳はまた腹が立った。
「ていうか、一昨日も揺れたし、先週も揺れた。神社の息子のくせに、鈍感じゃない?」
後半は完全な言いがかりだった。巧は黙りこむ。ヤバい、怒らせただろうか。足早に去ろうとしたら、パッと手首を掴まれた。
「な、なに」
殴られるのかと思ったが、巧は手首を掴んだまま、君佳の全身をまじまじと見つめている。
「こんなふうに揺れたり変に物が落ちたりするのって、高校に入ってから?」
戸惑いながら、君佳は頷く。
「それ、学校にいるときだけ? 土日は?」
言われて考えてみれば、確かに放課後や土日は、揺れを体験していないような気がする。そう伝えると、巧の目の奥が光った。
「ちょっと、一緒に来て」
どこに、と聞き返したときには、すでにふたりは走り始めていた。
「月読神社!」