胡蝶の白
紋白蝶がふわり、と私の目の前を横切って、ふとそれを追った。
都会の雑踏の中、立ち止まって空を見上げる私はどうやらずいぶんと邪魔なようで後ろからぐっと背中を押された。たたらを踏んで道の脇で立ち止まると、スーツを着た男性が迷惑そうに私を眺めながら通り過ぎた。恐らく彼が私の背を押したのだろう。押されたのには納得いかないが、そもそも立ち止まった私が悪いのだ。立ち去ったその後ろ姿にごめんなさい、と呟いて私はまた空を見上げた。あ、蝶々見失った。そう思ってからはたと我に返る。
――蝶なんてそんな馬鹿な。
思わず零した溜息が白く染まるのを見ながら私は心中で呟いた。
現在この日本は冬、一年で最も寒い季節を迎えている。足元にちらばる黒い塊は排気ガスまみれの氷や雪で間違いないし、肌は冬特有の乾燥と身を切るような寒さに悲鳴を上げている。辺りを見渡しても皆マフラーに手袋、厚手のコートに帽子か耳当てが標準装備だ。今冬は近年では寒い方だし、そうなると更に乾燥しやすくなってインフルエンザがどうのとTVでも言っていた。
そこに、蝶? 何ともミスマッチな光景である。まぁ、確かに昨今では温暖化が叫ばれているし、もしかしたらさなぎが間違えって孵ったのかもしれない。もしくは私の単なる見間違いだ。――それは、ないだろうか。あんなにはっきり見たんだから。
そんな取り留めのないことを考えながら再び歩き出す。いけない、こんなところで立ち止まったらダメだ。今日はスーパーで“年末売り尽くし大セール”なんだって、おばさんが嬉しそうだったんだから。私が張り切って一杯買ってこなきゃね。いっつもお世話になってるんだからこれくらいは。
と、いうのも現在私は叔父と叔母の家に居候させていただいているのである。二人は家族だと言ってくれるのだが、いかんせん私も頭が固い。私の家族は母さんひとりだったのだから、といちいち考えてしまって割り切ることができない。そう、母さんは交通事故で他界した。ずいぶんと昔のような気もするが、たったの一年しか経っていない。
母さんが交通事故にあって意識不明の重体だと報せを受けた時はなんだか受け入れがたくて頭がぼんやりしていた気もする。珍しく大雪になった日だった。そんな中、先生が放心した私を病院に連れて行ってくれた。車から病院までの短い間だったけれど風と雪にさらされて、それでも何だかリアリティのない状況に私はただ身を任せていた。現実味が湧いていないのは実は今も同じで、なんだかふわふわと浮いた感覚だけする。その内この感覚に慣れて、母さんがいなくなったことを実感できるのかと多少希望と切なさの入り混じった感覚だけが心に渦巻いている。
父さんは物心つく前に離婚したって聞いてる。だから顔も知らないし、そんな人に養ってもらえるとも思わなかった。だから母さんの弟である叔父のもとに身を寄せている。養ってもらう身で無理をしてもらうわけにもいかないので高校は辞めるといったのだが、心優しい二人から却下に次ぐ却下をもらい、敢えなく撃沈した。二人には子供もいるっていうのに負担にならないか心配だ。
あれからそろそろ一年になる。当時高校二年生だった私もとうとう卒業までこぎつけた。大学への進学は考えないのかと叔父も叔母も言ってくれたけれど、大学にどうしても入りたいなら成人してから入学すれば良い。だからこの冬は就職活動漬けだ。
「――あ、そっか」
歩く足は止めないながらも私はふと思い出したことに小さく声を上げた。
あれから約一年、そうだ、母さんの命日が来る。忘れていたことに思わずあきれて、私はぼんやりと溜め息をついた。
なんにせよあの母さんのことだから、命日に墓参りに行かないと死後に何を言われるか解ったものではない。何か花の一つでも買ってお参りに行かないと。肩からずれ落ちそうになった鞄を引き寄せながら、私は頭の中で通帳を開いた。最近花は高騰してるんだよなぁ、かといって造花なんて拗ねられるに決まってるし。
ふ、と視界の端に白が映った。
「……ってやっぱりチョウチョじゃん。なんだよお前、せっかち過ぎるんじゃない?」
今度こそ邪魔にならないよう道の脇に避けて、ひらひらと飛ぶ蝶々を見る。近くを通った女子高生がぼんやりと空を見上げる私の視線を追って彼女を――彼女ではないかもしれないが、言いっこなしだ――見つけると隣にいる男性に笑いかけて見せた。
ねぇ、見て見て、もうチョウチョがいる! ああ本当だ、ちょっと早すぎないか? うん、こんなに寒いのにもう春の虫って……ちょっと信じらんない。おっちょこちょいなんだろ、お前みたいだな。ちょっと、何よその言い草ーっ!
仲が良いのは良いことだ。だけどイチャイチャするなら往来ではやめた方が良いよ。
二人の声を耳に入れながら私はひらひらと舞う紋白蝶に目を奪われていた。白、鮮烈なまでの白。ふわふわと頼りない動きで飛んでいる彼女は丁度私の止まった向かいにある小さな花屋で羽を休めた。正しくは陳列されている白い造花の花弁に。ちょっと虫としてそれはどうなんだと思わない訳でもなかったが、それよりも同化しそうなほど鮮烈なそのふたつの白に私はふるりと首を振った。
――白は嫌いだ。
――雪は歩きづらいし、淀んだ白い雲からは雨か雪が降りそうでなおさら嫌だし、チョウチョはさっきから気になるし、それから、それから。
そう考えながらふと思い出す。そういえば、母さんは白が好きだって言ってた。はて、なんで好きだったんだっけ?
――だって綺麗じゃない。
ぽっとその言葉だけが頭に浮かんだ。そうだ、何かと白いものばかり買うから理由があるのかと尋ねたときに、母さんはそう言って笑っていた。
――白は無垢、清純を表す色でしょう? だから何ってわけじゃないけど、その言葉も、白っていう色自体も好きなのよ。それだけじゃダメかしら。
実に単純だけど、母さんらしいと納得できる言葉だった。だからってお気に入りだったテディベアを漂白された恨みは忘れないが。
白は、嫌いだ。だけど、母さんが好きならそれでもいいかもしれない、と私は花屋の造花を見つめた。紋白蝶はもういなかった。
白をテーマに季節はずれなお話をひとつ書かせていただきました。
知っている人が亡くなると、例え自分が吹っ切った気でいてもまたぶり返して泣きたくなることってあると思うんです。より親しい人だと現実感なんてすぐには湧いてきません。だから、少しずつ少しずつ、忘れるよりも思い出して、癒していくしかないんだろうなと、思います。生きている人にできるのは死者への思いを閉じ込めることでも、負の感情を引きずって閉じ籠ることでもなく、元気ですと心から笑ってお墓参りに行くことだけなんだと思います。
あとがきまでお読みくださり、ありがとうございました。誤字脱字等には十分注意していますが、何かおかしな点がございましたらお知らせください。
また、この話では人の死について軽くではありますが触れております。本編やこのあとがきについて不愉快な思いを抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。その場合は修正などをしたいと考えておりますのでご意見等ありましたらお知らせくださると幸いです。