八.夜の森
郭壁の外は森が広がっている。
森は山へと続いているが、森を縦断する街道は別の街へと繋がっている。
街道に点々と並ぶ灯りが見えて、ジヌはヨンジュの足を止めた。
その灯りはトガム兵が掲げる松明の炎である。
ソルソン山から王宮までの街道がトガム軍に抑えられていると分かると、ヨンジュとジヌは灯りを避けるように森の中を進むしかなかった。
もう数刻の間、ヨンジュは地面だけを見つめて歩いている。
草に絡み付かれて、よろける。思いがけない場所に転がっている石に躓く。
中でも、地を這う太い根が一番厄介で、避けたつもりが避けきれず、何度も足を取られた。
とても道とは言えぬ道である。
唯一の救いは、トガム兵の気配を警戒して、狼たちが遠くに姿を消していることだ。
梟の声さえしない。
けれど、けして闇が静かだというわけではない。
時折、具足の音が聞こえ、松明の灯りが辺りの闇を切り裂いた。
声が響く。それはまるでヨンジュたちを追うように聞こえてくる。
突然、得体の知れない恐怖が背後から襲いかかってきて、ヨンジュは体を竦めて、足を止めた。
「隠れるのです!」
動かないヨンジュを、ジヌが草むらに引きずり込んだ。
恐怖は人の声になり、または具足の音となり、やがて、松明の灯りが辺りを照らした。
武装した男たちがヨンジュの目の前に姿を現し、悔しげな声を響かせた。
「どこに行きやがった」
「こう暗くっちゃ見つからねぇさ」
松明の灯りが辺りを照らす。
森の黒々とした葉が、きらりと碧色の光を放った。
ヨンジュは息を殺し、じっと体を硬くした。じりじりと、炎の苛立ちが聞こえる。
「おい! あっちだ!」
やってきた男たちとは別の方角から声が響いた。
すると、彼らは一斉に声の響いた方角へと駆け出していった。
松明を片手に駆けていく兵士たち。いったいこの周辺にどれほどの人数が集まっているのだろうか。
いくつもの足音がヨンジュの前を通りすぎていった。
彼らが去ったと思えば、別の足音が近付いてきて、やはり通り過ぎていく。
そして、また次の足音がやって来て、去っていくのだ。
その様子をヨンジュは息を殺して見つめていた。
どのくらいそうしていただろう。
二人は最後の敵兵たちが去ってからもしばらく身を潜めていた。
ヨンジュが身動いだので、ジヌが、ふっと息を漏らした。
「もう大丈夫でしょう」
「見つからなくて良かったわ」
「しかし、彼らは我々を捜していたのでしょうか?」
ヨンジュは小首を傾げる。
「そうね……。そう言えば、私たちではなく、別の何者かを追っている様子だったわ」
「おそらく、敗残兵を狩っているのでしょう。――だとしたら、追われているのは我が国の兵です」
「助けないと!」
顔色を変えたヨンジュの肩を、ぐっとジヌの手が押さえ込んだ。
「いいえ、利用するのです。きっと彼らもヨンジュ様のお役に立てたのなら本望でしょう。彼らとは逆の方角に逃げます」
「そんな……」
そのようなこと、許されることなのだろうか。
彼らはクムサの兵士であり、クムサの民なのだ。
自国の民に認められてこそクムサの王なのだと、幼い頃から教育を受けていたヨンジュにとって、民を見捨てるなど、けして許されないことだった。
(利用して逃げる? 彼らを助けずに?)
顔を青ざめさせたヨンジュの腕を、ジヌは半ば強引に掴んで歩みを促した。
だが、ヨンジュの足は地面に根が張ったように動かなかった。
――否、動かすことができなかった。
ヨンジュはトガム兵たちが去った方角に視線を向けた。ジヌが、行こうと促す方角とは逆の方角。
木々の暗い影の合間に、ちらちらと灯りが蠢く。
その時。
――水の匂い。
微かに感じた気配に、ヨンジュは昊を仰いだ。
じっと澄んだ黒を睨む。雲ひとつない。いつものクムサの夜空である。
(違う。雨ではないわ)
それではいったいなぜこの匂いを感じるのだろう。
ヨンジュは暗闇に目を凝らし、懸命に匂いのもとを探ろうとした。
すると、匂いはトガム兵が去った方角から感じられる。多くの灯りが蠢く方角だ。
(どうして、あちらから?)
怪訝に思うヨンジュの胸が、不意に、高らかな音を鳴らした。
続いて、どくどくと内側から打つように胸が騒ぐ。
苦しくなって、ヨンジュは胸を拳で抑え付けた。
(何?)
呼ばれている、と、ヨンジュは感じた。
こちらだ、こちらだ、と何かが強くヨンジュに呼びかけてくる。
ヨンジュは一歩前へと足を踏み出した。
(行かないと。あちらに)
呼び声は次第に大きくなってくる。
こちらだ、こちらだ。はやく、はやく。
ひどく慌てたように、ヨンジュを急かす。
しだいにヨンジュは、首だけになった父王ことも、オクチョンの河伯のことも、自分が王女だということさえ頭の中からこぼれ落ちてしまっていた。
ただ、行かなくてはと強く思い、ふらりふらりと足を進める。
驚きの声を上げたのはジヌだ。
「そちらではありません。こちらに!」
ジヌはヨンジュの腕を掴み、ヨンジュの体がよろけるくらいに強く自分の方へと引き寄せた。
平時であれば、無礼この上ない行為だ。
しかし、今のヨンジュに礼儀など気にする余裕は無かった。
「駄目よ!」
ヨンジュのどこにそんな力があったのか、驚くほどの強い力でヨンジュはジヌの大きな手を振り払った。
「こっちよ。こっちに行くのよ!」
ヨンジュは無我夢中で駆け出した。
足下で、踏まれた草が罵声を上げる。
仕返しにと、剣のように鋭く尖った草が、ヨンジュの袖を裂いて、手の甲に小さな傷をつけた。
だが、今のヨンジュには痛みを感じる余裕がない。
(水の匂い)
ひたすらに、ヨンジュは匂いを追った。
――こちらだ。こちらだ。
ヨンジュが駆ければ駆けるほど、声は大きくなっていく。
そしてヨンジュはますますその声に引き寄せられた。
水の匂いが濃くなる。
それは、雨の降る直前に感じる匂いだ。じっとりと重く、だけど、どこか甘い。
包み込んでくるようでいて、すべてを呑み込むようでもある。ひどく懐かしい。
(帰りたい)
ふと、ヨンジュの頭に浮かんだ言葉に応えるように声が呼ぶ。
――帰っておいで。こちらだ。こちらに帰っておいで。
ヨンジュは転げるようにして駆けた。
胸が騒いで堪らない。居ても立ってもいられないくらいに、それはヨンジュを引き寄せる。
ヨンジュの頬を木の枝が引っ掻く。何かが足に絡み付いた。躓き、よろける。それでもヨンジュは走り続けた。
(熱い!)
不意に光とぶつかって、ヨンジュは弾かれたように足を止めた。
しまった、と思うが、もう遅い。
身を隠す間さえなく、視線が合ってしまった。トガム兵である。
「ガキか」
「女だ」
「なぜ、こんなところに?」
三人。――いや、四人だ。
松明を片手にした男たちが、あっという間にヨンジュをぐるりと取り囲んだ。
ガチャガチャと、彼らの具足が鳴り響く。
「ここで何をしている?」
顔のすぐ横に炎を掲げられ、ヨンジュは体を反らした。
熱さから目を守ろうと、自然と瞼が落ちる。だがすぐに負けてはならないと睨み付けた。
男がもう片方の手で剣を持っているのが見えた。
「答えろ!」
ヨンジュは押し黙った。
彼らは、おそらく先程ヨンジュたちの前を通り過ぎていったトガム兵たちに違いない。
ヨンジュに差し向けられた追っ手ではなく、敗残兵を追っている彼らは、どうやら目の前にいるヨンジュがクムサ国の王女であることに気付いていない様子だ。
ならば、それらしいことを適当に言えば良かったのだ。
ところが、ヨンジュの頭の中は真っ白になっていた。
何もかも見えなくなって必死に水の匂いを追っていた一瞬前の状態から、ひと思いに現実へと連れ戻されてしまったのだ。無理もない。
(何か言わなくては)
ヨンジュは唇を割って、息を吸う。
(駄目だわ。こんな夜更けに、しかも戦時に、一人歩きしている娘の事情など何も思い付かない)
男は答えないヨンジュに濃い眉を吊り上げ、剣先をヨンジュの喉元に向けた。
ヨンジュの体に震えが走った。
従兄のヘランとは異なり、剣の柄さえ手にしたことのないヨンジュは当然のことながら、これまでに剣先を喉元に突き付けられた経験など無い。
あと、もう少しでも剣を前に突き出されれば、自分は喉から血を吹き出して死ぬのだ。
そう思い、ヨンジュは恐怖した。がたがたと震えて、厳めしい男の顔を凝視する。
その時。
ヨンジュの前に影が躍り出た。
影はヨンジュに向けられた剣を打ち払い、男の腹を蹴り飛ばした。
弾かれるように飛んだ男の体が無惨に地面に倒れる。
「ジヌ!」
「ご無事ですか?」
ヨンジュは自分を追って助けに出てきてくれたジヌを見つめながら、言葉無く頷いた。
喉元に突きつけられていた剣はもう無いというのに、まだ震えが止まっていなかった。