七.血に染まった外套
数日後。
戦場から届けられたものに、王宮は震撼した。
――それは、ヘランの外套だった。
藍色の布地に銀糸で龍が刺繍されている。
龍は四本足で、蝙蝠のような翼を背に生やしている。足の指の数は三本だ。
その龍が、血で染まっている。
ヨンジュは震えた。がくがくと膝が笑い、立っているのがやっとだった。
ヒギョンが駆け付けてきて、外套を見付けると、咽に籠もった悲鳴を上げた。外套を抱き締める。
「ヘラン!」
襤褸切れのようだ。所々、刃物で裂かれ、引き千切られている。
脇腹辺りに大きな穴。背中には、龍を叩き切るように刀が入っている。
腹にも穴。彼が何人もの敵を相手にして倒れたことが見て分かる。
「お護りすることが適いませんでした。申し訳ございません」
戦場から外套を拾ってきた男が深々と頭を下げた。
ヘラン直属の護衛武官だった男だ。
顔に大きな傷ができている。癒えていないそこから血が滴り、こうしている間にも床を汚していた。
気絶しそうだ、とヨンジュは思った。
自分がではなく、その男が、である。
血の気がまったくない。土のような顔色だ。そう思っているうちに、男が床に突っ伏した。
そして、それきり動かなくなってしまった。
男が運ばれていった後、床に大きな血溜まりができていた。
おそらく、顔以外にも深い傷があったに違いない。
ヨンジュは何やら愕然とした思いで、その赤い水たまりを見つめていた。
「トガム軍が王宮に向かって進軍してきます!」
鎧姿の男が駆け込んできて告げると、悲鳴が上がった。
それは、宮女たちが上げたものだったが、恐怖に怯えているのは貴族たちも同じだ。
彼らはいつも手にしていた孔雀の扇を床に落とすと、お互いの顔を見合わせて体を震わせた。
その喧騒の中、テソン王だけが冷静を保ち、そうか、と静かに言葉を発した。
そして、ヨンジュを呼ぶ。ヨンジュは、はっとして父王の前へと歩み出た。
「ヨンジュ、オクチョンに行きなさい」
「オクチョンに?」
ヨンジュは耳を疑って、父王を仰ぎ見た。
テソンはしっかりとした表情でヨンジュを見つめている。
「トガム軍が王都にたどり着く前に王宮を抜け出し、オクチョンに行くのだ。そして河伯に願いなさい。たとえ国主が代わろうともクムサの地に富を、そこに住まう者たちに平穏を与え続けて欲しいと。それを願うことがクムサの王族ができる最後のこと。それをせずに滅びることは許されん」
――滅びる。
その響きはヨンジュの耳に重たく響いた。
(滅びるとは、どういうことなのだろうか?)
想像ができない。
ただ、襤褸切れのようになったヘランの外套がすべてを物語っていた。
ヘランは負けたのだ。攻め入ってきたトガム軍を迎え撃とうとして破れた。
それは単にヘランの死を意味するだけではない。トガム国は、クムサの王族を殺せるということだ。
クムサの地は、クムサの王族が祈らなければ雨が降らない土地である。
クムサの王族を殺すということは、クムサの地から雨を奪うということを意味する。
テソン王がヘランを前戦に遣わせたのは、戦の指揮をさせるためだけではない。
トガム国がクムサの王族を殺せるか否かを計るためだ。
もしも、トガム国がクムサの王族を殺せないようであれば、そのことが交渉の糸口になる。
しかし、ヘランは襤褸切れとなって帰ってきた。トガム国にはクムサ国と交渉する意思はない。
クムサの王族を殺し、クムサ国を滅ぼそうとしている。
(殺される。父王も、自分も。みんな)
父王は疾うにそのことを覚悟していた様子だった。
――ヘランが死ねば国は滅びる。自分たちの命はない。
だが、たとえクムサ国が滅びたとしても、その土地に住む者が根絶やしになることはないだろう。
雨の降らぬ土地で未来を生きる者たちのために、長くその土地を治めてきた者として最後にするべきことがある、と父王は言うのだ。
(もしかしたら、私が河伯のもとに出向いてお願いすれば、クムサ王家に頼らなくとも自然に雨の降る土地になるかもしれない)
ヨンジュは首を横に振った。
それは河伯の心しだいで決まることだ。
そしてヨンジュは、今更オクチョンになど行きたくなかった。
父王の言うことは分かる。けれど、今、父王と離れることだけは嫌だった。
皆、死ぬつもりだ。
少なくとも父王はトガム軍によって討たれることを覚悟している。
ヨンジュもこのまま王宮にいれば、間違いなく父王や皆と共にトガム軍の虜となり、殺されるだろう。
だけど、その方がいい。
どのみち死ぬのであれば、ひとり河底に沈むよりも、父王や皆と共に死にたい。この王宮で。
ヨンジュは震えそうになる声を振り絞って、父王に告げた。
「一人は嫌です。父上と共に死なせて下さい。オクチョンには行きたくありません」
「ヨンジュ……」
テソンの大きな手がヨンジュの肩を抱く。
「お前は一度、河伯へ嫁がせると決めた娘だ。すでに河伯のものなのだよ。王宮で死なせるわけにはいかん」
「いいえ!」
その時、テソンの言葉に被るように声が張り上げられた。
ヘランの外套を握り締めてヒギョンが立ち上がる。
「ここで死なせるべきです! オクチョンになど行く必要はありません! ――クムサは滅びます。滅びた後のことなど、どうでも良いではありませんか。ヘランを護らなかった河伯にくれてやるものなど、何一つないのです」
ヨンジュは驚いてヒギョンを振り返った。
まさか彼女がこの状況で王に否を唱えるとは思ってもいなかった。しかも、ヨンジュのことで。
ヒギョンは解れた髪を更に振り乱しながら、声を荒げる。
「今更オクチョンに行っても無駄です。ヨンジュも王族の一人として潔くここで死ぬべきです。妾たちと共に!」
「ならん!」
がつん、と肘置きに拳を叩き付けて、テソンは玉座から立ち上がった。
「ヨンジュに王族としての自覚があるのならば、オクチョンに行くべきだ。己は死ぬから、その後はどうなろうと構わんという考えを許すことをできない。クムサの王族は、クムサの大地に最期まで責任を持つべきなのだ。それが河伯から力を授かった者の勤めである!」
荒げた声で言い放つと、悔しげに口を結んだヒギョンを睨み、一呼吸を置いてから、テソンはヨンジュに振り返った。
ヨンジュを優しい声で呼ぶ。まるで幼子を諭すかのように。
「分かるな?」
「父上、私は……」
分かる。
十分に分かるのだが、それでもヨンジュは父王の傍にいたいのだ。
言い募ろうとしたヨンジュの手を、テソンがそっと握った。
手のひらを重ね合わせ、テソンは薄く微笑んだ。
「お前をここで死なせるわけにはいかんのだよ」
ヨンジュは瞳を揺らした。何も言えなくなって、唇を噛みしめる。
重ねられた手が、ひどく熱い。
その熱はまるで父王の想いの強さであるかのように感じられた。
(父上がそこまで望むのであれば……)
一度は覚悟したことだ。もう一度、覚悟し直すことだってできるはず。
――河伯の生け贄になる。
金や銀、玉はないけれど、クムサの王女として河底に沈もう。
婚礼衣装を身に着けていないけれど、娶ってください、と河伯に願い出よう。
元よりそうなるはずだったのだから、大丈夫、どうってことはない。
(ううん、違う)
ヨンジュの頬を涙が伝う。
大丈夫だなんて嘘だ。ぜんぜん大丈夫なんかじゃない。
父王は今の今まで一度たりとも、ヨンジュに河伯の生け贄になれとは言わなかった。
ずっと反対してくれていた。
だからヨンジュの方からオクチョンに行くと告げたのだ。父王のために。
婚礼衣装を身に纏った自分を、父王はどんなにか悲しげな顔で見つめていたことだろう。
だから、信じていた。河伯の生け贄となる自分を父王だけは哀しんでくれる、と。
(それなのに父上が、生け贄になれと言うなんて)
信じられなかった。
そして、悲しかった。
絶対に言って欲しくなかった言葉を、こんな、国が滅びるという時に言われるだなんて。
最後の最後で裏切られたような気持ちになった。
(それでも父上を嫌いにはなれない)
だから従おう、とヨンジュは一度だけテソンに向かって頷いた。
そして、その胸に抱きついた。
「仰せに従います」
◆◇
昊は闇に包まれている。
だが、地上は、松明の灯りが幾重にも重なって、夕焼けのようだ。
人の足音が、これほど恐ろしいと思ったことはなかった。
ヨンジュは側らの男に頭を抑え付けられながら、草むらの中に身を隠していた。
民が着るような白い上衣を身に着けたヨンジュの目の前を、トガム兵が続々と通り過ぎていく。
彼らは郭壁をぐるりと取り囲むと、城下の者たちの抵抗がないことを確認し、街へと進軍した。
ヨンジュの側らの男は、ジヌという名で、オクチョンまでの道中をヨンジュと共にしてくれる。
ヨンジュは自分の頭を抑え付ける筋張った大きな手の強さを感じながら、ジヌの横顔に視線を向けた。
厳つい顔についた、ぎょろぎょろした眼が、松明の灯りを追っている。
そして、その灯りが近付いてくる度に、彼は太い眉を険しく歪ませ、腰に下げた剣の柄に手を伸ばした。
ジヌは、テソン王の直属の護衛武官を長く努めていた経験もあって、とても腕が立つ。
そんな者こそ父王の側にいて欲しかったのだか、ジヌにヨンジュを護るようにと命じたのは他でもない、父王自身だ。ヨンジュは従うより仕方がなかった。
やがて城門が開かれる。
歓声が上がったのは、それからしばらく後のことだ。
地響きのようなそれに、はっとして、ヨンジュは顔を上げた。
「ヨンジュ様、どうかご覧になられぬように」
ジヌは止めてくれたが、見ないわけにはいかなかった。
城壁の上に男が立っている。松明の灯りに黒光りする鎧を身につけたトガム兵で、彼は高く昊に向かって何かを掲げている。
何か――鞠のような物だ。
ヨンジュは小さく悲鳴を上げた。
「父上っ」
それは父王の首だった。
冠を取られた無惨な姿で晒されている。
トガム兵は城壁からテソン王の首を吊り下げると、槍を高く高く掲げた。
再度の歓声が、クムサの王城を大きく揺らした。
その間、ヨンジュは青ざめた顔で城壁を睨み付けたまま動けないでいた。
すべて覚悟していたことだ。
王宮を逃げ出すと決めた時に、父王の死をヨンジュは覚悟していたはずだった。
だが、実際に、首だけになった父王の姿を目にすれば、覚悟なんてもの吹き飛んでしまう。
(父上! 父上! 父上!)
泣き叫んで、駆け寄って、父王の首を敵の手から取り返したかった。
あんな風に無惨に晒されて良いはずがない!
だが、ヨンジュは動けなかった。金縛りに遭ったかのように動けない。
突き付けられるように、歓声の止まないトガム兵の様子をしばらく窺っていると、城壁に父王の首と並べるように左輔の首、右輔の首、大将軍の首も吊り下げられた。
そして、もう一つ――。
ひどく髪を乱した青年の首が吊り下げられる。
(あれは、もしかして)
――ヘラン!
ぐっと咽が鳴る。
悲鳴を、両手で口を押さえ耐えた。瞳を瞬く。
こぼれ落ちるかと思われた涙は、滲んだだけで流れてこない。
(大丈夫。だって、分かっていたことじゃないの)
拳を握る。
胸が破裂するのではないかと思うくらいに、どきどきと騒ぐ。
気持ちが悪い。吐きそうだと思って、ヨンジュは口を塞いでいた両手を放した。
大きく深呼吸をする。
(大丈夫。大丈夫。大丈夫……)
ジヌの気遣わしげな視線に気が付いて、ヨンジュは頭を左右に振った。
「大丈夫です」
「ヨンジュ様、泣かれるのはここを乗り切ってからに致しましょう」
「泣きません」
「いいえ、後で存分に泣いて頂きます。でなければ、心が壊れてしまいます」
「……」
ヨンジュは俯いた。
唇を噛みしめて、それがひどく乾いていることに気が付く。指先が冷たい。
今の自分はさぞかし血の気のない、ひどい顔をしていることだろう。
筋張った手がヨンジュの肩に乗せられた。
「参りましょう。夜が明けぬうちに、できる限り遠くに逃げなければなりません」
ジヌは辺りを見渡しながら静かな声音をヨンジュの耳元で響かせると、ヨンジュの腕を引いて、暗い道へと促した。