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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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六.出陣


 テソン王に呼ばれたのは、トガム軍の様子を見に行かせた斥候(せっこう)が戻ってきた直後のことだった。

 ヘランは名乗りを上げてからテソンの居室に入った。

 テソンはヘランに椅子を勧めると、自身も腰を降ろし、額を両手で押さえた。


「お前に謝らなくてはならないことがある」

「何ですか?」

「トガム軍をクムサに招き入れたのはわたしなのだ」

「まさか」


 ヘランは耳を疑ってテソンの顔を見た。

 テソンは下を向いたまま、ヘランの視線に応えず言葉を続けた。


「トガム国の第一王子にヨンジュを嫁がせようと、密かに話を進めていた。だが、我が国ではもちろんのこと、トガム国でも(おおやけ)にされていないことだ。まさか、そんな話を破談にされたからといって、戦の理由にされるとは思いも寄らなかった」

「つまり、トガム国は、ヨンジュとの婚姻が破綻になったことを理由に攻めてきたというのですか」

「そのようだ。――軍を率いているのは、第一王子のユジンらしい」

「ユジン……」


 聞き覚えのある名前だ。

 確か、自分と同い年でありながら、いくつかの小国を攻め落とした武勇の知られた王子だ。

 そのユジンが五万の軍を率いて攻めてくるのだという。

 対して、クムサ国の軍は二万。

 それも寄せ集めの軍だ。武器も満足なものではない。

 ――そう、テソン王はヘランに告げると、両手で頭を抱え込んだ。

 そして、その話を聞かされたヘランも同じ気持ちになった。頭くらい抱えたくなる。


 クムサ国は百数十年もの間、戦という戦を知らずに時を経てきた。

 山々に囲まれて、攻めにくい地形であること。そして、何よりクムサ国が河伯の守護のある国であることを知らぬ国などないことが、その理由である。

 平穏しか知らないクムサの兵士が、戦場を渡り歩いてきたトガムの兵士に勝てるとは思えなかった。

 ――負ける。

 絶望がヘランの表情に浮かぶと、テソン王は拳を額に打ち付け、ヘランに詫びた。


「すまない。わたしが娘可愛さに愚かなことをしてしまったせいだ。今からヨンジュをユジンに嫁がせても、おそらくトガム国は軍を引かないだろう」

「はい。トガム国にとってヨンジュのことは口実に過ぎません。つけ込まれたのです」


 テソンを責める気持ちにはなれなかった。

 もしもヒギョンがヨンジュの力を封じてさえいなければ、テソンはヨンジュをユジンに嫁がせようとは考えなかっただろう。

 トガム国が攻めてくることもなかったはずだ。

 だが、そうなっていたとしたら、自分はとっくにテソンによって命を奪われていた。


(皮肉なものだ)


 どうやら自分は王位に着ける星回りにないらしい。

 生き延びるために、王位に着くためにしてきたことだったが、結果、クムサ国は滅びの危機にある。


「わたしが軍を率いてユジンと戦います」

「ヘラン……」


 テソンの瞳がヘランを映した。がしり、とテソンの手がヘランの手を掴む。

 その大きく暖かな手にヘランは亡き父の面影を重ねて、胸を突かれたような錯覚を抱いた。


「勝てないと思ったらすぐに軍を引くのだ。けして死んではならぬ。どんな犠牲を払ってでも、お前だけは生き延びなければならない。オクチョンに逃げよ。たとえ惨めに思っても、耐えるのだ。矜持を捨てろ」


 幼い頃から、テソンの手は自分を殺すためだけにあるものだと思っていた。

 だが、今、その手は、生きよ、とヘランを諭す。

 ヘランはぐっと瞼を閉ざした。

 父が生きていれば、と致し方がないことを願っていた幼い時期もあった。

 テソンがヨンジュの肩を抱いて優しい言葉を囁くとき、自分にも父がいてくれたら、と。

 ヨンジュには母がいないが、ヘランにはヒギョンがいる。

 ヒギョンは自分の命よりもヘランを想ってくれている。

 彼女が守ってくれていなかったら、疾うに自分の命は尽きていただろう。

 だが、それでも、ヒギョンが与えてくれるものは、自分が望んでいるものとは違うのだと思えてならなかった。

 ヘランは自分の手を覆うように握ってくるテソンの暖かな手を力強く握りかえした。

 ひどく憎んだ時期もあったが、今は彼の言葉に従おうと思った。

 テソンに向かって深く深く頭を下げる。


「――承知致しました」




◆◇




 道を失ってしまった。

 ヨンジュは途方に暮れていた。自分がどうしたら良いのか分からなくなってしまったのだ。

 婚礼衣装から普段着に着替えると、ヨンジュは自室の床に座り込んだ。

 ――命が長らえたことを喜ぶべきだろうか。

 いや、そんな気分にはなれない。 

 王宮は殺伐とした雰囲気に覆われている。何かしなくては、と思うが、父王にそれを尋ねに行く気分にもなれなかった。

 ヘランは軍を率いてトガム軍と戦うのだという。


(私は? 私はいったい何を?)


 ――何もできない。できることがない。何も。

 ヨンジュは、がくりと床の上に倒れ込んだ。紺色の裳に不自然な皺ができる。

 あのまま河伯の生け贄になっていた方が幾分も気楽だったことだろう。こんな風に思い悩む必要もなかったはずだ。

 何もできない自分は、なぜ王宮にいなければならないのだろう。

 ヒギョンの言うとおり生け贄になっていた方がどんなにかクムサ国のためになったか知れない。


 やがて外の騒がしさに気が付き、ヨンジュは体を起こした。

 西陽(にしび)の眩しさを感じ、目を細める。

 外殿に出向くと、その前に数百の兵士が整列しているのが見えた。

 王宮の外にも数千の兵士。父王の傍らにヘランがいて、彼も武装をしている。

 ヨンジュは回廊の柱の陰に隠れた。

 今まさにヘランが戦場に向かおうとしている。そうと知って居たたまれなくなった。

 剣を片手に振り上げて、兵士たちを鼓舞するヘランの姿を遠くに眺めながら、ヨンジュは拳を胸に押し付けた。

 巫女たちの祈りの声が切々と響く。

 大臣たちも皆、ヘランの武運を祈る言葉を彼に掛けている。

 だが、ヨンジュには柱の陰でその様子を眺めていることしかできなかった。


 いよいよ出陣するという刻限になって、父王がヘランに藍色の外套(トゥルマギ)を手渡した。

 一瞬前まで自身が身に着けていた外套で、クムサ王だけに許された龍の刺繍が施されている。

 ヘランは躊躇無くそれを鎧の上から羽織った。背に銀の龍が大きく現れた。


「きっとお前の身を護ってくれるだろう」


 ヘランは頷き、テソンに向き直って膝を着いた。


「行って参ります」


 ヘランが軍馬に跨ると、続いて、大将軍もテソンに礼を取ってから乗馬した。

 具足がぶつかり合う音が幾重にも響いて、ヨンジュの鼓動と重なる。

 ヨンジュは朱色の柱にしがみついた。足下がふわふわして、全身から力が抜けていくようだった。

 すべてのことがヨンジュとは異なる遠い世界で起きていた。


(へランが戦場に行ってしまう。それなのに、私は……)


 無事を祈る言葉さえ掛けることができなかった。

 そう思った瞬間、ヨンジュは弾かれたように柱から体を離すと、回廊を駆け出した。

 具足を鳴らす兵士たちを横目にひたすら駆け、ヘランが羽織った藍色を探した。

 やがて銀の龍が目に飛び込んできて、ヨンジュは思わず息を詰めて立ち止まった。


(ヘラン)


 声にはならなかった。けれど、大声で呼んだつもりだ。


(どうか無事で!)


 彼さえいなければと、思っていた。

 優秀な従兄が恨めしいからだ。

 彼が自分に向けてくる冷めた瞳も嫌い。

 彼が自分のことを嫌っているのが、十分すぎるくらいに伝わってくるから。

 ――ヘランなんて嫌い。


(だけど、嫌だ。死んでしまうのは嫌っ! こんな風に突然いなくならないで欲しい!)


 死ぬかもしれない。

 もう二度と会えないかもしれない。

 死ぬために王宮を出て行くのは自分の方だと思っていた。

 それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 ヨンジュはヘランの背中を目で追う。

 その背が城門から出て行こうとした時、不意にヘランが振り返った。


(あ)


 ヨンジュは瞳を大きくする。

 一瞬、視線が合ったような気がした。擦るような、ほんのわずかな時間だったけれど。

 ヨンジュはずるずると、膝を折って、その場にしゃがみ込んだ。


 ――泣きたかった。



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