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馨る水の王国  作者: 日向あおい
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五.悲しみの花嫁

 桃色の上衣、黄色の上衣、黄緑色の三回装(サムフェジャン)上衣を着て、青い裳を穿き、その上に更に深紅の裳を穿く。

青い裏地の紅色の闊衣(ファルオッ)を着て、袖に刺繍された牡丹がよく見えるように、手を腹の前で重ねる。

髪は首の後ろで結われ、龍簪(ヨンザム)を挿し、勾玉で装飾された華冠(ファグァン)を被る。

そして、沓脱石の上に用意された桃色の花靴(コッシン)を履けば、これで花嫁の完成である。


 ヨンジュの花嫁姿に、ヘランは眉を寄せた。

 思わず顔を逸らしたくなるほどに痛々しい。

 美しく着飾ったヨンジュは確かに美しき花嫁だ。だからこそ悲しい。

 光沢のある婚礼衣装が小柄なヨンジュの体には不相応なくらいに大きく見えた。

 髪に挿された龍簪も、煌びやかな華冠も、ヨンジュには重たそうに見えて、ヘランはすぐにもヨンジュに駆け寄り、彼女を飾り立てているものすべてを取り外してやりたい気持ちになった。

 だが、そんな愚かな真似はしない。

 ヘラン自身が生き残るためにヨンジュは河底に沈まなければならないからだ。

 一瞬でも抱いてしまったヨンジュへの同情心を、苦々しく思う。

 やはり自分はヒギョンほどヨンジュを憎むことができないのだ。

 幼かった彼女の無垢な笑顔を思い出して、彼女を哀れに思ってしまう。


 けれど、それも今日で終わりだ。

 ヨンジュはヘランの迷いと共に河底に沈んでくれることだろう。


 ヨンジュが侍女の手を借りて、細やかな装飾の施された大きな寝台の上に乗り、胡座を掻いて座った。

 すると、その寝台を八人の男たちがまるで輿を担ぐように持ち上げる。彼らはそのままヨンジュをオクチョンまで運ぶ。

 甲冑を身につけた護衛が数人、寝台の前後につく。

 河伯に嫁す王女を襲う不届き者など、このクムサの民にはいないが、それでもテソンは愛娘を案じて、更に数十人の兵士を率いた大将軍(テジャングン)にヨンジュを守るよう命じた。

 大将軍の指示で銅鑼が鳴り、行列の先頭がゆっくりと歩み始めると、ヘランの隣でテソンが息を詰めるのが分かった。

 表情の硬いテソンを一瞥してから、ヘランは母親の姿を探し、視線を辺りに向けた。

 今頃、彼女は揚々として、この光景を眺めているに違いない。

 ところが、ヒギョンは人々から距離を取った場所で、静かな瞳をヨンジュに向けていた。

 その表情から母親の感情を感じ取ることは、ヘランにはできなかった。


 ヨンジュを乗せた寝台の後ろに、金銀玉を乗せた車が三台続く。

 その絢爛さは、王女の婚礼が喜ばしいもののような錯覚を人々に与えた。

 宮女たちも衛兵たちも、金銀の輝きに瞳を奪われ、玉の美しさに心を浮き立たせる。

 だが、それらはヨンジュと共に、河伯への貢ぎ物として河底に沈む物。

 その事実を思い出した時、彼らは一様にため息をついた。


 その時だ。

 ――蹄の音。


 不意に聞こえてきたその慌ただしい響きは、次第に大きく近付いてきて、人々の意識を攫った。

 何事かと、ヘランも辺りを見渡し、それから王宮の門の方に大きく振り返った。

 やがて青毛馬が門から内側に飛び込んで来た。

 口から泡を吹いた馬は、花嫁行列の前を横切ると、王殿の前で嘶きながら、その巨体を地面に倒した。そして、ぴくぴくと幾度か痙攣して、動かなくなる。

 馬の乗り手は、その下敷きとなっていた。

 兵士たちに引きずり出されると、男は這うように王殿へと躙り寄る。

 男の衣類はひどく泥にまみれている。そのため、汚らしい砂袋が蠢いているかのように見えて、ヘランは妙な胸騒ぎを覚えた。

 何か起きたのだ。誰もが予期していなかったような悪いことが――。

 皆が固唾を呑んで見守る中、男はテソン王の姿を認め、地に額を押し付けるようにして平伏した。


「何事だ?」


 問うたのは、王の傍らの左輔(チャボ)だった。

 左輔とは右輔(ウボ)と共に、クムサ国においての最高位の官爵である。

 やせ細ったヤギのような顔をした左輔は男に歩み寄ると、白い眉を歪めた。

 男は肩を大きく動かし、少し咳き込むと、左輔を見上げ、そしてテソン王に向かって甲高い声を発した。


「トガム国の兵士がソルソン山を登ってきます!」


 ――そんなはずがない!

 声にはならなかったが、誰もがそう思った。


 ソルソン山は、クムサとトガムの国境にある険しい山だ。

 ソルソン山の東がクムサ国、西がトガム国。

 両国が誕生してから一度たりともこの境界線は犯されたことがない。

 それは、ソルソン山が険しいこと、そしてトガムの国力がクムサに比べ数段に劣っていたからだ。

 しかし、近年、周辺諸国を併合し、トガム国が力を付けているとの話をよく耳にする。

 そういえば、十数年前、北方にあったユオという大国もトガム国に滅ぼされた。

 そういった話を耳にしておきながら、クムサ国の者は誰ひとりとして、ソルソン山を恐れぬ程トガム国が力をつけていたとは予想だにしなかった。

 それほど、ソルソン山は険しいことで名を馳せていた。

 ヘランは寝台の上に座るヨンジュを見やった。そして、金銀玉が詰め込まれた車を見つめる。


(金が必要だ)


 もし本当にトガム軍がソルソン山を越えたのだとしたら、間違いなく両国は(いくさ)になる。

 戦うには金が必要だ。徴兵するにも、徴兵した兵を養うのにも、金がいるのだから。


(あの財宝を河底に沈める? まさか!)


 ヘランはヨンジュをオクチョンまで送り届けようとしている大将軍に目を向けた。

 オクチョンまでの道のりは、片道で二日かかる。往復で四日。

 これから戦だという時に四日間も大将軍を王宮から遠ざけるわけにはいかない。


(金が必要。兵も必要。大将軍を王宮から出すわけにはいかない)


 ――となれば結論は一つだ。迷う余地も無かった。

 即決すると、ヘランはテソン王の前に歩み出て、礼を取り、口を開いた。


「王様、本日の婚礼は見送るべきです。わたしはすぐに軍を臨戦態勢に致します。トガム軍の様子も詳しく知る必要があります」


 テソンに異論は無かった。

 愛娘のことを思えば目障りこの上ない甥であったが、王としては、ヘランの才覚を認めていた。

 そして、この時もヘランの判断に間違いはないように思えた。

 しかし、テソンがヘランの言葉に頷きかけた時、突然、がなり声が響いた。

 銅鑼の響きのようなそれに驚いて、皆がその声の方にと振り返った。

 すると、細い眉をつり上げた鬼のような形相のヒギョンが布音を立てながらテソンの前に歩み出てくる。


「王様、このような時だからこそ河伯への供え物が必要なのです。ヨンジュを河伯に捧げるのです!」


 ヘランは耳を疑った。

 今この瞬間にもトガム軍はクムサ国の領土を侵略しているかもしれない。

 そんな時に、いくら河伯がクムサにとって大事だとしても、婚礼だの、生け贄だのと言っている場合ではなかろう。


(――いや、違う。母上はヨンジュを殺したいのだ)


 今がどんな状況だろうと構わない。ヨンジュさえ亡き者になればいい。

 そう彼女は考えているのだ。

 すべてヘランを玉座に着かせるために望むことだ。その想いは分かる。息苦しいほどに。

 だが、国が攻められている時に玉座も何もない。

 国の内部で争っていては、国そのものが滅びてしまう。なぜそれがこの母には分からないのか。

 ヘランは宥めるように、そして、諫めるようにヒギョンの言葉に否を唱えた。


「母上。金が必要なのです。また、人手をヨンジュに割くことができません」

「それでもヨンジュをオクチョンに送るのです!」


 とりつく島が無かった。

 国が滅亡するかもしれない。そんな時にまでヨンジュの死を望む母の気持ちが、ヘランには分からなかった。


「王様」


 ヘランはヒギョンの言葉を遮るように強めた口調をテソンにぶつける。


「婚礼は見送るべきです」


 テソンは頷いた。


「ヘランの言うとおりだ。ヨンジュ、自室に戻りなさい。――ヘラン、軍備を調えろ」

「はい」


 ヘランはテソンに向かって頭を下げる。

 テソンの影が遠ざかるのを確認してからゆっくりと体を起こすと、ヒギョンが口惜しげな表情を浮かべていた。


「お前は愚かです」


 低く、そして静かな声が響いた。


「今はヨンジュどころではありません」

「いいえ、今の内に殺しておかなければ(のち)(わざわい)となります」


 周囲は浮き足立っている。このざわめきの中であれば、ヘランとヒギョンの会話を聞いている者はないだろう。

 それでもヘランは人目を避けて、人気のない方へとヒギョンを促した。


「ずっとお前には黙っていましたが、ヨンジュの力は並のものではありません。年を追うごとに、その力が強くなっているのです。封じようとすればするほどヨンジュの力は大きく膨らみ、いつの日か、抑えきれなくなって、妾の水晶が内側から割れるのではないかと、恐ろしく思っているのです」

「まさか母上の封印を打ち破るほどの力がヨンジュにはあると?」

「分かりません。この先、ヨンジュの力がどれほどまで成長するのか。今ならまだ妾の力で抑え込めます。けれど、抑えきれなくなった時、たとえお前が王位に着いていたとしても、民は力のある者を王に望むでしょう。――ヨンジュに玉座を奪われてしまう!」


 ヘランは絶句した。

 そんなことがあるのだろうか。いつも俯いている小さな少女が自分よりも強大な力を抱いているという。

 今は誰もが無力なヨンジュに愚蔑の目を向けているというのに、ヒギョンの封印から解き離れた時、人々はヘランよりもヨンジュを王に望むというのだろうか。


 ――殺せ。


 ヒギョンの瞳は、そう、ヘランに訴えている。


 ――殺さなければ、お前が殺されます!


 ヘランはヒギョンから視線を逸らし、ヨンジュを振り返った。

 ヨンジュは寝台の上で胡座を掻いた格好のまま、呆然としている。

 それは、死を先送りになったことを喜んでいる姿には見えない。

 苦しげに唇を噛みしめて俯いている。


 ――殺すか、殺されるか。


 どんなに優れていると賞賛を受けても、結局、自分はヨンジュに命を握られているのだ。

 ちっぽけで、いつも俯いてばかりいる少女に。

 なのに、ヨンジュが瞳を濡らす度に、そのことを忘れてしまいそうになる。

 そして、いつも自分はヨンジュを哀れに思ってしまう。


 ――殺せない。


 ヨンジュの殺意を剥き出しにしている母を前にすると、なぜか自分はヨンジュに救いの手を差し伸べてしまう。助けてしまう。

 囚われているのだ。もうずっと長いこと、ヨンジュの笑顔に。

 ヘランは小さく自嘲の笑みを浮かべた。


(俺はいつかヨンジュに殺されるかもしれないな)


 殺されて堪るかと思って生きてきた。

 けれど、それならそれで構わないという気持ちも、どうやら心のどこかに持っていたようだ。

 ――いや、むしろ、自分はそれを望んでいるのかもしれない。

 ヨンジュから笑顔を奪ったのは自分だ。

 そのヨンジュに殺されるのであれば、それはその報いを受けたということなのだろう。

 ヒギョンに向かって首を横に振ると、ヘランは戦に備える命令を下すために大将軍の名を呼んだ。


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